カテゴリ:世田谷寺社めぐり( 13 )


2012年 03月 05日

『世田谷寺社めぐり』 nk-13

愈々、世田谷寺社めぐりも佳境。
松陰神社に到着。
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今回の「世田谷寺社めぐり」の企画が浮上したのは2010年の秋。
そのとき、丁度、山陰山陽の旅にて、萩の松陰神社を訪れたことでもあり、萩と東京、二つの松陰神社を一時期に、と思ったものであった。
2010年秋、萩にて。
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だが、「世田谷寺社めぐり」は、諸般の事情で延び延びに。
そうしたこともあって、今回、世田谷の松陰神社を訪れたことで、萩と東京、二つの松蔭神社に参ることが叶った。

松蔭神社での説明書きをここに綴っておこう。
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松蔭神社
ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(よしだじろうふじわらののりかたのみこと)
(吉田松陰先生)
松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主催し、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育しました。
しかし、安政の大獄に連座し、江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。
その4年後の文久3年(1863年)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時、長州毛利藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。
明治15年(1882年)11月、松蔭先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り、神社が創建されました。
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世田谷区立郷土博物館では「遺骸は、当初、小塚原の回向院に葬られたが、文久3年(1863年)、高杉晋作らによって若林抱地内に改葬された」とあったことを補足しておこう。
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吉田松陰像。
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松下村塾(萩のレプリカ)。
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燈篭。
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1908年(明治41年)、松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には、伊藤博文、木戸孝正、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名が刻まれている。
乃木希典の銘が刻まれた燈篭。
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ここで、少し余談を。
2月下旬、盟友、備前守殿と恒例の大放談会。
その席で「世田谷寺社めぐり」のことも話題に。
「吉田松陰の『かくすれば、かくなるものと知りながら 止むにやまれぬ 大和魂』は、松陰が下田で捕縛され、江戸につれて来られる途上に読んだ歌。辞世は忘却の彼方へ。『...留めおかまし 大和魂』であったかと思いまするが」と備前殿。
「結構なヒント、忝う御座りまする。マイ・ブログの助けと相成りまする。早速に、マイ・ブログのシナリオに加えておきたく」と上総。

「かくすれば、かくなるものと知りながら 止むにやまれぬ 大和魂」。
これは下田から江戸に護送され、品川の泉岳寺を通り過ぎたときに詠んだ歌。
同じ国禁を犯した赤穂義士は本懐を遂げ、我は失敗した。しかし、その志に如何ほどの差があろうかと松陰は浪士たちの生涯に我が身を重ね合わせたのであった。
忠臣蔵、赤穂浪士を趣味とする小生、ここで、吉田松陰と赤穂浪士が重なるとは。
歴史とは、誠に興味深いものである。

「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」。
獄中にて遺書として門弟達に書き残した「留魂録」に記された辞世。

「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん」。
家族宛てに残した「永訣書」に記された辞世。
2010年秋、萩の松陰神社において、石碑に刻まれたこの辞世のことを思い出した。
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(2010年11月、萩にて)

斯様に歴史を楽しめるのも、招猫守殿の「世田谷寺社めぐり」の企画、備前守殿との大放談会のお陰でもある。
御両氏に感謝、感謝である。
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「丁度4時。これにて、世田谷寺社めぐりは終わりと相成り申した」。
「猫殿、世田谷城址跡公園なるものがあるそうな。土塁や空堀が残っているそうな」。
「世田谷八幡宮や豪徳寺一帯が世田谷城址ゆえ、この辺りでフィニッシュと致しませうぞ」。
「了解に御座る」。
「反省会の席、"酉の市"は5時オープン。まだ、ちょっと、時間が御座ることにて、世田谷図書館で休憩と致しませう」。
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この界隈の標識は、みな、猫であった。

駒沢大学駅前の"酉の市"に到着する。
5時5分前である。
店先に、馴染みの顔の御仁が。
「あれ、そちらにおわすは、南国守殿では御座らぬか」。
南国守殿とは十余年ぶりの再開であった。
昨年3月に、長らくの赴任地、南の国から帰還なされたやに耳にはしていたが、これは猫殿のサプライズド企画であった。
南国守殿との昔話も交え、反省会は大いに盛り上がった。
南国殿曰く「上総ちゃん、俺さぁ、3月でリタイアだからさぁ、リセットして、いろいろやろうと思ってんだ。自転車もその候補のひとつなんだ」と。
「お任せあれ。来週にでも、"馬橋の馬市"に御案内仕りまするぞ」。
「いやいや、まだ、候補、候補」。
「無理強いするものでは御座らぬことにて、ゆるりと遣りませう。いつでも、jitensha の伝道師が"悪の道"へお誘い申し上げまするぞ」。

こうして、「世田谷寺社めぐり」を楽しく終えたのであった。

フォト:2012年1月28日(一部、2010年11月19日、萩にて)

(完)
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by kazusanokami | 2012-03-05 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(2)
2012年 03月 04日

『世田谷寺社めぐり』 nk-12

豪徳寺。
近江彦根藩主井伊家墓参を終えた後、招猫殿に詣でた。
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ゆるキャラ「たまにゃん」。
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「御祈祷 お札 お守り福銭 塔婆 招福猫児 総受付迄」。
豪徳寺では、招き猫を「招福猫児(まねぎねこ)」という。
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招き猫の由来には諸説ある。
豪徳寺由来説もそのひとつ。
豪徳寺由来説にも諸説ある。

<豪徳寺由来説/その1>
近江彦根藩二代藩主 井伊直孝が鷹狩りの帰りに弘徳院(のちの豪徳寺)の前を通りかかった。
そのとき、この寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたので、寺に立ち寄り、休憩した
すると、雨が降りはじめた。
雨に降られずに済んだことを喜んだ直孝は、弘徳院に多額の寄進をし、豪徳寺と改め、井伊家の菩提寺とした。
猫が招いた縁によって盛り返した豪徳寺は、後に境内に招猫堂を建立し、猫が片手をあげ招いている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)を作るようになった。

<豪徳寺由来説/その2>
近江彦根藩二代藩主 井伊直孝が鷹狩りの帰りに弘徳院(のちの豪徳寺)の前を通りかかった。
豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の猫が手招きをしていた。
直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。
雷に打たれずに済んだことを喜んだ直孝は、弘徳院に多額の寄進をし、豪徳寺と改め、井伊家の菩提寺とした。
猫が招いた縁によって盛り返した豪徳寺は、後に境内に招猫堂を建立し、猫が片手をあげ招いている姿をかたどった招福猫児(まねぎねこ)を作るようになった。

彦根藩のお殿様が、寺の前にある、一本の木の下で雨宿りをするというのは不自然である。
寺があるのだから、寺の中で雨宿りをするというのが自然であろう。
しかし、猫の手招きに誘われて、落雷を避けることが出来たという説の方がインパクトがあるので、小生は、<豪徳寺由来説/その2>の”落雷説”を採りたい。

豪徳寺の招き猫を見てみると、大変、シンプルである。
右手(右前足)を掲げているだけである。
小判や打ち出の小槌などは持っていない。
右手(右足)としているのは、井伊家の菩提寺であることと関わりがあり、武士にとって左手は不浄の手であるからとのことだ。
また、招き猫は機会を与えてくれるが、結果までついてくるわけではなく、機会を活かせるかどうかは本人次第という考え方から、小判は持っていないとのことだ。

彦根には、ゆるキャラ日本一の呼び声が高い、「ひこにゃん」がいる。
「ひこにゃん」は、世田谷・豪徳寺のゆるキャラ「たまにゃん」の兄貴分といったところであろう。

今回の企画ならびに案内役を務めてくだすった「招猫守」殿の名も、ここ、豪徳寺の招き猫を由来とする。
即ち、世田谷在住の愛猫家、世田谷といえば豪徳寺、豪徳寺といえば招き猫ということで、ご本人、自ら命名されたもの。

世田谷寺社めぐりも、愈々、佳境。
最後の訪問地、松陰神社へ向かう。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-03-04 16:43 | 世田谷寺社めぐり | Comments(2)
2012年 03月 02日

『世田谷寺社めぐり』 nk-11

豪徳寺。
彦根般井伊家菩提寺、そして、招き猫の由来を持つ寺である。
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山門の扁額「碧雲閣」。
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三重塔には、小判をくわえた鼠の彫り物の脇に招き猫が飾られているとのこと。
これは、後日、知ったことで、次回の楽しみとなった。

彦根藩主井伊家墓所。
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説明書きの骨子は次の通りである。
寛永10年(1623年)頃、世田谷が井伊家所領となり、弘徳院が菩提寺になった。
2代藩主井伊直孝が没した後、その法号「久昌院豪徳天英大居士」に因み、「豪徳寺」となった。
井伊家菩提寺は、豪徳寺、清涼寺(彦根市)、永願寺(東近江市)の三ヶ寺である。

井伊家墓所全体図で、2代藩主井伊直孝と13代藩主井伊直弼の墓所を確認する。
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墓所の案内図は有難いものだ。
「日本近代建築の父、ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」の際、護国寺では受付で墓地の配置図が貰えた。
「赤穂浪士討入凱旋の旅」《番外編》で、吉良家家老 小林平八郎の墓所である、巣鴨の龍眼寺を訪れた際には、掲示もなにもなく、墓を探すのに往生したこともあった。

井伊家墓所に入る。
直孝の墓は正面、直弼の墓は左奥だ。
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2代藩主井伊直孝の墓。
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13代藩主井伊直弼の墓。
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数日前に降った雪が残っている。
桜田門外の変のときも雪であった。
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墓参のあと、三重塔向かいの、招猫殿に詣でた。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-03-02 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(0)
2012年 03月 01日

『世田谷寺社めぐり』 nk-10

世田谷代官屋敷、世田谷区立郷土博物館から北上、宮の坂に至る。

世田谷八幡宮。
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「世田谷八幡宮の起こりは、1091年(寛治5年)、後三年の役(1083~87)の帰途、源義家は、この宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなった。今度の戦勝は、日頃、氏神としている八幡大神の御加護に依るものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の御分霊をこの地に勧請し祀った、というものに御座る。後に、世田谷城主七代目の吉良頼康が1546年(天文15年)社殿を再興、発展させた、とのことに御座る」。
「こむつかしく申せば、然様なことに御座りまするな。簡単に申せば、NHK大河ドラマ『平清盛』で玉木宏が演じるところの源義家が建立したということに御座りまするな。源義家は京都近郊の岩清水八幡宮で元服したことから、別名、八幡太郎と呼ばれているので、世田谷八幡宮は、岩清水八幡宮の分霊かと思いきや、宇佐八幡宮の分霊。眠れなくなってはいかんので、深くは考えないことと致まする」。
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狛犬。
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神社で狛犬は、特段、珍しいことではない。
だが、ここ、世田谷八幡宮の狛犬は何か違う。
仔細に見てみる。
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何と、子狛犬を抱いているのだ。
これは阿形の狛犬。
吽形の狛犬はどうだろうと、こちらも見てみる。
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やはり、子狛犬を抱いている。
何とも微笑ましい狛犬である。
こうやって、ブログを綴っていると、もう一度、会いに行きたい気持ちになる
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土俵。
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昔は奉納相撲の勝敗によって来年の豊作・凶作を占ったり、今年の豊作を感謝したため、境内には土俵や力石がある。
今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われているとのことだ。

昨年1月、龍野を旅した。
その際、「播磨風土記」によれば、相撲の神様、野見宿禰(のみのすくね)は播磨国立野(現・兵庫県たつの市)で病により没し、立野の地に埋葬された、ということをベンキョーした。
世田谷八幡宮の立派な土俵を眺めながら、ふと、龍野のことや野見宿禰のことが頭を過ぎった。
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世田谷八幡宮を後にして、豪徳寺に向かう。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-03-01 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(3)
2012年 02月 29日

『世田谷寺社めぐり』 nk-9

世田谷区立郷土博物館で、「世田谷城主吉良氏」、「井伊直弼と桜田門外の変」と「吉田松陰と毛利家抱屋敷」の展示を眺めながら、おさらいと予習をした。

続いて、世田谷ボロ市の歴史をベンキョーした。

世田谷ボロ市の起こり。
1578年(天正6年)、後北条氏第四代当主、北条氏政の「楽市掟書」により世田谷城下で始まった楽市をその起こりとする。
江戸と小田原の間にある世田谷宿において伝馬の確保のため、宿場を繁栄させようという目的があったといわれる。

市の「掟」。
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右/上記「掟」の書き下し文、左/その解説。
(文字が小さいので、画面を150%くらいに拡大して読んでください。なかなか、よく出来た掟です。)
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1590年(天正18年)、後北条氏が豊臣秀吉により小田原の役で滅ぼされ、後北条氏の配下であった吉良氏の世田谷城も廃止されたことから、楽市は急速に衰えた。
しかし、その後も近郊農村の需要を満たすため、農具市として年末に開かれる歳市に形を変えて存続した。
最盛期には2000店の露店が並んだ。
古着の売買が盛んに行われたことから、「ボロ市」の名が付いた。
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現在は、古着のほかに、骨董品、古本、植木、食料品、神棚、玩具なども売られている。
1994年9月には世田谷区から、2007年2月には東京都から、それぞれ無形民俗文化財として指定されている。
世田谷ボロ市の歴史を通して、後北条氏以来、400有余年の世田谷の歴史を垣間見ることが出来た。

戦後、昭和20年代の世田谷界隈。
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大変、興味深い展示の数々であった。
博物館のエントランスにて深呼吸した。
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世田谷区立郷土博物館から、更に北上し、世田谷八幡宮に向った。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-29 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(4)
2012年 02月 27日

『世田谷寺社めぐり』 nk-8

世田谷区立郷土博物館で、「世田谷城主吉良氏」に続いて、「井伊直弼と桜田門外の変」と「吉田松陰と毛利家抱屋敷」の展示を眺めながら、おさらいと予習をした。

吉田松陰と毛利家抱屋敷。
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説明書きをここに書き下しておこう。
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長州藩毛利家若林抱屋敷(抱地)は寛文12年(1672年)、同藩が江戸拝領屋敷の被災に備え、若林の百姓より175両で買得したもので、1万8300坪の広さがあった。
武家が百姓地に取得した抱屋敷・抱地は、拝領屋敷とは異なり、年貢が賦課された。
毛利家では、江戸市中の拝領屋敷が罹災した時、若林抱地の立木を伐り出して、新屋敷の作事に利用したが、若林の村民はその際の材木運搬を請け負っていたようである。
その他、同地内には広大な田畑と竹藪があった。
幕末になると、長州藩からは「志士」と呼ばれる人たちが多数輩出するが、彼らに大きな影響を与えたのは吉田松陰(1830-59)であった。
松陰は、萩の松下村塾で後進の育成に当たっていたが、安政の大獄に連座し、江戸小伝馬町の牢屋敷で死罪となった。
遺骸は、当初、小塚原の回向院に葬られたが、文久3年(1863年)、高杉晋作らによって若林抱地内に改葬された。
翌元治元年(1864)、禁門の変が起きると、幕府は勅命に従い、長州征伐を決行した。
それに先立ち、毛利家の江戸屋敷は没収されたが、この時、若林抱地も接収され、若林村の領主・旗本志村氏に引き渡された。
松陰の墓も破壊されるに及び、立木は売却されて、その売上金が村の諸費用に当てられた。
明治になると、毛利家が朝廷から改めて同地を拝領し、松陰の墓碑を建てた。
これが墓となり、明治15年(1882年)には松陰神社として東京府から認可され、今に至っている。
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「成程。長州藩は、リスク管理の一環として、斯様なところに抱屋敷を持っておったので御座るな」
「しかも、井伊家世田谷領の近くに」。
「吉田松陰は小塚原の回向院から改葬されておったので御座るな」。
「小塚原の回向院と申せば、杉田玄白や前野良沢などが小塚原で腑分けを行い、『解体新書』の翻訳をすることになったとか。小塚原の回向院には、『観臓記念碑』なるものがあるそうな。一度、そういう歴史めぐりもしようと思い居りまする」。

井伊直弼と桜田門外の変。
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「成程。桜田門外の変があった、その日、世田谷代官屋敷では、斯様な様子に御座ったのでありまするな」。
「彦根藩は、井伊直弼の死を隠すために、井伊直弼の名で桜田門外で負傷したと幕府に届けをしたそうに御座りまするな」。

1859年(安政6年)、安政の大獄で吉田松陰は命を落とし、また、1860年(安政7年)、桜田門外の変で井伊直弼は命を落とした。
安政の大獄に関わった、井伊直弼と吉田松陰が同じ博物館に展示されているとは、皮肉なものである。
そして、また、井伊家の菩提寺・豪徳寺と松陰神社は目と鼻の先というのも皮肉なものである。
井伊家が世田谷に所領を持っていなければ、毛利家が世田谷に抱屋敷を持っていなければ、斯様な皮肉なことにはならなかったのだが、歴史に「タラレバ」はないのである。

これで、この後に参拝で訪れる、井伊家菩提寺・豪徳寺、そして、松陰神社についての予習は完璧となった。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-27 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(0)
2012年 02月 26日

『世田谷寺社めぐり』 nk-7

世田谷代官屋敷では、近江彦根藩井伊家世田谷領についてベンキョーした。
代官屋敷の奥は、世田谷区立郷土博物館となっている。
立派な展示物が満載の、文字通りの、博物館である。

満載の展示物の中で、「世田谷城主吉良氏」、「井伊直弼と桜田門外の変」、「吉田松蔭と毛利家抱屋敷」などのおさらいと予習をすると共に、ボロ市の起こりなどもベンキョーした。

「世田谷城主吉良氏」。
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2006年夏、「赤穂浪士討入凱旋の旅」の<番外編>として、吉良庄(愛知県幡豆郡吉良町)を訪れた際、吉良家には、《西条吉良氏》と《東条吉良氏》の家系があることをベンキョーした。
今回、そのおさらいをすると共に、《東条吉良氏》の流れを汲む、《奥州吉良氏》、《世田谷吉良氏》をベンキョーした。

世田谷城主吉良氏に関わる説明書きは次の通りである。
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ここに、この世田谷吉良氏に関わる説明書きを書き下しておこう。
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吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国幡豆郡吉良庄より起こった。
世田谷吉良氏はその庶流で、足利義継を祖として、2代当主・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられる。
経氏の孫・貞家は建武政権・室町幕府の要職を歴任した後、奥州探題となって陸奥国に下向し、勢力を拡大した。
しかし、3代将軍足利義満の治世に至って、奥州探題が廃されたので、貞家の子・治家は鎌倉公方・足利基氏の招きによって上野国飽間に移住することとなった。
世田谷城は、この吉良氏が世田谷の地に築いた居館であるが、その構築年代は明らかではない。
しかし、治家が鎌倉鶴岡八幡宮に宛てた永和2年(1376年)の寄進状から、この時代には既に吉良氏の領地が世田谷郷内にあったことだけは確かである。
世田谷と蒔田(現横浜市)の2ヶ所に本拠を置いた吉良氏は「世田谷吉良殿」「せたがや殿」あるいは「蒔田御所」と称せられ、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在であった。
臨済宗の僧・万里集九が書いた「梅花無尽蔵」には、「閣下」の尊称を付けて「吉良閣下」と記されており、その地位の高さを窺い知ることができる。
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家系図をアップで。
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前述の、博物館掲示の説明書きで「吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国幡豆郡吉良庄より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、足利義継を祖として、2代当主・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられる」と綴られている。
これについて、2006年、「赤穂浪士討入凱旋の旅」の<番外編>として、吉良郷(愛知県幡豆郡吉良町/2011年、西尾市に編入)を訪れた際にベンキョーした、《西条吉良》と《東条吉良》のことも重ね合わせながら、小生なりに綴ってみたい。

吉良氏の起こった、三河国吉良荘は、矢作川を挟んで西を西条、東を東条と区分されていた。
足利義氏の長庶子・長氏は、三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗り、西条を本拠としたことにより、西条吉良氏とも呼ばれた。
一方、足利義氏の三男(四男とも言われる)義継は、兄・長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗り、東条を本拠としたことにより、東条吉良氏とも呼ばれた。
兄・長氏の家系は三河吉良氏となった。
忠臣蔵でお馴染みの、吉良上野介は三河吉良氏の家系にて、領国吉良荘では優しい殿様で通っていたそうで、同地では、今でも親しみを込めて「吉良さん」と、さん付けで呼んでいる。
弟・義継の家系は、東条吉良氏から、博物館掲示の説明書きの通りの変遷を辿り、奥州吉良氏を経て、世田谷吉良氏となっている。
なお、博物館掲示の家系図は、長氏の下に義継となっているが、長氏と義継は親子ではなく、兄弟である。
但し、博物館掲示の家系図には、「吉良系図は諸説あるので、その一例を示したに過ぎない」と但し書が付されているので、この家系図に、何ら、口を差し挟むものではないことをここに申し添えておきたい。

世田谷城は、こののち、訪れる、世田谷八幡宮や豪徳寺の一帯が、その城址であるとのことだ。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-26 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(0)
2012年 02月 21日

『世田谷寺社めぐり』 nk-6

駒沢オリンピック公園から北上する。

「ここがマイ・ファクトリーに御座る」と、猫殿御用達の自転車店に立ち寄る。
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「あの角の家が、元・笠置シズ子の家に御座る」。
「笠置シズ子とは、また、懐かしき名に御座りまするな」。
幼き頃、その歌声はラジオにて。
しゃべくりは、《大阪のおばちゃん》の元祖かもしれない。

「ここがボロ市通りに御座る。この通りの先に、代官屋敷と世田谷区立郷土博物館が御座る」と猫殿。

世田谷代官屋敷。
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世田谷代官屋敷とは、次の通りである(世田谷区HPその他資料より抜粋)。
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1633年(寛永10年)、彦根藩主井伊直孝に関東で2万石が加増され、うち2306石余が世田谷領であり、世田谷村20ヵ村といわれた。
世田谷代官屋敷は、彦根藩世田谷領20ヵ村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれている。
大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、1952年(昭和27年)、「都史跡」に指定された。
同時に同家所蔵の古文書は一括して「都重宝」(現・都指定有形文化財)に指定された。
更にまた、現存する大場家住宅主家及び表門の2棟が、近世中期の代表的上層民家として、よくその旧態を保存し、貴重な建造物であるとの理由で、1978年(昭和53年)、住宅建造物としては都内で初めての「重要文化財」に指定された。
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代官屋敷には「お白洲」もあったのだ。
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「樅の木は残った、欅の木も残った」。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-21 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(4)
2012年 02月 20日

『世田谷寺社めぐり』 nk-5

浄真寺から駒沢オリンピック公園方面に向う。

電柱の"巻き看板"を眺めながら走るのも、ポタリングの楽しみのひとつである。
面白い看板を見つけた。
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看板コレクションに、また、良きものが二つ加わった。

暫らく、住宅街を走る。

「あの家が、例の4億円云々の元代表宅に御座る」と、猫殿より有名人宅のご案内。
門の前にお巡りさんが一人、立っている。
無任所であっても、公的な警備が付くようである。
複雑な気持ちとなる。

「あれが日体大に御座る」、「こちらが駒沢大学に御座る」との案内を頂戴しながら、駒沢オリンピック公園に到着。
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走る、猫殿。
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五重塔をモチーフにしたような、オリンピック記念塔。
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オリンピック記念館。
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今年はオリンピック・イヤー。
ロンドン五輪での日本人選手の健闘を祈る。
1964年の東京オリンピックを思い出しながら...。

広場。
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縄跳びに興じる女の子。
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街灯に立て掛けてある、strider もこの女の子のものだろうか。

広場を遠望する。
一人、バイク・ポロに興じる若者をも眺めながら。
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公園の周囲に設けられた、サイクリング&ジョギング・コースを走る。
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「距離は約2kmに御座る」と猫殿。
「猫殿、そろそろ、昼餉を」。
「では、公園入り口前のフレッシュネス・バーガーにて」。

腹拵えを終え、更に北上する。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-20 22:39 | 世田谷寺社めぐり | Comments(4)
2012年 02月 19日

『世田谷寺社めぐり』 nk-4

浄真寺。
九品仏(くほんぶつ)で有名な寺である。
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参道を走る、猫殿。
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参道の石畳を進む。
総門の手前で駐輪する。
「上総殿、ここで、ひとつ、有名人宅のご案内を。寺の塀沿いを左手へ歩んでくだされ」と猫殿。
二軒ばかり、進む。
表札を見る。
「よくある苗字ながら、推察するに、渡り鳥シリーズの、あのスター宅に御座りまするな」。
「正解に御座りまする」。
「参道の両脇は閑静な住宅街。まことに結構なところに、家を構えて居るんで御座りまするな」。

浄真寺創建の由来。
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当山はひろく「九品仏(くほんぶつ)」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺(くほんざんゆいざいねんぶつじょうしんじ)」、浄土宗に属し、境内約12万㎡(3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の寺である。
開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の時、延宝6年(1678)に、奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。
「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を鋼板葺に改修した。

総門。
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扁額「般舟場」。
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扁額「般舟場」の説明書きを読み下してみよう。
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当山二世珂憶上人の高弟珂慶上人の御筆で流麗雄渾な筆致である。
般舟とは般舟三昧の事で常に行道念仏として現前に諸仏を見奉るを言う。
般舟三昧経三巻は弥陀経典中最古のもので浄土三部経と共に古来より重ぜられている。
当山は院号を唯在念仏院と称し念仏の道場であり参する人々に願往生の心を自然に発さんが為書かれたものである。
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総門をくぐる。
境内には、数日前に降った雪がまだ残っている。
老写真家が小仏を撮っている姿がこの寺の雰囲気によく合っている。
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右手に閻魔堂。
閻魔堂を覗いてみる。
正面に閻魔像、その右手に葬頭河婆の像。
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葬頭河婆は、ちょいと、怖ろしげなので、フォトのサイズは小さめで。
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左に曲がると、楼門。
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石柱に刻まれた、旧字体に惹かれる。
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楼門をくぐる。
左手に楼鐘、右手に本堂を見る。
本堂。
本堂は「龍護殿」とも称されている。
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御本尊、釈迦如来坐象。
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本堂の向かい側の奥に、三つの大きな御堂が並んでいる。
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九品仏が安置されている、三仏堂である。
三仏堂は、上品(じょうぼん)堂、中品(ちゅうぼん)堂、下品(げぼん)堂から成っている。
上品堂に三体、中品堂に三体、下品堂に三体の都合九体の阿弥陀如来像が安置されている。
阿弥陀如来九体は、それぞれ、上品上生(じょうしょう)、上品中生(ちゅうしょう)、上品下生(げしょう)、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(くほん)という。

御堂の中には入れないが、硝子戸を通して阿弥陀如来像九体を拝む。

三仏堂ならびに阿弥陀如来像九体を代表して、上品堂と上品上生、上品中生、上品下生をここにアップロードしておこう。
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上品上生を挟んで、左右の、上品中生と上品下生の御尊顔が少し切れてしまったが、これは反射を避けるために硝子戸の硝子にカメラと押し当てて撮ったた、め三体全てを収めることが出来なかったことによるもので、他意はなく、仏様も許して下さるだろう。

記録として「九品仏と三仏堂」の案内板をここにアップロードしておこう。。
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フォトは読み難いので、書き下しておきたい。
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九品仏と三仏堂。
珂碩上人(1617~94年)は、念仏行者としてー代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。
なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した九躰の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、末代衆生化益の尊い御仏像である。
九躰とも文化財の指定をうけ、上品(じょうぼん)堂(中央)、中品(ちゅうぼん)堂(右)、下品(げぼん)堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三躰ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。
なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身(み)と口(くち)と意(ここち)の三つが浄化されてゆき「生けらぼ念仏の功つもり死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。
京都府下の浄瑠璃寺(九躰寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。
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なかなか難しい点もある説明書きだ。
或る資料を参照すると「九品(くほん)とは、物質や人の性質を3x3で分類したもの。現在、我々がよく使う、上品(じょうひん)や下品(げひん)の語源とされる」とあった。

西の九品仏、浄瑠璃寺(京都府木津川市加茂町)の阿弥陀如来坐像九体は、浄真寺の三仏堂とは異なり、本堂に横一列に安置されている。
浄瑠璃寺の本堂と阿弥陀如来坐像はいずれも国宝である。

フォト・データによれば、総門をくぐり、境内に入ったのは11:33であった。
そのとき、老写真家は小仏を撮っていた。
総門をくぐり、帰ろうとした際、老写真家は、まだ、小仏を撮り続けていた。
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このとき、フォト・データによれば、00:37であった。
かれこれ、1時間余が経過していた。
このように、写真を一箇所でじっくりと撮るのも面白いだろうなと思った。
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総門をくぐり、外から今一度、扁額「般舟場」と「九品仏浄真寺総門」の文字を鑑賞し、同寺を後にした。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-19 13:11 | 世田谷寺社めぐり | Comments(0)