『上総守が行く!』

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カテゴリ:天空ポタ/究極の下りま専科( 39 )


2013年 10月 24日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<長野~小布施市中めぐりの巻(5> tp-39

小布施市中めぐり。
「南国さん、駅前でゲットした観光マップによれば、松川右岸から千曲川右岸にかけてサイクリングロードがあるようですね」。
「それを走ってみませう」。
浄光寺から南へ走り、松川サイクリングロードへ。

松川は、長野県上高井郡高山村にその源を発し、最下流で須坂市と小布施町の境界を流れ、千曲川に合流する川だ。
岩松院/福島正則霊廟の説明書きに「福島正則は松川の治水事業などに取り組んだ」とあった、その松川である。

松川に架かる雁田橋の袂に至る。
川沿いのサイクリングロードは見当たらない。
駅前でゲットした観光マップをよく見ると破線になっている。
サイクリングロードは計画半ばなのであろう。
折角だから、橋の上から松川の流れと東方の山々を眺める。
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後ほど、千曲川河川公園でベンキョーして分かったことだが、前方の山は、左/飯綱山(1917m)、右/戸隠連山(1911m)である。

一般道を走り、ひとつ川下の松川橋に出て、サイクリングロードに入る。
川上の山々と南国守殿。
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川下に向って。
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松川に架かる長野電鉄鉄橋。
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松川沿いのサイクリングロードはこの鉄橋のところで行き止まり。
迂回路に入り、長野電鉄高架をくぐる。
ここで、今日の jitensha を一枚。
愛馬二頭をこっち向きにして。
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線路脇に咲くコスモスが季節を感じさせる。

松川沿いから外れ、林の中の道を走る。
知らない道を走るのは楽しいものだ。
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一般道に出る。
「松川 須坂市」の標識をカメラに収める。
未完成の松川サイクリングロード走行記念として。
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更に一般道を走る。
上越自動車道が見えて来た。
秋の青空、秋の雲が心地好い。
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上越自動車道をくぐり、千曲川サイクリングロードへ。
千曲川の河川敷は川が見えないくらいに広い。
先ほど、雁田橋から眺めた山々(飯綱山、戸隠連山)がより近く見える。
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河川敷は一面、果樹園だ。
リンゴ畑に加え、クリ畑も。
小布施のキーワードのひとつ、「栗」の登場だ。
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千曲川サイクリングロードをどんどん北へ走る。
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小布施橋に至る。
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「日本海(新潟河口)まで208km」。
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このまま走って行きたい気持ちに駆られる。

橋の姿を三点セットで。
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千曲川河川公園で実際の山の姿と見比べながら、山の名をベンキョー(先ほどの雁田橋から眺めた山の名はここでベンキョーしました)。
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見辛いので、書き下し。
左から、飯綱山(1917m)、戸隠連山(1911m)、黒姫山(2053m)、妙高山(2446m)、斑尾山(1382m)。

「12時を回りましたね」。
「昼餉にしませう」。
「では、岩松院前の土産物屋で教えて貰った栗おこわの店へ」。
再び、上越自動車をくぐり、町へ。
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桜井甘精堂/泉石亭。
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桜井甘精堂さんは、結構、手広くやっておられるようだ。
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店に入る。
ウィークデーながら、盛況。
10組くらいが待ち席に座っている。
我らも待つ。
丁度、待ち席のガラス越しに、蕎麦打ちが始まった。
これを眺めていれば、待ち時間を潰すのに丁度よい。
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そうこうしているうちに席に案内される。
注文した料理が登場する。
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わっぱの蓋を取る。
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栗おこわが登場する。

これにて、小生の頭の中にある小布施のキーワード、「岩松院」、「福島正則」、「葛飾北斎」、「小林一茶」、「高井鴻山」、「栗」は全て達成したのであった。
斯くして、無事、信濃の旅を終えたのであったと申したきところながら、店を出て、愛馬を動かそうとしたところ、前輪がパンクしていたのであった。
あと行程は全て輪行なので、修理することなく、駅までの数百メートルを、愛馬を担いで行った。
パンクはアンラッキーながら、最後の最後でのパンクは不幸中の幸いであった。
これも、乗鞍本宮さん、善光寺さん、岩松院さん、浄光寺さんのご加護と感謝するのであった。
斯くして、「乗鞍岳/究極の下りま専科」をメイン・イベントとする、乗鞍、松本、長野、小布施の旅を終え、輪行にて、小布施から長野、松本を経由して、無事、帰館したのであった。

ポタリングは一粒で三度美味しい。
企画と実行で一度目と二度目の美味しさを味わい、続いて、39話に亘る連載ブログで三度目の美味しさも随分と味わった。
最後になったが、旅の仲間に感謝の意を表し(最終話、第39話で「サンキュー」の意も)、この連載を終えたい。

フォト:2013年9月10日

(完)
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by kazusanokami | 2013-10-24 12:39 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 24日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<長野~小布施市中めぐりの巻(5)> tp-38

小布施市中めぐり。
岩松院から南へ走り、浄光寺へ。

浄光寺。
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標柱には「重要文化財 浄光寺薬師堂 薬師堂は応永15年(1408年)の建立である。形式、手法は信濃における室町初期の代表的な仏堂で、文化史上、きわめて重要な意義を持つ」とある。

山門。
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山門を抜ける。
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特徴のある石段と思い、カメラに収める。
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石段の脇に何やら説明書きがある。
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雁田薬師七不思議、その四
参道石段は自然石で一見雑然としていますが、下の方から体を低くして見上げると石段の鼻先が一直線に揃っており、何百年もこのままです。
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説明書きの通り、体を低くして石段を眺めてみる。
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なるほど!石段の鼻先は、ほぼ、一直線である。
数ヶ月前、池上本門寺を訪ねた際、参道の石段は加藤清正が寄進したものであると知った。
また、今回の善光寺参りで、参道の敷石は腰村西光寺住職単求の寄進や江戸中橋上槙町の大竹屋平兵衛なる人物の寄進によるものであると知った。
寺社は建物のみならず、参道や石段も大事なものであることを再認識した。

説明書きは何でも読んでみるものだなあ、説明書きを読んでいなければ、ただの凹凸の激しい石段だなあと思いながら上るだけであったろうなあと思いながら、味わい深い凹凸の石段を上る。
一茶の句碑がある。
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小布施のキーワードのひとつ、「栗」が出て来た。
「薬礼というのは薬代のことですな」。
「猿は何の薬を貰ったのでせうかな」。
「栗をお金に見立てるとは、一茶らしいですな」。
句碑の形が大栗に見えて来たのは気のせいだろうか...。

薬師堂。
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南国守殿は般若心経を唱える。

石段を下る。
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今一度、門前の説明書きに目を通し、"復習"してみる。
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重要文化財 浄光寺薬師堂
明治40年8月26日指定
桁行三間、梁間四間、単層、屋根入母屋造茅葺
昭和21年、修理の際、発見された墨書きにより、この薬師堂は室町時代始めの応永15年(1408年)に建てられたことが明らかになった。
各木鼻の巻きこみの多い渦紋はこの時代の特徴を現し、内部の内外陣、天井と外廻りを化粧屋根裏とした構架、板壁にのこる極彩色仏画、内陣柱上の斗栱(ときょう)など、各部の手法は優秀で、室町時代初期における代表的な仏堂である。建立が明らかとな り、国の重要文化財に指定されています。
茅葺き屋根の入り母屋造りで、天下屈指の最優秀作といわれる蟇股(かえるまた)や巻き込み渦文の多い木鼻、外陣天 井を化粧屋根裏とした手法等にすばらしい技術が見られ、特に板壁に残る極彩色の仏画、内陣柱上の斗供(ときょう)などは優秀で室町時代初期の代表的な建築 と高い評価をいただいております。
昭和50年2月1日
文化庁
長野県教育委員会
小布施町教育委員会
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2007年に茅葺屋根の総葺き替え工事が行われ、その翌年、薬師堂は建立満600年を迎えた。
薬師堂での貼り紙「薬師堂建立満六百年」は2008年のときのことであったのだ。

お固い話の次は柔らかい(???)話を。
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だいす樹 
daisuki
この樹の名前は花桃(はなもも)。
春には毎年、濃いピンクの花を咲かせ多くの人がこの地を訪れます。
そんな花桃の花言葉は「恋のとりこ」。
恋愛成就の寺として知られる浄光寺のこの花桃は「だいす樹」と名前が付いています。
花桃と同じピンクの絵馬を「だいす樹」に結んでみませんか
。あなたの想いが満開に咲きますように。
絵馬は売店・山門にございます。1枚500円
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国の重要文化財「薬師堂」と縁結び「だいす樹」、このギャップと商魂の逞しさがなかなかよろしい。
ワタシ的には、石段と一茶の句が楽しめた浄光寺であった。

フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-24 07:32 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 23日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<長野~小布施市中めぐりの巻(4)> tp-37

岩松院。
本堂の天井画「八方睨みの鳳凰図」や裏庭の「蛙合戦の池」と一茶の句碑を巡り、「福島正則霊廟」へと向う。
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境内の墓地につづく門をくぐる。
前方の高台に福島正則廟所が建立されている。
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福島正則公霊廟。
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「奉納 三百八十年忌」とある。
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福島正則の没年は1624年(寛永元年)。
三百八十年忌は2004年に催されたのであろう。
「奉納 三百八十年忌」の文字の上に「五七桐」の桐花紋が見られる。
「五七桐」は豊臣家の家紋でもある。
福島正則は賤ヶ岳の七本槍の一人でもあり、豊臣秀吉から「五七桐」を授かったのかと思うも、先ほど、本堂でも「五七桐」を見たことでもあり、これは岩松院自身の紋であろうと思った。
本堂で見た「五七桐」。
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後日、調べたところ、福島家の家紋は「沢瀉 (おもだか) 」であった。
家紋「沢瀉 」。
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家紋「沢瀉」の由来。
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日本十大家紋のひとつ。
福島正則が使用したことで知られる。
豊臣秀次も旗印に用いていた。
オモダカは水田や湿地に自生する水生植物。愛らしい花が咲く。
「勝ち草」として縁起がいい、葉の形が矢ジリに似ているなどの理由から、家紋に好んで使用された。
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「沢瀉」で因縁めいた話を思い出した。
それは後ほど述べることとしたい。

高台の霊廟から小布施の市中を眺める。
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遠く、連山を眺める。
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雁田山の山頂にあり、小布施を城下とする雁田城は、その築城年代や築城者などの詳細は不明であるが、戦国時代以前の城主には狩田氏や荻野氏の名が見られ、麓の福島正則廟所のある岩松院は、以前は土豪(荻野氏)の居館であったという。
この眺めからして、萩野氏の居館があったことは頷ける。

ここで、福島正則について少々触れておきたい。
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小布施町史跡
福島正則公霊廟
福島正則は尾張国二ツ寺村(愛知県美和町)に生まれ、加藤清正と共に豊臣秀吉子飼いの武将として活躍。
関ケ原の戦いでは徳川家康に味方し、安芸・備後二国で49万8千余石を領する大大名となった。
元和5年(1619年)、広島城の石垣修築が武家御法度に触れたとして、信州川中島の内2万石、越後魚沼群2万5千石、計4万5千石に減封となった。
このときの城明け渡しは、後世に伝えられるほど見事であった。
高井野村(高山村堀之内)に屋敷を構えた正則は、松川の治水事業などに取り組んだが、寛永元年(1624年)7月13日、64歳でこの世を去った。
その際、幕府検死役を待たずに遺体を火葬したとして領地は没収された。
正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号をつけた。
墓の高さ2.5メートルの五輪塔、台石に「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と刻まれている。
小布施町教育委員会
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「正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号をつけた」とある。
第36話で、京都・妙心寺法堂の狩野探幽作「八方睨みの龍」に触れたが、妙心寺の山内塔頭のひとつである「海福院」は 福島正則の開基で、公家町尻家(福島正則縁者)の菩提寺となっている。
妙心寺も岩松院、どちらも「海福」である。
「海福」は福島正則が好んだ名であったのかもしれない。

広島城の石垣修築が武家御法度に触れたとして、安芸・備後の大大名から信越地方の小大名に転封となったが、これには徳川秀忠とその側近による謀略など諸説ある。
この安芸・備後国福島藩取り潰しにより浪人となった藩士の労苦を描いた小説が滝口康彦著「異聞浪人記」である。
ストーリーは「太平の世の江戸時代、庭先に押しかけ自ら切腹を迫り金銭を強請る『狂言切腹』が流行っていた。そんな時期、名門井伊家に切腹を願い出た侍が井伊家家臣に無残な扱いを受けて...」というものである。
この小説を原作として映画化されたのが、「切腹」(1962年、松竹作品)と「一命」(2011年、松竹配給)である。

これら二つの映画比較論を述べたことがあったが、それはここでは割愛するとし、前述の家紋の話題の中で「『沢瀉(おもだか)』で因縁めいた話を思い出した。それは後ほど述べることとしたい」と記したことでもあり、それをここで綴ってみたい。
映画「切腹」では丹波哲郎が演じ、映画「一命」では青木崇高が演じた井伊家家臣の名は「沢潟彦九郎(おもだかひこくろう)」。
この沢潟彦九郎は相当に陰険な性格。
作者、滝口康彦の意図は、井伊家家臣の名を福島家の家紋の「沢潟」とし、福島家 vs 幕府に近しい井伊家の構図とし、幕府に復讐を果たすということであったのかもしれない(考えすぎか?)。

戦国武将、福島正則の生涯は波乱万丈。
小布施の地でこのように手厚くされていることを見聞し、観音像を眺めながら、何故か、ほっとするのであった。
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岩松院前の「おぶせの物産館 味の文化茶屋」に立ち寄る。
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リンゴのソフトクリームを頂戴する。
荷物にならない程度の小振りの土産、塩屋櫻井の「栗らくがん」を購う。
「お昼は何がお奨めでせうか」と店のひとに尋ねる。
「小布施といえば、やはり、栗おこわですね」。
ここで、ようやく、小布施のキーワードのひとつ、「栗」が出て来た。
「お奨めの店は?」
地図で教えて貰った。

北斎画、蛙合戦の池、福島正則霊廟の岩松院をあとにして、南に走り、浄光寺へと向う。

フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-23 12:17 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 23日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<長野~小布施市中めぐりの巻(3)> tp-36

岩松院。
仁王門を抜け、本堂へ向う。
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本堂に掲げられた山号の扁額。
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岩松院は、長野県上高井郡小布施町雁田にある曹洞宗の寺院。
山号は梅洞山。
本尊は釈迦如来。
1472年(文明4年)雁田城主荻野備後守常倫の開基で、不琢玄珪禅師が開山となった。

本堂に入る。
幾つか、長椅子が置かれている。
長椅子に寝転がってよいものやら?と思うも、来訪者は我ら二人のみ。
ちょっと失礼して、長椅子に仰向けに寝転がり、天井画を眺める。
葛飾北斎「八方睨みの鳳凰」。
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(本堂内は撮影禁止にて、写真は某サイトより借用)
堂内の説明書きに目を通す。
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本堂中央(大間)の天井に描かれている鳳凰図は、葛飾北斎88歳から89歳にかけての作品といわれています。
北斎は83歳を初めとして小布施に4回訪れており、4回目の滞在約1年をかけて大間天井に鳳凰図を描きました。
翌年江戸に戻り、90歳で亡くなっています。
大きさは畳21畳。
作成から160年以上たっていますが、塗り替えは一度も行っておりません。
朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍など顔料を膠水で溶いた絵具で彩色されており、周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね金箔の砂子が蒔かれています。
制作時の痕跡として、絵皿の跡が残っています。
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「上総さん、これは北斎が88歳から89歳のときに描いたとなっていますが、そんな年齢でこれを描くのは無理じゃないかな。北斎は指導しただけで、弟子が描いたのかもしれませんね」。
「まあ、そういうことはあり得ますね。でも、今日のところは北斎が描いたということにしておきましょ」。

南国守殿の言葉が引っ掛かる。
あれこれと推測してみた。
この日の朝、善光寺で高村光雲、米原雲海師弟の作である仁王像を見た。
それをヒントに、葛飾北斎と高井鴻山の合作ではないかと推測する。
ウィキペディアを参照してみた。
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北斎83歳のとき、初めて、小布施の高井鴻山(当時、37歳)のもとを訪れた。
このとき、鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門した。
北斎はこの時、一年余りも鴻山邸に滞在したという。
鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合った。
そして、1848年(弘化5年)、北斎(89歳)は、四度目の小布施来訪時、岩松院の天井絵を完成させている。
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岩松院の八方睨み鳳凰図は、葛飾北斎、高井光雲の師弟による合作を説を唱えてみたいという思いに至った。

境内で八方睨みの鳳凰に関わるこんな言葉に出遭った。
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まことに結構な言葉である。
龍の蒐集家として、京都・妙心寺法堂の狩野探幽作「八方睨みの龍」など数々の雲龍図の天井画を見て来たが、このように「八方睨みのほとけさま...」という言葉が出るのは、龍ではなく、鳳凰であるからかもしれない。

本堂の裏廊下から遠目に「蛙合戦の池」と一茶の句碑を眺める。
本堂内の説明書きに目を通す。
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春の花見が終わる頃になると、裏庭の小さい池に大人の手のひら大のアズマヒキガエルがいずこともなく集って来ます。
メスが産卵するのをオスが手伝う為ですが、メスが少ない為に奪い合いとなって合戦となります。
1年の内の約5日間、昼夜の別なく、数十匹の蛙が入れ替わりくくみ声をあげての戦いは静かな山寺の春の風情となっています。
産卵から50日すると産み落とされた卵は小豆大の子蛙に成長し、また、いずこともなく消えていくのです。
3年から5年で卵が産めるようになり、またこの池に産卵に下りてきます。
そのため「必ずかえる」、福蛙とも呼ばれています。
アズマヒキガエルとは、ニホンヒキガエルと亜種の関係。
西日本に住むガマ蛙がニホンヒキガエル、東日本に住むガマ蛙がアズマヒキガエルと分けられているそうです。
アズマヒキガエルのほうが身体は小さいようです。
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俳人・小林一茶は文化13年(1816年)4月20日に当寺を訪れ、オス蛙が数の少ないメス蛙を取り合っている様を見て、「痩せかえる 負けるな一茶 これにあり」と詠んだといわれています。
当寺にはその句碑がたっています。
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本堂を出て、裏庭に回り、「蛙合戦の池」と一茶の句碑を眺める。
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「蛙合戦の池」。
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蛙の声はきこえない。
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蛙の泳ぐ姿も今はない。
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春が待たれる池なのである。

一茶句碑。
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「痩せかえる 負けるな一茶 これにあり」。
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詳しいことはここでは割愛するが、この句には、岩松院の蛙合戦の池のほか、諸説あるということだけ申し添えておこう。

案内標識に従い、「福島正則公霊廟」へと進む。
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フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-23 09:16 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 22日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<長野~小布施市中めぐりの巻(2)> tp-35

小布施駅から岩松院に向う。
道の両側にりんご畑が広がっている。
手を伸ばせば直ぐに取れるようなところにたわわに実っている。
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「南国さん、『奇跡のりんご』の映画、観ました?」。
「観ました、観ました。感動しました」。
「リンゴ栽培は日本中に広まったけど、病害虫に弱いということで、青森県や長野県にしか、りんご農家は残らなかったんですね。青森県や長野県の農家は立派なものです」。
「あれは青森県の話だけど、ここ信州でもリンゴ畑の下草は残してありますね」。
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映画「奇跡のりんご」は、不可能と言われたリンゴの無農薬栽培に取り組み続けたりんご農家の木村秋則さんの実話を映画化したドラマである。
リンゴの生産量日本一は青森県で全国生産量の約50%、第二位は長野県で全国の生産量の約20%、両県で日本の生産量の約70%を担っているのだから凄いものだ。

りんご畑に混じってぶどう畑も散在する。
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小布施のキーワードのひとつ、「栗」はまだ登場しない。

当然のことながら、♪ 赤いりんごに 唇寄せて~ ♪ と口ずさみながら、岩松院に到着。
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仁王門。
阿形像。
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吽形像。
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えらく可愛らしい仁王像である。
時々、斯様な仁王像を見ることがある。
この日の朝、善光寺で眺めた仁王像とついつい、比べてしまう。
そして、申し訳ないことながら、可愛らしいお顔に、ついつい、笑ってしまう。
善光寺の仁王像と比べて、気付いたことがある。
それは、善光寺の仁王像は立ち位置が通例と異なり、阿形像が向って左、吽形像が向って右になっているが、岩松院の仁王像は、通例通り、向かって右側に阿形像、向かって左側に吽形像となっているということである。

仁王門の扁額を眺める。
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小布施に立ち寄ることを奨めてくれたのは、信州を国許とするドラポタのメンバー、大給守殿。
そして、8月末、<大放談会>の際、「来月、『乗鞍岳、究極の下りま専科』のあと、小布施に立ち寄るつもりです」と言ったところ、大放談会のメンバーのひとりである備前守殿から「小布施に行くんだったら、岩松院へ是非。そこに福島正則の霊廟がありますよ。歴史好きの上総さんには、これがお奨め」との話を貰った。
葛飾北斎の描く本堂の天井画「八方睨み鳳凰図」も楽しみだ。
小林一茶ゆかりの「蛙合戦の池」も楽しみだ。
そして、福島正則の霊廟での墓参にてこの戦国武将に思いを馳せたい。

フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-22 23:58 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 21日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<長野~小布施市中めぐりの巻(1)> tp-34

9月10日、長野から長野電鉄で小布施へ。

小布施駅。
乗って来た電車を見送る。
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「栗と北斎と花のまち 信州おぶせ」。
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小生の頭の中での小布施のキーワードは、「岩松院」、「福島正則」、「葛飾北斎」、「小林一茶」、「高井鴻山」、「栗」であった。

線路脇には塀のような形で、市内の店々の看板が掲げられている。
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その中にひとつ、目を惹く看板があった。
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「人生夢幻耳」と「小布施堂」を頼りに電脳網で検索してみた。
某サイトのこんな記述にヒットした。
--------------------
高井鴻山はどのような人だったのでしょうか。
姓は市村、名は健。
文化3年(1803年)信濃国高井郡小布施村(幕府領・松代藩)の豪農商10代目熊太郎、母ことの四男として生まれました。
8代目作左衛門 が鴻山の祖父で、天明の飢饉時に倉を開放して、その巨万の富を困窮者の救済に当てました。
それが幕府に認められて、「高井家」の名字帯刀を許可されます。
(中略)
15歳の時に京都へ遊学し、国学、蘭学、漢学などを広く学び、その後江戸に出て詩文や書、絵画など芸術にも優れた才能を発揮しました。
小布施に戻った後の鴻山の元には北斎をはじめ、多くの文人達が訪れています。
(中略)
鴻山が妖怪画を描き始めた時期は、比較的遅く、おおむね鴻山45歳(1850年)頃からと考えられます。
「祥雲寺展墓 妖怪屏風」は高井家の墓所である祥雲寺を訪れた時の思いを妖怪図と漢詩で示したものです。
漢詩に「老眼の涙、潜然たり。知らず今より後、幾年我身を埋める。人生は幻夢のみ。誰か能く永存期せん」とあり、人生の終焉を妖怪図に託しています。
--------------------
早速、小布施のキーワードのひとつ、「高井鴻山」に出遭ったのであった。

改札口を出る。
待合室の壁に貼ってある映画のポスターが目に入る。
何処へ行っても映画のことが気になるのである。
但し、今回は映画そのものではなく、映画館のことが気になるのである。
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ポスターに「長野駅前 千石劇場」とある。
朝、駅前の飲み屋街で見た、あの千石劇場である。
隣りのポスターには「長野相生座・ロキシー 長野市権堂町(アーケード通り中央)」とある。
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小布施の皆さんは長野電鉄に乗って、長野へ映画を見に行くのだ。

今日の jitensha。
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「先ず、岩松院へ行きませう」。
「そうしませう」。
こうして、「天空ポタ/究極の下りま専科」の旅の最後の訪問地、小布施の市中めぐりが始まるのであった。

フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-21 22:02 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 21日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<長野~小布施、長野電鉄で輪行の巻> tp-33

9月10日、早朝の善光寺参りを済ませ、長野電鉄にて長野から小布施へと向う。

長野電鉄の長野駅は地下駅だ。
我らが乗車する電車は、3番線、8時34分発信州中野行き普通だ。
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2番線に特急が止っている。
「モンハン特急」、「スノーモンキー」の文字が見える。
「スノーモンキー」が愛称であることは分かるとして、「モンハン特急」の「モンハン」とは何ぞや?
駅員さんに聞いてみた。
「私もよくは分かっていないのですが、『モンスターハンター』というゲームがあって、長野電鉄はそれとタイアップしているんです。『モンスターハンター』を縮めて『モンハン』なんです」。
「モンスターハンターで、モンハン。そういえば、そんなゲームのコマーシャルをテレビで見たことがあるような気もしますね」。
こちとらも昨今のゲームの名を言われても全く分からない。
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更に近づいてみる。
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"NAGANO EXPRESS 2100"の文字が見える。
長野電鉄2100系はJR東日本の253系電車を譲り受けた車両とのこと。
JR東日本253系は1991年から2010年まで「成田エクスプレス」として使われた車両とのこと。

出発には未だ時間がある。
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愛馬をホームに置いて、「モンハン特急」のボディを楽しむ。
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車内吊り広告。
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私鉄はあの手この手でPRに努めていることがよく分かる。
ワタシ的には、松本電鉄の「渕東渚(Endo Nagisa)ちゃん」に軍配を上げる。

長野駅を出発する。
しばらく地下を走り、地上に出る。
田園風景がつづく。
リンゴ畑からここは信州ですよとの声が聞こえて来る。
30分ほどで小布施駅に。

フォト:2010年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-21 21:59 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 20日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<宴のあとの巻> tp-32

9月10日、早朝の善光寺参りを終える。
長く、緩やかな勾配の参道を下る。
「南国さん、ちょっと、昨日の"反省会"の店へ行ってみたく。夕べはカメラを持ってなかったんで」。
「オーケー!旅籠の朝餉は7時から。それまでに未だ時間もありますし」。
「朝、飲み屋街を徘徊するなど無粋の極みなるも、取材ですんで、よろしく」。
駅前の飲食店街へ向う。

「民芸調お食事処 飛騨」。
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前夜の"反省会"はこの店で。
山賊焼、朴葉焼、馬刺し+鬼ころしを頂戴した。
これで、長野県側に下る「乗鞍エコーライン、究極の下りま専科」の達成に加え、岐阜県側へ下る「乗鞍スカイライン、究極の下りま専科」も達成したつもりとした。

「一筋向こうの、楽し気な看板のあった店へ行ってみましょ」。
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映画の看板がある店。
門司にもこういう店があったことを思い出す。
店ではないが、町のあちらこちらに懐かしい映画看板が掲げられれている青梅のことも思い出される。

「銀座カンカン娘」(1949年、新東宝作品、東宝配給)。
封切り当時は満一歳、当然のことながら、この映画を観た記憶はなく、近年のテレビ放映でも観たことはないが、服部良一作曲の軽快なメロディの主題歌は今でも時々耳にする。

「狂った果実」(1956年、日活作品)。
石原慎太郎の短編小説の映画化。
今や、石原慎太郎は早く引退した方がよいのではないかな?

「青い山脈」(1962年、日活作品)。
石坂洋次郎の小説の映画化であることは申すまでもなきことかと。
1949年、1957年に続く三回目の映画化は吉永小百合主演であった。
この「青い山脈」は1962年末から63年1月にかけての正月映画で、石原裕次郎主演の「花と龍」との併映であったと記憶する。
この頃、お袋から日活の映画だけは絶対に観てはいけませんときつく言われていたが、吉永小百合やったらええやろと勝手に思い、友達と観にいったことを思い出す。
中学生の頃のことである。

琺瑯看板。
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これだけ琺瑯看板を集めれば、大したものだ。
後ほど、琺瑯看板をひとつひとつ味わってみたい。
因みに、映画看板と琺瑯看板の、この面白げな店の名は「半兵ヱ」であった。

「半兵ヱ」の隣りは「信州長屋酒場」。
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「ここ一軒で長野県」、「長野郷土料理、長野全域の地酒、長野の全ワイン蔵」のキャッチコピーだけで信州を味わえる。

三叉路。
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随分、以前のことだが、東京都現代美術館で開催された横尾忠則展で数多くの「三叉路」の作品を観た。
以来、気になるもののひとつとして、三叉路が加わった。

「千石劇場」。
今は映画館といえばシネマコンプレックスばっかりだが、昔は町の中にこんな映画館がいっぱいあって文化の発信基地を担っていた。
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上映中の演目は、「キャプテンハーロック」、「ホワイトハウスダウン」、「劇場版 仮面ライダーウィザード イン・マジックランド」、「劇場版 獣電戦隊キョウリュウジャー ガブリンチョ・オブ・ミュージック」、近日公開は「おしん」。

「らーめん みそ家」。
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前夜、「飛騨」で"反省会"のあと、〆をしたのがこの店。
「ここは信州ながら、ラーメンが食べたいですね」。
「おっ、この店はお客がいっぱい入っていますね」。
「ここにしましょ」。
「なかなか、旨いラーメンだなあ」。
「味噌ラーメンといえば、札幌ラーメンながら、信州味噌の地元やからねえ」。
(札幌みそラーメンの由来については、話が長くなるので割愛します)

駅前の灯籠。
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「善光寺まで1、800米」と刻まれている。
長く、緩やかな勾配が大いに気に入った参道(中央通り)は1.8kmもあり、参道しては結構長いものではないだろうか。
jitensha で善光寺参りに、丁度、いい距離だった。

「旅籠の朝餉は7時から」。
「今、7時ちょっと過ぎ。丁度、ええ時間です」。
「小布施へは時間セーブのため自走じゃなくって、輪行で行きましょ」。
「長野電鉄、長野発8時34分の電車に乗りませう」。

フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-20 23:58 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 19日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<牛に引かれて善光寺参りの巻(4)> tp-31

参道で、「お朝事」(おあさじ)のお勤めのために本堂に向う住職のお姿を拝ませて戴き、山門の扁額で五羽の鳩を探すクイズ(???)に挑戦したのち、山門をくぐる。
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参道の一部が工事中である。
立て看板に「参道の敷石を敷き直す工事をしています。ご不便をお掛けしますがご協力をお願い致します。善光寺 施工 北野建設株式会社」とある。
史跡である敷石はこうやって維持されているのある。
施工者の北野建設は、北野文芸座で触れた地元のゼネコンである。

狛犬コレクション/其の一。
コレクションは阿吽形の狛犬のみならず、香炉の狛犬も。
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狛犬コレクション/其の二。
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本堂で参拝。
参拝を済ませたあと、本堂から山門を眺める。
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本堂の外廊下。
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外廊下からよく整えられた境内を眺める。
灯籠群もそのひとつ。
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朝日を背に受けた誰かさんの影が外廊下に映る。
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本堂内での「お朝事」が終わりを告げる鐘が撞かれる。
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善光寺の住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。
先ほど、参道で、本堂に向われる大本願上人のお姿を拝んだ。
今度は勤めを終えた大勧進貫主のお帰りの姿を拝む。
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「お数珠頂戴」で跪く人たちの姿も見える。
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我らも、山門を抜け、仁王門を抜け、参道を戻る。
仁王門を抜けたあとは、長く、緩やかな勾配の「参道、下りま専科」を楽しんだ。

さて、ここで、再び、山門に掲げられた扁額「善光寺」の「鳩字の額」について触れておこう。
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第30話で「4羽ははっきりと分かる。もう一羽ははっきりとは分からないが、多分、あれだな、というものは想像出来る。正解合わせは、後ほど」と綴った。
帰宅後、電脳網検索で正解を探してみた。
某サイトに「この扁額の三文字では分かりにくいかもしれません。境内に入るところにある信号機にかかっている『善光寺』の標識を見ると五羽の鳩がはっきりと分かります」とある。
仁王門の直ぐそばの信号機に掛かっている標識のことだ。
写真は撮ってある。
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標識の部分を拡大し、確認。
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五つ目の鳩は想像通りであった。
更に、この某サイトで「『善』の字は牛の形に見えませんか?」とある。
そう言われてみれば、「善」は勿論のこと、「光」も牛の形に見えて来る。
「牛に引かれて善光寺参り」の言葉ににぴったりだ。

フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-19 23:58 | 天空ポタ/究極の下りま専科
2013年 10月 18日

『天空ポタ/究極の下りま専科』<牛に引かれて善光寺参りの巻(3)> tp-30

駒返りの橋の袂で善光寺と源頼朝の関わりをベンキョーしていたところ、仁王門を過ぎ、本堂へ向われる住職のお姿が。
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係りの人から、ひざまずいて頭を下げるようにとのお達し。
写真は少し離れて撮るようにとのお達し。
南国守殿はひざまずき、上総は少し離れてカメラを構える。

さて、ここで、善光寺のことについて少し触れておこう。
善光寺は無宗派の単立寺院である。
山号は「定額山」(じょうがくさん)。
本尊は一光三尊阿弥陀如来。
一つの光背の中、中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩の本尊は絶対秘仏である。
山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。
「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。
「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。
住職は「善光寺上人」と呼ばれ、門跡寺院ではないが、代々公家出身者から住職を迎えている。
現在の「善光寺上人」は鷹司家出身の121世鷹司誓玉(せいぎょく)大僧正である。
善光寺の住職は、「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。
「お朝事」(おあさじ)は、本堂に善光寺全山の僧侶が出仕し、365日欠かさず行われている朝の法要。
「お数珠頂戴」は、お朝事の法要の導師を務める善光寺住職が本堂を往復する際、参道にひざまずく信徒の頭を数珠で撫でて功徳を授ける儀式。

住職のお姿が眼前に。
尼僧である。
住職二人のうちの一人、「大本願上人」である。
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「お数珠頂戴」で跪く人の姿も見える。
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大本願上人の一行は山門をくぐり、本堂へ。
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山門の扁額を眺める。
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山門に関わる説明書きに目を通す。
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「字の中に五羽の鳩の姿が見えることから『鳩字の額』と呼ばれています」とある。
今一度、扁額に目を遣る。
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4羽ははっきりと分かる。
もう一羽ははっきりとは分からないが、多分、あれだな、というものは想像出来る。
正解合わせは、後ほど。

大本願上人に頭を撫でてもらった南国守殿曰く、「暫らく、頭は洗えないないなあ」と嬉しそう。。

フォト:2013年9月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-10-18 22:30 | 天空ポタ/究極の下りま専科