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『上総守が行く!』

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2012年 08月 15日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編&我孫子市編』 yk-10

利根町歴史民俗資料館をあとにして、帰途に就く。
利根川に架かる栄橋に至る間に、布川神社、来見寺、琴平神社など寺社が見られ、國男少年が神秘体験にするに足る環境であったことが窺がえる。
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栄橋を渡る。
振り返り、利根町布川を今一度、眺めてみる。
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ここで、栄橋について少し触れておこう。
この橋は、ポタリングの途中、しばしば、渡る橋である。
柳田國男記念公苑の管理人さんに栄橋のことを聞いた。
「昔は、渡しでした。そのあと、吊り橋が出来ました。吊り橋は今の橋の少し川下側にありました。今の栄橋が出来たのは、さて、何時の頃だったでしょうか...」とのことであった。
盟友 松柏木殿から「『さかえ橋』は、最初、『境橋』であったが、後に『栄橋』になったとの話しもあります。橋の建設には、長兄、鼎も関わったようです」との報も貰った。
後段で、利根町教育委員会・編「少年柳田國男」の「兄/鼎」の全文を引用しているが、その中で「松岡鼎は布佐町長として栄橋を立案。この栄橋の設計をしたのは、小川家当主東作の弟、小川東吾」とある。
wikipediaで橋の歴史を参照したところ、「1930年(昭和5年)、布佐町(当時)に栄橋が開通。1971年(昭和46年)、栄橋の架け替え工事終了」とある。
松岡鼎は、1927年(昭和2年)、布佐町長に就任し、一期務めているので、1930年(昭和5年)の栄橋開通と符号する。

栄橋を渡り、布佐(我孫子市)に至る。
長兄、鼎は、布川から布佐に移ったのちも医院(「凌雲堂医院」)を営んでいた。
布佐にある、松岡邸に立ち寄ってみた。
「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」の出立前に、我孫子市役所広報課に松岡邸の場所を確認した。
栄橋の南。356号線沿い、南に向かって左側。右側に近隣センターふさの風がありますので、詳しくはそこでお聞きください。個人の御宅ですので、ご留意ください」とのことであった。
いつも、jitensha や四輪で通っている道だ。
松岡邸であることは知らずに、その前を通過していたのであった。
おおよそ、検討はついていた。
直ぐに分かった。
今は医院ではなく、普通の個人のお宅である。
許可は頂戴していないが、写真を掲載させて戴く。
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ここで、利根町教育委員会・編「少年柳田國男」から「兄/鼎」の一節を引用しておこう。
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兄/鼎
鼎は松岡家八人兄弟(うち三人は早世)の長男として生まれました。
十九歳で、小学校校長に任命されるような秀才でしたが、小さな家に大勢住むという無理から結婚生活は不幸で、妻は実家へ戻ってしまいます。
その後、鼎は上京して帝国大学の医学科に学び、医師になりました。
その頃、布川の小川家では、主人の医師東作が若死にし、困っていました。
そこで布川出身の医師海老原精一のたのみで、鼎はこの小川家のはなれを借り、済衆医院を開業します。
そして、両親や弟たちを呼び寄せ、めんどうをみました。
小川家は、東作の父秀庵、祖父東秀、曽祖父導専と、いずれも学者で、数多くの蔵書があり、國男少年の読書欲をみたしました。
のち、鼎は布佐に移り、その地で医院(筆者注:凌雲堂医院)を営むかたわら、千葉県医師会会長を務めたり、布佐町長として栄橋を立案しています。
この栄橋の設計をしたのは、小川東作の弟東吾でありました。
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布佐の松岡邸の真新しい石塀の向こうの前庭に、百日紅の花が咲いていた。

フォト:2012年8月10日

(つづく)

by kazusanokami | 2012-08-15 11:11 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて


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