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『上総守が行く!』

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2013年 08月 30日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12

兄嫁の実家へ向う途中、寄り道をしてしまった。
鈴ノ森神社の西側を北へ走る。

柳田國男は、自著「故郷七十年」の中で「兄嫁の思い出」と題し、兄嫁のことについて次の通り述べている
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子供のころのことで、いまもしきりに思い出されるのは、長兄の許に嫁いで、母との折合いが悪く実家に帰った兄嫁のことである。
北野の皐(おか)という医者の家であったが、その前に夏になると美しく蓮の花の咲く大きな池があった。
辻川の灌漑用の貯水池であったが、ある冬の日、二、三人の友人たちとともにそこで氷滑りをして遊んだ。
子供のことで気がつかなかったが、池の中心の方は氷が薄くなっていた。
家を出された兄嫁は土堤からみつめていたのであろう。
忘れもしない、筒っぽの着物を着て、黒襟をつけた兄嫁は、いきなり家から飛び出して来て私を横抱きにすると、家へ連れていったものである。
実家に帰っても姉弟の情愛があったものであろう。
私はいつも帰郷するたびにそのことを思い出し、一度は昔の情愛を述べようと、再婚先の伊勢和山の寺を訪ねたことがある。
兄嫁は折悪しく留守で、その機を失してしまったことが、いまも悔やまれる。
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長兄、鼎が結婚したのは20歳のときである。
長兄と國男は15歳違いなので、國男5歳のときである。
長兄は21歳のとき、小学校の校長を辞し、東京帝国大学(現・東京大学)医学部別科に入学し、医学を学んだ後、26歳のとき、茨城県北相馬郡布川村(現・利根町布川)にて開業し、暫らくして、國男を引き取った。
兄嫁がいつ実家に戻ったのかは不詳ながら、長兄が故郷を離れた頃から推し測ると、國男はまだ5、6歳の頃のことであったと思われる。

「故郷七十年」に掲載されている写真(撮影は昭和50年頃で、当時のものではない)では、兄嫁の実家や溜め池周辺はこんな感じである。
『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12_a0104495_10455218.jpg
それと思しき溜め池に至る。
『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12_a0104495_10505547.jpg
山の位置などから、この溜め池であることは間違いない。
兄嫁さんの実家はまだ残っているのだろうか。
実家があったと思われる場所へ jtensha を走らせる。
こういう探索のときは jitensha が大いに役立つ。
『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12_a0104495_10565746.jpg
家屋は新しく建て替えられているが、古い門柱と思われるものが見られる。
『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12_a0104495_1057289.jpg
表札を拝見する。
「皐」さんである。
兄嫁さんの実家に間違いない。
『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12_a0104495_10581520.jpg
他所様のお宅を写真に撮るなど許されることではないと重々理解し居るも、ここは國男少年にとり、大変大事なところであり、ご容赦願う次第だ。

柳田國男にとって、兄嫁との離別は民俗学を志すに至る大きな要素になっていると言ってもよいのではないだろうか。
即ち、
「日本一小さな家」でなかったら、兄嫁と離別することはなかったであろう。
となると、長兄、鼎も茨城県北相馬郡布川村(現・利根町布川)に移り住むことはなかったかもしれない。
となると、國男少年も布川に移り住むこともなかった。
となると、布川の小川家の蔵書を濫読することもなく、小川家の氏神の玉で神秘体験をすることもなかったし、満徳寺で水子絵馬を見ることもなかったことになる。
となると、民俗学に芽生える機会はなかったことになる。
歴史にも人の人生にも「たられば」はないのではあるが、そう思う次第だ。
兄嫁さんの実家に続く山や田園風景を眺めながら、然様な思いに耽るのであった。
『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12_a0104495_11192148.jpg


フォト:2012年8月21日(フォト#1/2013年8月30日)

(つづく)

by kazusanokami | 2013-08-30 19:08 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて


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