『上総守が行く!』

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カテゴリ:都内ポタリング( 83 )


2014年 02月 20日

『お上りさんポタ/江戸市中雪景色』(下)

「お上りさんポタ/江戸市中雪景色」。
青山通りで突風に煽られたあと、青山墓地方面へと向う。

「こちらが青山墓地で御座いまーす」。
「ごっつい、広いなあ」。
「都内には、青山霊園、谷中霊園、染井霊園、多摩霊園などが御座いますが、墓地不足となりおるようで御座いまーす」。

青山墓地を抜けると変則五叉路。
国立新美術館への道がいつもはっきりしない。
犬を連れたご婦人に尋ねる。
「向かいの道を道なりに真っ直ぐ。坂道を上ると左手に」と。
毎度のことながら、青山墓地中央の交差点を左折してトンネルの入り口近くに向う道と混同していたようだ。

「国立新美術館で御座いまーす」。
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「あっ、電池、切れてしもた」。
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電池交換して、出発。

「こちら、元防衛庁跡に建てられた、東京ミッドタウンで御座いまーす」。
「こちら、六本木交差点で御座いまーす」。
交差点を渡り、芋洗坂を下り、六本木ヒルズ方面へと向う。

六本木ヒルズ。
「正面は六本木ヒルズ森タワー、その手前は毛利庭園、右手はテレビ朝日で御座いまーす」。
「毛利庭園は長州藩毛利家の江戸屋敷跡。来週の日曜に予定している”赤穂浪士討入凱旋の旅”の中で、細川、毛利、松平、水野の"お預け四家"も御案内するつもりですが、ここ、毛利家では浪士十人が切腹と相成りました」。
「あの意味不明の、丸い石の像と一緒に、"今日の jitensha"を撮りましょか」。
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肉眼ではよく見えなかったが、デジカメの液晶ビューと通して、路面の雪解けの水に見事なリフレクションが見えた。
今一度、リフレクションの全景をカメラに収めた。
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この日、JPタワーのリフレクション、山王下のビルのリフレクション、そして、六本木ヒルズの路面リフレクションと三つものリフレクションに遭遇した。
中でも六本木ヒルズの路面リフレクションは雪であったればこそのリフレクションなので貴重なものとなった。

六本木通りに出て、再び、六本木交差点方面へと向う。
メトロハットで、高梨沙羅ちゃんと出遭う。
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ソチ五輪では4位であったが、まだ、若い!
葛西選手の年齢を思えば、なーんも心配することはない。
葛西選手の伝説に続き、沙羅ちゃんにも伝説が生まれることを期待したい。

六本木交差点を右折し、外苑東通りを走る。
「正面に東京タワーが見えて参りまーす」。
飯倉片町交差点を通り過ぎる。
「右手、ロシア大使館で御座いまーす。今は麻布台2丁目などという無粋な住所ながら、昔は狸穴(まみあな)と申しておりました」。
ソチ五輪の記念(?)として、ロシア国旗をカメラに収めた。
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飯倉交差点を過ぎる。
「右手、東京タワーで御座いまーす」。
「真下から見ると、結構、迫力あるなあ」。
「我々の世代は、東京スカイツリーより、矢張り、東京タワーで御座いまーす」。

「増上寺で御座いまーす」。
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少し、西へ走る。
「こちらが芝東照宮で御座いまーす。鳥居の右側に几号水準点の"不"のマークが刻まれておりまーす」。
この日、走ったコースには靖国神社やロシア大使館前にも几号水準点がそれは案内なしで通過したので、せめて、ひとつだけでもと思い、芝東照宮に案内した次第だ。

浜松町を抜け、竹芝桟橋へ。
「対岸、右にお台場が見えまーす」。
「右手、レインボーブリッジで御座いまーす。jitensha で渡りたいところながら、走行は禁止。手持ちで渡れということに御座いまーす。ゆりかめもでの輪行は可能でありまーす」。
「フジテレビは何処?」。
「メカっぽい色の、丸い玉のあるビルがフジテレビで御座いまーす。TBSは今朝ほど走った赤坂、テレ朝は先ほどの六本木、日テレはこれから参る汐留、NHKは代々木、そして、大好きなテレビ東京は虎ノ門となっておりまーす」。

海岸通りを走り、汐留方面へと走る。
環状2号線にぶち当たる。
山の手線の内側はまだ工事中だが、汐先橋交差点のあたりはほぼ完成している。
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「昔、マッカサー道路と言われたこの道路は未だ工事中ながら、この先、左手に、切腹最中の新正堂が御座いまーす」。
「正面のビルは?」。
「都内ポタのとき、そばをよく通るのでありますが、名前は不詳でありまーす。後で調べておきまーす。新しい道路、環状2号線はあのビルの下の地下を通ることになっているようで御座いまーす」。
ビルの名前を調べてみた。
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虎ノ門ヒルズ。
虎ノ門から新橋を結ぶ「幻のマッカーサー道路」と呼ばれる「環状2号線」の再開発計画。
森ビルは東京都より「特定建築者」に認定された。
「立体道路制度」の活用により建築物の中を環状2号線が貫通する計画で、特定建築者は、東京都建設局の委託により、地下トンネルの整備も行う。
メインとなる超高層棟は、都内で2番目の高さを誇り、上層部から、ホテル、住宅、事務所、カンファレンス、商業施設を整備する計画となる。
着工 2011年4月、完工 2014年(予定)。
(森ビルHPより)
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汐留の某所で、遅い昼餉とと反省会。
噴耐衛門殿の「僕の細道/関東行脚」はな2週間の長丁場。
体力温存にて、早めに切り上げ。
新橋駅SL広場に案内し、解散。
2月23日(日曜)、"赤穂浪士討入凱旋の旅"で、再び、噴耐衛門殿と走ることとなっている。

フォト:2014年2月16日

(完)
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by kazusanokami | 2014-02-20 23:58 | 都内ポタリング | Comments(0)
2014年 02月 17日

『お上りさんポタ/江戸市中雪景色』(上)

1月某日、ハリポタ藩本町普請奉行改メ気毒屋噴耐衛門(きのどくやふんたえもん)殿より「昨年から始めた『僕の細道』で、今回は関東へ参ります。宿は手配済み。1、2日、付き合ってください」との電子飛脚便が遣わされた。
ハリポタ藩の箱根越え江戸下向は2009年12月の六々守殿、御典医殿以来のことである。
2月15日(土)に「お上りさんポタ」を一緒することとした。
コースは、2009年12月と同様に、東京駅丸の内駅舎~皇居~大手門、平川門、北桔橋門~武道館~靖国神社~千鳥ケ淵~半蔵門~国会議事堂~首相官邸~赤坂見附~迎賓館~学習院 初等科~東宮御所~神宮外苑/国立競技場、公孫樹並木~青山墓地~新国立美術館~(六本木ヒルズ)~東京タワー~増上寺~日比谷公園~(丸の内 ブリック・スクエア)~東京駅とすることとした。

2月14日(金)、1週間前の大雪に続いて、またまた、大雪。
2月15日(土)、雨。「お上りさんポタ」は中止。
2月16日(日)、晴れ。
車道や歩道の積雪が気にはなるが、「お上りさんポタ/江戸市中雪景色」と銘打って、挙行。

朝9時前、集合場所の東京駅丸の内北口に到着。
集合時間は9時。
噴耐衛門殿を待ちながら、JPタワーの外壁リフレクションを愉しむ。
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9時になったが、噴耐衛門殿はまだ現れず、ケータイ糸電話。
「いま、どちらに御座るかな?」。
「すまん、すまん。早く着いたんで、皇居を一周。道に迷って、今、宝塚劇場の近くに」。
「了解。そのまま居って頂戴」。

皇居を逆時計回りで一周したとの由にて、大手門、平川門、北桔橋門~武道館はカット。
日比谷交差点から国会議事堂へと向う。
車道の脇には雪が残っている。
歩道は除雪されていな。
雪の残る車道を走るも、前々日の積雪に前日の雨が混じり、走る車が泥水を跳ねながら走り過ぎる。
その泥水の飛沫に往生する。

「右、桜田門、左、警視庁で御座いまーす」。
「国会議事堂交差点で御座いまーす。正面、国会議事堂でございまーす」。
国会議事堂前交差点の辺りは全く除雪されて居らず、車道は車の通行で雪が溶けたという状態。
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「国会議事堂で御座いまーす」。
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信号が青になったので、自転車横断帯を通り、交差点を渡る。
雪はそのままなので、冬季オリンピックのモーグルさながらである。

機材投入で除雪作業をやっている。
流石、国会議事堂である。
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国会前庭洋式庭園内の、佐立七次郎の設計による日本水準原点標庫に案内しようと思うも、雪深く、ここはパスすることにした。

国会議事堂から千鳥ケ淵へと向う。
「左、最高裁判所で御座いまーす」。
「左、国立劇場で御座いまーす」。
「右、半蔵門で御座いまーす。天皇皇后両陛下をはじめ皇室の方々はこの門をお通りになられまーす」。
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職員の人たちが雪掻きをしている。
流石、半蔵門である。

「左、英国大使館で御座いまーす」。
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「英国大使館は一等地にあるんやなあ」。
「明治維新で接収された何処かの大名屋敷跡で御座いませう。大名屋敷跡は大使館や大学になっていることが多いように御座いまーす」。
「何処の大名やったんでせうな」。
「あとで調べておきまーす」。
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調べてみたところ、盛岡新田藩南部丹波守上屋敷、大和新庄藩(後に大和櫛羅(くじら)藩)永井信濃守上屋敷、旗本水野兵部屋敷、上野七日市藩前田丹後守上屋敷の屋敷跡を合わせたものであった。
--------------
千鳥ケ淵戦没者墓苑の交差点に至る。
千鳥ケ淵戦没者墓苑沿いの石畳の道は雪で走れないかもしれないなと思いながら見てみると、四輪の轍が残っている。
これなら入れそうと思い、千鳥ケ淵沿いを走る。
「左、千鳥ケ淵戦没者墓苑で御座いまーす」。
「右、千鳥ケ淵で御座いまーす」。
jitensha を止めて、千鳥ケ淵を眺める。
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「千鳥ケ淵は桜の名所に御座いまーす。茣蓙を敷いての花見は禁じられておりまーす。そぞろ歩きでの花見と相成りまーす。お濠に浮かぶ桜の花びらを掻き分けながらボート遊びが楽しめまーす。ボートに乗るには行列覚悟と相成りまーす」。

フォト:2014年2月16日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-02-17 23:58 | 都内ポタリング | Comments(0)
2014年 02月 13日

『江戸城如月雪景色』(下)

二の丸庭園/菖蒲池。
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二の丸庭園/竹林。
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二の丸雑木林で見掛けた、雪掻きおじさん。
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「おっ、あの色は JOHN DEERE に御座りまするな」。
二の丸雑木林で見掛けた、雪掻き JOHN DEERE 君。
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松に石垣、雪化粧。
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再びの、大手門。
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大手門から竹橋方面を眺める。
鉄塔の立つビル/東京消防庁、その向こう/気象庁。
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気象庁、大雪予報は大当たり。
いつも予報を有難う。

巽櫓。
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典型的絵葉書風景。
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和田倉噴水公園から巽櫓を眺める。
大好きな風景だ。
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2月1日は雪景色を期待して高野山に赴いたが、山頂は気温9.8℃と暖かで、雪は殆ど解けていた。
2月8日はドラポタ/如月鎌倉観梅ポタリングを予定していたが、大雪で中止。
翌9日、徒歩で鎌倉観梅と思うも、横須賀線は大船~久里浜間で運休となっており、これも取り止め。
あれやこれやであったが、9日の午前、江戸城如月雪景色を愉しみ、観梅も叶ったのであった。
帰路、同行の大給さんと八重洲地下街で"雪見酒"をちょこっと愉しんだ。
都内に住まいする武衛さんは、当初、江戸城へ馳せ参じる御積りでありたが、、余りの雪の多さに自宅前の雪掻きに専念で、江戸城へは参られず。
「雪中行軍での喉の渇きを麦酒で癒した後、只今、般若湯四合目に御座りまする。雪見酒ニュートーキョーで四合目 霹靂火」と武衛殿にケータイ電子飛脚便を遣わしたところ、「雪掻きで顔を合わせたご近所の人に誘われて、雪見酒」との返信あり。

雪掻きや駄賃は嬉しい雪見酒 霹靂火
雪掻きの赤鬼烏鷺を学んでる 武衛
雪見酒五合目まではあと一歩 武衛
五合目を尻目に目指せ八合目 武衛

雪見酒は四合目までに留め、東京ラーメン・ストリートへ横移動。
美味しいラーメンを食し、帰途に就いたのであった。


フォト:2014年2月9日

(完)
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by kazusanokami | 2014-02-13 00:16 | 都内ポタリング | Comments(2)
2014年 02月 12日

『江戸城如月雪景色』(中)

雪に白梅。
雪に紅梅。
梅の花を愛でる。
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フォト:2014年2月9日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-02-12 11:20 | 都内ポタリング | Comments(4)
2014年 02月 11日

『江戸城如月雪景色』(上)

2月8日、関東は記録的な大雪。
翌9日、朝から晴れ。
江戸城の雪景色を愉しんだ。

大手門。
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大手門の石垣に刻まれた几号水準点を眺める。
昨年1月26日の「几号水準点探索の旅」以来のことである。
雪と「不」の刻印、珍しい眺めを記録としてカメラに収める。
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「棟瓦の端に葵の紋が」。
「どれどれ。なるほど。同心番屋でも葵の紋に御座りまするなあ。丸瓦は巴紋。 巴紋は防火のまじない。巴紋は水がほとばしるように見えるので」。
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百人番所の風景を愉しむ人たち。
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汐見坂方面に向う。
右の後ろ姿は同行の大給さん。
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蝋梅を愉しむ。
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除雪が始まっている。
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汐見坂、通行止め。
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巡回中の宮内庁職員さん。
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宮内庁職員さんに声を掛け、尋ねてみた。
「汐見坂は通行止めになっていますが、どんな様子でしょうか。本丸跡、天守台跡へも行ってみたいのですが」。
「汐見坂も梅林坂も閉鎖中です。昨日、坂で滑って転んだ人がいますので。平川門も北桔橋門も閉鎖となっています」。

宮内庁職員さんの言う通り、梅林坂も通行止め。
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梅林の梅の花は続編にて。

フォト:2014年2月9日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-02-11 23:58 | 都内ポタリング | Comments(5)
2012年 07月 21日

『旧日光街道千住界隈』 sj-10

「やっちゃ場」を大いに楽しんだ。
千住仲町商店街、宿場通りへと向かう。

千住仲町商店街。
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この商店街では、特段の観るべきものはなかったが、記録として一枚だけ撮った。
この写真は、商店街の名と併せ、珍"看板コレクション"として撮ったのだが、過去、別のところで見たこともある歯科医院の名であり、特段、珍しいものではない。

宿場通り。
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ここら辺りはJR北千住駅近くの繁華街だ。
今回のポタリングの目的のひとつは、第1話で綴った通り、8月に予定されている備前守殿、伊豫守殿との「千住辺りを歩いた後に納涼会」の下見でもある。
北千住で飲んだことは一回くらいしかなく、店については不案内だ。
通りを走りながら、キョロキョロと店を見る。
ひとつだけ、候補らしきものが見つかった。
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Trattoria LA SIENNA。
帰宅後、電脳網で検索したところ、《上質な空間のオシャレな酒場 "飲むイタリアン"》のキャッチフレーズであった。

「横山家」と「吉田家」。
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通りをはさんで、右/横山家、左/吉田家。
街道沿いに今も残る、数少ない商家である。
「横山家住宅」。
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宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。
伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行き深い。
戸口は、一段下げて造るのが特徴である。
それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。
間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。
広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。
上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中の焼夷弾が貫いた屋根など、風説に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
平成二年十月
東京都足立区教育委員会
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「千住絵馬屋・吉田家」。
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吉田家は、江戸中期より、代々、絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。
手書きで描く絵馬屋は都内にはほどんど見掛けなくなって、希少な存在となった。
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。
縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。
絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、三十数種ある。
これらの代表的絵馬が、現在、吉田家に一括保存されている。
時代ごとに庶民の祈願を知るうえで貴重な民俗資料である。
平成四年三月
東京都足立区教育委員会
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横山家と吉田家の次は、「槍かけだんごのかどや」である。
そう思いながら走るも、荒川土手の近くに至ってしまった。
確か、荒川の土手に向かって、宿場通りの左手にあったはずだ。
「槍かけだんご」の大きな旗印が立て掛けてあったはずだ。
あれこれと思いながら、来た道を戻る。
やっぱり、ない。
ふと、工事中の家が目に入った。
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改築中であった。
何時、一旦、店を閉めたのだろうと、帰宅後、電脳網で調べたところ、地元の人らしきブログにヒット。
今年3月25日に閉店とあった。
更に、「建物は明治40年に建てられたものらしく、もともとは足袋屋さんだったのを、昭和27年に譲り受け、今のお団子屋さんになったそうです」、「10月にまた営業がはじまるそうですが、どんな建物になるのでしょう」と綴られていた。
数年前、この店を"発見"したときは、「槍かけだんご」と大きく染め抜かれた旗印が店先に立て掛けられていたと記憶する。
新しい店になっても、この大きな旗印が立てられるのであろう。
10月が楽しみだ。

「槍かけだんご」の名の由来は「近所の寺の松の枝に槍が立て掛けられたから」と承知していた。
今回、ブログを綴るに際し、あれこれを調べていたところ、詳しいことが分かった。
近所の寺とは、清亮寺のこと。
この寺に、水戸街道に面し、松の木があったとのこと。
大名が行列をなして街道を行き来する際、槍もちは、如何なる理由があろうとも、槍を倒すことは許されなかったとのこと。
寺の松は、槍を横に倒さねばならないくらいに、街道いっぱいに張り出していたとのこと。
で、この松を切るかとなった際、常陸国水戸藩第二代藩主 徳川光圀が「切るには惜しい名松。ここで休憩を取り、槍を松に立て掛けて、再び出立するときには槍もちが反対側に回ってから槍を持ち直せば、槍を倒したことにはならないだろう」と言ったことから、松は切られずに済んだという逸話があるそうだ。
水戸光圀ゆかりとなったこの松は、樹齢350年余りを迎えた昭和20年頃に残念ながら枯れてしまったそうだ。
その姿は、清亮寺の山門脇の石碑に「槍かけの松」にまつわる逸話と共に写真が刻まれているそうである。
次の機会に、清亮寺を訪れてみたい。

再び、荒川土手近くに至る。

「千住名倉医院」。
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名倉医院は、江戸時代以来、骨つぎといえば名倉、名倉といえば骨つぎの代名詞となるおど、関東一円に知られた医療機関であった。
下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので、駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。
門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜まり場であった。
名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で、享保年間(1716~36)頃、千住に移り、明和年間(1764~72)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。
昭和59年、足立区登録記念物(史跡)となった。
かつて、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師や接骨師を兼ねていた。
平成23年3月
足立区教育委員会
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道路と医院の間は大きな駐車場になっている。
この駐車場辺りが駕籠や大八車などの溜まり場になっていたのであろう。
名倉医院を以て、「旧日光街道千住界隈」めぐりを終えた。

時計は午後1時過ぎを指している。
千住大橋に到着したのは午前11時頃であったから、数キロを、彼是、2時間掛かって巡ったことになる。
荒川の土手に上る。
荒川CRを眺めながら、にぎりめしとお茶で昼餉を摂った。
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長らく荒川CRを走っていない。
「千住界隈」の次は、「都電めぐり」も控えている。
荒川CRを上流方向へ走り、江北橋経由、王子駅方面へと向かった。

「旧日光街道千住界隈」、距離は短かったが、中身の濃いポタリングであった。

フォト:2012年6月26日

(完)
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by kazusanokami | 2012-07-21 05:35 | 都内ポタリング | Comments(0)
2012年 07月 20日

『旧日光街道千住界隈』 sj-9

やっちゃ場を、jitensha を押して歩きながら、両側の家々に掲げられた看板を楽しむ。
やっちゃ場の中程に差し掛かる。

「やっちゃ場 追想/大正・昭和初期」。
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裸電球の灯る早暁の市場 夏のやっちゃ場は朝が早い
三時ちかくになると問屋のせり場に続々と集まってくる出仲買人(投師)や仲買人の黒い人影
そして 甲高いせり人の声が響き渡る
主人 番頭がせり始める
それぞれが得意の品物をせる
数十軒の問屋で いろいろなせり声 甲高い声 低い声 そして ダミ声
こうして やっちゃ場の一日が始まる
やっちゃいやっちゃい 問屋のせり場は大混雑大混雑
まさに芋を洗うが如きである
数時間後 さしもの 雑踏も汐が引くようにゆるみ始める
荷を引く買出し人 仕切銭を貰って家路を急ぐやまの人
台所では遅い朝飯を摂り始め せり場では小僧が散らかったわらくずを竹箒で掃く
みるみる藁の山となる
若い衆は縁台で将棋でくつろぎ 旦那衆は寄り合いに急ぐ
御影石を敷き詰めたせり場は広々として 暫くの間 子供達の格好の遊び場に変わり 歓声がひびき渡る
穏やかなひととき 夕暮れが近づき わずかだが静かに時が止まる
ややあって 旧道の奥の方から地鳴りのようなひびきが徐々に伝わってくる
沢山の大八車や牛車が連なって来るひびきである
夕闇が濃くなる頃に手ぶら提灯を点けた大八車で旧道が埋まり 陸続をゆらゆらとやっちゃ場へ向かう
そして荷主は荷を下ろし 二階の仮眠部屋で朝までしばし眠りにつく

平成十八年は千住市場創立三百三十年祭記念碑建立(明治三十九年)より数ええて丁度百年の節目の年である

千住大賑会 河原
手漉和紙 谷野裕子
矢島光明 書
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なかなかの名文である。
やっちゃ場の人々の営みが目に浮かぶ。

「やっちゃ場 追想/大正・昭和初期」に添えられていた、二葉の写真もアップロードしておこう。
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「写真は記録」。
やっちゃ場の活気が伝わって来る。

「谷清 谷塚屋」。
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第8話で登場した、あの「谷清 谷塚屋」である。
両替商から青果物問屋に転身したのは明治34年。
店先の様子からして、青果物問屋に転身したあとの写真と思われる。

「昭和五年 千住市場問屋配置図」。
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先ほど、眺めて来た「傘弁 投師」、「大喜 新大阪屋」、「車茶や 佐野屋」、「葛西屋」、「谷清 谷塚屋」などを配置図で振り返ってみる。

ポタリングをしているとき、何かの標識が目に入ると、必ず、その文字を読んでしまう。
この標識もそうだ。
先ず、「狛犬」の文字が目に飛び込んで来た。
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「区内最大の狛犬 浅草神社と同作者」とある。
今年初めの「世田谷寺社めぐりポタ」の際、世田谷八幡宮で子連れの狛犬を見て以来、狛犬に凝っている。
やっちゃ場からちょいと脱線して、狛犬コレクション、河原稲荷神社に向かった。

「足立区最大の狛犬」。
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足立区最大の狛犬の詳細は、何れ、「狛犬に関わる考察」で綴ってみることとしたいが、一葉だけ、狛犬の姿をアップロードしておこう。
そして、この一葉の写真と共に、やっちゃ場に関わる言葉として、「この狛犬は何でも大きなものが好きなやっちゃ場の旦那衆が造りあげたものである」ということだけ、ここで触れておきたい。
なお、河原稲荷神社の狛犬は浅草神社の狛犬と同じ作者(らしい)とのこと。
こういう情報に触れるとどうしても浅草神社の狛犬を見たくなってしまい、二日後の6月28日、浅草神社を訪れたのであった。
これも、何れ、「狛犬に関わる考察」で綴ってみたい。

河原稲荷神社からやっちゃ場に戻る。

「やっちゃ場の文化人 建部巣兆」。
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巣兆は、文化文政の江戸文化華やかなりしころ、千住はずれの関屋の里に住み、俳画に長じ、江戸三大家に数えられた俳諧師である。
字を巣兆、菜翁、秋香庵と号した。
亀田鵬斎、酒井抱一など江戸一流の文人墨客と親交があり、千住にあっては俳句の点者や俳画、いけばなの指南で生活していたと思われる。
一説では、巣兆は酒を非常に嗜み、その門人で近所に住んでいる豆箕とはよい飲み相手であり、金銭に○○な巣兆は余財があれば惜しまず、酒代に差支える事も度々であった。
いつもの如く、秋香庵で両人が酒を酌み交していると、巣兆の妻女が背後から巣兆に小さな声で「もしもしもうお酒がありませんよ」と耳打ちすると「解った」と黙って着ていた羽織をぬいで妻女へ渡すと、度々の事で心得たもので、それが質屋の露地から酒屋の暖簾を潜って黄金の液体に化けてくると言う次第である。
豆箕は千住市場の青物問屋 伊勢屋七兵衛であり、まさに此の土地の人物である。
(「化政時代 秋香庵附近図」が添えられている)
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「水宗/元果物専門問屋」と「水菓子の話」。
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水菓子、いい響きの言葉である。
摺った林檎、病気のときは確かにそうであった。

遣っちゃ場の北詰に至った。
「古谷 相洲屋 元お酒や」と「此処は元やっちゃ場 北詰」。
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やっちゃ場の由来は、第8話で掲載した「南詰」の看板と同内容なので、ここでの書き下しは割愛する。

千住大橋北詰の立て札でその名を知った、千住大賑会の河原さんには、数々の解説で大変お世話になった。
ここに感謝申し上げる。

やっちゃ場から、千住仲町商店街、宿場通りへと北へ進む。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-20 11:05 | 都内ポタリング | Comments(0)
2012年 07月 20日

『旧日光街道千住界隈』 sj-8

足立市場脇の「千住宿/芭蕉像」から「やっちゃ場」へと向かう。

「此処は元やっちゃ場 南詰」。
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やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。
古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の西側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き、大正・昭和が盛んだったと聞いている。
街道の西側に三十数件の青物問屋が軒を並べ、毎朝、威勢のよいセリ声が響き渡り、江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。
昭和16年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来、青果物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみ残った。
五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。
まさに専門店街である。
日本の専門商店街はここから始まったと言っても良いだろう。
旧道を楽しくしようかい(会)
千住大賑会 河原
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やっちゃ場を北へ進む。
早速、看板が登場する。
「傘弁 投師/元 青物出仲買商」。
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「投師」とは?
「出仲買商」とは?
後ほど、答えが登場する。

「大喜 新大阪屋/元 青物問屋」。
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当主為成善太郎は俳諧をよくし、俳号を為成菖蒲園と称す。
高浜虚子の指導を受け、昭和19年、ホトトギス同人に推薦される。
やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。
その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。
菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。
今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
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「佐野屋/元 車茶や」。
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「車茶や」とは?
と思った途端、答えの看板が、即、登場。
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現代の駐車場である。
大八車の預かりと茶店を兼ねたもの。
初めは大八車を預かるだけが、お茶のサービスから始まり、お新香が出て、煎餅となり、おにぎり、お団子となれば商売である。
このようにして駐車場と茶店を併用したものが車茶屋である。
ただ預かるだけは繁盛しない。
サービス、ノウハウが大事。
やっちゃ場で大八車を預けるのは荷主(山方)と買出人である。
山方は前日の夕暮れから夜半に来て早朝帰る。
買出人は早暁に来て朝に帰る。
両者の毎日帰る時間を的確に把握し、帰る時に遅滞なく車を渡せるかが車茶屋としての腕の見せどころである。
やっちゃ場の街道筋に五、六軒が見受けられる。
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「月日は百代の過客にして」。
こういうのを見るとカメラを向けたくなる。
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「手漉和紙 谷野 紀崎 書」とある。

「葛西屋/元 青物問屋」。
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蓮屋と葛西屋の話
やっちゃ場には通称で話が通ってしまい、本来の屋号が忘れられている事がある。
典型的な例が「蓮屋」で、「蓮根」を主とした商いをしていた為、「葛西屋」が忘れられ、「蓮や」の屋号が定着してしまった。
この立看板を見て本来の屋号を知った人が殆どである。
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中村不可折と葛西屋
震災後、復興でやっちゃ場が賑わっていた昭和10年(1933年)当時、第九代葛西屋喜平は時代の先を見るように鉄筋コンクリートの建物を作っている。
このころ、早朝の競りが終わって、仕切り等の事務処理が終われば、時間的に余裕があった。
そこで絵を習い和歌などもたしなんでいたようだ。
その師が中村不折であったようだ。
喜平は季節の野菜が入荷すれば、不折に届けていたという。
子供達は根岸まで使いに出された事を覚えている。
戦災で焼け残ったものの中に不折よりの礼状が残されていた。
一枚の紙に栗、柿、松茸の絵をサラサラと描いて「ありがとう」の文字。
不折にしてみれば、全国にいる親しくしている友人の一人であったようだが、季節ごとに旬の野菜を口にすることができたと思う。
そのような縁で喜平に「六朝の書き方」を手ほどきしていたと思われる。
昭和11年2月には、喜平が中村不折に依頼した清亮寺(日の出町)の三額の寸法を下見にゆくという覚え書きが残っている。
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「谷清 谷塚屋/元 青果物問屋」。
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両替商から青果物問屋へ。
江戸後期よりやっちゃ場にて両替商を営み、明治34年より青果物商となる。
初代磯吉、二代は清吉、ここで谷清 谷塚屋を名乗る。
三代から五代までは婿とりで、五代目の午三郎を青果物問屋 和泉屋より婿として向かえて青果物問屋となり、主に土物を扱っていた。
谷塚屋に保存されていた両替商時代の帳面からみると、両替商の商圏は千住周辺のみならず、埼玉県草加や江戸川区平井周辺の地名が読みとれる。
青果物商となっても、両替商時代の商圏を活用して広範囲に青物の集荷をしているのが現存する帳面から窺い知る事が出来る。
特に大正期には、関東全般は元より常磐線を利用して福島県岩城市や宮城県仙台附近の地名が印されている。
やっちゃ場も昭和20年4月の空襲で消滅し、以後、東京都足立市場となる。
(「月勘定控帳」や「金銀覚之帳」の写真が添えられている)
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「やっちゃ場の最大の特徴 投師(なげし)の存在」。
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通称「投師」、正式には出仲買商という。
千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。
店を持たず、仲買人の店先を借り、セリに参加して、いち早く大八車に品物を積み、東京市内の全市場へ駆けつけてゆくのである。
セリはその為に夏は早朝3時から始まっていた。
何が利幅があるかは情報の勝負である。
昭和初期の投師は150人位である。
市内の市場は投師の持込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。
それだけ千住のやっちゃ場が巨大な市場であったということであろう。
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解説の書き下しは原文通り(一部、年号などはアラビア数字に置き換え)。
やっちゃ場めぐりはまだまだ続く。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-20 05:45 | 都内ポタリング | Comments(2)
2012年 07月 19日

『旧日光街道千住界隈』 sj-7

足立市場前交差点。
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市場の入り口の左側に芭蕉像が見える。
信号を渡る。
千住宿 奥の細道/芭蕉像。
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この矢立の筆じゃ書き難かろうと思うも、そんな野暮はここでは言わない。

芭蕉像建立の趣意書。
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ここにも「千住大賑会・河原」と記されている。
「芭蕉像に到る足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかもしれません」とある。
敷石と共に、今一度、芭蕉像をカメラに収める。
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せり場の御影石は写真左下に少しだけ写っている色の変わった敷石であったかもしれない。
次の機会にもう一度しっかりと見ておきたい。

「旧日光道中(陸羽街道)/此の先は元やっちゃ場跡/看板の語りをお楽しみください」。
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「旧日光道中(陸羽街道)」とある。
ここで、街道について少し触れておきたい。
五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった陸奥白川以南を指し、道中には27の宿場が置かれた。
日本橋から宇都宮までは日光道中(日光街道)と共通である。
奥州街道は、1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号(日本橋~青森)となっている。
芭蕉は、白河の関に至り、「心もとなき日数重ねるままに白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と書き残している。
深川を出立し、千住から那須を過ぎる間、心が落ち着かない日を重ねていたが、白河の関に至って、ようやく旅の心も落ち着いたのである。
白河の関で、曽良は「卯の花をかざして関の晴れ着かな」と詠んでいるが、芭蕉は一句も詠んでいない。
数年前、白河の関を訪れたとき、白河の関以降の道中が相当に難儀で、まさに「奥の細道」なんだなあと思った。

「看板の語り」を楽しみにしながら、やっちゃ場へと向かう。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-19 04:37 | 都内ポタリング | Comments(3)
2012年 07月 18日

『旧日光街道千住界隈』 sj-6

千住大橋/橋詰テラス。
「千住大橋際 御上り場」。
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「御上り場」。
将軍家日光門主(別掲参照)など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際御上り場である。
将軍家が千住近郊の鷹場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用された。
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「日光門主」。
日光門主は別名輪王寺宮上野の森宮様と呼ばれ、日光山のみならず、東叡山寛永寺、比叡山延暦寺の門主を兼ね、天台座主の地位を併せ持つ宗教的権威の頂点にいた人物である。
日光道中でもっとも重視されていたのは日光と江戸を三回往復する日光門主の通行である。
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天保13年(1842年)仙台藩13代藩主 伊達慶邦の大名行列。
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嘉永元年(1848年)千住大橋之図。
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千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着く様子をアップで。
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この図は小金原で行われた鹿狩に向かう将軍が千住に到着する様子を描いた図です。
描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。
図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹流しがたなびいています。
当時の将軍は12代将軍の徳川家慶でした。
「小金野鹿狩之記」(独立行政法人国立公文書館所蔵)
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昨年、何度か通った「国立公文書館」の所蔵資料である、と。
閲覧室でゆっくりと見てみたいものだ。

千住大橋公園と橋詰テラスで数多くの資料や絵図を眺めながら、ベンキョーした。
あれやこれやの歴史を堪能し、次は足立市場方面へ向かう。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-18 06:45 | 都内ポタリング | Comments(2)