『上総守が行く!』

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カテゴリ:柳田國男ゆかりの地を訪ねて( 25 )


2013年 08月 31日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-14

地蔵堂から、再び、辻川の通りに戻り、ポタリング。
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福崎町には「松岡」姓が多い。
松岡コレクション/その一。
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松岡コレクション/その二。
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松岡コレクション/その三。
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松岡コレクション/その四。
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"僕四"を止めてある「もちむぎのやかた」前の駐車場に向け、辻川の通りを走る。
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柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編。
炎天下ではあったが、しっかりと巡ることが出来た。
これを以て、柳田國男の幼年期から少年期を過ごした三ヶ所のゆかりの地、「福崎町辻川」、「利根町布川」、「我孫子市布佐」が揃った。
「福崎へ行きましょか」と誘ってくれた六々守殿に、ここで感謝、感謝、大感謝の意を述べ、「福崎編」の完結としたい。

フォト:2012年8月21日

(完)
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by kazusanokami | 2013-08-31 15:08 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2013年 08月 31日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-13

鈴ノ森神社の北、兄嫁さんの実家から、再び、辻川の通りを抜け、市川左岸の「駒ケ岩」へ向け、走る。

駒ケ岩からの眺め。
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駒ケ岩について、案内板に次の通り記されている。
-------------------------
柳田國男は、「故郷七十年」のなかで、「市川の川ぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。」と遠い昔をなつかしんで書いている。
夏になると國男少年兄弟は、この岩の上で衣を脱いで、そばの淵で水泳ぎをしたり、うなぎの枝釣りをして遊んだ。
ガタロ(河童)が出て、泳いでいるとお尻を抜かれるという話をよく聞かされたという。
この岩の上に、神馬のひずめのあとが残っていて、鈴の森明神が神馬に乗って、駒ヶ岩から古宮へ飛ばされたという言い伝えがある。
福崎町観光協会
-------------------------
駒ケ岩。
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(「駒ケ岩」そのものの写真は撮り忘れたので、某所より拝借)
岩を見たときは特段、何も見えなかったが、こうして写真をじっと見ていると、神馬の蹄の跡が見て取れるような気がする。

辻川の通りに戻り、疎水に沿って少し北へ向かうと御堂が見えて来た。
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地蔵堂。
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地蔵堂について。
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この地蔵堂は國男少年ゆかりのものであるばかりか、「大石良雄の妻りくも但馬への里帰りの時この地蔵堂で休息をして但馬へ帰ったと伝えられている」とある。
忠臣蔵、赤穂浪士を趣味とする小生にとって、ここで「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>の"取材"が出来るとは思いもせず、この記述は何とも嬉しいことであった。

フォト:2012年8月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-31 15:05 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2013年 08月 30日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-12

兄嫁の実家へ向う途中、寄り道をしてしまった。
鈴ノ森神社の西側を北へ走る。

柳田國男は、自著「故郷七十年」の中で「兄嫁の思い出」と題し、兄嫁のことについて次の通り述べている
-----------------------
子供のころのことで、いまもしきりに思い出されるのは、長兄の許に嫁いで、母との折合いが悪く実家に帰った兄嫁のことである。
北野の皐(おか)という医者の家であったが、その前に夏になると美しく蓮の花の咲く大きな池があった。
辻川の灌漑用の貯水池であったが、ある冬の日、二、三人の友人たちとともにそこで氷滑りをして遊んだ。
子供のことで気がつかなかったが、池の中心の方は氷が薄くなっていた。
家を出された兄嫁は土堤からみつめていたのであろう。
忘れもしない、筒っぽの着物を着て、黒襟をつけた兄嫁は、いきなり家から飛び出して来て私を横抱きにすると、家へ連れていったものである。
実家に帰っても姉弟の情愛があったものであろう。
私はいつも帰郷するたびにそのことを思い出し、一度は昔の情愛を述べようと、再婚先の伊勢和山の寺を訪ねたことがある。
兄嫁は折悪しく留守で、その機を失してしまったことが、いまも悔やまれる。
------------------------
長兄、鼎が結婚したのは20歳のときである。
長兄と國男は15歳違いなので、國男5歳のときである。
長兄は21歳のとき、小学校の校長を辞し、東京帝国大学(現・東京大学)医学部別科に入学し、医学を学んだ後、26歳のとき、茨城県北相馬郡布川村(現・利根町布川)にて開業し、暫らくして、國男を引き取った。
兄嫁がいつ実家に戻ったのかは不詳ながら、長兄が故郷を離れた頃から推し測ると、國男はまだ5、6歳の頃のことであったと思われる。

「故郷七十年」に掲載されている写真(撮影は昭和50年頃で、当時のものではない)では、兄嫁の実家や溜め池周辺はこんな感じである。
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それと思しき溜め池に至る。
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山の位置などから、この溜め池であることは間違いない。
兄嫁さんの実家はまだ残っているのだろうか。
実家があったと思われる場所へ jtensha を走らせる。
こういう探索のときは jitensha が大いに役立つ。
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家屋は新しく建て替えられているが、古い門柱と思われるものが見られる。
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表札を拝見する。
「皐」さんである。
兄嫁さんの実家に間違いない。
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他所様のお宅を写真に撮るなど許されることではないと重々理解し居るも、ここは國男少年にとり、大変大事なところであり、ご容赦願う次第だ。

柳田國男にとって、兄嫁との離別は民俗学を志すに至る大きな要素になっていると言ってもよいのではないだろうか。
即ち、
「日本一小さな家」でなかったら、兄嫁と離別することはなかったであろう。
となると、長兄、鼎も茨城県北相馬郡布川村(現・利根町布川)に移り住むことはなかったかもしれない。
となると、國男少年も布川に移り住むこともなかった。
となると、布川の小川家の蔵書を濫読することもなく、小川家の氏神の玉で神秘体験をすることもなかったし、満徳寺で水子絵馬を見ることもなかったことになる。
となると、民俗学に芽生える機会はなかったことになる。
歴史にも人の人生にも「たられば」はないのではあるが、そう思う次第だ。
兄嫁さんの実家に続く山や田園風景を眺めながら、然様な思いに耽るのであった。
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フォト:2012年8月21日(フォト#1/2013年8月30日)

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-30 19:08 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2013年 08月 30日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-11

第10話では秋の鈴ノ森神社の様子を綴った。
再び、夏に戻り、第9話から続きを綴ることとしたい。

國男が遊んだといわれる鈴ノ森神社をあとにして、「もちむぎのやかた」前に駐輪していた愛馬二騎に跨り、次の探訪先へ。
次の探訪先は、離別した兄嫁の実家である。
場所は定かではないが、多分、鈴ノ森神社の北の方であろうとの想像し、鈴ノ森神社の西側を北へ向う。
愛馬を止めて、鳥居を眺める。
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鳥居の向こうにある石柱に刻まれた文字を見る。
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向って右、「奉 松岡 鼎」。
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向って左、「納 柳田國男」。
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ふたつの柱の「奉」と「納」を合わせて「奉納」の文字となる。
奉納がなされた日は見損ねたが、國男が柳田家の養嗣子として入籍したのは1901年(明治34年)のことであるから、奉納はそれ以降となる。
生まれ故郷の福崎を去ったのちも故郷をいつも思い続けていたことがこの石柱からも窺える。

兄嫁の実家へ向う途中、寄り道をしてしまった。
鈴ノ森神社の西側を北へ走る。

フォト:2012年8月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-30 19:07 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2013年 08月 30日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-10

第8、9話で昨年8月21日に訪れた際の鈴ノ森神社と狛犬やヤマモモのことについて綴って来たが、同年10月3日に再び"取材"の機会を得たので、このときのことを少々綴っておきたい。

越知谷でのプチ別荘遊びの帰り、昼餉は「もちむぎ麺」にしようということになった。
「もちむぎのやかた」に到着したところ、この日は水曜日でレストランの定休日。
8月に続いて、またまた、もちむぎ麺は先送りとなってしまった。
折角、ここまで来たので、同行の御典医殿と六々守殿に「ちょっと、待っててね」と言い残し、鈴ノ森神社へ。
8月に訪れた際は暑さで集中力欠如となっていたので、今一度、ヤマモモの木をじっくりと眺めてみたかったのである。

神社西側の参道から境内へ向う。
右、鳥居をくぐると石段へ/左、坂道の参道。
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参道の坂道を上り切ったところから社殿を眺める。
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狛犬とヤマモモ。
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8月に続いて、今一度、「やまももの木」の案内板に目を通す。
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「樹齢約壱千年、木の周り 2m40cm、1m70cm」。
ヤマモモの裏手へ回って、幹を眺める。
二股、そして、その向こうに、阿形、吽形の狛犬が見える。
いいアングルだ。
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参道を下る。
参道入り口で、幟旗が秋の風に吹かれている。
足元の低い木立には紅葉も。
秋の祭礼も近いようだ。
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これが昨年の10月3日の様子であった。
再び、昨年の8月21日に戻ることにしよう。

フォト:2012年10月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-30 01:43 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(0)
2013年 08月 30日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-9

鈴の森神社境内の「やまもも」の大樹を眺める。
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柳田國男は自著「故郷七十年」の中で「鈴の森神社」と題して次のように綴っている。
-----------------------------
氏神の鈴の森神社があり、大きなやまものの樹があった。
またを明神様ともいい、村人は赤ん坊が生まれると、みなその氏神に詣でて小豆飯を供えていた。
その余りを一箸ずつ、集まって来た子供たちのさし出す掌の上にのせるのがならわしであり、村の童たちの楽しみでもあった。
前もって、その日を知って、童たちは神社へ集まってくるのであった。
母親が「よろしくお願いしますよ」といいながら呉れる一箸の赤飯に、私は掌を出したことはなかった。
親に叱られるからである。
私は後年この氏神様を偲んで、こんな歌を作ったことがある。
   うぶすなの森のやまもも高麗犬は懐かしきかなもの言はねども
-----------------------------
案内版には、この歌と共に、兄、井上通泰の歌も。
そして、國男のやまももに纏わる逸話も。
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茨城県利根町の柳田國男記念公苑の庭にもやまももが植えられている。
柳田國男とやまももは切っても切れないものとなっている。
因みに、小生の切っても切れない樹木はオリーブの木であるが、これについて語り出すと長くなり、本論から外れてしまうので、ここでは控えたい。

フォト:2012年8月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-30 00:38 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2013年 08月 29日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-8

柳田國男・松岡家記念館、歴史民俗資料館(旧福崎郡役所)を見学し、「やまもものみち」を抜けて、鈴ノ森神社へ。
案内板などは「鈴の森神社」となっているが、社殿の扁額は「鈴ノ森神社」となっており、ここからは「の」と「ノ」を併用することにしたい。

社殿横の小径「やまもものみち」から境内に入ったのだが、ブログの体裁上、後で撮った社殿に向う石段、そして、社殿の順でアップロードしておこう(楽屋裏の話ではあるが...)。

石段。
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境内。
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國男少年は鈴ノ森神社の境内でよく遊んだという。
狛犬に乗ってよく遊んだともいう。
石段を上り切ったところに鎮座する狛犬。
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更にアップで。
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社殿前にも狛犬が鎮座。
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ひょんなことから、昨年1月から狛犬コレクションを始めた。
鈴ノ森神社でも、これら二対の狛犬をあらゆる角度から撮り捲った。
しかし、本編は國男少年が狛犬に乗って遊んだということが主で、コレクションは従なので、狛犬写真はこれくらいで収めておきたい。

社殿。
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鈴ノ森神社について。
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境内で遊ぶ國男少年、否、境内で写真撮影に興じる六々少年。
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撮れ具合をチェック中。
=筆者注=
本当はウンチング・スタイルでの撮影姿を激写するつもりであったが、そのタイミングを失し、立ち上がってしまったの図になってしまったんです。
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さあ、次は、いよいよ、やまももだ。

フォト:2012年8月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-29 15:58 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2013年 08月 28日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-7

柳田國男・松岡家記念館の脇を奥へ進む。
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神崎郡歴史民俗資料館(旧神崎郡役所)。
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ここにも柳田國男がランタン姿で。
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旧神崎郡役所について。
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辻川道北に在りた頃の、神崎郡役所の姿(「辻川界隈」案内板より)。
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「上総さん、赤い郵便ポストと一緒に記念写真を一枚」。
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(「maruchanchiの写真日記 Part II」/2012年8月21日付より拝借)

さあ、次は「やまもも」。
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柳田國男記念公苑(茨城県利根町)の庭でヤマモモを見たことや「故郷七十年」を読んでから、ずっと楽しみにしていたのが鈴の森神社の「やまもも」なのである。

フォト:2012年8月21日
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by kazusanokami | 2013-08-28 05:01 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2013年 08月 27日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-6

生家の東隣の、福崎町立柳田國男・松岡家記念館に立ち寄る。
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(記念館の外観写真を撮り忘れたので、某所から拝借。館内は撮影禁止。)

松岡家は8人兄弟であったが、3人は夭逝。
世にいう「松岡五兄弟」、「松岡五英才」を顕彰する記念館である。
五兄弟のプロフィール(記念館HPからの抜粋)と上総なりの知ったかぶり補足を綴っておこう。

長男、松岡鼎。
万延元年生まれ。
故郷の小学校の校長となるも、後に帝国大学医科大学に学び、医師となり、茨城県利根町で開業し、更に千葉県布佐町に居移り住んだ。
千葉県会議員、布佐町長等になり、長く地方自治に貢献するとともに、幼い弟たちを引き取り、後年の大樹へと養い育てた。
昭和9年75歳で没。

三男、井上 通泰。
慶応2年生れ。
後に、田原村吉田の医師井上碩平の養子となる。
帝国大学医科大学に学び、眼科医となる。
史学に造詣深く、歌人としても有名。
宮中顧問官、貴族院議員、帝国芸術院会員、御歌所寄人等に任ぜらる。
万葉集新考、播磨国風土記新考等著書多数。
昭和16年76歳で没。

六男、柳田國男。
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(「もちむぎのやかた」にて撮影)
明治8年生まれ。
東京帝国大学を卒業後、農商務省に入り,法制局参事官を経て、貴族院書記官長となった。
明治34年,27歳のときに柳田家の養子となり柳田姓になった。
大正8年45歳で官を辞した後、民間にあって研究に専念し、庶民の生活のなかに生き続ける信仰、習慣、伝承、儀礼、行事をたずねて全国を歩き,「民間伝承」「郷土研究」などによって後進を指導し,日本民俗学を創始した。
多方面にわたる著作は100点を越え,その業績は海外でも高い評価を受けている。
文化勲章を受け,福崎町名誉町民町民第1号も授与。
昭和37年88歳で没。

七男、松岡静雄。
明治11年生まれ。
海軍兵学校を出て、海軍軍令部に出仕。
海軍きっての言語学者であったが、病気のため海軍大佐のとき退官。
退官後は言語学の研究につとめ、『日本古語大辞典』、『マーシャル語の研究』、『紀記論究』等を著わして、古語と言語学の研究に大きく貢献した。
昭和11年59歳で没。

八男、松岡輝夫。
明治14年生まれ。
映丘と号し,東京美術学校日本画科を首席で卒業し、後に母校の教授となり,帝展審査員もつとめた。
映丘は生涯を大和絵の復興に捧げたが,有職故実(朝廷や公家の礼式や年中行事などの先例)の造詣が深く、また、長く教職にあって、門下から杉山寧、橋本明治、山本岳人、高山辰雄ら多くの俊秀を育てた。
代表作として、「伊香保の沼」、「宇治の宮の姫君たち」、「住吉詣]、「道成寺」、「右大臣実朝」、「矢表」等があある。
昭和13年58歳で没。

以上は記念館のホームページからの抜粋である。
昨年、綴った「利根町編、我孫子市編」の中で触れたことと、一部、重なることもあるが、上総なりの補足を記しておきたい。

長男、鼎について。
この長兄なくして、これらの兄弟の成功はなかったであろう。
長男が兄弟の面倒を見る。小生は、極々近しい人をはじめそういう人を何人か見て来ており、それらの人を鼎と重ね合わせるのである。
ポタリングコースのひとつである利根川に架かる「栄橋」は、鼎が布佐町長時代に架けられた橋といわれている。
地元の人から聞いた話では、その橋は現在の橋の少し下流に架かっていたとのことで、それまでは渡し舟だったとのことである。

八男、輝夫について。
雅号の「映丘」は、兄、井上通泰が名付けたとのこと。
「映丘」の読みは「えいきゅう」であるが、本名の「てるお」を文字って考えられた号であるとのこと。
後年、「日本一小さな家」を描いた。
兄弟からそんなにr立派な家ではなかったといわれたとき、自分は幼かったのでよく覚えていないから、立派な家になってしまうんだと答えたそうだ。
「伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて」の調べごとの際に知ったことだが、我々がよく目にする間宮林蔵の肖像画(測量具を手にした立ち姿)は松岡映丘の作である。
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(松岡映丘「間宮林蔵肖像」(1910年画)、某サイトより拝借)

五兄弟は随分と仲がよかったようである。
柳田國男記念公苑(茨城県利根町)に掲げられている写真の中に、國男が海外出張に出掛ける前に、五兄弟が料亭に集まっての壮行会の写真がある。
写真に写る並びは長幼の礼をわきまえながらも和やかな雰囲気であった。
殊に、三歳違いだったこともあって、國男、静雄、照夫の末弟三兄弟はよく一緒に遊んだようである。
「故郷七十年」では「兄弟のこと」と題する記述もある。

記念館で、「水木しげるの遠野物語」(原作 柳田國男)を購う。
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福崎町の河童のキャラクター、「ふくちゃん」と「さきちゃん」。
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遠野を意識しての河童なのであろうか。

小生が遠野を訪れたのは2006年であった。
そのときは「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」の意識は朧げにしかなかった。
「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」として、今一度、遠野をゆっくりと訪れてみたいものだ。
河童捕獲許可証の有効期限はとっくの昔に切れてしまっているし...。

「上総さん、記念写真を一枚」。
記念館前にて。
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(「maruchanchiの写真日記 Part II」/2012年8月21日付より拝借)
柳田國男風に口ひげをたくわえて、学者風に(似非学者風、アリアリだけれど...)。
本編を綴っている今は、口ひげは剃ってしまっているが、遠野を訪れる際には、また、生やしおくことにしよう。

フォト:2012年8月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-27 09:29 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2013年 08月 26日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎町編』 ykf-5

「日本一小さな家」。
後年、柳田國男は生家を自らこう呼んだ。
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第一回柳田國男ゆかりサミット開催記念/寄贈 岩手県遠野市。
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第三回柳田國男ゆかりサミット開催記念。
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「くにおはん」。
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-------------------------
柳田國男生家(県指定文化財)。
この家はもとここから8kmほど北の福本というところにあって老医師が住んでいたものを、國男らの父が明治6年(1972年)に買い取って、辻川(ここから100mほど南で「柳田國男生誕」の石碑の建っている場所の裏手)へもって来て建てたものである。
間口五間半(約10m)、この辺りの農家の標準的な間取りである田の字型の建て方で、四畳半ふたつ、三畳ふたつの、小さいが、きっちりとした形の家である。
この家について、國男は「故郷七十年」の中で「私の家は日本一小さな家だ」といい、しかも「この家の小ささという運命から、私の民俗学への志の源を発したといってよいのである」と書いている。
当時、ここには國男等の両親と國男の長兄鼎夫婦、國男、弟の静雄と輝夫(後の松岡映丘)の七人が住んでいた。
この家で二夫婦と子供等が共に暮らすには何かと無理があった。
そして、そのために、後に鼎の若い妻は離別して実家へ帰ってしまったが、それが遂には松岡家がこの家を売り払い、國男等の母の実家である加西市北条町へ移り、次いで、茨城県利根町、そして、千葉県布佐に移住する原因となった。
柳田國男の民俗学への研究の底には、常に、この家、この土地(辻川)があった。
(説明書き抜粋+上総、一部補足)
----------------------------

フォト:2012年8月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-08-26 18:48 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)