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『上総守が行く!』

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2013年 03月 11日

『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7

南千住、素盞雄神社から、同じく、南千住の円通寺へと向う。

円通寺。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_6114261.jpg
昨年、退職したが、それまで、毎々、通勤の途上、南千住駅と三河島駅の間で車窓から金色の姿が見え、あれは何だろうとずっと思い続けていた。
金色の姿の探索に行かねばと思いつつも、ただ、思うだけで時が過ぎてしまった。
几号水準点探索ポタで、事前に、Yahoo!マップで円通寺の場所を確認したとき、位置的に、金色に輝く姿はどうもこのお寺ではないかと思った。
果たして、そうであった。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_6213964.jpg
余談から話を始めてしまった。
几号水準点の探索が主題である。
電脳網資料によれば、円通寺の所在地のみが記されており、几号水準点の在り場所の記載はない。
更に調べてみると、別の資料に「寺の入口のすぐ左横、『百くあんのん』碑の根元」とある。

「みなさーん、『百くあんのん』はこっちですよー」。
『百くあんのん』碑の根元を見る。
あった!
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_7152213.jpg
手前の草にピントが合い、几号水準点はピンアマだ。
撮り直す。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_717432.jpg
几号水準点の同好の士がいるようだ。
埋まり掛かっているところを掘った形跡がある。
我らも掘ってみることにした。
計測に熱心な南国殿、次は発掘調査よろしく指と小枝で几号水準点を浮かび上がらせる。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_725166.jpg
几号水準点は土に埋もれるようなレベルにあるが、刻まれた当時、この碑の根元はどのレベルにあったのであろうか。
そんなことを思いながら、「不」の刻印を眺めた。

現状復帰は探索の原則だ。
掘った土を埋め戻す。
『百くあんのん』碑の全体の姿を紹介しておかねばならない。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_7413495.jpg
碑の台座は土に埋もれかかっている。
碑の最上部には、「秩父」、「坂東」、「西国」と刻まれている。
中ほどには、「百くあんのん」と刻まれている。
昔の人は「観音」を「クァンノン」と発音していたことが分かる。
碑の最下端には、「通新町」、「圓通寺」と刻まれているが、その文字の一部は台座に減り込んでしまっている。
対座には、ひび割れも生じている。
何か手立てを施した方がよいと思う一方、変に手を加えない方がよいとも思い、複雑な気持ちである。

狛犬が一対、寺の入口に鎮座している。
几号水準点から狛犬コレクションに脱線する。
狛犬/阿形。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_857244.jpg
アップで。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_8574964.jpg
狛犬/吽形。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_8581531.jpg
アップで。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_8583594.jpg
立派な鬣(たてがみ)を持った狛犬である。
ユニークな顔立ちも含め、エリマキ狛犬と命名してもよさそうなくらいに、ひょうきんにも見える狛犬だ。

狛犬よりもっと大事なことがある。
それは円通寺の由緒である。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_929188.jpg
開創は坂上田村麻呂とある。
先般、NHK BSプレミアムで、高橋克彦の原作によるドラマ「火怨・北の英雄 アテルイ伝」を見た。
坂上田村麻呂の率いる朝廷軍とアテルイの率いる蝦夷(えみし)の戦いを、蝦夷の側から描いた作品。
学校で教えられた歴史とはまた別の視点からのものであった。
ベンキョーになった。

「小塚原」、「こづかっぱら」の地名が源義家の奥州鎮定に由来していることも分かった。

観音堂は安政2年(1855年)の大地震で倒壊したとある。
これは安政江戸地震のことであるが、嘉永から安政にかけて、各地で大地震が頻発、ペリーの来航、安政の大獄など、日本国内は、文字通り、大揺れの時代であった。
今の状況を思えば、歴史は繰り返す、である。

近代の歴史もこの寺に残っている。
「彰義隊士の墓」
慶応4年・明治元年(1868)5月15日、上野東臺において戊辰戦争で戦死した彰義隊士の遺体を当寺二十三世「大禪佛磨大和尚」の決死の覚悟にて供養した事により、当寺に官許が下り、遺骸二百六十六体を上野山内にて荼毘に附し当寺に埋葬した。
(出典/円通寺ホームページ)

「旧上野の黒門」
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慶応4年(1868)5月15日上野東台に於て、彰義隊と官軍の激戦が展開された。
その中心地に建っていたのが、黒門である。
明治40年10月帝室博物館より特に当寺に下賜せられたものである。
(出典/円通寺ホームページ)
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貫通した弾痕が今も生々しい。
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「弾痕、蜂の巣ごとく印し、激戦の状目の當り見るが如し」(出典/円通寺ホームページ)
見事な表現だ。
斯様な表現を見習わなければならない。
『続々・几号水準点探索ポタリング/南千住・円通寺』 zzks-7_a0104495_1013495.jpg
あれは何だろう?と長年の疑問であった金色の御姿を拝し、且つ、歴史のベンキョーも出来、且つ、狛犬コレクションも出来、これら全て、几号水準点のお陰である。

次の立ち寄り先、北千住/鎮守八幡社(大川氷川神社)へと向う。

フォト:2013年2月16日

(つづく)

by kazusanokami | 2013-03-11 18:07 | 几号水準点探索


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