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『上総守が行く!』

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2010年 04月 28日

「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」 mi-10



ここで、この日の番外編を。
この日の朝、大給守殿と伊豆守殿は、御屋敷から集合場所の松戸/戸定邸まで自走。
その途上、弘法寺(ぐほうじ)に立ち寄り、観桜なされた由。

後日、伊豆守殿より弘法寺での観桜のフォトが送られて来ました。
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「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」 mi-10_a0104495_21433633.jpg
見事な枝垂桜です。

集合場所の松戸/戸定邸で、伊豆守殿と大給守殿から立派な桜であったことは聞くも、このフォトを見て、仕舞った!上総も見ておきたかった!と思い、来年の観桜に備え、弘法寺の所在地を調べたところ、何と、戸定邸をスタートし、ポタリングで辿った国府台ではありませんか!
ポタリングの途中、「某も弘法寺にお連れ下され」と申せばよかったと思うも後の祭り。
しかし、これは伊豆、大給両諸侯が御屋敷から戸定邸まで自走されたからこその"お駄賃"。
上総にとっては、来年の楽しみが増えたということでもあります。

この機会に、弘法寺(ぐほうじ)について、ベンキョーしてみました。
真間山弘法寺(ぐほうじ)は、奈良時代、天平9年(737年)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。
それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁13年(822年)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。
その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275年)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。この時、寺名も真間山弘法寺(ぐほうじ)になった。以後、下総中山(現在、千葉県市川市)の法華経寺とともに日蓮宗の拠点となった。
当山は元亨3年(1323年)に千葉胤貞公(ちばたねさだこう)より寺領の寄進を受け、天正19年(1591年)に徳川家康公より御朱印状を賜り、元禄八年(1695)には水戸黄門公が来詣された折、茶室を賞(め)でて「遍覧亭(へんらんてい)」と称された。
明治21年(1888年)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、現在の諸堂は明治23年(1890年)に再建されたものである。
(出典/真間山弘法寺HPおよびwikipedia)

成程、弘法寺は、この日、訪れた法華経寺と並ぶ寺院だったのであります。

この日のポタはJR西船橋駅で解散。
上総は輪行にて走行距離は34.20kmなるも、大給守殿と伊豆守殿は帰路も御屋敷まで自走なされ、朝の集合場所までの自走も合わせ、走行距離は71.56kmとのことでした(大給守殿レポート)。
お疲れさまでした。

フォト:2010年4月3日、伊豆守殿提供

(完)

by kazusanokami | 2010-04-28 21:50 | ポタリング


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