カテゴリ:将門の郷ポタリング( 11 )


2013年 11月 10日

『将門の郷ポタ/鬼怒川へ行ってみよう(下)』 sk-11

鬼怒川CR。
水海道から輪行することとし、美妻橋の西詰めから下流に向け、走る。
「坂野家住宅」で聞いたところによれば、水海道駅まで8kmくらいとのことであった。

鬼怒川CRは、自転車専用道であったり、途中で途切れ、一般道を走ったりという道である。
鬼怒川から離れたり、田畑を眺めながらであったり、住宅街や工場地帯を抜けたりもある。

水海道大橋(有料道路)は、西詰からかなり離れたところを通過しながら左手に眺めた。
次の橋(帰還後、調べたところ、「豊水橋」であった)に至る。
ここで自転車道が切れており、住宅街を迂回するのか、はたまた、河川敷に下り、橋の下を通過できるのかがよく分からない。
そこへ大型バイクに乗った青年二人が河川敷に下りて行った。
「彼らが戻って来たら、住宅街へ迂回。戻って来なかったら、河川敷から橋の下を通り抜けて向こうへ行ける。暫らく様子をみませう」と南国守殿。
バイク青年たちは戻って来なかった。
河川敷に下り、橋の下を通り抜け、更に自転車道(兼一般道?)を走る。
橋らしきものが見えて来た。
「上総さん、次の橋を渡りませう」。
「あの橋は、どうも、導水橋のよう。もうひとつ、先の橋を渡りませう」。
「水海道駅は、水海道大橋か、さっき、下をくぐった橋を渡らなければならなかったんですね」。
「次の橋を渡れば、多分、水海道駅の隣りの駅に行けるでせう」。

鬼怒川CRのこの辺りの区間は完全に整備されているとは言い難いが、森や竹林を眺めながらの区間もあり、いい感じだ。
そうした風景を、片手ハンドル・片手カメラ・頭三脚で一枚。
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今日の jitensha。
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「12km」の表示を通過する。
美妻橋の辺りで「16km」の表示を見た。
随分、長く走って来たような気がするが、僅か、4kmだ。
知らない道は長く感じるようだ。

橋が見えて来た、
「玉台橋」の表示がある。
これを渡る。
橋の上から鬼怒川を眺める。
水が随分と濁っている。
畔の木々も裾の方が白く汚れている。
数日前に荒れ狂った台風18号の名残りだと思われる。
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橋を渡り、玉台橋東詰交差点で自転車親子さんに最寄り駅を尋ねる。
「直進して、次の交差点を右、ケーズデンキの角を左に行くと、小絹駅」と教えて貰う。
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小絹(こきぬ)駅。
きれいな名だ。
「小絹」は、鬼怒川=絹川の「絹」を由来としているのかもしれない。
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関東鉄道で終点の取手駅まで輪行だ。
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関東鉄道は幾度も眺めたことはあるが、乗車するのはこれが初めてだ。
電車に手を振る坊やと同じ気分だ。
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取手行き上り電車、到着。
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取手でJR常磐線に乗り換える。
「反省会はスタート地点の我孫子でやりませう」。
「まだ、時間が早いので、常時、開いている店にしませう。我孫子の洋食屋へ案内しませう」。
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「なかなか雰囲気のあるレストランじゃないですか」。
「いつの頃からか、ファミレスに対抗してか、格安に。チキンカツ定食290円、カレーライス290円、チキンカツカレー390円なんていうのもあります。余りに安いので、時々、テレビの食べ歩き番組に登場することも」。
飲み物と料理を注文する。
「今日は輪行ですね」とウェイトレスさん。
「輪行という言葉が出るんだから、自転車、やってますね」。
「はい、トライアスロンを」。
「何が得意ですか」。
「バイクです」。
「何に乗ってますか」。
「TREKです」
「TREKはええ自転車です」。
注文を取ったウェイトレスさんはテーブルを離れる。
「人は見掛けによらないものですね」。
「あんな小さい体でトライアスロンとは思いもしませんね。小さな、アイアン・ウーマンですね」。
「次、注文するときも、アイアン・ウーマンさんを呼びましょ」。

午後6時。
反省会も仕上がった。
店を出る。
ブルーモーメントが美しい。
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帰還後、「将門の郷」の道や橋をトレースしてみた。
<道路>
県道3号線、国道354線、国道354線バイパス、県道124号線、県道123号線+鬼怒川CR。
<橋>
美妻橋(茨城県道123号土浦坂東線)、水海道大橋(国道354号バイパス、水海道有料道路)、豊水橋(国道354号)、鬼怒川水管橋(水管橋)、玉台橋(茨城県道3号つくば野田線)。
最下流の橋「滝下橋」(茨城県道58号取手豊岡線)は次回の楽しみ。

「将門の郷ポタ」。
念願の「坂野家住宅」を訪ねることが出来た。
予期せぬ「大生郷天満宮」も訪ねることも出来た。
部分的ではあるが、鬼怒川CRの探索も出来た。
新規ルート開拓の面白さを十分に味わえたポタであった。
「坂野家住宅」を教えてくれた、手賀沼で出遭ったあの御仁に感謝だ。
後半のナビを務めてくれた南国守殿にも感謝だ。

フォト:2013年9月21日

(完)
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by kazusanokami | 2013-11-10 03:18 | 将門の郷ポタリング | Comments(4)
2013年 11月 09日

『将門の郷ポタ/鬼怒川へ行ってみよう(上)』 sk-10

「坂野家住宅」をあとにして、鬼怒川方面へと走る。

鬼怒川というと、日光、鬼怒川温泉をイメージし、ずっと北の方にある川との思い込みがあるが、鬼怒沼(栃木県日光市)に端を発し、利根川と合流する地点が茨城県守谷市となっており、馴染みのある場所に流れ込んでいる川なのである。
鬼怒川と同じく、利根川の支流である小貝川CRは幾度も走っているが、鬼怒川CRはまだ走ったことがない。
そんなこともあって、この機会に鬼怒川CRを探索してみることにしたのであった。

鬼怒川CRに行く場合は、坂野家住宅から東へ走ればいいや程度で考えていたので、手元のヤッホー!マップのコピーは坂野家住宅付近までしかない。
総論としては東の方だが、各論としてはどの道が最適かは分からない。
坂野家住宅のスタッフさんに鬼怒川までのルートを教えて貰った。
坂野家住宅から最も近い駅は三妻駅(関東鉄道)で、距離にして4kmくらいであると。
水海道駅までなら8kmくらであると。
道は坂野家住宅から北へ進み、県道123号線を右折してそのまま真っ直ぐ東へ進むと、鬼怒川に架かる美妻橋に至り、それを渡ると、三妻駅に至ると。
鬼怒川を下り、三つ目の橋を渡ると水海道駅に至ると。
ここまで教えて貰えば問題はない。
鬼怒川に至れば、その東側を南北に関東鉄道は走っているので、三妻駅であれ、水海道駅であれ、直ぐに分かるだろう。

県道123号線を東へ走る。
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しばらく走ると、これまでに見掛けたコンビニは僅か2軒だけであったが、3軒目のコンビニが目に入る。
1軒目、2軒目と同じく、これもセブン・イレブンであった(ファミマやローソンに比べ、セブンは頑張ってるなという意味で特記する次第)。
昼は、出発のときに購ったコンビニおにぎりだけであったので、腹が減った。
アイスクリームで燃料補給する。

鬼怒川に架かる美妻橋に至る。
今日の jitensha @鬼怒川。
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「鬼怒川CRは右岸沿いになっていますね。
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「輪行は、三妻駅、水海道駅、どっちからにしましょ?」。
「せっかくだから、少し鬼怒川CRを走って、水海道駅へ行きましょう」。

道を横断し、橋の名を記録。
「みつまばし」。
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「みつまばし」は、やっぱり、「三妻橋」ではなく、「美妻橋」なのだ。
駅は「三妻」なんだけど...。
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美妻橋を眺める。
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「鬼怒川 16km」。
「利根川合流地点の河口まで16km。走れない距離じゃないけど、関東鉄道にも乗ってみたいし、今日の鬼怒川CRは探索ということにしときましょ」。
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鬼怒川の流れ。
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鬼怒川は、関東平野を北から南へと流れ利根川に合流する一級河川である。
全長176.7kmで、利根川の支流の中で最も長い(第2位は小貝川、全長111.8km)。
江戸時代以前、鬼怒川は香取海(かとりのうみ)に注ぐ大河であった。
香取海とは、関東平野東部に湾入していた内海で、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼をひと続きにした広大な規模の内海であった。
徳川家康の利根川東遷事業によりもともと江戸湾に注いでいた利根川が東遷され、鬼怒川に近い流路に付け替えられたうえで、鬼怒川は利根川に注ぐ河川とされた。
「鬼怒川」の表記は、暴れ川である「鬼が怒る川」から「鬼怒川」となったなどと云われるが、「鬼怒」は明治期以降の当て字であり、江戸時代までは毛野国(栃木・群馬の旧国名)を流れる「毛野河」、あるいは、好天時の穏やかで絹衣のような流れを表すであろう「絹川」あるいは「衣川」の漢字が当てられていた。
(出典:ウィキペディア+アルファ)
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10月半ば、結城を訪ねた際、明治期から昭和20年代まで「(結城郡)絹川村」が存在し、現在の結城市には「絹川地区」や「絹川小学校」があることを知った。
我々は「鬼怒川」で慣れてしまっているが、村や学校の名の通り、「絹川」の方がずっとよいような気がする。
また、今回のポタは最終的に水海道駅には行かず、その隣り駅の小絹駅まで行った。
この辺りは、駅の名と同様、「小絹」という地名となっており、この「小絹」は「絹川」を由来としているようにも思える。

明治の役人が、何故、「鬼怒川」にしたのか調べてみなければと思いながら、電脳網であれこれ検索していたところ、「歴史と地名の由来(鬼怒川・川治温泉エリア)」なるサイトにこんな記述があった。
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「鬼怒川」という名前の由来。
四つの説がある。
①昔、現在の栃木・群馬県地方を毛野国(ケヌノクニ)と呼ばれていた頃、そこを流れる毛野川(ケヌノガワ)がなまって、鬼怒川となった説。
②いつもは穏やかに流れている川が、一旦荒れると字のごとく、鬼が怒ったように荒々しくなることから、鬼の怒る川と名付けられたという説。
③昔、絹村という所があり、よく絹を洗っていたところから絹川と名が付き、それが鬼怒川となったという説。
④水源が鬼怒沼であることから、その河川名を鬼怒川と呼んだ説。
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由来を調べたとき、「諸説ある」というのが一番好きだ。
①、②、③は既に述べたことだが、④が新たに登場した。
④の説となると、「鬼怒沼」の名の由来も調べねばならないこととなるが、今のところ、そこまで手は届かない。
鬼怒沼には、乙姫や機織姫などいろいろな伝説があり、これには10月下旬に訪ねた當麻寺(奈良県葛城市)にゆかりのある中将姫も関わっているとのことだ。
なかなか面白そうなので、鬼怒沼はそういう切り口で調べてみたい。

余談ながら、上記①に関連することだが、以前、群馬・栃木の地方を、何故、「両毛」と呼ぶのかが気になり、調べたことがあった。
そのときに、毛野国(ケヌノクニ)、毛野川(ケヌノガワ)が登場したことがあった。
そのときに、こう綴っている。
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古墳時代、毛野川(けぬのかわ=現在の鬼怒川)流域一帯に「毛野国(けぬのくに)」があった。
これを上下に分け、「上毛野国(かみつけぬのくに)」と「下毛野国(しもつけぬのくに)」となった。
のちに、「毛」が端折られ、「上野国(こうづけのくに)」、「下野国(しもつけのくに)」となった。
「上州」、「野州」とも呼ぶ。
「毛」は端折られるも、合わせて、「毛州」あるいは「両毛」と呼ばれている。
「毛野国」の名称の由来は、「嘗て、ヤマト王権から毛人(=蝦夷。えみし、えびす、えぞ)の住む地、二字表記にして毛野の字が当てられた」」、「毛は二毛作の毛。昔、この地域が穀物の産地であったことから毛野の名をなす」など諸説あるが、何れにせよ、古墳時代に生まれた「毛」は今も生きているのである。
(ブログ「上総守が行く!」/2011年7月19日付「下野国ポタ/蔵の町、栃木市の巻』 第7話より)
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鬼怒川右岸CRを下流方面へと走る。

フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-09 00:31 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)
2013年 11月 08日

『将門の郷ポタ/坂野家住宅(5)』 sk-9

「坂野家住宅」。
主屋をめぐったあと、主屋の西側に繋がる書院「月波楼」へと移る。
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この説明書きに「銅版画参照」とある。
この銅版画は「一の間」の違い棚に飾ってあった。
その銅版画がこれだ。
(額入りの銅版画部分のみトリミング。額のガラスの反射はご容赦を。)
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「一の間」には、銅版画の説明書きもあった。
それもここで紹介しておこう。
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坂野家銅版画
明治25年(1892年)刊行の「大日本博覧図」に掲載された坂野家を描いた銅版画。
明治期の坂野家の屋敷構えを忠実に表しており、後世の保存整備事業の参考ともなった貴重な資料である。
「大日本博覧図」は、当時の茨城・東京・埼玉・千葉・群馬・栃木の神社仏閣や旧家・名家、商家など212件を記録した銅版画集である。
旧水海道では、坂野家のほか商家の五木田宗右衛門宅(五木宗(ごきそう)レンガ蔵=登録有形文化財=)等4件が収められている。
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銅版画の右上と左下には次の通り記されている。
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茨 城 縣
岡田郡菅原村
大字大生郷
坂埜伊左衛門
---------------
NIPPON
IBARAKI-KEN
SHIMOUSANO-KUNI
OKADA-GORI
SUGAHARA-MURA
SAKANO IZAIMON
----------------------
「岡田郡」は「おかだ・ごおり」なのである。
余談ながら、40年くらい前であったろうか、一世を風靡した木枯らし紋次郎は上州新田郡<にった・ごおり>三日月村の生まれであった。
「ぐん」ではなく、「ごおり」という響きがなかなかよい。
「菅原村」は、大生郷天満宮の祭神、菅原道真に因んだ名とも思える。
「大生郷」は大字なのである。
ヤッホー!マップを眺めていると、大生郷天満宮の北側に「菅原小学校」や「菅原郵便局」があり、これは「菅原村」の名残なのであろう。
また、天満宮の西には、「伊左衛門新田町」がある。
江戸時代中期、飯沼の新田開発大事業で坂野伊左衛門(「坂野」は「坂埜」とも書いたと思われる)が尽力したことから、町名として残っているのであろう。
昔の町の名が消えていき、町名からその歴史すら推測できなくなりつつある昨今、誠に結構な町名である。

銅版画から坂野家住宅の俯瞰図のみならず、斯様なことも読み取れるのである。
面白い!

銅版画を眺めながら、屋敷の配置を言葉で表すと次の通りである。
表門は南側に設えられているので、この銅版画は南西から俯瞰した図となっている。
屋敷の周囲は外塀で囲まれている。
南側の道を東へ歩んでいくと南側の中程に表門(国の重要文化財)がある。
表門を入ると、前庭の東側に納屋、西側に中庭。
前庭を北へ進むと、中央に主屋(座敷部)、東側と北側に主屋(居室部)、西側に書院。
書院の直ぐ北側に、文庫蔵(白い建屋)が見える。

書院は2階建てだ。
先ず、1階をめぐる。
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床の間の掛け軸は山岡鉄舟の書である。
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山岡鉄舟(天保7(1836)年~明治21(1888)年)
山岡鉄舟は江戸幕府の旗本の子として生まれ、長じて、剣・禅・書の分野で才能を発揮し、いずれも達人と称された。
幕末の混乱期、朝廷方参謀・西郷隆盛を説き、勝海舟との会談を成立させ、江戸城無血開城に大きく貢献した。
明治4年、全国的な県の統廃合によって成立した茨城県の初代県知事(任官名は参事)に就任。
更に、晩年まで侍従として明治天皇を補佐した。
勝海舟・高橋泥舟とともに「幕末三舟」と称される。

園 林 幽 雅 己 成 趣
朝 市 紛 華 豈 到 心
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「床の間の右、違い棚の上の戸袋「金色、左の違い棚の下の戸袋は銀色」なっている」と(有難い説明を受ける。説明なくして、これに気付くことはないだろう)。
左右の対角線上に金と銀。
遊び心が表れた、洒落た設えに、ただただ、感心するばかりだ。

書院から文庫蔵を眺める。
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書院のあれこれ/その1。
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書院のあれこれ/その2。
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書院のあれこれ/その3(お風呂です)。
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書院のあれこれ/その4(金庫の上にあるものは何だ?)。
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書院のあれこれ/その5(カンテラのようなものであろうか?)。
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書院のあれこれ/その6。
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書院のあれこれ/その7。
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急な階段を上り、書院の2階へ。
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主屋を眺める。
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文庫蔵を眺める。
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急な階段を下り、階下へ。
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主屋の土間へ戻る。
土間の先に、ロケ地に相応しく、映画の資料室が設けられている(資料室内は撮影禁止)。
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「坂野家住宅」を訪れたのは、映画好きが昂じてのことである。
「坂野家住宅」と映画の関わりについては、兄弟ブログ「龍人鳥の徒然フォト日記」(http://ryujincho.exblog.jp/)の10月30日付「ロケ地探訪記/坂野家住宅」で詳しく綴っているので、そちらをご覧いただければ幸甚である。

一地方と侮るなかれ、幾代にも亘って、それぞれの時代を担ってきた人たちがいるのだと思いながら、今一度、「坂野家住宅」を眺めた。
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「坂野家住宅」を十分に堪能し、鬼怒川方面へと向った。

フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-08 05:55 | 将門の郷ポタリング | Comments(2)
2013年 11月 07日

『将門の郷ポタ/坂野家住宅(4)』 sk-8

「坂野家住宅」。
居室部の蔀戸(しとみど)などを眺めたあと、ボランタリーの人であろうか、ご婦人の案内で懇切丁寧な説明を受けながら、一の間、二の間、三の間をめぐる。
坂野家は、農事に携わるのみならず、文化人との交流を図るなど、この地域の芸術・文化の振興にも力を注いできたとのことで、座敷には文化の薫りが漂う。

文化人を招き入れたであろう、二の間東側の玄関/二の間から。
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表から見た玄関(再登場)。
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一の間/欄間。
欄間には坂野家の家紋である蔦の彫り物が見られる。
左右の欄間を見比べる。
こちらの欄間は、レリーフのように、蔦の葉の彫り物が見られる。
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こちらの欄間には、蔦の葉の彫り物はなく、菊の花の透かし彫りとなっている。
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改修のとき、レリーフ状の蔦の葉が外れ、そこに菊の透かし彫りが現れたとのことだ。
その蔦の葉の彫り物は床の間に飾られていた。
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何故、菊の透かし彫りの上に蔦の彫り物が被せられていたのか。
それについては、後ほど、述べることとしたい

一の間/戸袋。
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戸袋にはられた絵をながめながら、ふと、幼き頃、襖を破ってしまったことが時々あり、その破れを隠すために絵やポスターや映画の広告を貼ったりしていたことを思い出した。

藤田東湖の書。
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「一、新刀壱揃 一、勝(於)武師壱把...寸志...表...藤田〇〇〇 嘉永六年十二月二十四日」。
藤田東湖が坂野家11代当主坂野耕雨に御礼として新刀と鰹節を贈ったときの書状とのことだ。
藤田東湖は江戸時代末期の水戸藩士で、文武両道に優れ、激烈な尊皇攘夷論者であった。
嘉永6年(1853年)、黒船が来航し、藩主徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も幕府海岸防禦御用掛として斉昭を補佐し、一旦、解かれた側用人に復帰するなど水戸藩の中心人物の一である。
坂野家11代当主坂野耕雨は、勤皇思想を持つ江戸時代末期の漢詩人である梁川星巌(うやながわせいがん)の塾において藤田東湖などと共に尊王の大義を学んだ関係で、水戸藩の討幕派や各藩の志士たちと交友があった。
そうした関係もあって、黒船来航時に坂野家が水戸藩に舟を用立てしたことに対し、東湖から坂野家に礼があったということのようだ。
書状の日付は嘉永6年12月24日、ペリー提督率いる黒船が浦賀へ来航したのは嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、話は整合している。
で、先ほどの欄間の彫り物に話を戻す。
坂野家11代当主坂野耕雨は尊王の大義を学んだとのことなので、菊の花の透かし彫りでは畏れ多いと、家紋である蔦の彫り物でそれを隠したということのようだ。

菊の花の紋様に蔦の葉の紋様、当主と藤田東湖の交流、尊王思想、黒船の来航、士農工商を問わず、市井には識者が。
幕末の、隠れた歴史を見る思いである。

別間から欄間を垣間見る。
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正面から欄間を眺める。
久し振りに、"畳み地べた写真"も撮ってみた。
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ニの間/床の間と掛け軸。
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書の最後に「行斎叟」の名が読み取れる。
坂野家第12代当主坂野行斎の書である。
坂野行斎は、11代当主坂野耕雨の嗣子で、12代当主となる。
若くして老成人の風格を持ち、豪気な人物であったという。
山水の遊を好み、西南諸州の名勝を訪ねて西往紀行二巻、同詩草一巻を記している。
学者肌の人物で、月波楼に残された書画の分類整理も手がけ、また、耕雨の「月波楼遺稿」も彼の手により刊行された。
「坂野家墓所石塔図」を表し、家系の整理も行っている。

仏間。
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掛け軸。
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書の最後に「耕雨福」の名が読み取れる。
前述の、藤田東湖と親交のあった坂野家第11代当主坂野耕雨の書である。

主屋の座敷から西側に繋がる書院「月波楼」へと移る。

フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-07 07:07 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)
2013年 11月 06日

『将門の郷ポタ/坂野家住宅(3)』 sk-7

主屋に入る。
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主屋は、平成15~18年に解体修理が行われ、その過程で増改築の変遷がほぼ明らかとなったことから、座敷部が増築されて形が最も整った天保9(1838)年の姿に復元された。
18世紀初め頃に建てられたと考えられる居室部と増築された座敷部からなり、居室部の木割の大きい柱・梁で構成された架構は豪壮で意匠も優れており、また、「広間」前面の柱間二間には蔀戸(しとみど)が吊られ、その上に欄間(らんま)を設ける。
この蔀戸と欄間による立面意匠は、この地方では例を見ない。
座敷部は、南から「一の間」、「二の間」、「三の間」と呼ばれ、「二の間」東側には式台付の玄関、「一の間」には床・棚、「二の間」には床が設けられ、境には透彫りの欄間を入れ、長押(なげし)には釘隠を打つなど豪農住宅の客間としてよく整えられている。
大型住宅として数少ない遺例であり、表門及び塀とともに豪農の屋敷構を伝えている。
(常総市HPより)
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居室部に入る。
土間。
この日の夜、「坂野家住宅お月見と音楽のつどい」の催しがあるとのことで、土間には椅子が並べられている。
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板間。
板間には大きな囲炉裏が切られている(写真右側に、囲炉裏の角のみ写っている)。
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蔀戸(しとみど)。
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蔀戸の止め具。
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蔀戸からの眺め。
表門から前庭の敷石、中塀、玄関などが...。
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蔀戸(しとみど)の文献を参照すると、「蔀戸は無目(溝を切っていない鴨居) などに上部を丁番などで固定し、下枠側を外部または内部に上げて吊り金物で引っ張るように開ける戸をいう」とあり、更に続けて、「通常、上に引き上げられることから、しっかりと作り、細かい格子になっている場合が多い」とある。
10月半ば、結城をポタリングした際、結城酒造を訪ねた。
結城酒造の扉は蔀戸となっていた。
社長さん曰く、「この蔀戸は作り直したものです。昔は軽いもので、一人で開け閉めが出来たのですが、蔀戸の職人さんがいなくなり、今は随分と重たいものとなりました。今は二人掛かりで開け閉めをしています」と。
蔀戸は、しっかりとしたものでなければならないが、重いものであってはならず、なかなか難しい技術と思われ、先人の巧みさを感じる。、

居室部から座敷部に移る。
その境目からの眺め。
左側に、土間への入り口や蔀戸の開口が...。
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玄関。
二の間からの眺め。
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フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-06 17:27 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)
2013年 11月 06日

『将門の郷ポタ/坂野家住宅(2)』 sk-6

「坂野家住宅」。
表門(国の重要文化財)。
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表門を入ると、前庭を挟んで主屋(国の重要文化財)。
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坂野家は、この地に土着してから五百年ほどになると言われ、享保10(1725)年に始まる飯沼新田開発では、地元の責任者である「頭取」に任ぜられるなど、この地方の有力な名主であったことが伺われる。
その屋敷地は、1ha におよぶ広大な台地全面に位置し、周囲に塀を巡らす。
南面に配された表門(薬医門[やくいもん])は、本来、武家屋敷に設けられることを考えると、当時の坂野家の格式の高さが偲ばれる。
平成10年に坂野氏より市が建物と屋敷地を譲り受けた。
(常総市HPより抜粋)
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納屋。
納屋は、主屋の手前、前庭の東奥に位置する。
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9月下旬だ。
庭の柿はまだ青い。
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納屋の天井。
棟上式の棟札が見える。
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中塀。
中塀は、主屋の手前、前庭の西側に位置する。
中塀の中程に、中庭への入り口が設えられている。
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一の間、ニの間の茅葺屋根(南東角)。
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玄関。
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主屋は、南から、一の間、ニの間、三の間の配置となっており、玄関は二の間の東側に設えられている。
この日の夜、「坂野家住宅お月見と音楽のつどい」の催しがあるとのことで、玄関先の芒はそのために生けられたものなのであろう。

フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-06 09:36 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)
2013年 11月 05日

『将門の郷ポタ/坂野家住宅(1)』 sk-5

番外であったが、新たな発見で「大生郷天満宮」を大いに楽しんだあと、この日の"本命"、「坂野家住宅」に到着した。
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「大型車 ロケ関係者 →」。
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ロケ関係者用の駐車場、完備。
映画やテレビドラマの撮影によく使われるとのことだけはある。
受け入れ態勢、準備万端である。
そんなことよりも、一応、予備知識は付けて来たものの、先ず、「坂野家住宅」とは何ぞやを知らねばならない。
説明書きに目を通す。
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水海道風土博物館 坂野家住宅
(重要文化財 坂野家住宅)
坂野家はこの地に土着してから五百年ほどになるといわれ、江戸時代には惣名主的な存在にあり、特に「飯沼三千歩の美田」と呼ばれた江戸中期の新田開発では大きな功績を残しました。
また、文化人との交流を図るなど、この地域の芸術・文化の振興にも力を注いできました。
「坂野家住宅」は、おおむね江戸中期に形づくられ、その後の増改築を経て現在に至っています。
屋敷内には、「主屋」をはじめ「書院」や土蔵造りの「文庫蔵」など歴史を感じさせる建物が残っており、特に、要人用の玄関を持つ「主屋」や薬医門形式の表門は貴重な遺構として、昭和43年(1968年)には重要文化財として国の指定を受けました。
明治期には、屋内外に設けられた庭園とともにその秀逸な景観が銅版画に描かれています。
市では、この先人の遺産を生かし、将来に伝えていくため、主屋、書院、文庫蔵をはじめとする建物の保存修理や屋敷内の整備とともに、表門前に広がる庭園を発掘調査に基づき、復元し、周辺環境も含めた総合的な整備によって、竹林や雑木林に囲まれた、かつての「里山の風景」を再現しました。
常総市
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竹林や雑木林に囲まれた里山。
説明書きを読んで想像していた通りの風景だ。
気に入った!

表門につづく外塀。
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表門(薬医門形式)。
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薬医門形式とは何ぞや?
ベンキョーしてみた。
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薬医門(やくいもん)
本柱の後方に控柱2本を建て、切妻屋根をかけた門。
大規模なものは正面3間(本柱4本)とし、控柱も4本とする。
(出典/広辞苑)
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薬医門(やくいもん)
鏡柱から控え柱までを取り込む屋根を持つ。
本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前がある。
(出典/ウィキペディア)
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鏡柱について
(略)断面の形状をみると、円柱と方柱のほか六角柱、八角柱、長方形の鏡柱や片蓋(かたぶた)柱、角に自然の丸みを残した面皮(めんかわ)柱などがある。(略)
(出典/kotobank「柱」より抜粋)
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受付のおじさん。
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入館料を払おうと小銭入れを出す。
幾らかな?と「受付」と書かれた札を見る。
「一般300円・65歳以上無料」と書かれてある。
維持費が掛かるであろうから、私有の旧家であれば、入館料を支払うことに異存はない。
だが、「坂野家住宅」は国の重要文化財。
予算は付いているのだろうし、納税はしているし、ここは65歳の特権(???)を行使することにした。
「65歳です。証明するもの、必要ですか?」。
「いえ、結構ですよ。見れば分かりますんで」。
この言葉、受付が若いお嬢さんならショックだが、年配のおっちゃんだからショックはない。
数年前、丁度、60歳になったころ、銀座の東劇へ映画を観にいった。
「シニアでお願いします」と言うたところ、「免許証か何か見せてください」と言われたことがあった。
最近は、映画館の窓口で証明書を見せろ言われたことはない。
見掛けは若作り(???)であっても、既に、完全にシニアの域に達してしまっているのである。
今回、「65歳以上無料」を初めて経験した。
これからは大いに特権を行使するぞ!

と綴って、国の重要文化財はその維持に如何ほどの予算が付くのであろうかと調べてみた。
「重要文化財の修理及び公開は所有者が行うものとされている(第34条の2、第47条の2)。但し、所有者が管理や修理に要する費用を負担できない等、特別の事情がある場合は、政府から補助金を交付できるものと定めている(第35条)」とある。

更に、調べていると、面白い(というのは不適切かな?)Q&Aがあった。
Q:国指定重要文化財などに指定されると維持するための予算は給付されるんですか?
A:
納得いかないかもしれませんが、維持のための給付は一切ありません。
さらに、修理した際も、国の指示によらない限り一切の経済的負担は所有者持ちです。
修理に要する金額が莫大となる場合、一部を援助されるようですが、莫大の基準が分かりません。
加えて、勝手に手を加える事もできません。
合法的な召し上げみたいなものです。
観光収入をもくろむのであれば、『国指定重要文化財』の看板は魅力的かもしれませんが、個人所有の場合、こんな指定は迷惑極まりないものです。
Q:お上もむちゃくちゃなことしますね。

やっぱり、入館料は支払うべきであったかも...。
因みに、常総市のホームページを見ると「(略)主屋は、平成15~18年に解体修理が行われ、その過程で増改築の変遷がほぼ明らかとなったことから、座敷部が増築されて形が最も整った天保9(1838)年の姿に復元された。(略)」とあり、この解体修理には国から補助金が交付されたであろうと思われる。

表門を入る。
表門右手の納屋に案内される。
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納屋に設けられたビデオ設備で「坂野家住宅」の解説を聞きながら、概要をベンキョーしたのち、住宅内をめぐる。

フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-05 05:05 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)
2013年 11月 04日

『将門の郷ポタ/菅公神忌千百年』 sk-4

大生郷天満宮をあとにして、坂野家住宅へと向う。
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「坂野家住宅 約750m →」の標識に従い、右折すると大生郷天満宮の裏手の道となった。
右手に大きな駐車場や池が設えられた公園、左手に鳥居が見える。
「御祭神 市杵島姫命 厳島社(弁財天) 水・陸上交通、芸能、学問の守護神」とある。
ミニ太鼓橋を渡り、可愛らしい祠に参拝する。  
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池には睡蓮が咲き、大きな錦鯉が泳いでいる。
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「ここも大生郷天満宮の一角のようですね」、「さっき、境内で大きな看板に『千百年記念事業』云々と書かれていたので、その記念事業のひとつかもしれませんね」と南国殿と会話を交わす。
本ブログを綴るにあたって、今一度、境内に掲げられていた大きな看板を見直してみた。
「御祭神菅原道真公御神忌千百年大祭記念事業御奉賛の御案内」。
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御神苑完成予想図の左上に「上池」、「上池」の出島に「弁財天」、その他、「大黒天」、「恵比寿」の記述が見られる。
その西側には、「御廟」、「祭碑」の記述も見られる。
「厳島社(弁財天)」や睡蓮と錦鯉の「上池」は記念事業で整備されたものであることは間違いない。
お金のことを言っては何だが、総事業費2億円、立派な設えである。

「神忌千百年」がいつだったのかを知りたく、電脳網を紐解いてみた。
大生郷天満宮の宮司さんによる2002年11月20日の卓話が掲載されていた。
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菅原道真公没後1100年(西暦903年2月25日<陰暦>にお亡くなりになっています。)と言うことで、全国の天満宮で今年3月か4月にあちこちで大祭が行われています。
私のところでは、色々な事情があり秋まで延ばしました。
裏の境内を拡張して報恩寺との縁のお鯉様の池を復活させました。
御神体が道真公の御遺骨なので、それを納める御廟を作ることになり、御廟天神画に基づいて、お墓の形を直径1100ミリの宝珠と決めました。
(中略)
道真公が九州に流されたのが原因で京都に色々なことが起こり、恨みではと思うようになり、道真公の霊をなぐさめる為に神として祀った。  
本来は恐ろしい神様なんだと言うことに基づいて、道真公のように生きたい、生きる人生の教訓的な神様として祀られました。  
いつの間にか学問の神様になってしまいました。
室町以降、寺子屋が発達して寺子屋の守り神に。
読み書きそろばんを教えただけでなく、人生訓を語るのも寺子屋だった。
そういうところの守り神だったのが、だんだん学問だけになってしまった。  
学校へ行っているときだけが勉強ではなく、一生勉強だろう、そういうところの守り神であるべきなのでは、と私は思うのです。  
大変、今の時代にもあう神様ではないかと思います。  
機会がありましたら、お参りいただけたらと思います。
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神忌千百年は2002年のことだったのである。
そして、誠に結構な卓話でもあった。
大きな看板には「神苑は(中略)平成13年(2001年)より10年乃至15年の歳月を掛けて建設、設置する」とあり、看板はまだ掲げられたままなので、工事はまだ継続中なのかもしれない。

寄り道はポタの常ながら、またまた、寄り道をしてしまった。
さあ、今度こそ真っ直ぐに、坂野家住宅へ向うぞ!
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「坂野家住宅」に到着!
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フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-04 10:19 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)
2013年 11月 03日

『将門の郷ポタ/大生郷天満宮(下)』 sk-3

大生郷天満宮。
境内で幾つかのコレクションを。

狛犬コレクション。
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阿形。
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吽形。
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ふっくらとした狛犬である。
前肢の肩口から肢に掛けての丸みが殊の外よい。
石積みの台座も立派だ。
久し振りの狛犬コレクションであった。

龍コレクション。
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目から鼻先に掛けての膨らみ方が大きく、ひょうきんな感じの龍である。
久し振りの龍コレクションであった。

牛コレクション。
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9月初旬に長野の善光寺を参拝した。
「牛に引かれて善光寺参り」の謂れをベンキョーした。
ここ、大生郷天満宮では「天満宮と牛」をベンキョーした。
北野と大宰府でもベンキョーしたことがあったので、正確には復習したというべきかもしれないが...。
9月は牛に縁のある月であった。
因みに、狛犬と龍の蒐集癖はあるが、牛の蒐集癖はない。

「さざれ石」。
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さざれ石は、各地の神社仏閣でよく目にする。
学名は石灰質角礫岩。
石灰岩が雨水に熔解して、その石灰分を含んだ水が、時には粘着力の強い乳状態となり、地下で小石を集結して大きくなる。

話は少し逸れるが、先日、プロ野球日本シリーズで国歌独唱を聴いた。
♪ さざれ石の ♪のところで、♪ さざれ ♪/ブレス/♪ 石の ♪と歌っていた。
違和感があった。
小学校で「君が代」を習ったとき、歌詞の意味はこれこれなので、♪ さざれ石の ♪ の「さざれ」と「石」の間で息継ぎをしてはいけません。一息に「さざれ石の」と歌うように、と教えられた。
念のため、「君が代 息継ぎ」で検索してみたところ、こんなサイトにヒットした。
-----------------------------------
息継ぎは v で示します。
君が代は v
千代に八千代に v
さざれ石の v
巌となりて v
苔の v むすまで
「さざれ石の」を一息で歌うのはプロの歌手でも難しいようです。
-----------------------------------
一息で歌うのが難しいのではなく、意味を解していないということであろう。
国歌は勿論のこと、日本語は大事にせねばならないという事例のひとつであろう。

「刀研石」。
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刀研石(かたなとぎいし)
本碑二面は 当天満宮が真壁町羽鳥より当地へ奉遷された由来を記した縁起碑である
古来 本碑を「刀研石」と呼び、この碑の力で研げば心願が成就すると伝わる
本碑は もと当社の東北方七百米 住吉の表参道入口「鳥居所(とりいど)」に存在した
現在二面とも長年の風雪により摩滅し読むことはできないが 明治四十年の解読により左の百二十六文字を刻す

常陸羽鳥菅原神社之移
菅原三郎景行兼茂景茂等相共移
従筑波霊地下総豊田郡大生郷
常陸下総菅原神社
為菅原道真郷之菩提供養也
 常陸介菅原景行所建也
      菅原三郎景行卌十四才也
      菅原兼茂卅十七才也
      菅原景茂三十才也
菅公墓地 移従羽鳥
定菅原景行常陸羽鳥之霊地墳墓也
   延長七年二月廿五日
------------------------
誠に興味深い、二面の石碑である。
いつも思うことだが、「石の文化」はタイムカプセルである。

大生郷天満宮をあとにして、坂野家住宅へと向う。

フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-03 18:27 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)
2013年 11月 02日

『将門の郷ポタ/大生郷天満宮(上)』 sk-2

「大生郷天満宮 坂野家住宅」の標識に従い、横道に入る。
坂野家住宅の手前にある、大生郷天満宮に立ち寄る。
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ここに至る途中、「大生郷天満宮」の看板を見た。
しかし、「大生郷」の読み方は分からないし、天神社ならまだしも、何故、この辺りに天満宮があるのかとの疑問があった。
早速、大生郷天満宮の説明書きに目を通す。
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大生郷天満宮(おおのごうてんまんぐう)
大生郷天満宮は、延長7年(929年)、右大臣菅原道真の第三子三郎景行の創建とされる。
遺族の手による、また、遺骨を祭祀していうことから、数多い天神社の中でも日本三大天神の一つとされ、「学問の神様」として広く知られている。
道真が九州大宰府に憤死(延喜3年、903年)して後、景行は役人として常陸国に赴任。
延長4年(926年)、現在の真壁町羽鳥に遺骨を祭祀したが、延長7年、家臣数人とともにこの地に足をとどめ、飯沼畔の景勝地でもあった高台の現在地に道真を祀った。
その後、当地南方に天満宮の守護のため、「安楽寺」(現在の正覚山安楽寺、元三大師)を建立し、祈願寺とした。
東方1キロの「三郎天神社」は、後世、三郎景行の供養のために建てられたものである。
本殿、拝殿等は天正4年(1576年)の兵火のために焼失。
その後、下妻城主多賀谷氏の援助により再興されたが、大正8年(1919年)、再度の火災により社殿は焼失し、往時の姿を偲ぶことはできない。
大生郷天満宮には、「御廟天神画」、(県指定文化財)、「神酒天神画)(同)、「北野天神縁起絵巻」(同)、「三十六歌仙」(同、多賀谷氏寄進とされる)、あるいは、画幅「十一面観音像」(市指定文化財)などの貴重な文化財が保存されている。
初詣、正月25日の「初天神」、あるいは、8月1日の「八朔祭」には、大勢の参拝客があり、境内は大変な賑わいをみせている。
常総市観光協会
常総市教育委員会
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「大生郷」は「おおのごう」と読むのだ。
地名の由来について調べてみたが、当地の「大生郷」については分からなかった。
但し、こんな記述を見付けた。
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千葉県成田市大生(おおう)/市の北部。藩政村。大きな山の峰を意味する大峰(オオオ)から転訛したものともいわれる。
茨城県潮来市大生(おおう)もある。
石川県輪島市門前町大生は「おはえ」と読む。
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大生郷(おおのごう)なる地名は全国で茨城県常総市大生郷町だけのようだ。

菅原道真の第三子が常陸国の役人であったことを初めて知った。
景行が居を構えたという真壁町は「つくばりんりんロード」ポタリングや真壁の雛祭りで幾度か訪れたことあり、親しみ深い町なので、景行にも親しみが湧く。
景行は将門の一族と親交があったとも言われている。
その辺りのことは改めて調べてみたいと思う。
また、機会あれば、当地の「三郎天神社」に参ってみたいと思う。

大生郷天満宮が日本三大天神のひとつであるとは知らなかった。
疑う訳ではないが、念のため、電脳網で調べたところ、「大宰府天満宮(福岡)、北野天満宮(京都)、大阪天満宮(大阪)の三つを称して日本三大天神という。しかし、これには諸説あり、大阪天満宮の代わりに、防府天満宮(山口県)か、小平潟天満宮(福島県)として、日本三大天神と称する説もある」とのことだ。
北野天満宮は浪人後の受験で御利益あり、大宰府天満宮は、昨年の夏、初めて参拝した。
然様なこともあり、小生としては、大宰府と北野に、当地、大生郷を加え、日本三大天神としたい。

参拝。
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フォト:2013年9月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-11-02 19:06 | 将門の郷ポタリング | Comments(0)