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2014年 04月 24日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/芳林寺』 di-1

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2年前、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」と銘打ち、都内をポタリングしたときのことを「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」と題し、2012年7月22日から28日にかけて全七話の連載でブログに綴った。
その年の6月には、太田道灌ゆかりの地、岩槻もポタリングしたことでもあり、「江戸の巻」第七話の末尾に「『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻』、近日公開!」と、随分と張り切って予告をしていたが、タイミングを失し、2年を経て、未だ、手付かずであった。

今月7日、「皇居乾通り一般公開」で普段は見ることの出来ない「道灌濠」を見たので、4月23日付で「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/皇居、道灌濠」を綴ったことでもあり、そしてまた、丁度、今、太田道灌ゆかりの花、山吹の咲く頃でもあるので、<蔵出し>で「岩槻の巻」を綴ってみることとしたい。

2年前、太田道灌ゆかりの地を調べた際、東京、神奈川、埼玉のゆかりの地は次の通りあった。
既に承知しているところ、訪ねたことのあるところも幾つかあるが、多くは初めてのところである。
<都内>
平川橋/追慕之碑
有楽町/東京国際フォーラム・ガラス棟/立像
不忍通り/地名標識「道灌山下」
西日暮里駅西側/道灌山跡(西日暮里公園)
日暮里駅西側/月見寺(本行寺)/道灌が築いた斥候台跡に「道灌丘之碑」
日暮里駅前/騎馬像
豊島区高田 面影橋付近/山吹の里の碑
同/山吹の里公園
新宿中央公園/久遠の像
<神奈川県>
鎌倉市/英勝寺/扇谷上杉家家宰太田道灌屋敷跡
伊勢原市/伊勢原観光道灌まつり
同市上糟屋/扇谷上杉氏糟屋館跡(産業能率大学)
同市下糟屋/大慈寺/首塚
同市上糟屋/洞昌院/胴塚
<埼玉県>
さいたま市岩槻区/(旧)岩槻区役所庁舎前/立像
同/芳林寺/騎馬像
同/岩槻城址(公園)
同/地名「太田」
川越市役所庁舎(川越城大手門跡)/立像
入間郡越生町/山吹の里歴史公園

今回の「ゆかりの地を訪ねて」は、さいたま市岩槻区である。
東武野田線岩槻駅まで輪行し、岩槻駅から芳林寺、旧岩槻市役所、岩槻城址の順に巡った。

芳林寺。
三門をくぐる。
右手の一画に立派な設えの中に騎馬像が見える。
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太田道灌騎馬像。
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柵に掲げられた説明書きに目を通す。
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岩槻城、太田道灌、芳林寺
岩槻城は室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(1457年)太田道真、道灌父子が築城したと伝えられる。
文明18年(1486年)、大田道灌が神奈川県伊勢原にあった主君上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子、太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。
そして、それらは埼玉県越生町の龍穏寺と芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。
また、芳林寺は太田三楽資正が東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男太田氏資(岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から芳林寺に改めて、母、芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々の御先祖の御霊を供養して、現代まで続いている由緒ある禅寺である。
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(筆者注)この説明書きには、太田三楽斎資正の注釈がないが、太田道灌の曾孫、氏資の父である。
各地のゆかりの地を調べている中で太田道灌に纏わる歴史もベンキョーしていたので、この説明書きを読み、芳林寺の関わりもよく分かった。

騎馬像の作者についても説明書きがある。
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この太田道灌公の騎馬武者像は、東京都葛飾区柴又在住の世界的にも著名な彫刻家である冨田憲二、山本明良両先生(彫刻工房、十方舎)の作品です。
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騎馬像の作者が二人いるということは武者姿と馬は別々に作られたと想像する。
上野公園の西郷隆盛と犬、皇居前広場の楠木正成と馬もそうであるからだが...。
これら二人の彫刻家について簡単に調べてみた。
冨田憲二(とだけんじ)。
1947年生まれ。人体彫刻、風景彫刻を経て、近年、生命の根源である「水」をテーマにに取り組んでいる。
(中略)各地の公共施設にブロンズ、石によるモニュメント作品設置。
山本明良(やまもとあきら)
1946年生まれ。  石、金属の素材を中心にした造形活動を行っている。パブリックなモニュメントからプライベイトな彫刻まで、多様な実績があり、近年では従来の墓石にはない彫刻的な墓碑にも携わっている。  
同年代の彫刻家に親しみを覚える。

騎馬像脇には復元図や絵図も掲示されており、至れり尽くせりだ。
岩槻城復元図。
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「太田道灌公築城550年記念」、「平成19年7月26日」となっている。
竹橋近くの「太田道灌公追慕之碑」も「江戸城築城550年に当たって」、「平成19年9月25日」となっていた。
岩槻城も江戸城も長禄元年(1457年)の築城で、各地で築城550年を祝ったことが窺える。

もうひとつの、岩槻城絵図。
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右上に「武州岩槻城 阿部氏在城五十九年」の文字が見える。
この阿部氏について調べてみたところ、岩槻は扇谷上杉氏から後北条氏への領国と変わり、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が降伏し、徳川家康が関東に入封後、譜代の高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、藤井松平家、小笠原家、永井家、大岡家などが岩槻城の城主となった。
この岩槻城の絵図は阿部家が入封した正保4年(1647年)の頃のものと思われる。

石標「右 日光御成街道」。
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岩槻は日光御成街道の宿場町として栄えたところでもある。

太田道灌像があるという、旧岩槻区役所へと向う。

フォト:2012年6月8日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-04-24 17:17 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)


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