『上総守が行く!』

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カテゴリ:赤穂浪士討入凱旋の旅( 32 )


2014年 03月 14日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(8)

「四家お預けの旅」。
この旅は、本所松坂町から高輪泉岳寺までの「赤穂浪士討入凱旋の旅」のあとの恒例としている。
いつもは旧細川邸、旧水野邸、旧松平邸、旧毛利邸の順で巡っているが、今回は日程と行程の都合上、2月16日に旧毛利邸、2月23日に旧水野邸、旧細川邸、旧松平邸の順で巡った。

長府藩毛利家下屋敷(2月16日)。
「お上りさんポタ/江戸市中雪景色」の途中、こちらに立ち寄った。
「こちら、六本木ヒルズ/毛利庭園で御座います。毛利庭園は長府藩毛利家下屋敷跡で御座います。赤穂浪士討入りの後、浪士10名がこちらの屋敷にお預けと相成りました。討入りの翌年の、元禄16年(1703年)2月4日、当屋敷にて切腹と相成りました」。
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バレンタイン・デーの名残りであろうか、庭園内に金色のハート模様が見える。

三河岡崎藩水野家下屋敷(2月23日)。
「お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅」の途中、泉岳寺の手前でこちらに立ち寄った。
「こちら、田町駅前・芝・慶応仲通り商店街/三河岡崎藩水野家下屋敷跡で御座います。今や、屋敷跡の風情はなく、商店街の片隅に東京都教育委員会の説明板があるだけとなっています」。
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東京都指定旧跡/水野監物邸跡/昭和18年(1943)3月16日指定 
この地は赤穂事件で、吉良邸討入りに加わった大石内蔵助良雄ら47人のうちの9人が預けられた三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部である。
水野家は、のちに天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名の名門の家柄で、水野監物忠之(1669~1731)は、第4代藩主である。
元禄14年(1701)3月浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央に対する殿中刃傷事件の折りには、幕命により鉄砲洲の赤穂藩邸(中央区明石町の聖路加国際病院)に赴き、混乱を防いだ。
元禄15年(1702)12月15日、元赤穂藩士たちのお預けが決まると、直ちに江戸詰藩士150余人と留守居小川九郎右衛門を請取人として千石伯耆守邸(港区虎ノ門2-8)に遣わした。
間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の9人は、この屋敷へ収容された。
翌元禄16年(1703年)2月4日、幕府の裁きにより9人は、この屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げた。
水野家は細川家とともに元赤穂藩士の取扱は丁重で世評もよく、「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況をよく伝えている。
平成13年(2001年)3月31日設置
東京都教育委員会
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「これを読んでお分かりの通り、お預け四家の浪士に対する扱いは『細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる』とのことであったようです。しかし、江戸庶民が武家屋敷の中の様子を知る由もなく、これが真実かどうかは定かではありませぬが、屋敷へ出入りする商人らが見聞きしたものが風聞となり、斯様な落首となったのかもしれません」。

肥後熊本藩細川家下屋敷(3月23日)。
高輪泉岳寺「お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅」を終え、高輪中・高等学校脇の細道をたどり、急坂を上り、旧細川邸跡へと向った。
「右手の高い塀は高松宮邸。今は高輪皇族邸となっております」。
路地に入り、都営高輪アパート内の「大石良雄外十六人忠烈の跡」へと案内する。
「こちら、肥後熊本藩細川家下屋敷で御座います」。
「えっ?史跡は僅かこれだけ?」。
「はい、これだけです。ここら辺り一帯が細川家下屋敷でありましたが、今、残っているのはこれだけであります。こちらの屋敷には大石内蔵助以下17名がお預けとなりました。先ほど、水野家屋敷跡で見た落首で、細川家の扱いはよかったということになっています。これは大石内蔵助がいたからかもしれません」。

伊豫松山藩松平家下屋敷(3月23日)。
旧細川家下屋敷から三田へと向かう。
「こちら、イタリア大使館です。旧伊豫松山藩松平家下屋敷跡であります。こちらの屋敷には大石主税以下10名が預けられました」。
イタリア大使館の表門の大きな鉄製の扉が開けられていた。
何度もここを訪れているが、表門が開いているのは珍しい。
黒いスーツ姿が幾人か外にいた。
"魔非亜"ではなく、ガードマンなのであろうが、ちょっと怖そうだったので、jitensha を止めずにそのまま通り過ぎた。
「『瑤泉院ゆかりの地を訪ねて』もありますが、時間の都合上、カットし、これにて今日のポタは終了としましょう」。

「お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅+お預け四家の旅」を終えて、新橋駅前で反省会。
「坂本龍馬は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が極め付け。黒田勘兵衛は同じく司馬遼太郎の『播磨灘物語』が極め付け。しからば、忠臣蔵や赤穂浪士の極め付けは何になるねん?」。
「極め付け。それはなかなか難しいことで、グッド・クエスチョンやね。忠臣蔵や赤穂浪士の物語はそもそもは歌舞伎が拠って来たるところ。小説では、大仏次郎の『赤穂浪士』をはじめ、いっぱいあるね。因みに、NHK大河ドラマの原作でいうと、『赤穂浪士』は大仏次郎の同名小説、『元禄太平記』は南條範夫の同名小説、元禄繚乱』は船橋聖一の『新・忠臣蔵』、『峠の群像』は堺屋太一の同名小説などがあるね。森村誠一も『忠臣蔵』を書いているけど、彼の対談集で、過去、先輩作家が多くの忠臣蔵を著しているので、自分はトラック10台分の資料を読んで書き上げたと言うておりました。池宮彰一郎は視点を変えて『四十七人の刺客』を著し、清水義範は吉良さん側から描いた「上野介の忠臣蔵」を著しています」。
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これにて、「お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅+お預け四家の旅」を終えた。
上総の趣味の押し付け気味コースであったが、ひとつの纏まったテーマでのポタとしては"ええコースや!"と自画自賛している。
噴耐衛門殿にも満足いただけたと思いたい。

フォト#1:2014年2月16日、
フォト#2、3、4、5:2013年11月16日/ワープステーション江戸にて

(完)
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by kazusanokami | 2014-03-14 12:31 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 03月 09日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(7)

愛宕山から芝神明へと向う。

芝神明。
「こちらは芝神明で御座いまーす。石段上、左右の狛犬の台座をご覧くださーい。台座に『め組』と刻まれております。この辺りは町火消しの「め組」のテリトリーであったとのこと。浅野内匠頭と『め組』の間に親交があったかどうかは定かではありませんが、彼は江戸の消防に大変熱心であったとのこと。これは江戸の町には非常に大事なこと。浪士たちの討ち入り時の出で立ちは火事装束であったとの説もあり、内匠頭が消防に熱心であったことと関係があるのかなと、ここ、芝神明の『め組』の文字を見ると、そう思う次第。浪士たちの討ち入り装束については諸説ありますが、討ち入りに向かう際、火事装束であれば、万一、咎められても誤魔化せられるということで、討ち入りは火事装束であったというのが正しいのではないかと思う次第でありまーす」。

さて、我々は汐留から浅野内匠頭終焉の地/田村右京太夫屋敷跡を経て愛宕山、芝神明へと巡ったが、浪士たちが辿った道からは少々外れているので、ここで正しい(???)凱旋ルートを綴っておこう。
現在は汐留と言われているが、江戸古地図によれば、当時、この辺りは芝田町と呼ばれ、仙台藩の江戸屋敷があったとのこと。浪士たちは、仙台藩江戸屋敷を左に折れて、江戸古地図風に言うと、源助町、露月町、柴井町、宇田川町、本芝町(現在の第一京浜国道沿いの新橋五・六丁目、芝大門一・二・四丁目)を通り、金杉橋へ出たものと思われる。

芝神明をあとにして、第一京浜を走る。
第一京浜は東京マラソンのコースとなっており、通行規制が懸念されたが、既に昼を回り、規制は解除されていた。

JR田町駅前/「西郷・勝会見の地」碑。
「ここら辺り一帯は薩摩屋敷。勝海舟と西郷隆盛が会見した場所でありまーす。この会見に先立ち、二人で愛宕山から江戸の町を眺めたので御座いまーす。愛宕山は、先ほど、訪ねた通りで御座いまーす」。

JR田町駅前/水野邸跡に立ち寄る。
この地の解説は、後ほど、「お預け四家の旅」でまとめて綴ることとしたい。

泉岳寺。
「泉岳寺に到着しましたーっ!」。
中門を抜ける。
山門脇に立つ大石内蔵助像を眺める。
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大石内蔵助辞世の句「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」。
内蔵助の気持ちを表したかのような青空である。

「12月14日、義士祭の頃には参道から境内にずらっと露店が並びます。本堂の左角辺りに中央義士会の出店もあり、同会発行の書籍が売られます。出店を訪れ、中島先生はお元気ですかと尋ねることにしています。中島先生とは中央義士会理事長の中島康夫氏であります。何年か前に某大学の特別講座で彼の講演を聞いたことがあるんで。ただ、中島先生は史実が全てという御仁なので、史実とフィクションを綯い交ぜにして愉しんでいる小生とはちょいと相容れないところがあります」。

赤穂義士墓地へと向う。
墓地の門をくぐると、いつもと変らず、線香の煙りと香りが漂っている。
「こちら、内匠頭の妻、瑤泉院の墓で御座います」。
「こちら、内匠頭の墓で御座います。3月14日の内匠頭の命日や12月14日の討入りの頃には、多くの花が手向けれれています」。
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「こちらが浪士たちの墓で御座います」
浪士たちの墓をぐるっと巡る。
浪士の一人、間瀬久太夫の墓の前で、我らの国許でのことについて次のように触れた。
「間瀬久太夫は、我らの国許の人丸山にゆかりのある御仁です。間瀬久太夫は大石内蔵助と共に人丸山の月照寺を訪れ、『八つ房の梅』を植えたとのこと」。
「『八つ房の梅』いうたら、柿本神社やろ」。
「『八つ房の梅』は月照寺と柿本神社の両方にあるんです。月照寺のは"霊樹"、柿本神社のものは"本名"となっています。国許に戻ったら、月照寺と柿本神社を訪ねてみてください。"霊樹"と"本名"と刻まれたふたつの石標を見ることが出来るでしょう」。

久しぶりに、2000年12月に綴った「赤穂浪士討入凱旋の旅」/番外編/第6編「明石・八つ房の梅」を紐解いてみた。
月照寺と柿本神社の能書きを次の通り記していた。
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(略) 月照寺の「八ッ房の梅」の能書きは次の通りである。
石標には「八房梅霊樹」と刻まれている。
説明書きには「元禄15年(1702年)、赤穂浪士大石良雄、間瀬久太夫の両人、当山へ参拝し、素願の成就を祈り、大石氏は墨絵鍾馗の図を描きて奉納。間瀬氏は持参の梅の鉢植え八ツ房を移植して祈願の印となした。この梅は紅梅で、ひとつの花から七、八個の実を結ぶので、八ツ房の梅と称され、多くの人々に親しまれている。現在は三代目である」と記されている。
柿本神社の「「八ッ房の梅」は、「本名 八房梅」と石標に刻されている。
説明書きには「元禄の世の赤穂浪士、間瀬久太夫が主君の仇討ちを祈って植えたと伝えられ、ひとつの花に八つの実を結びます」と記されている。
ひとつは“霊樹”、もうひとつは“本名”とされており、いずれの梅が本物かということになるが、そうした野暮な詮索は無用のことと思いながら、大石さんと間瀬さんも眺めたであろう明石海峡と淡路島を人丸山から久し振りに見た。大きく変わったのは、瀬戸大橋が架けられたことである。(後略)
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この日、泉岳寺を訪れて嬉しかったことを綴っておこう。
それは、「これは誰々のお墓だよ」と説明するパパ、その一言で、「これはだーれ?」、「これはだーれ?」と次々と質問するお嬢ちゃんに遭遇したことだ。
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赤穂浪士好きの若いファミリーさん、なかなかいいぞ!

フォト:2014年2月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-09 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 03月 05日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(6)

愛宕山。
「こちらが、徳川家康創建の愛宕神社、立派な角を持つ狛犬、曲垣平九郎/出世の石段の逸話、フェリーチェ・ベアトのパノラマ写、勝海舟・西郷隆盛会談の場、几号水準点、NHKなどなど、話題満載の愛宕山で御座いまーす」。

出世の石段。
「こちらが出世の石段で御座いまーす」。
「えらい急な石段ですなあ。写真、撮っときます」。
写真を撮りながら、石段とか坂道とか写真ではその急さが上手く撮れないんだよね」。
「その昔、三代将軍徳川家光が、増上寺参詣のあと、ここを通り掛かったところ、梅の香りが。誰か梅の枝を取って参れと命じるも、急な石段を馬で駆け上がる勇ましい近習は居りませなんだ。そんなとき、馬で一気に駆け上り、梅の枝を持ち帰った武士が居りました。丸亀藩家臣、曲垣平九郎でありました。何故、ここで丸亀藩尾の家臣が登場したのかは分かりませんが。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれであると家光、大いに褒め称え、平九郎の名は全国に轟いたとのこと。これが『出世の石段』の逸話。新橋・新正堂には『切腹最中』のほかに『出世の石段』なる和菓子も御座いまーす。新正堂のご主人はアイデアマンなのでありまーす」。

石段を上る。
「結構、きついな」、「金比羅さんに比べたら、マシやろ」などと言いながら。
「こちらが徳川家康の創建による愛宕神社で御座いまーす」。
社殿はシートで覆われ、メインテナス(?)工事中であった。
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「先週、訪れた芝東照宮も工事中でしたね。あれは金剛組、こちらは安藤ハザマですね」。

「曲垣平九郎/出世の石段の顔抜き看板はこちらで御座いまーす。記念写真を撮ったげましょか」。
「それは、ええワ」。
「勝海舟と西郷隆盛の顔抜き看板はこちらで御座い...。あれ?なくなっていますね」。

勝海舟、西郷隆盛会談の場。
「江戸城明け渡しについて、行き詰まり状態にあった勝海舟と西郷隆盛の二人は、家康公ゆかりの地、愛宕山に上り、江戸の町を見渡しました。どちらが言い出すでもなく、江戸の町を戦火で焼失させるは忍びない、とし、山を下り、その後、三田の薩摩屋敷にて両人、会見し、江戸城無血開城に至ったのでありました。三田の薩摩屋敷は後ほど立ち寄りまーす」。

フェリーチェ・ベアトのパノラマ写真。
「幕末に、イタリア人写真家フェリーチェ・ベアトが、ここ、愛宕山から江戸の町並みのパノラマ写真を撮っています。その写真は、2年前、佐倉の国立歴史民俗博物館で開催された『風景の記録-写真資料を考える-』と恵比寿の東京都写真美術館で開催された『フェリーチェ・ベアトの東洋』で見たことがあります。その写真には、先ほど、案内した田村右京太夫の屋敷内にあった『お化け銀杏』もちゃんと写っておりまーす。その写真は、追って、ブログに掲載しておきまーす」。

「愛宕山から見た江戸の街並み」(1863年8月、フェリーチェ・ベアト撮影/長崎大学付属図書館蔵/『風景の記録-写真資料を考える-』ポスターより)
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写真中央から少し左寄りの、黒く凸になっているのが「お化け銀杏」である。

NHK。
「奥の白い建物は愛宕放送局で御座いまーす。JOAKです。今はNHK放送博物館となっておりまーす」。

几号水準点。
「こちらの『起倒流拳法碑』の右下をご覧ください。『不』の刻印が刻まれています。明治の初めに刻まれた几号水準点でありまーす。今は使われておりません」。

三角点。
「現役の、三角点をお見せしましょう」。
池から少し離れた場所にある「三角点」の石碑の前にある鉄製の蓋を開ける。
地中に埋め込まれた三角点が現れる。
「目線を変えれば、愛宕山には几号水準点や三角点など結構ディープな世界があるでしょう」。

男坂の石段を上ったので、女坂の石段を下る。
石段下の狛犬を眺める。
「去年、一昨年といろんな狛犬を蒐集。こちらの狛犬は頭に角のある狛犬。富岡八幡宮の狛犬は可哀想に角が抜けていましたが、ここの狛犬は立派な角が生えてます」。
「これはブロンズやね」。
「その通り。狛犬の型式分類分析をせにゃならんのですが、サンプル数が膨大なものとなっており、手付かずとなっていまーす」。

さて、愛宕山について、あれこれ述べたが、ひとつ、伝えるのを忘れていたことがある。
それは、愛宕山と浪士たちの関わりである。
関わりと言っても直接のつながりはないが、ひとつ、言えることがある。
浪士の中の二人、吉田忠左衛門と冨森助右衛門が、吉良邸討入りの事と次第を報告すべく、泉岳寺に向う一行から離れ、幕府大目付仙石伯耆守の屋敷を訪ねたとのことだ(自首したとの説もある)。
大目付仙石伯耆守の屋敷は愛宕山の北西、現在の虎ノ門二丁目、日本消防会館の辺りにあったとのことで、吉田忠左衛門と冨森助右衛門は愛宕山を眺めながら仙石邸へ赴いたと思われる。

フォト:2014年2月23日、2012年1月8日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-05 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 03月 02日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(5)

歌舞伎座裏の「銀之塔」で昼餉を摂ったあと、再び、地下鉄東銀座の階段を使って、東京マラソンで横断規制中の晴海通りを渡り、昭和通りを走り、新橋方面へと向う。

「先週のポタで訪れた汐留で御座いまーす」。
「先週のポタで訪れた新橋駅で御座いまーす」。
「先週のポタで汐留から眺めた、工事中の環状2号線(マッカーサー道路)で御座いまーす」。
「先週のポタで質問のあった、建設中の高層ビルの名前は"虎ノ門ヒルズ"で御座いまーす。詳しくはマイ・ブログ『お上りさんポタ/江戸市中雪景色』をご覧くださーい」。

奥州一ノ関藩田村右京大夫邸跡。
「その昔、この辺り一帯は奥州一ノ関藩の上屋敷でありました。元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭は、江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こした後、ここ、田村邸にお預け。将軍綱吉の裁断により、ここ田村邸で、即日切腹」。
「浅野内匠頭 辞世の句は『風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとかせん』。3月14日は旧暦。新暦では4月21日。桜の花が関わっていてもおかしくない季節でありました」。
「新橋四丁目交差点近くのタバコ屋の前に『浅野内匠頭終焉之地』と刻まれた石碑がありましたが、環状2号線の工事で撤去されています。今は東京都が預かっているとのことです」。

田村銀杏稲荷大明神。
「ここは田村銀杏稲荷大明神が祀られていた場所です。田村右京太夫の屋敷内には『お化け銀杏』と呼ばれるほどの大きな銀杏の木があったそうです。その銀杏を祀った祠がここあったのですが、これも環状2号線の工事で撤去されています。再建されるのかどうかは不明ですが、再建しなければ罰当たりとなるでしょう」。

新正堂。
「こちらは『切腹最中』でチョー有名な新正堂で御座いまーす。本日は日曜で、定休日となっておりまーす」。
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「『切腹最中』は、以前は浅野内匠頭の命日である3月14日だけしか売っていない頃もありましたが、今では年中、販売しておりまーす」。
「討入凱旋の旅の12月14日が日曜だったとき、電話で定休日ですか?と尋ねたところ、そのような電話が多いので、夕方3時まで開店しますとの答えを貰ったこともありました」。
「サラリーマンが客先に謝りに行くときに新正堂の『切腹最中』を持参するという話も聞きますが、幸いにも、小生は然様なことはありませんでした」。

「次は愛宕山へ参りましょう。幕末の頃、フェリーチェ・ベアトが愛宕山からパノラマ写真を撮り、田村邸のお化け銀杏がバッチリ写っていた場所です。家康創建の愛宕神社、立派な角の狛犬、曲垣平九郎/出世の石段、、勝海舟・西郷隆盛会談の場、几号水準点、NHKなどなど、話題満載の場所で御座いまーす」。

フォト:2014年2月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-02 18:27 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 03月 01日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(4)

富岡八幡宮から深川不動尊に向け、走る。
「富岡八幡宮には東京マラソンに出動した神輿の他に、日本一の大神輿といわれる一宮神輿が御座いまーす。この大神輿の鳳凰や狛犬の目はダイヤモンド、鳳凰の鶏冠はルビーとなっております。神輿庫の前に骨董市の店が出ていたので、この神輿は見ていませんが」と説明しているうちに深川不動尊に到着。

深川不動尊。
「こちらは成田山新勝寺の東京別院。通称、深川不動尊で御座いまーす」。
「門前仲町の門前とは?」。
「深川不動尊の門前ということでありましょう」(正確には、富岡八幡宮の別当・永代寺の門前でありました)。

深川不動尊参道/小磯象牙店。
「こちらが、ショーウィンドーの中は撮影禁止の象牙店で御座いまーす」。

永代通りを東から西へと走る。
永代橋を渡る。
「右手、東京スカイツリーが見えまーす。左手、佃島の高層マンション群、その後方右手は聖路加タワーで御座いまーす。後ほど、聖路加タワー近くを走りまーす」。
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永代橋、隅田川右岸、中央大橋、佃島マンション群"大川端リバーシティ21"の東岸、相生橋へと進む。
「これで、佃島、石川島、越中島などを走ったことになりまーす」。
東京海洋大学、明治丸を眺め、再び、相生橋を渡り、中央大橋北詰、南高橋を経て、鉄砲洲神社の前を通り、聖路加病院に至る。

「中央大橋北詰から南高橋を渡る辺りが昔の霊岸島、今の中央区新川、南高橋を渡った辺りからが昔の鉄砲洲、今の中央区明石町でありまーす」。

「左手のビルが、先ほど、永代橋から眺めた聖路加タワーで御座いまーす。右手の道へと進みまーす」。

「こちら、立教学院発祥の地で御座いまーす。ハリポタ藩摂津守殿つながりでの案内でありまーす」。

「こちらの説明板にあります通り、ここが芥川龍之介生誕の地で御座いまーす。ここで生まれて、今朝ほど訪ねた両国の辺りで育ったのでありまーす」。

「こちらの石柱『浅野内匠頭邸跡』にあります通り、ここが赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷で、『鉄砲洲上屋敷』とも呼ばれていたそうで御座いまーす。この地で生まれた芥川龍之介が短編小説『或j日の大石内蔵助』を著したのも何かの縁かもしれません」。

鉄砲洲から少し走り、新大橋通りに出る。
新大橋通りを走る東京マラソンの一団に遭遇する。
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(注:大塚製薬「アミノバリュー」の宣伝ではありません)
しばし、応援したあと、築地本願寺を訪ねる。

築地本願寺。
「えらく、風変わりな建物ですなあ」。
「西域探検をした大谷光瑞が天竺様式をイメージして伊東忠太に設計を頼んだとのことで御座いまーす」。
「石段下の狛犬をご覧くださーい。西方風に羽を生やした狛犬となっておりまーす」。
「ほんまやなあ。オリエント調やなあ」。

本堂。
「前回、来たときは大谷光瑞の西域探検の様子が展示されていたんですが、残念ながら、今回はありませんね」。
前々日、サントリーホールの演奏会でパイプオルガンを見たので、意味はないが、それつながりで本堂のパイプオルガンをカメラに収めた。
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本堂から東京マラソンを眺める。
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アップで。
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「築地本願寺は赤穂浪士ゆかりの地でも御座いまーす。こちらは、間新六供養塔で御座いまーす。説明書きにあります通り、吉良邸から泉岳寺に向う途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結び付けて、寺の中へ投げ入れたという伝承があります。この伝承からしても、吉良邸から隅田川東岸、永代橋、霊岸島、鉄砲洲を通り、泉岳寺に向ったと思われます。元赤穂藩浅野家上屋敷の近くも通ったと思われます」。

築地四丁目交差点で信号待ち。
晴海通りから新大橋通りへと走る東京マラソンの一団を眺める。
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一団の左端に、バットマンとスーパーマンの姿が見える。
原図トリミングで、その姿を。
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この数日後、友人のIF氏、TT氏、TK氏と一献傾けた際、IF氏は東京マラソンに出場したとの話があった。
出場者は36000人であったとの由。
築地四丁目交差点のフォトを電子飛脚便添付にて謹呈しておいた。

「そろそろ、昼餉時。歌舞伎座裏の『銀之塔』でビーフシチューを食べましょか」。
2009年12月、ハリポタ藩六々守殿、御典医殿、盟友印旛歩駄守殿夫妻と共に「赤穂浪士討入凱旋の旅」をした際の昼餉も『銀之塔』であったことを思い出し、この店にしたのであった。

昨年4月に新開場した五代目歌舞伎座と東京マラソン。
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歌舞伎の演目といえば、「仮名手本忠臣蔵」、そして、「元禄忠臣蔵」。
「歌舞伎座も『赤穂浪士討入凱旋の旅』の大事な立ち寄り先なのである。
浪士たちはこの辺りを通って泉岳寺に向ったのであろうが、そのときは未だ歌舞伎座がある訳ではなく、また、浪士たちは自分たちが芝居になろうとは夢にも思わなかったであろうが...。

三原橋交差点を歌舞伎座側に渡ろうと思うも、交通規制で渡れない。
jitensha を担いで、地下鉄東銀座駅の階段を下りて反対側に出た。
久方ぶりに「銀之塔」のビーフシチューを味わった。

フォト:2014年2月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-01 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 02月 28日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(3)

両国橋東詰から隅田川東岸を南下。
永代橋東詰にて、堀部安兵衛に倣い、永代通りを走り、富岡八幡宮へと向う。

富岡八幡宮。
参道の入り口に、はとバスが止まっている。
大鳥居の下には、荷台に神輿を載せたトラックが止まっている。
神輿の担ぎ手もいる。
神事の設えもなされている。
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近くにいた神主さんに尋ねてみた。
「今日は何があるんですか?」
「東京マラソンの応援に行くところなんです」。
嘗て、東京都心部で行われていたマラソン大会は、エリートランナー向けフルマラソンの「東京国際マラソン」(男子)と「東京国際女子マラソン」、市民ランナー・障害者向け10kmロードレースの「東京シティロードレース」があったが、それらを統合して2007年から「東京マラソン」となり、今年は第8回目となる。
築地から東銀座の辺りと第一京浜で我らの討入り凱旋の旅とコースが重なるところがあり、迂回せねばと思っているが、今のところ、まだ、重なってはいない。

伊能忠敬像。
「伊能忠敬は幕府に仕えるようになってから、この界隈に住むようになりました。測量の旅の都度、出立前に富岡八幡宮に旅の安全を祈願したとのことでありまーす。詳しくは、マイ・ブログの『伊能忠敬間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて』をご覧ください」。

大関力士碑。
「碑の台座に刻まれた寄進者の名をご覧ください。山田隆夫、山田太一の名があるでしょう。山田太一たって、脚本家の山田太一じゃ御座いませんよ。笑点の山田隆夫親子です。深川の生まれです。この説明、いつぞや、地元のおっちゃんの案内で知った受け売りでーす」。

骨董市。
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「以前、骨董市で刀の鍔がいっぱい並んでいたので、それを撮っていたところ、写真、撮るな!と店のおっさんに叱られたことがあります。意匠のことで写真を撮られたくないんやということかと。深川不動前の象牙店のショーウィンドウにも写真お断りの貼り紙あり」。

日本最大の神輿と言われている高さ4.4メートル重さ4.5トン、随所に純金・宝石が散りばめられた絢爛豪華な一宮神輿が平成3年(1991年)に奉納されました。神輿の最上部の鳳凰や中段の狛犬のダイヤモンドの目は光り輝いており、非常に豪華な作りになっております。

西参道の空き地/几号水準点。
「これは鳥居の柱や笠木、島木、貫などで御座います。東日本大震災で西参道の鳥居に被害があったとのことで撤去され、野積みされているものです。柱に几号水準点の『不』の刻印がありまーす」。

狛犬。
「この狛犬の頭を上から覗いてみてくださーい。穴が開いていますでしょう。ここに角があったものと思われまーす。角のある狛犬は、午後、訪ねる予定の愛宕神社や芝神明でご覧いただけまーす」。

本殿で参拝。

横綱力士碑。
「こちらは歴代の横綱の名が刻まれた碑で御座いまーす」。
「曙、貴乃花、若乃花で終わっていますねぇ」。
「その後の横綱は裏面へと続きまーす」。
「武蔵丸 ハワイ、朝青龍 モンゴル、白鵬 モンゴル、日馬富士 モンゴル。こうやって、外国人横綱が四代続いていることを目の当たりにすると、ちょっと、寂しいものがありますねぇ」。

八幡橋(旧弾正橋)。
「元は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた弾正橋がここに移設されたもので御座いまーす。鉄橋としては日本最古のものと言われておりまーす。菊の御紋が鋳込まれておりまーす」。

三十三間堂跡。
「この先に、京都の三十三間堂を模した建物があったとの碑がありますが、今日はカットいたしまーす」。

再び、正面参道の大鳥居に戻る。
丁度、東京マラソンへの出陣(?)の神事が執り行なわれていた。
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フォト:2014年2月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-02-28 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 02月 27日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(2)

両国橋東詰から隅田川東岸を南下する。

芭蕉記念館。
「こちらが芭蕉記念館で御座いまーす。芭蕉がこの辺りに住んでいたとの記録はあったようですが、長らく芭蕉庵の場所は特定できなかったとのこと。大正時代に、津波がこの辺りを襲い、芭蕉が好んでいたと言われる石の蛙が出て来たことにより庵の場所が特定できたとのことです。奥の細道に出掛ける前に、ここ、芭蕉庵から少し南にある採荼庵(さいとあん)に移り住んだとのことであります。芭蕉が奥の細道に出掛けたのは元禄2年(1689年)、没したのは元禄7年(1694年)。浪士たちの討入りは元禄15年(1702年)で、既に芭蕉は没していましたが、庵は残っていたと思われ、浪士たちは庵を見ながら泉岳寺への道を歩いたと思われまーす」。

芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉稲荷神社を経て、萬年橋北詰から清洲橋を眺める。
「清洲橋はドイツのケルン市にあっった大吊り橋をモデルにしているとのことで御座いまーす。」
「ええ眺めや!」。

更に南下する。
「こちらの、”平賀源内電気実験地”と刻まれた石碑をご覧くださーい。平賀源内はここら辺りに住まいし、自宅で電気実験を行ったとのことで御座いまーす。平賀源内は讃岐国志度の生まれでありますが、平賀氏は、元々、信濃国佐久郡の豪族であったとのこと。今も佐久市には平賀という地名があるそうで、これ、佐久を国許とするドラポタ藩大給守殿より仕入れた情報で御座いまーす」。

永代橋東詰/乳熊(ちくま)ビル。
「こちらは赤穂浪士と所縁のある乳熊屋味噌店で御座いまーす。討入りの後、浪士たちがこの店の前に差し掛かかったとき、味噌屋の主人は浪士たちに甘酒や粥を振舞ったとのことで御座いまーす。詳しくは石碑をご覧くださーい」。
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赤穂義士休息の地
赤穂四十七士の一人大高源吾子葉は俳人として有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角の門下として俳諧の友でありました
元禄十五年十二月十四日、討入本懐を遂げた義士達が永代橋へ差し掛かるや、あたかも、當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り、作兵衛は一同を店に招き入れ、甘酒粥を振舞ひ、勞を犒らったのであります
大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し、泉岳寺へ引き上げて行ったのであります
昭和三十八年十二月
ちくま味噌十六代
竹口作兵衛識
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「今はここには店はありませんが、毎年12月14日には仮の店が設えられ、味噌や甘酒が売られています。勿論、甘酒が無料で振舞われます。先ほど、両国橋の袂で大高源吾の句をご覧いただきましたが、ここでも大高源吾の名が出て来ます。やっぱり、彼は文人でもあったのであります」。

「一説には、堀部安兵衛はここで一行と別れ、討入本懐成就の御礼のため、門前仲町の富岡八幡宮に詣で、再び、泉岳寺へ向かっている一行に合流したとも言われています。高田馬場の助太刀のときも走りに走って間に合ったということもあり、彼は韋駄天だったのでありましょう。ということで、これから富岡八幡宮へ向います」。

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-02-27 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 02月 25日

『お上りさんポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅&お預け四家の旅』(1)

2月半ばに江戸へ下向したハリポタ藩気毒屋噴耐衛門殿は、2月16日に「お上りさんポタ/江戸市中雪景色」を一緒したあと、相模国、安房・上総・下総国を行脚し、再び、武蔵国へ戻って来た。
2月23日、噴耐衛門殿を上総の超得意のコースである「赤穂浪士討入凱旋の旅」に案内した。

朝9時、JR両国駅に集結。
今日の jitensha。
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いざ、出陣!
京葉道路を少し東へ走る。
「左手、元禄二八そば玉屋さんで御座いまーす。討入り定食、義士御膳なども揃えておりまーす」。
京葉道路を渡る。

本所松坂町。
「この辺りは、今は両国三丁目と称するも、昔は本所松坂町と称していたところで御座いまーす」。
「こちらが芥川龍之介文学碑で御座いまーす。後ほど、芥川龍之介生誕地も訪ねますが、龍之介は幼き頃に母方の実家に預けられ、伯父の養子となり、この辺り(東京市本所区小泉町)で幼少年期を過ごしたのでありまーす」。
「こちらが吉良邸跡で御座いまーす。今は猫の額ほどながら、この一帯が吉良の屋敷となっておりました。何坪くらいあったかは説明書きをご覧くださーい」。
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「こちらが吉良まんじゅうの大川屋さんで御座いまーす。後ほど、切腹最中で有名な新橋の新正堂さんへもご案内しまーす」。
「12月14日の討入りの頃には、この一帯に店が出て、元禄市吉良祭が催されまーす。ちゃんこも食することが出来まーす」。

回向院。
「討入りのあと、浪士の一団は、一先ず、この回向院に入ろうとするも、寺側は関わり合いになりたくなく、拒否したのでありまーす」。
「念仏堂の天蓋の念珠と外の回廊の念珠はスワロフスキー製のクリスタルで御座いまーす」。
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「鼠小僧次郎吉の墓で御座いまーす。墓石のかけらを持っていると博打に勝つとのことで、墓石が削られていまーす。墓石を削る代わりに手前の石を削るようになっておりまーす。競馬好きの噴耐衛門殿には御利益あるかと思いまーす」。
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両国橋東詰。
「両国橋の名の由来はご存知やと思いまーす」。
「?」。
「今は隅田川の東側も東京都ながら、昔は下総国でありました。武蔵国と下総国に架かる橋、即ち、両国なのでありまーす。因みに、隅田川に架かった最初の橋は千住大橋でありまーす。最初であったから、単に”大橋"と呼んでいたそうでありまーす」。
「先日、江戸東京博物館で”大浮世絵展”を拝見。隅田川の、ええ風景がいっぱいありました」。
「先日、テレビ東京"開運!なんでも鑑定団"で安藤広重の”江戸名所百景”の画帖が登場。寺の蔵を整理していたら出て来たと。ホンモノ!鑑定額は、何と、27百万円!幾つかの作品につき、興味深い解説あり。日本では『深川十万坪』と『王子の狐火』が人気で横綱と呼ばれていたけれども、ゴッホが『亀戸梅屋敷』と『大はしあたけの夕立』を模写したことが日本に伝わると、この二点が大横綱になってしまったとのこと」。

句碑「日の恩や たちまち砕く 厚氷」。
「浪士の一人、大高源吾の句で御座いまーす。多くの人たちの協力、助けを得て、本懐を遂げることが出来ましたとの意に御座いまーす。大高源吾は文人でもあり、浪士の中でも出色の人でありまーす」。
「浪士たちは両国橋を渡らず、隅田川東岸を進んでいったとのことでありまーす。両国橋を渡ると江戸市中の真っ只中に入ることとなり、幕府の役人との衝突が懸念されたため、渡らなかったのでありまーす。我らも東岸を進むことにしまーす」。

「こちらが春日野部屋で御座いまーす。塀越しに見える梅は白梅で御座いまーす。白星を意味しているのだと思いまーす」。

「左手、江島杉山神社で御座いまーす。盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693年)当地に屋敷地を拝領、彼が修業した江の島の弁天岩窟を模して屋敷内に創建したとのことで御座いまーす。討ち入りとは何の関係もありませんが、時代的にほぼ合致しているのでありまーす」。

フォト:2014年2月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-02-25 13:25 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 02月 09日

『赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編/高野山の巻』(下)

高野山には、浅野内匠頭墓所・赤穂四十七士菩提碑、播州龍野脇坂家墓所の他に、「赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編」に値するものがまだまだあった。
それは安芸浅野家墓所。
申すまでもなきことながら、安芸浅野家は浅野の御本家。
安芸浅野家墓所はふたつあった。

安芸浅野家墓所(二番碑)。
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「二番碑」とは、二番目の浅野家菩提所のことではなく、この五輪塔が奥の院の参道に並ぶ石塔の中で二番目に大きいのため、「二番碑」と呼ばれているとのことだ。

更に進むと、二つ目の「安芸浅野家墓所」が現れた。
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鳥居に掲げられた扁額。
何故、鳥居が設えられているのかとの疑問が湧くが、鳥居の設えられた墓所は他にも幾つもあったし、ここでは鳥居の疑問は問わないこととする。
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扁額には、右から、「清光院」「慶雲院」「傳正院」「自得院」と刻まれている。
誰の院号か調べてみた。
傳正院は浅野長政、清光院は浅野幸長、慶雲院は浅野幸長の正室(岡山池田恒興女)、自得院は浅野長晟であった。

浅野家を語るには、浅野長政の養父、浅野長勝から触れねばならないだろう。
浅野長勝には、男児はなく、妻・七曲の妹の朝日と杉原定利夫妻の娘であるねね(おね)とややの姉妹を養女として養育し、姉婿の安井重継の子で甥にあたる弥兵衛(後の浅野長政)をややの婿養子にむかえ家督を継がせた。また、ねねが木下藤吉郎(後の秀吉)に嫁いだことから、浅野氏は秀吉に近い姻戚となり、この関係から豊臣政権に重きをなすこととなった。

浅野長政は、豊臣政権の五奉行筆頭を務め、関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、活躍した。
その功により江戸幕府の成立後は家康に近侍し、江戸に移ると共に、常陸国真壁5万石を隠居料として与えられ、常陸真壁藩主となった。

長政の長男、幸長は関が原の戦いの功績により紀伊国和歌山37万石へ転封された。
幸長が嗣子無くして病死したため、長政の次男、長晟が家督を相続して第二代紀伊国和歌山藩主となった。
後に、長晟は、福島正則が改易された後を受けて、安芸広島42万石に加増移封され、以降、安芸浅野家は藩主として12代続くこととなる。

長政の三男、長重は常陸国真壁5万石を継ぎ、更に笠間も加増され、常陸国笠間藩主となった。
長重の長男、長直の時代に、常陸国笠間藩から播磨国赤穂藩へと移封された。
赤穂浅野家は、長直、長友、長矩と三代続いたが、長矩のとき元禄赤穂事件が起こり、三代で途絶えたのであった。

ということで、安芸浅野家は自得院の浅野長晟から始まったこととなるが、安芸浅野家のルーツとして浅野長政、浅野幸長の院号も掲げられているのであろう。
何故、幸長の正室の院号が含まれているのかは今後の"課題"だ。

さて、浅野家の家系のことはこのくらいにして、「赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編/高野山の巻」なので、安芸浅野家と赤穂浪士の関わりについて述べておかねばならない。
元禄赤穂事件、そして、吉良邸討入りが起こったときの安芸広島藩は第4代藩主浅野綱長の時代であった。
2000年6月、豊岡を訪れた際に綴った「赤穂浪士討入凱旋の旅<番外編>豊岡・正福寺 大石りくの遺髪塚」の中で、その関わりにつき触れているので、それを引用することにしたい。
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<豊岡・正福寺 大石りくの遺髪塚>
 ひょんなことから6月1日付を以て、東京から神戸へ転勤となった。転勤になるとは露とも思わず、昨年秋に本所松坂町吉良邸跡から高輪・泉岳寺への「旅」に出たが、東京在のうちに足を運んでおいたこと、先ずはよかったと思う次第。神戸へ転勤後の6月某日、明石の旧友K君から「豊岡へドライブに行かへんか」との誘いあり。K君に加え、O君、T君共々、豊岡方面に出掛けた。
 K君は小生の「赤穂浪士の旅」をよく承知しており、大石内蔵助の妻・りくの故郷である豊岡に彼女が偲ばれる跡があるということで豊岡行きをプランしてくれたようだった。
 豊岡を散策する前に先ず昼時の腹ごしらえということで、久美浜温泉へ行くこととなった。久美浜は県境を越え、京都府。温泉に浸かり、美味しいビールと昼食を頂戴したあと、豊岡へ。
 内蔵助が妻・りくを山科から豊岡へ帰したのは、元禄15年(1702年)4月。豊岡へ帰した理由は、仇討ちの後、家族に罪科が及ばぬようにとの説もあるし、そうではなく、身重であったりくを単に出産のために里帰りさせたとの説もある。内蔵助は、内匠頭の弟、浅野大学を立てての赤穂藩再興を幕府に働きかけていたので、単に身重なので里へ帰したのかもしれないが、再興の望みが絶たれた同年8月以降、離縁を決意。同年10月に舅の石束源五兵衛(豊岡藩京極家家老)に「実家へお返しします。勘違いのなきように。妻の不行き届きではありません。私に一分の決意があるからです………」との書簡を出しており、結果的に家族に罪科が及ばぬようにという説が正しいのであろう。
 因みに、内蔵助とりくの間には三男二女がいた。長男・主税(15才)は父・内蔵助と共に山科に残り、りくは長女・くう(13才)、次男・吉千代(12才)、次女・るり(4才)の3人を連れて、豊岡へ。そのとき、三男・大三郎はまだお腹の中で、豊岡へ帰った年の7月15日に誕生。 長男・主税は討ち入り後に切腹。長女くうは早世。次男・吉千代は出家(興国寺・祖錬元快僧と名乗る)の後、早世。残るは次女るりと三男・大三郎の二人だけとなった。大三郎は連座の罪に問われたが、宝永6年(1709年)、徳川綱吉の死去により大赦となり、連座の罪を解かれ、遠島流しを免れた。大三郎は石束家の家臣・雲伝茂兵衛の養子となり、丹後の須田村の眼科医・林文左衛門に預けられていたが、赦免ののち、豊岡でりくとるりとの生活を共に出来ることとなった。その頃、芸州浅野本家より仕官の誘いがあり、大三郎はりく、るりと共に広島へ。大三郎の石高は1500石。これは内蔵助と同じ石高である。浅野本家は内匠頭の刃傷後、幕府の咎めを避けるため、何の動きも取らず傍観。その後ろめたい気持ちがあったのか、大三郎を召抱え、内蔵助と同じ石高で遇することで多少なりとも償いをしたかったというのが通説である。家老であった内蔵助の子供は苦労ののち遇されたが、しからば、その他の家臣の子供たちはどうなったのかということだが、それはここでは問わないこととしたい。
 りくは、内蔵助亡きあと、「香林院」と名乗り、浅野本家から隠居料100石を受け、元文元年(1736年)11月19日、68才で往生し、広島・国泰寺に葬られたが、その遺髪は豊岡へ運ばれ、長女くうと次男・吉千代と共に塚が建立された。塚が建立された寺の名は正福寺。豊岡にはりくのゆかりの場所はいろいろあるようだが、今回はこの正福寺を訪れてみた。 「香林院華屋寿榮大姉」と刻まれたりくの塚を挟んで両側に「祖璉元快禅師 真身塔」と刻まれた吉千代の塚、「正覚院本光妙智信女」と刻まれたくうの墓が配されていた。くうは塚ではなく墓であった。早世したのちにこの正福寺に葬られたのであろう。波乱万丈の生涯であったりくではあったが、今は二人の子供に囲まれて……..と書きたいところであるが、通俗的になってもいかんので、感想は省略。
 なお、吉千代について、書物では「祖錬…」と記されていたが、塚には「祖璉…」と刻まれており、二文字目が異なることを補足しておきたい。
 正福寺には、ふたつの碑が建てられていた。ひとつは「ここも亦 元禄美学の 花の址」。もうひとつは「華やかにして 慎ましく たをやかにして 強く 凛と咲いた花影の花の人」。前者は豊岡藩主京極杞陽によるもの。後者は平岩弓枝さんによるもの。何故、こんなところに平岩弓枝さんが出てくるのだろうかとの疑問が湧いたが、それも直ぐに解けた。以前、愚妻が「“赤穂浪士”をやってるんだったら、この小説を読んでみたら……」と平岩弓枝さん著の小説を薦めてくれたが、その言葉の続きとして「話は少し暗いけど」があったので、読まず仕舞いのまま、記憶の彼方へ行ってしまっていたが、お寺にいたボランタリーの案内の人から平岩弓枝さんは何度も豊岡へ足を運び、大石りくを著したとの話があり、愚妻の言っていたあの小説かと気付いた次第。小説の題名は「花影の春」である。
 余談ながら、ボランタリーの案内人さん曰く「町おこしで “大石りく祭り”をやっています」と。正福寺はひっそりとしたお寺で、赤穂浪士にあやかった商業化はなされておらず、好ましく思われたが、そうではなかったことを知り、少し残念。しかし、機会があれば、“大石りく祭り”の頃にまた訪れてみたいとの気持ちもあり。正福寺の下に建てられた、山科から豊岡への旅装束の母子の像を見ながら、この地をあとにした。
 明石への帰路時、出石へ立ち寄り、出石そばを食した。これも旨かった。
 明石到着時、O君の妻女曰く「あなた方、高校生みたいやね」と。O君、K君、T君に加え、今回は一緒しなかったが、大阪在のN君と小生の5人組は高校時代からの付き合い。キャンプ、新年会、時折、一緒に飲んだりの長い付き合い。O君の妻女の言葉は、50才を越えたオッサンたちが嬉しそうにドライブに行ったりする様子をズバリ言い当てている。
 ドライブに誘ってくれたK君に感謝申し上げる。
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今回の「オトナの遠足/高野山」の同行メンバーは、六々守殿、御典医殿、本町普請奉行殿であった。
前述のT君は御典医殿、O君は本町普請奉行殿である。
昔も今も一緒に遊んでいるのである。

高野山では、浅野内匠頭墓所・四十六士菩提碑のみならず、播州龍野脇坂家墓所、芸州浅野家墓所にも遭遇し、よき「赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編」となった。
「オトナの遠足/高野山」を企画してくれた六々守殿に感謝申し上げる。

高野槇たむけて浪士よみがえり 霹靂火


フォト:2014年2月1日

(完)
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by kazusanokami | 2014-02-09 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅
2014年 02月 07日

『赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編/高野山の巻』(中)

高野山には、浅野内匠頭墓所・赤穂四十七士菩提碑の他に、「赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編」に値するものがまだまだあった。

播州龍野脇坂家墓所。
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脇坂氏は浅井長政、羽柴秀吉に仕え、羽柴秀吉の家来であった頃には、脇坂安治が賎ヶ岳の七本槍として名を揚げた。
関ヶ原の戦いの折には、西軍から東軍に寝返り、徳川家康に仕え、以後、伊予大洲五万三千石、 信濃国飯田五万三千石に転じた後、寛文12年(1672年)、播磨国龍野五万一千石へ転封、龍野藩主として十代続いた後、明治維新を迎えた。

2011年1月にハリポタの面々と龍野をポタリングしている。
そのときのことを綴った2011年9日、10日付ブログ「龍野ポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅<番外編>脇坂淡路守の巻」を読み返してみた。
その中の一部をここに引用しておこう。
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龍野につき、"一口メモ"を。
龍野は「忠臣蔵」ゆかりの地でも御座りまする。
1701年(元禄14年)、浅野内匠頭長矩、江戸城松の廊下での刃傷事件にて赤穂浅野家改易。
赤穂城受け取りの正使は龍野藩主脇坂淡路守安照。
城受渡後約1年の間、赤穂城は龍野藩主脇坂淡路守預かりと相成り候。
それに先立つこととして以下の如きことも御座ったようで。
龍野は播州平野で育つ良質の大豆と小麦、揖保川の水、そして、地理的に赤穂の塩が容易に手に入ることから醤油の醸造が盛んとなる。
然様なことから龍野藩と赤穂藩は良好な関係にあり、脇坂淡路守と浅野内匠頭は懇意にしていた。
浅野内匠頭が勅使饗応役を命ぜられた際、浅野内匠頭の性格をよく知る脇坂淡路守は饗応指南役の高家肝煎筆頭吉良上野介と上手くやってくれればと思うも、松の大廊下での刃傷事件に。
刃傷の現場に駆けつけた脇坂淡路守の大紋の袖に大きく染め抜かれた家紋が、浅野内匠頭の小太刀で斬られた吉良上野介の眉間からしたたり落ちる血で汚され、家紋を汚されたことに怒った脇坂淡路守は「無礼者め!」と吉良上野介を一喝!
更に、吉良上野介を討ち損じた浅野内匠頭の無念の気持ちも込めて、手に持つ扇で吉良上野介の眉間の傷に一打ち!
松の大廊下でのことは史実かフィクションかは定かでは御座らぬも、龍野藩主脇坂淡路守は武士の気概を持つ人物かと...。
斯様なことも思い描きながら、龍野を散策すると楽しさは倍増となりませう(「それは忠臣蔵好きの上総だけやろ」との声も聞こえそうだが...)。
《何でも忠臣蔵、赤穂浪士にくっ付けたがる上総》
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家紋の「輪違い」が墓所の扉に刻まれている。
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「赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編」として、脇坂氏につき、龍野に続き高野山でも愉しませて貰った次第である。

フォト:2014年2月1日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-02-07 11:31 | 赤穂浪士討入凱旋の旅