足立市場前交差点。
市場の入り口の左側に芭蕉像が見える。
信号を渡る。
千住宿 奥の細道/芭蕉像。
この矢立の筆じゃ書き難かろうと思うも、そんな野暮はここでは言わない。
芭蕉像建立の趣意書。
ここにも「千住大賑会・河原」と記されている。
「芭蕉像に到る足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかもしれません」とある。
敷石と共に、今一度、芭蕉像をカメラに収める。
せり場の御影石は写真左下に少しだけ写っている色の変わった敷石であったかもしれない。
次の機会にもう一度しっかりと見ておきたい。
「旧日光道中(陸羽街道)/此の先は元やっちゃ場跡/看板の語りをお楽しみください」。
「旧日光道中(陸羽街道)」とある。
ここで、街道について少し触れておきたい。
五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった陸奥白川以南を指し、道中には27の宿場が置かれた。
日本橋から宇都宮までは日光道中(日光街道)と共通である。
奥州街道は、1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号(日本橋~青森)となっている。
芭蕉は、白河の関に至り、「心もとなき日数重ねるままに白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と書き残している。
深川を出立し、千住から那須を過ぎる間、心が落ち着かない日を重ねていたが、白河の関に至って、ようやく旅の心も落ち着いたのである。
白河の関で、曽良は「卯の花をかざして関の晴れ着かな」と詠んでいるが、芭蕉は一句も詠んでいない。
数年前、白河の関を訪れたとき、白河の関以降の道中が相当に難儀で、まさに「奥の細道」なんだなあと思った。
「看板の語り」を楽しみにしながら、やっちゃ場へと向かう。
フォト:2012年6月26日
(つづく)