2009年 10月 08日

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/常陸国上平柳村編』 im-11

専称寺の山門をくぐると、直ぐ左手の、盛り土された小高い場所に、大きな碑が見えました。
先ず、そちらの方へ歩を進めました。

小高い場所は、顕彰碑と、その後ろに、間宮林蔵と両親の墓があり、ここ、専称寺では別格の場所のように思えました。
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(写真左端に間宮林蔵の墓が見えます)

石段を上り、顕彰碑を遣り過ごし、先ず、お墓へ。
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林蔵親子の墓が並んでいます。
向かって左が林蔵の、右が両親の墓です。
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1808年(文化5年)の樺太探検前に、林蔵自ら建立した墓。
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生きては帰れないとの決死の覚悟で出立する林蔵の心中に思いを馳せながら、合掌。

両親の墓。
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「林蔵は現在のつくばみらい市(旧伊奈町)上平柳村に生まれました。お父さんは庄兵衛、お母さんはクマといいました。林蔵は一人っ子で両親から大事に育てられました。家は農家でしたが、箍(たが)も作っていました。林蔵少年はすくすくと丈夫に育ちました。※箍(たが)・・・木の樽をおさえるため、竹で編んだもの」(後刻、間宮林蔵記念館で頂戴した、児童用「間宮林蔵物語」より)。

林蔵を育んだ、ご両親に合掌。

顕彰碑「間宮先生埋骨之處」。
1908年(明治43年)、建立。
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墓参をし、顕彰碑を眺めたあと、間宮林蔵については勉強済みなので、説明書きは見なくてもいいや、と思いつつ、目を通すと、先ほど、見た顕彰碑の碑文について、その一部の読み下し文が記されていました。
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漫然と漢文を見ていても何が何だか分からないが、一部でも読み下し文が記されていることは有難いことだ、と思いながら、再び、顕彰碑に向かい、刻まれた碑文を一文字ずつ、確かめてみました。
ありました、300余文字で刻まれた碑文の後段に「先生之功烈愈顯而先生之墓石愈小也」の文字が。
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帰宅後、インターネットで探したところ、300余文字の碑文とその読み下し文の全文が見つかりました。

抜粋ながら、それを引用します。

「是爲間宮林藏先生埋骨之處...先生以弘化元年二月二十六日歿于江戸後人納齒于江戸深川本立院葬骨于郷里常州筑波郡上平柳村專稱寺...」

「...先生之功烈愈顯而先生之墓石愈小也...」

「...乃爲撮其梗概叙之如此時明治四十三年四月也」

「正二位勳一等侯爵鍋島直大題 正五位志賀重昂譔 北條時雨書」


「是(これ)は、間宮林蔵先生埋骨の處(ところ)たり...先生は、弘化元年二月二十六日を以て江戸に歿す。後人、齒を江戸深川の本立院(ほんりゅういん)に納め、骨を郷里の常州筑波郡上平柳村(かみひらやなぎむら)の專稱寺に葬る...」

「...先生の功烈(こうれつ)愈(いよいよ)顯(あらわ)れて、先生の墓石愈(いよいよ)小なり...」

「乃ち、爲(ため)に其の梗概を撮りて之を叙すること、此(かく)の如し。時に、明治四十三年四月なり」

「正二位勳一等侯爵鍋島直大題す。正五位志賀重昂譔し、北條時雨書す」

=備考=
最後の「志賀重昂」の「譔」は、「言」に「巽」。「撰」の意。
題額は鍋島直大、撰文は志賀重昂、書は北條時雨。

先ほど、道をショートカットさせて下さった農作業中の男性に御礼を伝え、専称寺を去ろうとしたところ、「次は、林蔵さんの生家ですね。この道を真っ直ぐ行きますと右手に見えて来ますよ」と有難いアドバイス。

フォト:2009年9月22日

(つづく)
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by kazusanokami | 2009-10-08 16:17 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(2)
Commented by imba_potter at 2009-10-09 08:20 x
決死の覚悟で探検に赴いた、実感の伝わるお墓です。又、有名になってから作られた大きなお墓より、又その小ささが心を打ちます。
Commented by kazusanokami at 2009-10-09 20:21
印旛歩駄守殿 
仰る通りですね。
生前に建立した、質素な、小さなお墓。
だからこそ、心を打たれます。
碑文もそうしたことを顕してしるのでせう。
両親の名前のことを書き加えました。


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