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2014年 05月 31日

『利根川・手賀沼大周回路ポタリング』

マイ・ブログ『上総守が行く!』の画像容量がそろそろいっぱいになりつつある。
エキサイトブログ・アドバンスに入会し、会費を払えば、無制限に使用できるようになるが、ここは、気分一新、新たに『上総守が行く!(二代目)』(仮称)を立ち上げる思いに至った。
そんなことを思う中、初代『上総守が行く!』のアップロード第1号は如何なる記事であったろうかとマイ・ブログを紐解いてみた。
2007年8月19日付で「布施弁天参拝」と題し、布施弁天の近くの池の結実し漏斗状になった睡蓮に止まるトンボの写真をアップロードしていた。
今日は5月30日、睡蓮が咲き始めているかもしれないと思い、愛馬”還暦創輪号”を駆って布施弁天とその近くの池へと向った。

布施弁天。
初代『上総守が行く!』を綴る中、数多くの神社仏閣を訪れている。
その中で、ここ、紅龍山東海寺、通称布施弁天は最も多く参拝している寺のひとつであり、何度もブログで触れた寺でもある。
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季節の記録、モクレンの若い実。
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睡蓮池。
朝9時半、睡蓮の花を愛でるには丁度よい時刻だ。
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あけぼの山農業公園。
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初代『上総守が行く!』のロゴ画像(画面右上)は、この公園の風車を背景にした愛馬"ベデワン・ホワイト"である。
あけぼの山農業公園は愛すべき公園なのである。

利根川左岸サイクリングロード。
布施弁天の近くまで来れば、利根川サイクリングロードを走ってみようということになる。
直近では右岸を上流方面へ走ったので、今回は左岸を下流方面へ走ることにし、新大利根橋を渡る。
利根川左岸CRは出来上がっているにも拘らず、長い間、新大利根橋東詰のゲートが閉じられていた時期があり、下流方面から走って来たときに出口がなく、愛馬を担ぎ上げ、ゲートの上から道路側に下ろしたことがある。
そんなことを初代『上総守が行く!』で綴ったことがある。
そんなことを思い出しながら、利根川左岸CRを走る。
河川敷に白く点々と見えるものがある。
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刈り取った草を巻き、白いビニールで覆った家畜用の牧草である。
これを我が家では<コロン>という。
20数年前、英国に滞在していた頃、こうした光景をしばしば目にすることがあり、子供たちは江崎グリコの菓子<コロン>に似ていることから、そう呼んでいたのである。
白い<コロン>は無造作に置かれているが、ひとつの「絵」になっている。
いい風景に遭遇した。

大利根橋(国道6号、水戸街道)と常磐線利根川橋梁をくぐると「海から85km」地点となる。
この「海から85km」地点から小貝川河口近くに至る間に<利根川シュガーロード>がある。
2010年1月、八重山諸島を旅した際、小浜島でシュガーロードを走った。
道の両脇がサトウキビ畑の道だ。
利根川左岸のこの道は両脇にススキが背高く生えており、サトウキビ畑によく似ている。
で、小生が勝手に<利根川シュガーロード>と名付けたのである。
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愛馬”還暦創輪号”と共に。
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まだ、5月下旬、サトウキビ、いや、ススキはまだ背高くはなっておらず、<シュガーロード>の風景となるのはこれからである。
<利根川シュガーロード>に彩を添える若い野草。
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ひとつ、余談を。
初代『上総守が行く!』では連載が結構多かった。
中でも2010年の「八重山諸島ポタ」は全88話の連載で、我が連載史上、最長のものとなった。
シュガーロードの話題を綴った第70話「八重山諸島ポタ/小浜島を巡る」は旅行口コミサイトのトリップアドバイザーから掲載したいとの要請があり、快諾し、そのサイトに掲載されたこともあった。

<利根川シュガーロード>を走り、「海から79km」地点で大きく左折し、小貝川の最下流に架かる戸田井橋(茨城県道11号取手東線)を渡る。
橋の上から小貝川の河口方面を眺める。
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小貝川河口。
栃木県那須烏山市を源流とし、100km超を流れて来た小貝川はここで利根川と合流するのである。
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小貝川沿いのサイクリングロードは幾度も走った大好きなコースで、幾度かブログで綴ったことがある。
このコースの途中には、間宮林蔵の生家や林蔵が出世の糸口を掴んだ岡堰があり、これに触発されて「伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて」と題し、これらを巡り、2009年に全24話の連載を綴ったことが思い出される。

「海から77km」の標識を過ぎると利根町役場(茨城県北相馬郡)が見えて来る。
利根町役場前の大きな立て看板「民俗学の父 柳田國男 第二のふるさと 利根町」。
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「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」と題し、2012年に「利根町編」全11話を、2013年に「福崎町編」全14話をブログに綴ったことが思い出される。

栄橋を渡り、再び、利根川右岸へ。
布佐の町を通り抜け、手賀川サイクリングロードに至る。
オオヨシキリの声や揚げヒバリの声で賑やか。
季節の記録、麦秋。
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手賀沼南岸を走る。
手賀沼サイクリングロードは我がホームコース。
手賀沼はブログの中で最も多く話題にした場所かもしれない。
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ハス群生地。
季節の記録、ハスの若葉が出揃い始めている。
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若葉とその影。
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手賀大橋から手賀沼を眺める。
兄弟ブログ『龍人鳥の徒然フォト日記』のロゴ画像にこの手賀大橋から眺望を採用しており、大好きな風景である。
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河童の像。
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2011年の「京都・伏見ポタ」の際、伏見の黄桜ギャラリーの展示物の中に、河童が登場する「いなざき獅子舞 千葉・印西市 和泉鳥見神社」なるものがあった。
調べてみたところ、千葉県印西市には幾つかの鳥見神社があり、全てを巡った。
勿論、和泉鳥見神社の「いなざき獅子舞」もその時期を調べ、"取材"に行った。
獅子舞いの踊り、河童の踊りを堪能した。
殊に河童の舞いは奇祭ともいうべきものであった。
「鳥見神社」シリーズとして、ブログに綴ろうと思いながら、膨大な資料と写真を整理しきれず、お蔵に入ったままとなっている。
このほかにも、アップロードのタイミングを失したりして、お蔵入りになってしまったものが幾つかある。
二代目『上総守が行く!』がこれらを受け継ぎ、いずれ、アップロードする機会もあろうかと思う。

利根川と手賀沼を組み合わせた「利根川・手賀沼大周回路ポタリング」、これまでの思い出ばなしも織り混ぜての40km超の走りであった。

フォト:2014年5月30日
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by kazusanokami | 2014-05-31 23:58 | ポタリング | Comments(2)
2014年 05月 25日

『手賀沼&印旛沼ツイン・レイク・ポタリング』

5月7日(火曜)、晴れ。
ゴールデン・ウィーク明け。
といっても、隠居の身には毎日がゴールデン・ウィークのようなものだ(シルバー・ウィークかな?)。
手賀沼&印旛沼ツイン・レイク(ス)・ポタリングに出掛けた。
手賀沼から印旛沼へと、ふたつの湖沼をめぐるポタリングを「ツイン・レイク(ス)・ポタリング(Twin Lakes Pottering)」と名付けたのはいつの頃であったろうか。
走りなれたコースなので、カメラは封印。
ひたすら、薫風を味わいながらの走りに専念。
手賀沼北岸CR、手賀川左/右岸CR、利根川右岸CRと各CRを走りつないで行く。
このコースは殆ど一般道を走ることはなく、ストレスはゼロに近い。
道中、田植えが終わったばかりの水田の水の反射が清々しさを増す。
印旛水門で利根川右岸CRを離れ、北印旛沼CRへと向う。

北印旛沼。
封印していたカメラを取り出し、"記念写真"を一枚。
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北印旛沼と西印旛沼をつなぐ印旛捷水路を走り抜ける。
ここはちょっとした渓谷。
ウグイスの声が響く。
捷水路南端に架かる双子橋から西印旛沼を眺める。
双子橋東詰のラーメン店で昼餉を摂る。
店主殿が窓から我が愛馬ベデワン・ホワイトを見たのか、「可愛い自転車ですね」と。
思わず、スズキの軽四輪"ラパン ショコラ(Lapin Chocolat)"のCMのフレーズ、「可愛いでしょ。ショコラっていうんです」といいそうになった。
駐輪の横木は鉄パイプ製が多いが、このラーメン店の店先の駐輪用横木は木製で、西部劇でよく見られる酒場の前で馬を繋ぐ横木のイメージ。
我が愛馬は小径なので、横木にぶら提げるよりは馬の手綱と同様にチェーン・ケーブルを横木に巻いて。
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印旛沼公園の風車はパスして、走って来た道を戻ることに。
双子橋を渡り、捷水路を経由して、西印旛沼CRを走る。
吉高の揚排水機場近くにに差し掛かる。
往路、姿が見えなかったペリカンのかん太くんがいた。
健在で何より!
安食駅から輪行しようかなと思いつつ、結局、利根川右岸CRまで走ってしまった。
引き続き、薫風微風である。
このまま、自走で帰ることにした。

往路、利根川とその河川敷の清々しい風景を眺めたが、カメラは封印していたので、何も撮らず。
帰路、やっぱり、と思い、数枚を撮る。
河川敷に広がる緑の牧草地。
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河川敷に広がる水田。
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走って来た利根川右岸CR、満々と水が張られた水田、満々と水を湛え、ゆったりと流れる利根川、そして、西に傾く太陽を背に我が影。
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木下(きおろし)で利根川右岸CRから外れ、手賀川左岸CR、手賀沼北岸/南岸CRを経由して、帰館。
走行距離84.61kmの手賀沼&印旛沼ツイン・レイク(ス)・ポタリングであった。
80km超えの一人ポタは久しぶりのことであった。

フォト:2014年5月7日
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by kazusanokami | 2014-05-25 05:23 | ポタリング | Comments(0)
2014年 01月 29日

『ひたすら走る東海道/品川宿~大磯宿』(下)

昼餉を終えて、再び、走り出す。
このまま走っていいのかな?と思わせるところに至る。
藤沢バイパスである。
既に大給殿はいない。
南国殿、伊豆殿、武衛殿、上総にて思案するも、自転車通行禁止の標識は見当たらず、即、そのまま進むことで決定。
両脇は遮音壁で、側道はなく、遮音壁/ガードレール/車道の設え。
何となく閉塞感があり、快適な走りの道とは言い難い。
土曜日で交通量は少ないからよいが、ウィークデーならワタシ的にはここを自転車で走りたくはない道だ。
帰宅後、電脳で検索してみたところ、「R1の藤沢バイパスは自転車通行禁止か?」とか「自転車および軽車両通行禁止の標識はどこにも見当たりません。よって、通行可です」とかの記事が散見される。
この藤沢バイパスは誰の思いも同じなんだと納得する。

茅ヶ崎市を走る。
自転車路は明るいブルー。
13:06、先行グループ/大給殿撮影。
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13:15、第二グループ上総撮影/来た道。
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同/これから走る道。
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しまなみ海道では、この道は自転車も走りますよということを示すため、白線に代えてブルーの線となっている。
それと同じ色の明るいブルーである。
有難いことだ。

相模川に架かる馬入橋を渡る。
右眼前に富士山が見える。
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花水川に架かる花水橋から河口を眺める/大給殿提供。
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フォト:データによると、第二グループの伊豆殿、武衛殿、上総が馬入橋を渡っていた頃、先行グループの大給殿と南国殿は花水川に架かる花水橋を渡っていたようだ。

第二グループが花水橋を渡り切ったところで、ケータイ糸電話が鳴る。
南国殿からだ。
「今、大磯駅です。大給さんは13時45分発の電車に乗り、大森へ向いました。私は大磯駅で待っています」と。
昼餉時、大給殿は治療中の歯の調子がよろしくなく、歯医者の予約を取ったので、午後3時には大森に着いておきたいと言っていた。
ということで、急ぎ、大磯駅まで走たようであった。

大磯や大急ぎにて大森へ 霹靂火

「右/大磯駅」の標識のある交差点に至る。
見覚えのある交差点だ。
2010年12月、江ノ島から小田原へ向けて走った際、海沿いのバイパスからこの交差点に出て、国道1号を走り、小田原に至ったのであった。

JR大磯駅入り口/"Oiso Beach"(13:40、大給守殿撮影)。
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JR大磯駅にて、今日のjitensha(14:02、上総撮影)。
左から、南国守殿(輪行袋入り)、伊豆守殿、武衛殿、上総。
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大磯駅14時12分発の電車で大森へと向かう。
大森で大給殿と落ち合い、反省会。

朝8時過ぎ、品川宿発/先行グループ、午後1時40分、第二グループ、午後2時、大磯宿到着。
走行距離、約62km。
所要時間、昼餉込みで約5時間30分~50分。
普段のドラポタはあちらに立ち寄ったりこちらに立ち寄ったりの、まさにポタリングであるが、この日はドラポタにしては珍しく、「ひたすら走る東海道」であった。

フォト:2014年1月25日
フォト#1、5、6:大給守殿提供

(完)
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by KAZUSANOKAMI | 2014-01-29 11:55 | ポタリング | Comments(2)
2014年 01月 29日

『ひたすら走る東海道/品川宿~大磯宿』(中)

横浜駅近くで、国道15号線から国道1号線に。
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国道15号線を走っているときから、信号待ちで留め置かれたり、やや走るのが遅いなどで先頭グループと第二グループに分かれて走っていたが、この辺りで一旦、全員が揃った。
ところが、再び、信号待ちで先頭グループと第二グループに分かれてしまった。
京急戸部駅ガードをくぐったところで、先頭グループの大給殿にケータイ糸電話。
「既に戸部駅ガードを通り過ぎ、1号線を走行中」と。
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この戸部駅ガードの写真は先頭グループ/大給殿提供によるもので、撮影時刻は9時58分(フォト・データによる)。
第二グループ/上総が戸部駅ガード下からケータイ糸電話したのは10時02分(発信履歴による)。
随分と遅れたように思えたが、実際は4分ほどの差であった。

権太坂に差し掛かる。
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箱根駅伝のTV観戦で馴染みにある坂。
ダラダラ坂で結構きつい。
<峠>で全員揃った。
<峠>から上って来た坂を眺める。
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<峠>からこれから下る坂を眺める。
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坂道を下る。
不動坂交差点で直進のつもりでいたところ、お巡りさんから「自転車の直進は不可。標識があったでしょう。左の道を行き、戸塚踏切を越えると1号線に繋がります」と。
標識は見えなかったが、指示通りに左側の道に入る。
後ほど、調べたところ、直進すると1号線のバイパス「戸塚道路」、左に入った道が国道1号旧道で江戸時代の東海道(戸塚宿)とほぼ同じ行程であった。

箱根駅伝/戸塚の埋め込み。
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現在の箱根駅伝のコースはバイパスに移り、この道を走ってはいない。

開かずの踏切/戸塚大踏切。
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前方に「祝 戸塚大踏切デッキ開通! 平成26年1月18日」の横断幕が見える。
丁度、1週間前に、エレベーターを使い、デッキを通って踏切を渡る人道橋が完成したばかりなのであった。
踏切番の人から自転車もエレベーターを使ってくださいとの案内があるも順番待ち。
そのうち、僅かながら、開かずの踏切が開いたので、踏切を渡った。
この踏み切りは、東海道線、横須賀線、貨物線の上下計6線が走り、間断なく電車が通過する。
聞くところによると、朝の通勤時間と夕の帰宅時間帯は車両通行禁止となるほどである、と。
現在、地下車道化工事が行われているとのことだ。

「日本橋から54km」(フォト:データによると12:02 pm)。
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「腹、減りました」、「昼餉にしましょう」。
昼餉@長崎ちゃんぽん リンガーハット藤沢辻堂店。
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フォト:2014年1月25日
フォト#1、2、3、8、9:大給守殿提供

(つづく)
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by KAZUSANOKAMI | 2014-01-29 10:46 | ポタリング | Comments(2)
2014年 01月 28日

『ひたすら走る東海道/品川宿~大磯宿』(上)

1月25日(土)午前8時、JR品川駅高輪口に集合。
この日のメンバーは、大給守殿、伊豆守殿、武衛殿、南国守殿&上総のドラポタ総勢の5名。
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コースは次の通り。
------1月23日付電脳電子飛脚便、引用------
方々
次回ポタリングご案内です。
期日:1月25日(土)
集合刻限、場所:午前8時、JR品川駅高輪口/階段下広場付近
コース:東海道・旧東海道/品川宿~大磯宿
※距離:JR東海道線の距離で60km
=備考1=
2010年12月4日、藤沢~江ノ島~小田原ポタを挙行。但し、殆ど、海沿い。with 大給守殿。
2011年3月12日の箱根越え"NOVOLTA大作戦"は前日に起こった東日本大震災により中止。
2011年7月某日、大給守殿箱根越え"NOVOLTA大作戦"単独行にて小田原~箱根~三島、制覇。
2014年1月18日、反省会評定にて、大給殿より「純粋に東海道五十三次を三島まで走ったことにしたいので、品川宿より大磯宿まで」との提案あり。
よって、今回は大磯まで東海道・旧東海道を走ることとした。
=備考2=
サイクリングロードならまだしも、一般道で60kmは結構しんどい。
2010年12月のポタでは、二ノ宮辺りは東海道を走ったが、大型トラックなどが追い越して行く際、キンチョー度が増し、疲れた。
Hopefully、大磯宿まで。
場合によっては、途中で切り上げ、早めの反省会に。
=備考3=
週間天気予報では、晴れ時々曇り、最低5℃/最高気温15℃、風向きは不明。
朝晩は寒いが、日中は暖かそう。
旅装束は、適宜、気温に合わせて。
上総
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品川宿(旧東海道/北品川商店街)を走る。
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こんな自転車路の表示あり。
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鈴ケ森遺跡。
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右/火炙台、左/磔台。
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右/火炙台の説明書きによれば、「火炙台/八百屋お七をはじめ火炙の処刑者は皆この石上で生きたまま焼き殺された 真ん中の穴に鉄柱を立て 足下に薪をつみ縛りつけて処刑されたのである 鈴ケ森史跡保存会」とある。
左/磔台の説明書きによれば、「磔台/丸橋忠弥をはじめ罪人がこの台の上で処刑された 真ん中の穴に丈余の角柱が立てられその上部に縛りつけて刺し殺したのである 鈴ケ森史跡保存会」とある。
子供の頃、片岡千恵蔵主演の丸橋忠弥の映画を観たことがある。
調べてみたところ、「幕府転覆を狙い、慶安の変を首謀した丸橋忠弥の半生を描く」との添え書きと共に、東映、片岡千恵蔵主演「素浪人忠弥」(1957年)とあった。
小生、11歳の頃であった。

鈴ケ森刑場受刑者之墓。
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鈴ケ森史跡保存会の人たちよるものであろうか、花が手向けられている。

国道15号線(第一京浜)を走る。
国道15号線(第一京浜)は、旧東海道の日本橋-神奈川間とほぼ同じ位置にある国道である。
鈴ケ森遺跡のあとは何処にも立ち寄らず、ひたすら走る。
川崎市池田一丁目付近。
)。
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総持寺を訪ねたことがあったなあと思いながら、鶴見を通過。
生麦事件というのがあったなあと思いながら、生麦を通過。
横浜市子安付近。
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横浜駅近くで、国道15号線から国道1号線に。
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フォト:2014年1月25日
フォト#3、10、12:大給守殿提供

(つづく)
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by KAZUSANOKAMI | 2014-01-28 23:58 | ポタリング | Comments(2)
2014年 01月 24日

『ドラポタ走り初め 2014』 hz-12

本郷から日本橋へ。
日本橋"LORO"に到着。
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武衛殿の愛馬のフィッシュボーンを新替え。
ついでに、ワイヤ類も新替え。
南国守殿のブレーキが固いとのことで、調整。
後輪軸がずれていることが判明。
後輪軸の調整には少し時間が掛かるとのことで、"LORO"に愛馬を預け、向かいの店で反省会。
走り慣れたコースではあったが、新発見もあった「ドラポタ走り初め」であった。

フォト:2014年1月18日

(完)
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by kazusanokami | 2014-01-24 16:21 | ポタリング | Comments(0)
2014年 01月 24日

『ドラポタ走り初め 2014』 hz-11

旧・真砂町(現・本郷四丁目)から本郷通りを走り、日本橋に向う。
本郷三丁目交差点の南西角で「本郷もかねやすまでが江戸の内」が目に入った。
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説明書き。
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---------------------
かねやす
(本郷2-4-11
兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨粉を売り出した。
大評判となり、客が多数集まり、祭りのように賑わった。(御府内備考による)
享保15年、大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗家(ぬりや)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。
江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。
時の町奉行は、本郷は仮名で、芝は漢字で、と粋な判決を行った。
それ以来、本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
文京区教育委員会
昭和61年3月
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豊川稲荷に続き、ここでも大岡越前守が登場した。

司馬遼太郎さんが「街道を行く/本郷界隈」で「本郷も かねやすまでは 江戸の内」について触れている。
---------------------
江戸市域のことを、「御府内」といった。
江戸の場合、本郷の大部分が”御府内”ではない。
だから、本郷の町方で殺人事件が起きたところで、江戸町奉行から与力や同心などが出役することはなかったに違いない。
江戸時代の公文書の「御府内備考」は江戸幕府が編纂したもので、御府内の地誌や名所旧跡の沿革・由来につき、主として古文書や伝承によって記録されている。
享保年間(1716-1735)、口中医師(歯科医)の兼康祐悦という人が、本郷三丁目の角に店を開いて、「乳香散」という、粉の歯磨きを売った。
大いに繁盛して江戸中に知られるようになった。
「本郷へ行くなら『かねやす』で乳香散を買ってきておくれよ」などという会話が、神田でも日本橋でも交わされた。
本郷も かねやすまでは 江戸の内
という川柳が詠まれ、江戸人の間で本郷が話題になった。
(以下略)
-----------------------
「街道を行く/本郷界隈」は随分と以前に読んだものであり、今回、偶然、本郷三丁目交差点で「本郷も かねやすまでは 江戸の内」のプレートに出くわした次第だ。
偶然ということが嬉しさを倍増してくれた。

日本橋へ向け、更に走る。

フォト:2014年1月18日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-01-24 16:14 | ポタリング | Comments(0)
2014年 01月 24日

『ドラポタ走り初め 2014』 hz-10

「本郷/文学の旅」。
石川啄木の次は樋口一葉だ。

樋口一葉ゆかりの伊勢屋質店。
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説明板に目を通す。
-------------------
一葉ゆかりの伊勢屋質店
(本郷5-9-4)
万延元年(1860)、この地で創業し、昭和57年に廃業した。
樋口一葉(1972-96) 大へん縁の深い質店であった。
一葉の作品によると、一葉が明治23年、近くの旧菊坂町(現・本郷 4丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。
明治26年、下谷・竜泉町に移ってからも、終焉の地 ( 現・西片1-17-18) にもどってからも、伊勢屋との縁は続いた。
一葉が、24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋主人が香典を持って弔ったことは、一葉とのつながりの深さを物語る。
店の部分は、明治40年に改築した。
土蔵は、外壁を関東大震災後ぬり直したが、内部は往時のままである。
~一葉の明治26年5月2日の日記から~
此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、
羽織二つ、一風呂敷につつみて、母君と我と持ゆかんとす。
蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ
東京都文京区教育委員会
昭和63年3月
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扉が開いている。
中を覗いてみた。
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「家政婦は見た」の貼り紙のある箱が三つばかり積まれている。
中に人が一人いて、何やら準備作業をしている。
積まれている箱は小道具のようだ。
テレビドラマの撮影に使われているようだ。
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樋口一葉の旧居跡に向う。
以前、訪ねたときは場所が分からず、運よく通り掛かった、法被に鉢巻、雪駄姿のイナセな御兄さんに尋ねたところ、路地にある旧居跡に残る井戸まで連れて行ってくれた。
いつのことであったかとブログを紐解いてみたところ、2010年9月26日のことであった。
秋祭りに向う祭り姿の御兄さんであった。

樋口一葉旧居跡に残る井戸。
この井戸は今も現役である。
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井戸の奥の、石段と長屋の門。
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イナセな御兄さんの「この長屋は山本薩夫監督の『人間の条件』の撮影に使われました」などなどこの界隈の話をいろいろと語ってくれたことが蘇る。

ここまで来たので、旧・真砂町(現・本郷四丁目)に立ち寄ってみた。
ここを訪れるのも2010年9月以来のことだ。
旧家の玄関先には今も「真砂町」の名が残っている。
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旧真砂町の謂れ
真砂町は昭和40年までの町名である。
寛永(1624-44)以来、真光寺門前として桜木神社前の一部だけ町屋であった。
明治2年、古庵屋敷を併せて真砂町の新町名をつけた。
浜の真砂のかぎりないようにと町の繁栄を願って命名した。
明治5年には、松平伊賀守(信州上田藩5万8千石)や松平右京亮(上野高崎藩8万2千石)の屋敷などの武家屋敷跡を併せた。
右京亮の中屋敷は右京ヶ原(右京山とも)といわれ、長らく原っぱであった。
富田常雄の名作「姿三四郎」の三四郎と源三郎の対決の舞台となった。
真砂町は、泉鏡花の「婦系図」、恩師酒井先生の"真砂町の先生"でよく知られる。
(マイ・ブログ「上総守が行く!」/2010年10月3日付「本郷・田端文学散歩+アルファ都内ポタ」第3話より抜粋)
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泉鏡花と富田常雄の登場を以て今回の「本郷/文学の旅」は終わりとし、武衛殿の愛馬のフィッシュボーン復旧のため、日本橋"LORO"へと向う。

フォト:2014年1月18日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-01-24 15:57 | ポタリング | Comments(0)
2014年 01月 24日

『ドラポタ走り初め 2014』 hz-9

新宿通り、外堀通りを走り、本郷へと向う。

東京大学正門。
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「大学入試センター試験」の貼り紙が。
この日、1月18日と翌19日は大学入試センター試験。
我々の世代には斯様な試験はなかったが、昔も今も受験生には勝負!の季節だ。
久しぶりに東大構内のジョサイア・コンドル像と三四郎池をと思って来訪するも、構内に入るのは憚られる雰囲気であったので、これは見送りとした。
「安田講堂地下のタンメンが旨いんですよね」の言葉に後ろ髪を引かれながら、次の「本郷/文学の旅」に。

「本郷/文学の旅」の一つ目は、石川啄木ゆかりの蓋平館別館跡。
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石碑には啄木の短歌「東海の小島の磯の白砂に我泣き濡れて蟹とたわむる 」が刻まれている。

石碑の脇の案内板に目を通す。
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石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別館跡
(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)
石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館 (オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。
小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。
前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。
3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。
また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。
北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ38ノ9)の喜の床に移った。
ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃太栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。

父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に
(明治41年9月14日作、蓋平館で)

-郷土愛をはぐくむ文化財-
文京区教育委員会
昭和56年9月
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石碑は太栄館本館の玄関先に建立されている。
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「本郷/文学の旅」、次は樋口一葉だ。

フォト:2014年1月18日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-01-24 10:59 | ポタリング | Comments(0)
2014年 01月 24日

『ドラポタ走り初め 2014』 hz-8

国立競技場で1964年の東京オリンピックを楽しんだ。
「腹が減って来ましたね」。
「11時40分ですね。昼餉にしましょう」。
「ラーメンにしましょう」。
「ここは外苑西通り。ラーメン店がいっぱいある新宿通りに出ましょう」。
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喜多方ラーメン 坂内小法師四谷店。
喜多方ラーメンはあっさりしていて好きだ。
炙り豚のミニ丼も誠に結構な味であった。

フォト:2014年1月18日(大給守殿提供)
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by kazusanokami | 2014-01-24 10:58 | ポタリング | Comments(0)