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『上総守が行く!』

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2009年 10月 04日

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/江戸編』 im-8

富岡八幡宮をあとにして、少し北上し、平野/間宮林蔵の墓へ。
仙台堀川に架かる亀久橋を渡り、二つ目の信号を過ぎた辺りが間宮林蔵の墓のある平野2丁目。

通りの家並みの一画にお墓がありました。
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間宮家の縁者の方でしょうか、ご老人夫婦が、花を供え、水掛をし、お墓参りをなさっていました。
お邪魔をしてはいけないと思い、しばらく、墓所へ入るのは遠慮しました。
ご老人夫婦が墓参を終え、去られた後、小生も墓参。

間宮林蔵の墓。
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墓石に刻まれている「「蕪崇(ふすう)」は号。
因みに、名は倫宗(ともむね)、林蔵は通称。
間宮家の家紋は「目結紋」。
墓の右隣りは「大正14年5月 史蹟指定 間宮林蔵之墓 東京府」のと刻まれた碑。

通りに設けられた、江東区教育委員会の説明書きを眺めていたところ、いつの間にか、小生の隣に、散歩中と思われる御老体が、やはり、説明書きを眺めらていました。
『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/江戸編』 im-8_a0104495_11135053.jpg

「間宮林蔵さんは、隠密だったそうですね」と御老体。

「そのようで。測量もさることながら、蝦夷や樺太探検それ自身がそもそも隠密の仕事であったのでしょう。測量の仕事を終えた後は、勘定奉行遠山某の配下となり、幕府の隠密として、日本各地を探索したとのことです。勘定奉行遠山某は、あの遠山の金さんのお父さんです」。

筆者注)
御老体と話をしている中で、勘定奉行遠山某の名が思い出せませんでした。
遠山景晋(とうやまかげくに)。
1764年(明和元年)~1837年(天保8年)。長崎奉行を務め、後に、勘定奉行を務めた。
その子、遠山金四郎景元(1793年(寛政5年)~1855年(安政2年))は、江戸北町奉行や南町奉行を務めた。時代劇「遠山の金さん」のモデル。

「そちら様は、この界隈にお住まいですか」。

「いえ、砂町です。ちょっと、遠出をしての散歩です」。

「江戸時代の古地図を見ると、砂町あたりは茶色く塗りつぶされ、何もなかったようですね」。

「そう、昔は湿地や干潟だったようです」。

「先ほど、横十間川親水公園で、カワセミを見ました」。

「この辺りは、掘割がいっぱいありますが、湿地や干潟だったので、掘割の作業は簡単だったのかもしれません。木場のあたりも、ちょっと前までは、文字通り、木場で貯木場がたくさんありましたが、今は埋め立てて、住宅や公園に。開発の途中は、虫たちの居所がなく、夜になると、よく、虫が家の中に飛び込んで来たものですが、今は自然も増え、虫の居場所も増え、家の中に虫が飛び込んで来るようなことはありません。自然が増えたので、野鳥も増えました。そうしたことで、カワセミを見ることが出来たのでしょう」。

更に、御老体、言葉を続けて「門前仲町や、ここ、平野のあたりは仕舞屋(しもたや)ばかりで、火事になると一気に焼かれてしまいましたが、今はマンションなどが建ち並び、防火にはよいことながら、風情はなくなりました」と。

そして、ご老体より「何故、間宮林蔵さんのお墓だけがここにあるのでしょうかね」と。

「私も同じことを考えていました(企画書に question mark あり)。ここは平野2丁目。もう少し、西へ行くと、平野1丁目。そこに、本立院(ほんりゅういん)というお寺があります。この寺は間宮林蔵さんの菩提寺とのこと。今から、そこへ行って、何故、間宮林蔵さんのお墓がここにあるのか聞いてみようと思っています。いろいろ楽しい話を聞かせて戴きました。どうぞ、お元気で」。

御老体と別れ、平野1丁目の本立院へ向いました。

フォト:2009年9月19日

(つづく)

by kazusanokami | 2009-10-04 19:26 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング


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