カテゴリ:太田道灌ゆかりの地を訪ねて( 15 )


2014年 04月 28日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/久伊豆神社』 di-6

岩槻城址をあとにして、地名「太田」の標識を探しながら岩槻駅方面へと走る。
県道2号線に出て角に「久伊豆神社」と書かれた案内標識が目に入った。
有名な神社なのであろうが、不覚にも小生には馴染みのない名前の神社で、読みは「くいず」でよいのだろうかなどと思ったりして、一挙に興味が湧き、立ち寄ってみることにした。

結果、立ち寄って良かった!
何故なら、ここ、久伊豆神社も太田道灌ゆかりの地だったのである。
加えて、狛犬が随分と多い神社で、狛犬蒐集家としても大いに愉しめた神社なのであった。
この二点を中心に久伊豆神社のことを綴ってみることにする。

武州岩槻総鎮守 久伊豆神社。
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「久伊豆」の読みは「ひさいず」である。
同社のホームページを参照したところ、「アメリカ横断ウルトラクイズの予選会場になるなど、勝負運・合格祈願として、『クイズ神社』としても有名になりました」とある。
やっぱり、「くいず」と読んでしまうのである。
「久伊豆神社。さて、何と読むのでしょう?」というクイズがあってもよさそうな気もする。

一の鳥居/狛犬その1。
阿形。
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吽形。
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一の鳥居の狛犬の特徴はは、阿形の口の開き方のように思える。

参道。
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参道は500メートルほどあり、久伊豆神社自慢の参道のようである。

二の鳥居/狛犬その2。
阿形。
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吽形。
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二の鳥居の狛犬の特徴は、何と言っても、阿形のとぼけた表情である。
その表情を、今一度、アップで。
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二の鳥居脇に掲げられた久伊豆神社の由緒に目を通す。
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岩槻市層鎮守 久伊豆神社 由緒
御祭神 大国主命
御例祭 四月十九日、十月十九日
久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代、出雲の土師連の創建したものと伝えられる。
その後、相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。
江戸時代、歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除として祈願せられた。
神社境内は城址の一部で、元荒川が東北を流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等鳥有に帰し、現社殿は、その後、氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。
現在、神域は次第に整い、神威はいよいよ高く、神徳ますます輝きわたり、岩槻市層鎮守として広く人々の崇敬をあつめている。
(以下略)
岩槻市観光協会
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「相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている」、「神社境内は城址の一部」を読んで、大いに喜んだ。
何故なら、事前の調べでは、岩槻における太田道灌ゆかりの地は、芳林寺、旧岩槻区役所庁舎前、岩槻城址、地名表示「太田」の四ヶ所であったが、現地入りし、新たに久伊豆神社を"発見"したからであった。

二の鳥居を通り抜けると右手に「灯籠を支える狛犬/その3」が現れる。
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この狛犬は「子連れ狛犬」である。
台座、向って右側の子供狛犬をアップで。
頭を下向き、尾を上向きにして台座を守っているのだが、可哀想なことに頭が欠けてしまっている。
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台座、向って左側の子供狛犬をアップで。
こちらは頭を上向き、尾を下向きにして、欠けることなく台座をしっかりと守っている。
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広い境内となる。
前方に拝殿を望む。
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拝殿手前/狛犬その4。
阿形。
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吽形。
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吽形の足元の子供狛犬。
親によく似た牙を持ち、きりっとした顔立ちをアップで。
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「鞠」と「子連れ」の組み合わせはよくある形だが、この狛犬の特徴は阿形、吽形の位置が逆になっていることである。
即ち、標準的には向って右が阿形、左が吽形だが、この狛犬は左右逆となっている。
因みに、長野の善光寺の仁王像も、他の寺とは並びが異なり、阿形像、吽形像が左右逆となっている(左右の決まりはないとの説もある)。

更に進むと、またまた、狛犬が現れる。
狛犬その5。
阿形。
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吽形。
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わたし的には「灯籠を支える狛犬/その3」とこの「狛犬/その5」が好きだ。

拝殿。
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”新発見”の久伊豆神社に大満足し、地名「太田」の表示を探しながら岩槻駅へと向う。

「太田1-1」。
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「太田小学校」。
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こうして、当初の目的、芳林寺/騎馬像、旧岩槻区役所庁舎前/立像、岩槻城址、地名「太田」に加え、現地入りしての新発見、久伊豆神社をめぐり、<岩槻の巻>が仕上がったのであった。

最後に、司馬遼太郎さんが「街道を行く/本郷界隈」で綴っている一節を引用し、結びとしたい。
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追分
本郷にも、追分という地名がある。
古い日本語である。街道の分岐点のことをいう。
遥かな響きがあって、遠国へむかう街道の分岐点にかぎって言い、市街地の場合はつかわない。
本郷の東京大学の西辺をひろびろと北上している本郷通りと、旧白山通りが枝分かれしている分岐点が、江戸時代以来、追分といわれてきた。
現在でいえば、向丘一丁目の南端にあたる。東大農学部の正門のあたりである。
(中略)
さて追分を左へとらず、まっすぐに(いまの本郷通りを)ゆけば、埼玉県岩槻に至る。だから、本郷通りは、岩槻街道ともよばれた。
岩槻(岩付とも)は、家康の江戸入り以前から関東の要衝であった。
室町時代、長禄元年(1457)まだ二十代の太田道灌が、父資清とともに北方の古河公方に対する防ぎの城として岩付城を築いたのだ。
城の東は元荒川が流れ、まわりは沼だったから、浮城などといわれた。沼の一部を埋めるについては、道灌は竹の筏を沈めてその上に土を盛るという、奇想天外ともいうべき工事をおこなったことで有名である。
長禄元年といえば、道灌が江戸城を築いたとしでもあり、岩付城は江戸城とセットになっての防御陣地だったことがわかる。
となると、連絡道路としての本郷通り(岩槻街道)は道灌がつけた軍用道路だったのであろう。
江戸時代になると、この本郷通りは平和なものになり、将軍が日光へ参拝するときに使われた。このため、”日光御成街道”などという華やかな名で呼ばれることもあった。
(後略)
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「本郷通り(岩槻街道)は道灌がつけた軍用道路だったのであろう」というところに司馬遼太郎さんらしさがあらわれている。

岩槻街道は、国道122号線(栃木県日光市から群馬県桐生市、埼玉県中央地域を経由して東京都豊島区に至る一般国道)のうち、さいたま市岩槻区から埼玉県と東京都の境で荒川をまたぐ新荒川大橋までの愛称となっている。
いつの日か、皇居から本郷通り、岩槻街道を経由して岩槻城址まで、軍用道路をイメージしながらポタリングし、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」の<江戸の巻>と<岩槻の巻>を結合せねばならないと思っている。

今年も「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」の季節がめぐってきた。
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フォト:2012年6月10日
フォト#21:2014年4月26日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻」《完》
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by kazusanokami | 2014-04-28 09:38 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2014年 04月 27日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/岩槻城址(下)』 di-5

岩槻城址。
「ふるさと散策路」の標識に従い、散策する。
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散策路を進むと広く開けた場所に出た。
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石碑が目に入る。
白鶴城址碑。
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白鶴城記念碑。
碑には岩槻城の謂れから始まって500以上もの文字にて岩槻の歴史が刻まれている。
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第5話で触れた通り、岩槻城は別名「浮城」とも呼ばれるが、「白鶴城」とも呼ばれている。
因みに、「岩槻城」は「岩付城」とも書かれ、「岩付城」は江戸時代以前の書き方だそうだ。

空堀跡を散策する。
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空堀の両側は当然のことながら土塁である。
空堀が切れたところに石段があり、土塁に上がり、更に散策する。
土塁と直角に掘られた空堀もある。
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6月の花、紫陽花。
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空堀や土塁を巡り、大きな通りを進むと岩槻城の遺構と思われる門が見えて来た。
岩槻城城門。
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説明書きに目を通す。
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岩槻市指定文化財 岩槻城城門
この門は岩槻城の城門と伝えられる門である。
岩槻場内での位置は明らかではないが、木材部分が黒く塗られていることから「黒門」の名で親しまれている。
門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式で、桁行(幅)約13メートル、梁間(奥行)約3.7メートルである。
屋根は寄棟造で瓦葺き。
廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、昭和45年(1970年)、城跡のこの地に移築された。
この間、浦和の埼玉県庁や県知事後者の正門、岩槻市役所の通用門などとして、移転・利用された。
修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具などに、重厚な城郭建築の面影を伝えている。
岩槻城関係の数少ない現存遺構として貴重なものである。
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岩槻城裏門。
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説明書きに目を通す。
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岩槻市指定文化財 岩槻城裏門
この門は岩槻城の城門である。
岩槻城の裏門と伝えられるが、城内での位置は明らかではない。
現状では、門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式となっている。
間口約3メートル、奥行約2メートルであり、向って左側袖塀に門扉左に潜戸を付属している。
屋根は切妻造で瓦葺き。
左右の本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏の家臣武藤弥太夫らを奉行として修造され、文政6年(1823年)に板谷官治らを奉行つぃて修理されたことが知られる。
数少ない岩槻城関係の現存遺構の中でも修築年代が明確な遺構として貴重なものである。
廃藩置県に伴う岩槻城廃止後、民間に払い下げられたが、明治42年(1909年)以降、この門を大切に保存して来られた市内飯塚の有山氏から岩槻市に寄贈され、昭和55年(1980年)、岩槻城跡のこの地に移築された。
なお、門扉右の袖塀はこの時付け加えならたものである。
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人形塚。
岩槻城の遺構とは無関係ながら「人形の町」としてアップロード。
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説明書きに目を通す。
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人形塚について
昭和46年(1971年)、当時の岩槻人形連合協会は10月15日を「人形の日」と決め、埼玉100年を記念してこの岩槻城の一画に人形塚と人形の碑を建立いたしました。
人形塚は、郷土の日本画家、関根将雄画伯のデザインによるもので、製作に当たっては地元の若き人形職人等の熱き協力がありました。
男雛、女雛が仲むつまじく寄りそった姿は「人」を形象し、世界平和と郷土岩槻の限りなき発展を願っております。
当地の人形作りの起源は、江戸時代のはじめ、日光東照宮造営の頃(1630年)とされています。
その後、幾とせ、人形作りに心血を注ぎ、いそしんだ先輩父祖の霊を慰め、また多くの人形師が心をこめて作り上げ、かつ、人々に愛された人形達の冥福を祈り、この人形塚は作られました。
平成4年3月吉日
埼玉県観光連盟
岩槻市観光協会
岩槻人形協同組合
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随分といろんな思いが込められた人形塚なのであった。

岩槻城址をあとにして、地名「太田」の標識を探しながら岩槻駅方面へと走る。

フォト:2012年6月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-04-27 16:39 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2014年 04月 27日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/岩槻城址(上)』 di-4

岩槻城址。
先ず、説明書きに目を通す。
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埼玉県指定史跡 岩槻城址
岩槻城は室町時代の末(15世紀中ごろ)に築かれたといわれています。
江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城tなりました。
戦国時代には何度も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。
本丸・二の丸、三の丸などの城の中心部にある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪(※)、南岸に位置する新曲輪という、三つのブロックから構成されていました。
更に城の西側および南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地なdからなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀(※)からなる大構(おおがまえ)が取り囲んでいました。
この岩槻公園のあたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。
新曲輪は戦国時代末の1580年代に豊臣政権との軍事対決に備え、その頃、岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防御力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪、鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防御を固めていました。
明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に、新曲輪部分には曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子(※)が発見された空堀、外部との出入り口に配置された馬出しなど、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されています。
(※)曲輪・・・城郭を構成すう区画
(※)土塁、堀・・・土塁は土を土手上に盛り上げた防御施設。堀は地面を細長く掘り窪めた防御施設。多くの場合、堀を掘った土で土塁を造る。
(※)堀障子・・・堀の底に設けられた障害物の一種
(※)馬出し・・・白の出入り口外側に設けられた施設で、出入り口の防御を固め、敵の場内への進入を防ぎ、見方の出撃を容易にする。
さいたま市
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要約すると次の通りである。
主郭部は失われている。
現在、残っているのは主郭部南東部分の固めである「新曲輪」と「鍛冶曲輪」である。
現存している「新曲輪」と「鍛冶曲輪」は、この図の南東部、赤地に白文字で「現在地」と記されているあたりである。
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芳林寺で見た「太田道灌築城550年記念 岩槻城復元図」に今一度登場願おう。
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右下の「平成19年7月26日」の右側に小さく「鍛冶曲輪」の文字が見える。
これら二つの図を見ると、岩槻城は別名「浮城」とも呼ばれたことがよく分かる。
今は城をぐるっと取り巻くような大きな沼はなく、少し池が残っているだけである。

岩槻城址をぐるっと巡ってみる。
城の面影は何も残っていない公園を通り抜けると蓮の花が咲く池が広がる。
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心象風景/ジベルニーのモネの庭/「睡蓮の池と日本の橋」。
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橋を見れば渡りたくなる。
渡ってみる。
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結構な渡りの橋である。

「岩槻の花 やまぶき」。
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6月である。
山吹の花の季節は過ぎているが、山吹色で書かれた「やまぶき」の文字がハナを添える。

「ふるさと散策路」なる標識に従って進む。

フォト:2012年6月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-04-27 06:48 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2014年 04月 26日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/旧岩槻区役所庁舎前』 di-3

旧岩槻区役所庁舎前。
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県道2号線歩道沿いに「岩槻区役所移転のお知らせ」が貼られており、庁舎のみならず、庁舎手前の駐車場入口から閉鎖されている。
立ち入るなということではあるが、特段の危険はないので、 駐車場入口から入る。
庁舎の脇に立つ太田道灌像が目に入る。
太田道灌の像は騎馬像か鷹狩りの装束が定番であり、こちらの像は鷹狩りの姿である。
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「道灌さん、探しましたよ」と像を間近に眺める。
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背景の旧庁舎の壁がよろしくないので、右手から眺める。
少し逆光気味だが、これの方がなかなかよい。
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後ろ姿も拝見する。
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台座の足元には山吹の植え込みが。
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銘板には「太田道灌公之像」の文字と共に「岩槻市長 斉藤伝吉謹書」とある。
斉藤伝吉氏は、1985年から1998年の間、第9、10、11、12代の市長を務めており、その在職中に太田道灌像を建立したのである。
因みに、岩槻市は2005年4月1日に さいたま市に編入され、さいたま市岩槻区となり、旧市役所は区役所に、そして、更に区役所は駅前に移転し、旧区役所となってしまったのである。
太田道灌像を建立した当時、斉藤市長はまさか岩槻市が隣りの市に編入されるとは思いもせず、市役所庁舎の脇に像を建立したのであろうが、少々、見通しが甘かったかもしれない。
旧岩槻区役所を訪ねたのは2年前である。
旧庁舎、そして、太田道灌像は、今、如何なっているのであろうか。
旧東京都庁から東京フォーラムに移設された道灌像(これも鷹狩りの姿である)のように上手く移設さればよいのだが...。
移設先は岩槻駅前か岩槻城址がいいんじゃないかと勝手に思ったりして...。

県道2号線を更に走り、岩槻城址へと向う。

フォト:2012年6月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-04-26 05:50 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2014年 04月 25日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/旧岩槻区役所探し』 di-2

芳林寺をあとにして、太田道灌立像があるという旧岩槻区役所へと向う。
事前に地図で場所をチェックし、岩槻区役所は駅前にあることは分かっていたが、旧岩槻区役所が何処かは分からず仕舞いであった。
駅前の岩槻区役所へ行ってみた。
駅前の商業ビルの3階、4階が岩槻区役所だった。
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旧東京都庁から東京フォーラムへ移設された太田道灌像のようにこの駅前ビルに移されているかもしれないとの思いもあったが、然にあらず。
区役所にて、旧区役所の場所を尋ねたところ、県道2号線(旧国道16号線)を春日部方面に走ると右手に旧区役所があると教えて貰った。
岩槻城址へ行く県道2号線沿いにあるということになる。
県道2号線を走る。

岩槻は人形の町でもある。
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そして、やっぱり、太田道灌の町でもある。
ちょっと、煤けた山吹ではあるが...。
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何故、岩槻は人形の町になったのか。
調べてみたところ、「人形のまち岩槻 まちかど雛めぐり」なるサイトに分かりやすくその歴史が綴られていた。
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岩槻は江戸時代、日光御成街道の宿場町として栄えました。
当時、岩槻周辺は、たんす、下駄を産しており、桐の粉が大量に出ました。
この桐の粉は人形の頭を作る材料に最適であり、また、良質な水にも恵まれ、胡粉(人形に塗る白い粉)を溶くのに適しておりました。
東照宮造営に来ていた工匠がそれを知り、岩槻で人形づくりをはじめました。
これが、岩槻人形の起こりといわれています。
江戸という一大市場が近くにあった事が、岩槻人形が産業として発展していった要因ともいえます。
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フォト:2012年6月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-04-25 16:46 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2014年 04月 24日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/芳林寺』 di-1

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2年前、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」と銘打ち、都内をポタリングしたときのことを「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」と題し、2012年7月22日から28日にかけて全七話の連載でブログに綴った。
その年の6月には、太田道灌ゆかりの地、岩槻もポタリングしたことでもあり、「江戸の巻」第七話の末尾に「『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻』、近日公開!」と、随分と張り切って予告をしていたが、タイミングを失し、2年を経て、未だ、手付かずであった。

今月7日、「皇居乾通り一般公開」で普段は見ることの出来ない「道灌濠」を見たので、4月23日付で「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/皇居、道灌濠」を綴ったことでもあり、そしてまた、丁度、今、太田道灌ゆかりの花、山吹の咲く頃でもあるので、<蔵出し>で「岩槻の巻」を綴ってみることとしたい。

2年前、太田道灌ゆかりの地を調べた際、東京、神奈川、埼玉のゆかりの地は次の通りあった。
既に承知しているところ、訪ねたことのあるところも幾つかあるが、多くは初めてのところである。
<都内>
平川橋/追慕之碑
有楽町/東京国際フォーラム・ガラス棟/立像
不忍通り/地名標識「道灌山下」
西日暮里駅西側/道灌山跡(西日暮里公園)
日暮里駅西側/月見寺(本行寺)/道灌が築いた斥候台跡に「道灌丘之碑」
日暮里駅前/騎馬像
豊島区高田 面影橋付近/山吹の里の碑
同/山吹の里公園
新宿中央公園/久遠の像
<神奈川県>
鎌倉市/英勝寺/扇谷上杉家家宰太田道灌屋敷跡
伊勢原市/伊勢原観光道灌まつり
同市上糟屋/扇谷上杉氏糟屋館跡(産業能率大学)
同市下糟屋/大慈寺/首塚
同市上糟屋/洞昌院/胴塚
<埼玉県>
さいたま市岩槻区/(旧)岩槻区役所庁舎前/立像
同/芳林寺/騎馬像
同/岩槻城址(公園)
同/地名「太田」
川越市役所庁舎(川越城大手門跡)/立像
入間郡越生町/山吹の里歴史公園

今回の「ゆかりの地を訪ねて」は、さいたま市岩槻区である。
東武野田線岩槻駅まで輪行し、岩槻駅から芳林寺、旧岩槻市役所、岩槻城址の順に巡った。

芳林寺。
三門をくぐる。
右手の一画に立派な設えの中に騎馬像が見える。
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太田道灌騎馬像。
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柵に掲げられた説明書きに目を通す。
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岩槻城、太田道灌、芳林寺
岩槻城は室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(1457年)太田道真、道灌父子が築城したと伝えられる。
文明18年(1486年)、大田道灌が神奈川県伊勢原にあった主君上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子、太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。
そして、それらは埼玉県越生町の龍穏寺と芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。
また、芳林寺は太田三楽資正が東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男太田氏資(岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から芳林寺に改めて、母、芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々の御先祖の御霊を供養して、現代まで続いている由緒ある禅寺である。
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(筆者注)この説明書きには、太田三楽斎資正の注釈がないが、太田道灌の曾孫、氏資の父である。
各地のゆかりの地を調べている中で太田道灌に纏わる歴史もベンキョーしていたので、この説明書きを読み、芳林寺の関わりもよく分かった。

騎馬像の作者についても説明書きがある。
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この太田道灌公の騎馬武者像は、東京都葛飾区柴又在住の世界的にも著名な彫刻家である冨田憲二、山本明良両先生(彫刻工房、十方舎)の作品です。
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騎馬像の作者が二人いるということは武者姿と馬は別々に作られたと想像する。
上野公園の西郷隆盛と犬、皇居前広場の楠木正成と馬もそうであるからだが...。
これら二人の彫刻家について簡単に調べてみた。
冨田憲二(とだけんじ)。
1947年生まれ。人体彫刻、風景彫刻を経て、近年、生命の根源である「水」をテーマにに取り組んでいる。
(中略)各地の公共施設にブロンズ、石によるモニュメント作品設置。
山本明良(やまもとあきら)
1946年生まれ。  石、金属の素材を中心にした造形活動を行っている。パブリックなモニュメントからプライベイトな彫刻まで、多様な実績があり、近年では従来の墓石にはない彫刻的な墓碑にも携わっている。  
同年代の彫刻家に親しみを覚える。

騎馬像脇には復元図や絵図も掲示されており、至れり尽くせりだ。
岩槻城復元図。
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「太田道灌公築城550年記念」、「平成19年7月26日」となっている。
竹橋近くの「太田道灌公追慕之碑」も「江戸城築城550年に当たって」、「平成19年9月25日」となっていた。
岩槻城も江戸城も長禄元年(1457年)の築城で、各地で築城550年を祝ったことが窺える。

もうひとつの、岩槻城絵図。
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右上に「武州岩槻城 阿部氏在城五十九年」の文字が見える。
この阿部氏について調べてみたところ、岩槻は扇谷上杉氏から後北条氏への領国と変わり、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が降伏し、徳川家康が関東に入封後、譜代の高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、藤井松平家、小笠原家、永井家、大岡家などが岩槻城の城主となった。
この岩槻城の絵図は阿部家が入封した正保4年(1647年)の頃のものと思われる。

石標「右 日光御成街道」。
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岩槻は日光御成街道の宿場町として栄えたところでもある。

太田道灌像があるという、旧岩槻区役所へと向う。

フォト:2012年6月8日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-04-24 17:17 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2014年 04月 24日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/鎌倉の巻/英勝寺』

2年前、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」と銘打ち、都内をポタリングした。
そのときのことを「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」と題し、2012年7月22日から28日にかけて全七話の連載でブログに綴った。
今月7日、「皇居乾通り一般公開」で普段は見ることの出来ない「道灌濠」を見たので、4月23日付で「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/皇居、道灌濠」を綴った。
これを綴りながら、そういえば、鎌倉の太田道灌ゆかりの地、英勝寺を訪ねたこともあったが、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」シリーズとしてはアップロードしていないなと思い、以前、綴ったブログを紐解いてみたところ、2012年12月27日付『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/英勝寺、太田道灌』に縷々綴られていた。
流行り(???)のコピペでここに貼り付けておこう。
丸々そのままの転載だが、自前の書き物だから問題はなかろう。

quote
鎌倉五山のひとつ、北条政子と源実朝ゆかりの地、寿福寺から、太田道灌ゆかりの地、英勝寺へと向う。
向うといっても、寿福寺とは然程離れては居らず、ほぼ、隣り合わせの距離である。

浄土宗東光山英勝寺。
「太田道灌邸舊蹟」の碑。
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此ノ地ハ武略文藻兼備ヘ忝クモ武蔵野は萱原の野と聞きしかとかかる言葉の花もあるかなテフ叡感ニサエ預リタル道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ
寛永十一年今ノ英勝寺ト為ル
其ノ創立者水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ
孤鞍雨ヲ衝イテ茅茨を叩ク少女為ニ遣ル花一枝ノ詩趣アル逸話ハ道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ
大正十三年三月建之 鎌倉町青年會
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刻まれた碑文は文節の区切りがないが、読み下し易くするために筆者が勝手に文節を区切ったことを申し添えておきたい。
大正13年(1921)年に刻まれた碑文であるが、少々、難解である。
上総流に読み下してみた。
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この地は、軍略と文才を兼ね備え、「武蔵野は 萱原(かやはら)の野と聞きしかど かかる言葉の花もあるかな」と天皇からもお誉めの言葉に預かる程の人であった道灌、太田持資(幼名/鶴千代、諱/持資(もちすけ)、資長(すけなが)、法名/道灌)が、江戸城を築く前に住んでいた屋敷跡である。
寛永11年(1634年)に、現在の英勝寺となった。
英勝寺は、水戸藩の祖、徳川頼房の乳母であった英勝院によって建てられた。
その英勝院は、道灌の子孫である太田康資(やすすけ)の娘で、晩年、徳川家光から特にこの地を授り、ここに住んでいたのである。
太田道灌が一人で馬に乗り、雨の中を駈け、萱葺きの人家の前で雨具を乞うと、少女が山吹の花一枝を差し出したという故事は、この場所に住んでいた頃の逸話である。
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大好きな(???)ウィキペディアを紐解くと「徳川家康の側室で、大田道潅四代の太田康資息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、三代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した」とある。
「太田道灌邸舊蹟」の碑文がぐっと分かり易くなった。

太田家について、少し触れておきたい。
関東管領上杉氏は、幾多の変遷を辿り、山内上杉家・犬懸上杉家・宅間上杉家・扇谷上杉家に分かれた。
扇谷上杉家の家宰(家老)の職にあったのが太田道灌ならびにその父祖であり、その居をこの地に構えていたのである。
碑には「山吹の里」伝説も刻まれているが、その伝説は各地にある。
それについては、既に、マイ・ブログの2012年7月27日付「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」第6話で触れたこともあるので、ここでは割愛したい。
なお、同7月28日付第7話の末尾に「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻」近日公開!と、随分と張り切った予告をしているが、6月8日に"取材"した「岩槻の巻」は未だ手付かずとなっている。
今回の鎌倉、そして、何れ、訪れる伊勢原の道灌まつりなどと共に岩槻の巻も綴ってみたい。
フォト:2012年12月23日
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尚書きで「同7月28日付第7話の末尾に「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻」近日公開!と、随分と張り切った予告をしているが、6月8日に"取材"した「岩槻の巻」は未だ手付かずとなっている。今回の鎌倉、そして、何れ、訪れる伊勢原の道灌まつりなどと共に岩槻の巻も綴ってみたい」と記している。
鎌倉はこのブログで一先ず終わった。
伊勢原の道灌まつりはまだ訪れていない。
岩槻はタイミングを失し、お蔵入りのままとなっている。
丁度、今、太田道灌ゆかりの花、山吹の咲く季節でもある。
蔵出しで「岩槻の巻」を綴ってみることにしよう。

(鎌倉の巻/英勝寺《完》)
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by kazusanokami | 2014-04-24 00:24 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2014年 04月 23日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/皇居、道灌濠』 

今月7日、皇居乾通り一般公開で普段は見ることの出来ない「道灌濠」を眺めることが出来た。
2年前、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」と銘打ち、都内をポタリング。
そのときのことを「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」と題し、2012年7月22日から28日にかけて全七話の連載でブログに綴った。
その続きとして、今回、新たに「江戸の巻」として「道灌濠」を掲載する次第である。

皇居乾通り一般公開。
南の坂下門から北の乾門まで約750メートルの乾通りを歩く。
乾通りの中ほどを過ぎた辺りの左手に道灌濠が見えて来る。
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道灌濠は、長禄元年(1457年)、太田道灌が築いた城の外濠であったとの説があり、それが濠の名の由来となっている。
地図をみると、道灌濠は東から西向きに、そこから更に南向きに掘られた鉤型の濠である。
濠の西側は吹上御苑となっている。
皇居の中でありながら、道灌濠の辺りは木々が生い茂り、雑木林を形成し、野趣あふれる風情となっている。
道灌が築いた城は板張りの平屋作りの質素なものであったとの由にて、この濠の内側(写真の左手あたり)に平屋作りの城があったのであろうなどと想像しながら道灌濠の風景を愉しんだ。

フォト:2014年4月7日
=備考=
フォトと文章は、兄弟ブログ「龍人鳥の徒然フォト日記」/2014年4月17日付「春季皇居乾通り一般公開/其の五:道灌濠の眺め」からの抜粋である。

(江戸の巻/道灌濠《完》)
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by kazusanokami | 2014-04-23 21:57 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2012年 07月 28日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/新宿中央公園、久遠の像」 de-7

「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」

2月の面影橋「山吹之里」の碑から一足飛び。
6月の新宿中央公園「久遠の像」へ。

「久遠の像」。
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映画のカット割をイメージして、アップロードしてみた。

「山吹伝説」。
或るとき、道灌が鷹狩りに出かけた折、俄か雨に遭ってしまった。
近くの農家に駆け込み、蓑を貸してくれないかと頼んだところ、若い娘が山吹の枝を差し出した。
蓑を貸してくれと頼んだのに花の枝とは何事か、花では雨がしのげぬではないかと、内心腹立たしく思いながら、雨の中を帰っていった。
城に戻った道灌、早速、このことを家臣に語ったところ、家臣の一人が「後拾遺集に醍醐天皇の皇子 中務卿兼明親王(なかつかさきょうかねあきしんのう)の詠まれた『七重八重花は咲けども山吹のみ(実)のひとつだになきぞかなしき』との歌が御座りまする。農家の娘は『みのひとつだになきぞかなしき』と蓑ひとつない貧乏を山吹の花に例えたので御座りまする」といった。
それを聞いた道灌は己の不明を大いに恥じ、歌道に益々精進するようになった。

「山吹伝説、更なる言い伝え」。
山吹の枝を差し出した農家の娘の名は紅皿。
後に、道灌は紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたとの説もある。
道灌、亡き後、紅皿は大久保に庵を建てて尼となり、死後、その地に葬られ、大聖院(新宿6丁目)の境内にある碑は紅皿の墓ともいわれている。
また、大聖院の脇の坂は山吹坂と称されている。
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「久遠の像」は、山本豊一の作。
道灌の少し前かがみの姿を眺めていると、作者は、道灌が、後日、大いに恥じ入った気持ちを時系列を越えて織り込んでいるようにも思える。
「久遠の像」をいろんな角度から眺めていると、「山吹伝説」のドラマを見ているようである。

"現在の江戸城”、東京都庁舎。
1991年12月、築城完成、翌1992年4月1日、入城。
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東京都庁45階展望室から新宿中央公園を望む。
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園内の森の中、黄色い建物近くの「久遠の像」を心の中に描きながら、これまでに巡った「太田道灌ゆかりの地」を振り返ってみるのであった。

フォト:2012年6月18日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」 《完》

=あとがき=
「江戸の巻」を綴りながら、新たに都内おける「ゆかりの地」が幾つか見つかった。
新宿区/地名「山吹町」
新宿区6丁目/大聖院/紅皿の碑
新宿区6丁目/大聖院脇/山吹坂
荒川区/道灌山学園保育福祉専門学校
根津神社/文明年間、太田道灌が社殿を奉建。
これらは、何れ、「江戸の巻」Part II で巡ってみたい。
新宿区山吹町は走行済みなるも、地名標識の取材も兼ねて、もう一度。
根津神社は幾度も訪問済みだが、道灌ゆかりの地であることを念頭に、再び。

=予告編=
「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻」、近日公開!
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by kazusanokami | 2012-07-28 18:33 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(4)
2012年 07月 27日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/豊島区高田、山吹之里」 de-6

第5話までは、4月の江戸府内ポタリングで取材した「太田道灌ゆかりの地」を綴った。

時計の針を4月から、更に、寒い頃に戻してみたい。
今年2月、ドラポタ藩 大給守殿、武衛殿と共に、「江戸府内ポタ/中野&高田馬場」を挙行。
中野では、功運寺(吉良家江戸菩提寺)、童謡「たきび」発祥の地、新井薬師、哲学堂、妙法寺(ジョサイア・コンドル作/鉄門)などを巡った。

「今日の jitensha」、童謡「たきび」発祥の地にて。
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「今日のメンバー」、哲学堂にて。
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中野から、中山安兵衛の韋駄天よろしく、高田馬場へ疾駆。
高田馬場/水稲荷神社境内「堀部武庸加功績」の碑、甘泉園(徳川御三卿、清水家下屋敷跡)、そして、太田道灌ゆかりの地、面影橋北詰/「山吹之里」の碑を訪れたのであった。

「山吹之里」の碑。
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碑は、面影橋の北詰、オリジン電気の正門脇にひっそりと佇んでいた。
学生時代の4年間、面影橋の近くに下宿していた。
その頃、しばしばストライキをやるオリジン電気はよく承知していたが、「山吹の里の碑」の存在は全く知らなかった。
今、太田道灌ゆかりの地をめぐる中で、学生時代の頃と繋がるのもなかなか面白いものだ。

アップで。
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「〇〇三年 丙寅歳 十一月六日」、そして、家紋がふたつ刻まれている。
梵字も刻まれている。
年号は文字が潰れて判読出来ない。
ふたつの家紋について調べてみた。
太田道灌の家紋は「丸に細桔梗(太田桔梗)」であり、このふたつの家紋とは異なる。
年号と家紋の疑問は、「山吹之里の碑」に関わる説明書きによって解けることとなる。
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「山吹の里」の碑
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。
これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。
後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来、和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。
ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
平成16(2004)年3月
豊島区教育委員会
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碑は貞享三年に建立された供養塔を転用したものであった。
それがどのようにして解ったのかはこの説明書きだけでは不明なるも、家紋を手掛かりとしたのかもしれない。
碑を更に仔細に見ると、「山吹之里」と刻まれたあたりに小さい文字が刻まれていた痕跡があり、これも手掛かりになったのかもしれない。

「和漢三才図会」は寺島良安編纂による類書、云わば、江戸時代の百科事典のようなものだ。
そこに「山吹の里」がどのように書かれているのだろうかと思い、国会図書館の近代デジタルライブラリーにアクセスしてみた。
表紙は分かったが、どこに「山吹の里」のことが書かれているかまでは分からなかった。

いつも通り、「今日のポタの締め、反省会は何処でやりませうか」との話になった。
この日のポタリングは太田道灌ゆかりの地「山吹之里」で終えたのあるから、やはり、道灌ゆかりの江戸城の近く、《丸の内》の居酒屋がよかろうと、丸の内まで疾駆、否、正確には、関口芭蕉庵や凸版印刷/印刷博物館に寄り道しながら、丸の内へ向かったのであった。

フォト:2012年2月11日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-27 06:41 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(4)