カテゴリ:伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング( 24 )


2009年 10月 26日

『伊能忠敬敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/番外編』 im-24

先日、平泉、中尊寺を訪れた際、博物館のショップで観光客向けの土産物のひとつとして根付けの家紋が売られていました。
偶然、伊能忠敬の家紋と間宮林蔵の家紋が並んでいました。
師弟の上下が逆でしたが...。
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(フォト:2009年10月12日、平泉、中尊寺にて)

9月27日から連載を開始した「伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて」は、江戸編、常陸国上平柳村編、下総国岡村編、下総国佐原編、番外編と、24話に亘り、jitenshaでの旅を綴ってみました。

江戸時代後期の偉人である、伊能忠敬、間宮林蔵は勿論のこと、幕府天文方の高橋至時・景保親子にも出遭い、また、江戸時代初期の偉人である、関東郡代、伊奈半十郎忠治にも出遭い、小生のビョーキ、"歴史徘徊病"に相応しい旅でした。

伊能忠敬、間宮林蔵ゆかりの地に加え、その際、あちらこちらに立ち寄っており、純粋に「ゆかりの地を訪ねて」での走行距離ではありませんが、今回の走行距離は、9月19日/江戸編:36.30km、9月22日/常陸国上平柳村編&下総国岡村編:65.53km、9月23日/下総国佐原村編:62.23km、再訪問の10月17日/下総国岡村編:53.20kmの計217.26kmでした。

忠敬さん、林蔵さんの歩いた距離とは比べようもありませんが、忠敬さん、林蔵さんの歩きをこれからのポタの励みとしたく...。

伊能忠敬/1745年(延享2年)~1818年(文化15年)
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間宮林蔵/1780年(安永9年)~1844年(天保15年)
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<完>
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by kazusanokami | 2009-10-26 23:06 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(4)
2009年 10月 26日

『伊能忠敬敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/番外編』 im-23

”嗚呼懐歩 (Archive))"より。

大崎下島/御手洗地区/菊本家。
伊能忠敬は、1806年3月30日から三日間、瀬戸内海/大崎島一帯を調査した際、同家に宿泊したとのことです。
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大崎下島の商家。
大崎下島は、「風待ち」、「汐待ち」の町として栄えました。
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フォト:2008年11月/「竹原、大崎上島、大崎下島、しまなみ海道ポタ」にて。

(つづく)
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by kazusanokami | 2009-10-26 23:05 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(2)
2009年 10月 26日

『伊能忠敬敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/番外編』 im-22

”嗚呼懐歩 (Archive))"より。
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宗谷岬/間宮林蔵立像。
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今回の調べで、宗谷岬から車で5分のところに、石碑「間宮林蔵渡樺の地」があることが判りましたが、2006年に訪れたときには、その石碑は見ていません。
いつか、次の機会に見てみたく。

利尻島/稚内から礼文島へ向かう船上からの眺め。
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間宮林蔵も、樺太へ向かう途中、"利尻富士"を眺めたことでありましょう。

利尻島、沓形岬の標識。
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間宮林蔵が探検した樺太まで108kmとの表示があります。

フォト:2006年5月

(つづく)
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by kazusanokami | 2009-10-26 23:04 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(2)
2009年 10月 22日

『伊能忠敬敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/下総国佐原村編』 im-21

伊能忠敬旧邸から数キロ離れた、伊能家菩提寺である観福寺へ。

観福寺山門。
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石段を上り、境内へ。
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本堂の向かいの石段を上り、観音堂へ。
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観音堂前の蓮。
蓮を見るとカメラを向けたくなるんです。
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観音堂。
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観音堂の右手に毘沙門堂。
その奥の杉木立の中に、伊能家の墓所があります。
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伊能忠敬の墓。
墓石に刻まれた戒名は、「有功院成裕種徳居士」。
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伊能忠敬は、上野源空寺に埋葬するようにとの遺言を遺し、ここ、観福寺のお墓は遺髪と爪が埋められた"参り墓"。
第3話で綴った上野源空寺での墓参に続き、ここ、観福寺の墓前にても合掌。

伊能家の家紋、「丸に違い鷹の羽」。
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家紋を調べたのは、つい、最近では、間宮林蔵の家紋を、それも、10年前に、趣味の忠臣蔵で、浅野家と大石家の家紋を調べて以来のことです。
余談ながら、浅野家も「丸に違い鷹の羽」ですが、羽の中が渦巻紋様で、且つ、右の羽を上に置いている「右重ね」となっており、鷹の羽の紋様は多々ある中でも、独特の紋で、「浅野鷹の羽」と称されています。

墓所脇の説明書き。
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伊能忠敬生誕の地、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町)には、生家跡に、銅像と碑、そして、生誕250年を記念してつくられた公園があるとのことです。
また、折を見て、訪れてみたいものです。

モミジの多い、お寺。
秋が深まれば、美しい紅葉を見ることが出来るお寺かと。
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紅葉の頃に、再訪を思いながら、観福寺を後にしました。
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既に、夕方4時。
JR佐原駅へ向かう途中、昨年1月に鰻を食した「長谷川」へ。
前日、亀戸で鰻を食したので、この日は店には入らず、蒲焼の良き香りだけを嗅がせて戴き、JR佐原駅へ。

JR佐原駅から輪行にて帰館。

フォト:2009年9月23日

(「佐原村編」/完、「番外編」に続く)
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by kazusanokami | 2009-10-22 06:30 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(4)
2009年 10月 21日

『伊能忠敬敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/下総国佐原村編』 im-20

佐原公園/伊能忠敬立像をあとにして、小野川に至る。

小野川に架かる、忠敬橋(ちゅうけいばし)。
中象限儀(と思われる)を模した欄干。
忠敬橋からの小野川の眺め、大好きな風景です。
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伊能忠敬旧宅。
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伊能忠敬記念館。
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約50kmを走り、佐原へ来たことでもあり、少々、お疲れモード。
展示物をゆっくりと見る気力はなく、忠敬さんには御無礼ながら、今回は入館を見送り。。
以前、入館した際に見たことがある展示物は、そのとき以上に為になることが多々あると思われ、次回は必ず入館しますので、と心に誓い...。
因みに、同館は1998年(平成10年)の開館。
それ以前の記念館は、旧宅の中庭にありましたが、測量器具などがばらばらっと並べられた、お世辞にも立派とは言えない記念館でした。
今の記念館は、以前に入館した際の記憶が正しければ、パネル化された、大きな伊能図などが展示され、それはそれは立派な記念館です。

町の中の標識。
忠敬さんの歩幅で距離を表示した標識が、ところどころで見られます。
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第7話の門前仲町/富岡八幡宮内の伊能忠敬像を綴った際、忠敬さんの歩幅は幾らであったか、それは「下総国佐原村編」をお楽しみに、と申しましたが、それがこの標識です。

造り酒屋の「東薫酒造」や「馬場本店酒造」を訪れたり、蕎麦の「小堀屋本店」、書店の「正文堂」(何時の頃からか廃業/建屋のみ)、胡麻油の「油茂」、町家を改造したフランス料理店「夢」、、和紙や薫香の「並木仲之助商店」などの店々を眺めながら、佐原の町を散策。
(「佐原散策」は、追って、別途のブログにて...)

旧宅から数キロ離れた、伊能家菩提寺である観福寺へ。

フォト:2009年9月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2009-10-21 20:51 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(2)
2009年 10月 20日

『伊能忠敬敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/下総国佐原村編』 im-19

9月19日の"江戸編"、9月22日の"常陸国筑波郡上平柳村編"および"下総国相馬郡岡村編"に続き、9月23日、伊能忠敬ゆかりの地、下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)に出掛けました。

昨年1月、「坂東太郎下流の旅」と題して、「JR常磐線鉄橋の袂~佐原」と「佐原~銚子」の二度に分けてポタリングしましたが、佐原へ向かうポタリングはそれ以来のことです。

今回は、手賀沼沿い、手賀川沿い、弁天川沿いを走り、布佐を抜け、木下(きおろし)辺りから利根川右岸沿いの「佐原・我孫子線自転車道」のルートにて、約50kmを走り、佐原に至る。
(「佐原までの旅」は、追って、別途のブログにて...)

伊能忠敬立像/佐原公園。
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アップで。
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測量の旅では、天候に悩まされたこともあったでしょうし、このような、秋の青空の日もあったでしょう。
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台座に近寄って、ぐっと、アップで。
門前仲町/富岡八幡宮内の銅像は、足をぐっと踏み出し、力強く歩を進める姿。
ここ、佐原公園の銅像は、立ち止まって、杖先羅鍼(つえさきらしん) (と思われるもの)を見ながら、測量記録を書き付けている姿。
「動」と「静」、どちらも立派な像です。
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台座の漢文。
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「仰(あお)いでは斗象(とうしょう)を瞻(み)、俯(ふ)しては山川を畫く(えがく)」。
「天体の観測を行って、立派な地図を作った」と忠敬先生の功績を称えています。
(銅像の説明書き、抜粋)

説明書き全文。
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佐原公園をあとにして、小野川方面へ。

フォト:2009年9月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2009-10-20 20:16 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(0)
2009年 10月 17日

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/下総国岡村編』  im-18

=補遺=
10月16日付第17話を以て、「下総国岡村編」を終え、「下総国佐原編」へ、と思うも、10月15日付第16話と10月16日付第17話で触れたことにつき、知りたきことがありましたので、本日(10月17日)、ポタリングも兼ねて、再び、岡堰中の島と岡堰水神岬公園を訪れました。

知りたきこととは、前回(9月22日)、しっかりと見なかった、岡堰中の島の「堰水普沃土潤」の碑と岡堰水神岬公園の「岡堰築堤記碑」は、どのようなことで建立されたのかということでした。

岡堰中の島橋を渡り切る手前で、先ず、目に入るのは「間宮林蔵立像」の背中。
前回(9月22日)は気付きませんでしたが、立像の台座に、何やら、碑文が刻まれているようでした。
林蔵先生に「一ヶ月振りですね」と挨拶し、台座の側面に嵌め込まれた碑文を読んでみました。
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反射で字がよく読めぬことと、お見苦しくも上総が写っておりまする故、光の具合の良い角度で、もう一枚。
これ、何処かで見ましたね。
そうです、間宮林蔵記念館前のものと同じです。
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次に、疑問の「堰水普沃土潤」の碑」へ。
碑の表面。
「堰水普沃土潤」の文字の下に、「建設次官山本三郎」と刻まれています。
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碑の裏面。
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「岡堰改築記念之碑」とあり、続いて、「本堰は、寛永七年、徳川三代将軍家光が下総国相馬二万石の開拓を計るため、時の郡代伊奈半十郎忠治に命じ...(中略)。本改築は、昭和八年、小貝川改修工事の起工に伴い、計画され、...(中略)、洗堰は昭和二十八年十一月着工、同三十五年三月竣工...(中略)。可動堰設計施工は、建設技官山本三郎、武田甚吉、......の諸氏が当たり、幾多の困難を克服して工事に専心、又は、協力し、早期完成に尽力されたその功績をしのび、後世において本堰の運用により肥沃なる耕地の繁栄を願い茲に記念碑を建立する。
昭和三十五年四月 小貝川工事事務所長 建設技官 家原俊二 撰文」とありました。

「堰水普沃土潤」の碑による顕彰がよく分かりました。
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岡堰中の島をあとにし、岡堰水神岬公園へ。
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前回、「岡堰築造記碑」の難解な文字に気を取られ、碑文は全く見ていませんでした。
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碑文は約600文字。
全文を書き写すのは諦め、前段の少しだけ、書き取りました。
「正二位勲等公爵徳川家達(篆)額」
「下総国相馬郡岡村有一水白日小貝川寛永中幕府命土木吏伊奈半十郎忠治築堤防横断之又引鄰郡...(略)大正八年十月」

疑問はほぼ解けました。

小貝川CR、利根川左岸CRを走り、秋のポタ。
ススキとセイタカアワダチソウの競合というか、棲み分けというか、ススキ色と黄色の秋景色を楽しみました。
走行距離53.2km。

今日の jitensha 。
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フォト:2009年10月17日

(「下総国岡村編」補遺/完、「下総国佐原編」に続く)
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by kazusanokami | 2009-10-17 23:08 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(4)
2009年 10月 16日

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/下総国岡村編』  im-17

岡堰中の島から少し上流方面に向かい、岡堰水神岬公園へ。

岡堰水神岬公園。
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公園入り口の説明書き。
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説明書きは、次の通り記されています。
『岡堰にある100mの突堤。小貝川を堰して満々と湛えた中に青松の影をうつした岬は岡堰の添景として離し難い。岡堰は寛永7年(1630年)、関東郡代伊奈半十郎忠治によって造われ、上流の福岡堰、下流の豊田堰と共に関東三大堰のひとつである。古くは、この岬は中州など共に水流をじぐざぐにし、堤防を護る役をしていたという。岬の中に水神宮が祭られている。岡堰用水組合では、水神宮のお祭りと共に上州榛名神社へ代参を立てたことが江戸時代の記録に残っている。山岳信仰の通有性はあるにしても、特に榛名山を選んだのは、山を水源と仰ぐ心であろう。水は二万石の命である。』

水神神社と碑。
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水神神社。
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碑。
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碑の表に大きく刻まれた文字は、「岡堰○○○碑」と読み取れます
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後日、取手市埋蔵文化財センターに電話にて刻まれた文字を確認したところ、「岡堰築造記碑」とのことでした。

岡堰水神岬公園から桜の木越しに新・岡堰を眺める。
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第17話で触れた「関東郡代 伊奈忠治」の名は、ここ、岡堰水神岬公園入り口の説明書きにも記されており、ここで、伊奈忠治について、少し触れてみます。

江戸時代、幕府の直轄領を支配する代官が置かれ、郡代と呼ばれていました。
伊奈家は、代々、関東郡代の職にあり、伊奈忠治は、初代忠次、二代目忠政に続く三代目。
伊奈家は、元々、信州の出で、伊奈の姓は長野県の伊奈(現・伊那)が由来との由。
また、茨城県筑波郡伊奈町(現・つくばみらい市)の地名の伊奈は伊奈家が由来との由(埼玉県北安立郡伊奈町も同様の由)。
岡堰の辺りは、江戸時代、幕府の直轄領(所謂、天領)で「相馬領」と呼ばれていました。
前述の説明書きの中の「水は二万石の命である」は、「相馬領二万石」の意と思われます。

前述の説明書きにある「関東三大堰」、上流の「福岡堰」は本年6月7日のポタリングで、また、下流の「豊田堰」は9月5日と13日のポタリングで訪れました。
これら、ふたつの堰については、本年6月22日付、9月10日付、9月16日付でブログに掲載済みです。

岡堰水神岬を離れ、少し上流から新・岡堰を眺める。
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更に、上流方面に向け、走る。
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専称寺、生家/記念館、岡堰などの、間宮林蔵ゆかりの地を巡り、更に、江戸時代後期の間宮林蔵に先駆け、江戸時代初めにも、伊奈半十郎忠治なる偉人がいたことも知り、有意義な歴史徘徊となりました。

歴史徘徊の後、小貝川~利根川~手賀川~手賀沼とポタを楽しみ、帰館。

フォト:2009年9月22日

(「岡村編」/完、「佐原村編」に続く)
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by kazusanokami | 2009-10-16 22:05 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(2)
2009年 10月 15日

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/下総国岡村編』   im-16

新岡堰を渡り、小貝川右岸へ。

小貝川右岸のこの辺りは、古くは「山王村」となっている資料もありますが、併合に併合を重ねているので、念のため、取手市埋蔵文化財センターに電話で確認したところ、江戸時代は下総国相馬郡岡村、その後、明治になり、相馬郡は南と北に分離され、南相馬郡は千葉県に、北相馬群は茨城県に編入となり、茨城県北相馬郡岡村は併合を重ね、茨城県北相馬郡山王村、北相馬郡藤代町、そして、現在は取手市岡となっている由。

これで、「岡堰」の名の由来がよく分かりました。

岡堰中の島橋。
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岡堰中の島橋を渡ると、間宮林蔵立像や岡堰の説明書き、旧岡堰の遺構などが目に入って来ました。

新岡堰を背に、そして、やや上流の、旧岡堰のあった辺りに向いて立っている、間宮林蔵像。
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間宮林蔵記念館前の立像と、姿、大きさは同じもののようで、ひとつのデザインで二つ作るという、実の伴った配慮が何か好ましいように思えました。

立像の脇の碑、「間宮倫宗先生發祥地」。
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倫宗(ともむね)は本名、林蔵は通称です。

国土交通省下館河川事務所による説明書き。
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岡堰の昔の絵図。
薄くて見辛いですが、手前の土手から中の島の間に堰が、そして、中の島から対岸の間にも堰があります。
川は上流から大きく蛇行しています。
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説明書きには、「人」について次のように記されています。

=伊奈忠治と岡堰=
江戸時代、関東郡代となった伊奈忠治は小貝川の改修工事を行いました。
小貝川の改修工事は、利根川を銚子に付け替える東遷事業の一環として行われたものでしたが、小貝川は鬼怒川と切り離されることで、川筋が一定となり、寛永7年(1630年)には岡堰が設けられました。
萱と竹を使った「伊奈流」は苦労の末につくられた独特の工法で、昭和初期まで人々は堤防や堰の決壊時に、この伝統的な工法で危機を乗り切ってきました。
伊奈忠治は、流域の水源として、小貝川に次々と堰を築造しました。
岡堰上流の谷和原に「福岡堰」、下流に「豊田堰」を築造し、江戸初期に完成させたこれらの堰は「関東三大堰」と呼ばれています。

=間宮林蔵と岡堰=
間宮林蔵は、小貝川沿いの伊奈町(現つくばみらい市)が生んだ偉人です。
少年間宮林蔵は築溜工法によってその才能が認められ、偉大な測量探検家として成長していった、その原点は岡堰にあると語り継がれています。

また、説明書きには、「歴史」について次のように記されています。

=明治期の岡堰=
明治31年(1898年)、洪水により損壊した翌年、十二連のレンガ堰とレンガ洗堰に増改築され、様式工法により近代化した岡堰として生まれ変わりました。
完成したレンガ堰は、有効幅員1.8メートル(十二連)のレンガ堰枠と有効幅員5.6メートル(四連)の洗堰の威容と美観は見事で「関東花見記」のトップに載る景観でした。

=昭和期の岡堰=
昭和の岡堰の大改修は、昭和12年(1937年)に着手し、太平洋戦争の終わった翌年の昭和21年(1946年)、コンクリート可動堰に生まれ変わりました。
可動堰は、長さ63メートル、幅13メートルの引上扉式で、扉は鋼製。洗堰の長さは100メートル、幅19メートルの越流固定式でした。この越流堤を流れる水は白滝のような流れで、素晴らしい流れだったそうです。

=現代の岡堰=
昭和の大改修から50年を経た昭和55年(1980年)、前面可動堰に改築されることとなりました。可動堰の長さは300メートル、管理橋、魚道などの設計が完成、昭和58年(1983年)10月着工、平成8年(1996年)に現在の岡堰が竣工しました。

公園内には、説明書きに照らすと、「明治期の岡堰」や「昭和期の岡堰」の遺構と思われる建造物が”展示”されており、これらの遺構も岡堰の今昔を語っていました。

レンガ造りの遺構。
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この遺構の傍の地面に「岡洗堰」、「小貝川」、「昭和三十五年三月竣工」、「おかあらいせき」と記された四枚のプレートが埋められていました。
説明書きでは「昭和三十五年三月竣工」には触れられていませんが、岡堰の遺構のひとつと思われます。

昭和期の遺構と思われます。
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現在の岡堰。
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岡堰の設計に携わった技師たちを顕彰する碑(のようです)。
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岡堰中の島から上流方面を眺める。
緑地に見えるところは、増水時の遊水地になるのでしょう。
左手向こうの木立のあるところが、岡堰水神岬公園。
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銅像や碑、「人」や「歴史」がコンパクトに記された説明書き、堰の遺構などが整えられた、岡堰中の島は、長い歴史の中で堰に携わって来た人たちに敬意を表している気持ちがよく表れた場所でした。

間宮林蔵の人生の、大きなターニング・ポイントとなった「岡堰」、印象深い歴史探訪でした。

岡堰中の島をあとにして、岡堰水神岬公園へ向かいました。

フォト:2009年9月22日

(つづく)
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by kazusanokami | 2009-10-15 20:55 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(2)
2009年 10月 14日

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/常陸国上平柳村編』 im-15

林蔵の育った上平柳村をあとにして、小貝側沿いの土手の一般道に出て、数キロ先の下流にある、岡堰へ向かいました。

小貝川左岸土手の一般道からは、木立に遮られて、間宮林蔵生家/記念館は見えません。
目印は、この青い屋根の家。
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小貝川左岸、走って来た一般道を振り向いて見てみると、こんな感じです。
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新岡堰が見えて来ました。
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アップで。
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対岸の眺め(左:一本、木立の生えた島が岡堰中の島、右:数本、木立の生えた島が水神岬公園)
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新岡堰を渡る。
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新岡堰から下流を眺める。
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新岡堰から上流を眺める(左:岡堰中の島、手前は堰の爪)。
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新岡堰から上流を眺める(左:岡堰中の島、右:小貝川の流れ)。
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新岡堰を渡り、右折し、岡堰中の島へ。
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小貝川右岸も茨城県なので、常陸国かと思いきや、右岸は下総国。
その訳は第16話にて...。

フォト:2009年9月22日

(「上平柳村編」/完、「岡村」編に続く)
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by kazusanokami | 2009-10-14 21:07 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング | Comments(2)