『上総守が行く!』

kazusanokm.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:伝説( 7 )


2014年 06月 13日

『伝説/八咫烏』

"2014 FIFA ワールド・カップ 本大会"がブラジルで始まった。
今回で20回目、節目の記念大会だ。
昨秋、熊野三山をめぐり、八咫烏(やたがらす)に出会った。
熊野三山ゆかりの八咫烏は、日本サッカー協会のシンボルマークでもある。
ザック・ジャパンのメンバー23名の活躍を祈念しながら、ここに八咫烏のことを綴ってみたい。
なお、熊野三山の参拝には順序はないといわれており、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社、熊野本宮大社の順に参拝したので、参拝順で記していくこととしたい。

熊野速玉大社、熊野那智大社、熊野本宮大社の八咫烏はそれぞれに絵柄が違う。
熊野速玉大社の八咫烏。
a0104495_5315228.jpg
熊野那智大社の八咫烏。
a0104495_5461348.jpg
熊野本宮大社の八咫烏。
a0104495_546404.jpg
日本サッカー協会シンボルマークの八咫烏と日本代表エンブレムの八咫烏。
(bing.com/images 「日本サッカー協会シンボルマークの画像」より借用)
a0104495_54774.jpg
日本サッカー協会のシンボルマークと日本代表エンブレムのデザインは、熊野那智大社の八咫烏に近いといえるだろう。

八咫烏の由来。
熊野本宮大社で見た由来をここに引用しておきたい。
a0104495_5475870.jpg
-----------------------------
八咫烏(由来)
熊野では八咫烏を神の使者と言われています。
三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)表わすとも言われ、当社では主祭神家津美御子大神(素盞鳴尊)の御神徳である「智・仁・勇」、又、「天・地・人」の意をあらわしています。
烏は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇御東征の砌、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。
又、歴史上の一端より触れて述べれば、源平合戦の折、那須与一出身地(栃木県)烏山城は烏が金の紙幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したといわれています。
次に世界各国の一部を記せば、
◎スカンジナビア
オジンの神の肩に止まった烏が二羽、一つは思考、一つは記憶と名づけて毎朝二羽の烏を放って、世界中のことを報告させたといわれている。
◎古代ギリシャ
烏はアポロの神の標識。
◎ツリンキート族
火を最初にもってきて、光を人にあたえたのは烏であると伝えられている。
又、最近、スポーツのサッカーが青少年、若い人々に人気を博している。
日本サッカー協会のマークは八咫烏です(明治時代にサッカーが日本に始まった。この頃から使用されているそうです)。
サッカー協会のマークに使用された意味は、考えるに、目的とする相手チームのゴールをはずすことなく、きちんととらえて納めるという意ではないでしょうか。
尚、右の意より,当大社では今も尚変わらず、
◎人の道開きの開運、人生、目的達成
◎現在地~目的地の間,無事に到達する意・海上安全・交通安全(車・二輪車等)旅行安全・通学安全の守護として仰がれています。
*八咫烏のお祭りに関わる祭典
毎年1月7日、夕闇深き時刻(午後5時)に厳修斎行される(年始め牛王刷り初め)があり、当社の年中行事の中でも中心となるお祭りです。
熊野本宮大社社務所
-----------------------------
ツリンキート族に関わる記述がある。
ツリンキート族とは?
調べてみた。
「トリンギット、或いは、クリンギットとも呼ばれるインディアン部族の一つで、アラスカ、カナダの先住民族。一族の象徴は大カラスで、ワタリガラスの伝説を有している」とのことであった。

「年始め牛王刷り初め」との記述がある。
熊野牛王符(くまのごおうふ)と呼ばれる御札のことである。
一枚ものの和紙の上に墨と木版で手刷りされ、朱印を押したもの。
墨刷りの絵柄は多くの烏が配列されたものとなっており、これは「烏文字」とのこと。
熊野三山の各大社ごとに図柄(正確には、鳥文字の配列)は異なるとのこと。
熊野速玉大社と熊野本宮大社の御札は鳥文字で「熊野山宝印」と記されており、熊野那智大社の御札は鳥文字で「那智瀧宝印」と記されているとのこと。
熊野速玉大社で熊野牛王符を頂戴した。
罰が当たってはいけないので、その写真の掲載は控えたい。
(ご覧になりたい方は電脳網で「熊野牛王符」にて検索するとその写真が現れるのでそれをご覧いただきたい)

熊野本宮大社で見た八咫烏の由来の中で、日本サッカー協会のシンボルマークのことが少し触れられている。
もう少し詳しいことが知りたく、日本サッカー協会のホームページを開いてみた。
---------------------------
JFA旗に描かれた三本足の烏は、日の神=太陽を表しています。光が輝いて四方八方を照らし、球を押さえているのは私たち日本のサッカー界を統制・指導することを意味しています。
准南子(えなんじ)という中国の古典や芸文類聚五経正義という本に、太陽の中に三本足の烏がいると書かれています。
また、日本神話にも、神武天皇御東征の際に、タカミムスビ(日本神話の神)によって三足烏が神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたと言われています。
JFA旗の黄色は公正を、青は青春を表し、はつらつとした青春の意気に包まれた日本サッカー協会の公正の気宇を表現しています。
このシンボルマークは、東京高等師範学校の内野台嶺(JFA理事)ら当時の協会役員らが発案し、彫刻家の日名子実三氏がデザイン化。
1931年(昭和6年)年6月3日に理事会で正式に採用することが決まりました。
------------------------------
近代サッカーを日本に紹介した中村覚之助が熊野出身であることから熊野三山ゆかりの八咫烏がシンボルとして選ばれたとの説もあるが、日本サッカー協会のホームページではそこまでは触れられていない。
また、平安時代に蹴鞠の名人で「蹴聖」とまで呼ばれた藤原成道は、その技の向上を祈願するため、何度も熊野詣をしたと伝えられているとのにて、これが日本サッカー協会のシンボルマークとして八咫烏が採用された理由であるなら相当に面白いのだが、これも日本サッカー協会のホームページでは触れられていない。

八咫烏と日本サッカー協会の関わりについてはこれくらいにして、ザック・ジャパンの活躍を祈念しながら熊野三山を写真でめぐってみよう。

熊野速玉大社。
a0104495_6583424.jpg
a0104495_65958.jpg
a0104495_6592956.jpg
熊野那智大社。
a0104495_744983.jpg
a0104495_78794.jpg
a0104495_782772.jpg
a0104495_784882.jpg
熊野本宮大社。
a0104495_79558.jpg
a0104495_7141538.jpg
a0104495_7144241.jpg
a0104495_7145928.jpg
熊野本宮大社の境内で出遭った、真っ黒なポストに止まる八咫烏。
八咫烏がブラジルから朗報を運んで来てくれるだろう。

=補遺=
「八咫鳥」は「「やたがらす」とも「やあたがらす」とも呼ばれる。
ここでは「やたがらす」と読む/呼ぶ。
因みに、広辞苑を紐解くと次の通りである。
--------------------------------------
【咫・尺(あた)】
上代の長さの単位。手のひらの下端から中指の先端までの長さ。一説に、親指と中指とを開いた長さ。
古事記(上)「八尺(やあた」。
---------------------------------------
【八咫(やあた)】
(アタは上代の長さの単位で、手のひらの下端から中指の先端までの長さ。一説に、親指と中指とを開いた長さ)
8倍のあた。また、長いこと。
古事記(上)「八尺を訓みて八咫という」。
----------------------------------------
【八咫(やた)】
(ヤアタの約。咫(あた)は上代の長さの単位)
長いこと。また、巨大なこと。
古事記(中)「八咫烏(やたがらす)」。
神代紀(上)「八咫鑑(やたのかがみ)」。
-----------------------------------------
これで全てがすっきりした。
そして、また、カシコクなった。

フォト:2013年11月29日、30日
[PR]

by kazusanokami | 2014-06-13 07:27 | 伝説
2011年 07月 31日

『印旛沼の龍伝説』

印旛沼は、大好きなポタリング・コースのひとつである。
印旛沼には、龍伝説がある。
この伝説は、龍を趣味とする上総にとって非常に興味深いもののひとつである。
-----------------
《印旛沼の龍伝説》
 その昔、印旛地方で日照りが続き村人は大変苦しんでいた。そこで聖武天皇の命により龍閣寺の釈命上人が印旛沼に船を漕ぎ出し沼の真ん中に出て、命がけで龍神様に雨乞いの祈祷をした。印旛沼には小さな龍が住んでいて、願いを聞いた沼の小龍は龍王に殺されるのを覚悟で天に昇り、暮れゆく空の中に姿を消した。真黒な雲が舞い上り大粒の雨が落ちてきて、だんだんが激しくなり7日7晩降り続き、ひび割れしていた田も枯れ草同様の畑の作物も生き返ったという。
 そして、7日目、ものすごい雷光と天も地もふっ飛ぶような雷鳴がとどろき渡り、三つに裂けた龍の姿が村人たち目に入った。心優しい小龍は龍王の言い付けに逆らって村人のために雨を降らせたので、斬られて三つになって落ちたのである
 村人たちは三つに裂かれた龍の体を捜しに出かけた。二本の角のついた頭は栄町安食に、腹は本埜に、尾はどういうわけか、はるか東南の匝瑳市大寺に落ちていたのが見つかった。変わり果てた龍を見つけた村人たちは、龍の冥福を祈りそれぞれの地で供養することにしたそうである。角のついた頭は石の唐櫃に納めて龍角寺の堂前に埋め、腹は本埜の地蔵堂に納め、尾は大寺の寺に納め、龍角寺、龍腹寺、龍尾寺がそれぞれ寺の名前になったと伝えられている。
-----------------

この印旛沼の龍伝説を調べていたところ、「古今佐倉真佐子」なる書物に「此末辺竜腹寺、竜角寺、竜尾寺といへる寺ある。印西の内也。 昔かしそらより蛇三つに 切て落ちし所也。 竜腹寺は腹落し所、竜角寺は頭の落し所、竜尾寺は尾の落し所也。 此 所に寺建右の名付、その寺々は右蛇のこつとも夫々あるよし」と綴られていることを知った。

「古今佐倉真佐子」とは何だろう?と、調べてみた。
佐倉市在住の方がこの書物のことについて綴っていた。
その抜粋をここに引用させて戴く。
------------------
元禄のころ佐倉城主をつとめた稲葉氏の家臣に、渡辺善右衛門という人物がいた。生まれたのは元禄14年(1701年)。この人物は二冊の書物を残した。一つが「古今佐倉真佐子」でもう一つは「山州淀の記」という。二十三歳まで佐倉、その後大名の所替えにより淀に移り住んだため、このようなかけ離れた二つの土地についての書物ができた。
(略)「真佐子」は「まさこ」ではなく「まさご」と読み、佐倉のいろんなことを書きとめたものという意味だ。
(略)江戸から佐倉への道すがらの風物、途中の関所、佐倉城の建物の配置、武家屋敷や曲輪ようす、道筋や木立のこと、そこに並ぶ神社仏閣、年中行事、信仰のありよう、近在の村、直接間接に聞き知った怪談めいた噺の数かず。四季の気象や災害、野馬狩、鹿狩、猪狩から奉公人の年俸まで書かれている。
(略)
-------------------

「真佐子」は「まさご」=「真砂」で、細かい砂。
佐倉の「いろいろなこと」を「真砂」に擬えて、書物の名としたようだ。
ポタリングで訪れたところやその道中のことを何でも書き留めたがる上総の性癖にぴったりで、渡辺善右衛門さんに親しみが湧く。

この渡辺善右衛門さんはどのような人物なのであろうか?と電脳網でこの人物の名を打ち込み、検索してみたところ、「朝鮮聘礼使淀城着来図(ちょうせんへいれいしよどじょうちゃくらいず)」なるものが現れた。

この図は、延享度(1748年)の朝鮮通信使の船団が淀に着岸し、淀城下を行進する様子を描いたもので、淀藩の饗応役を務めた渡辺善右衛門守業の筆になり、同人の記した「朝鮮人来聘記」の付図にあたるとある。

渡辺善右衛門はいろんなことを書き留めるのみならず、絵心をも持った人物であったことが窺える。
ポタリングで訪れたところやその道中のことを何でもカメラに収めたがる上総の性癖にぴったりで、渡辺善右衛門さんに更に親しみが湧くのであった。

話が随分に逸れてしまった。
龍に纏わる三つの寺の話に戻そう。

角を祀る龍角寺(千葉県印旛郡栄町)は、北印旛沼の北東、数kmの地にある。
a0104495_18591093.jpg
腹を祀る龍腹寺(千葉県印西市、旧・本埜村)は、北印旛沼の西、数kmの地にある。
a0104495_18593744.jpg
尾を祀る龍尾寺(千葉県匝瑳市)は、印旛沼の東南、約50kmの地にある。

「角」と「腹」は印旛沼の近くにあり、北総をポタリングした際に訪れる機会を得た。
「尾」は印旛沼から遥か遠くにあり、いずれ、輪行にて訪れてみたい。

フォト:2011年6月4日
[PR]

by kazusanokami | 2011-07-31 19:01 | 伝説
2011年 07月 29日

『印旛沼龍伝説ゆかりの地を訪ねて(下)』

龍腹寺を巡り、折角、印旛沼水産センターまで来たことでもあり、龍角寺に向うことにした。

甚兵衛大橋の手前を右折する。
新ルートだ。
先ず、JR成田線下総松崎駅を目指す。
いつも思うことだが、「松崎」の読み方がなかなか興味深い。
「まつざき」ではなく、「まんざき」と読む。
「しもうさまんざき」、いい響きだ。

下総松崎駅近くの踏み切りを渡る。
a0104495_19204856.jpg
成田安食バイパスに向う道を走る。
成田安食バイパスは北総台地の高台を走っている。
想像通り、成田安食バイパスに至る道は上り坂である。

成田安食バイパスを走る。
龍角寺は北総台地の一画にある。
「千葉県立房総のむら」を過ぎ、右折し、龍角寺に至る。
龍角寺を訪れるのは2009年12月以来だ。
a0104495_19215782.jpg
本尊は薬師如来だ。
銅造薬師如来坐像は頭部のみが奈良時代の作で、体部は江戸時代の再鋳である。
関東の地に残る、奈良時代の仏像は稀有であるとのこと。
このフォトは実物ではなく、説明書きに添えられた写真を写したものである。
a0104495_19222680.jpg
最早、この寺には本堂や伽藍はない。
3x4の並びで、仁王門跡の礎石が整然と並んでいる。
a0104495_1924769.jpg
塔址に向う。
塔址は真ん中に穴の開いた心柱の礎石のみである。
「史跡龍角寺境内ノ塔址」と「史跡龍角寺境内ノ塔址/史跡天然記念物保存法ニ拠リ 昭和八年四月文部大臣」と刻まれた石柱は健在なるも、「塔址」を囲む石柱は倒壊していた。
a0104495_23385235.jpg
a0104495_23414055.jpg
境内の燈篭の上部が落ちていた。
a0104495_23422370.jpg
境内のあちらこちらに虎マークのロープが張り巡らされ、立入禁止となっていた。
龍角寺も3月11日の巨大地震の被害を被ったようだ。

先に訪れた龍腹寺の門扉が閉ざされていた理由は不明ながら、この龍角寺の様子からして、龍腹寺も3月11日の巨大地震で何らかの損傷を被り、門扉を閉ざし、立入禁止にしていたのかもしれない。

サイクル・コンピュタの走行距離は52kmを示している。
さて、輪行で帰るか、自走で帰るかと思案しつつ、成田安食バイパスを走り、JR成田線安食駅へ向う。
自走で帰れば、本日の走行距離は80km超となる。
久方ぶりに80km超に挑戦してみようと自走に決める。

自宅到着。
よく日に焼けた。
走行距離81.28kmの「印旛沼龍伝説"取材"の旅」であった。

フォト:2011年6月4日

(完)
[PR]

by kazusanokami | 2011-07-29 23:43 | 伝説
2011年 07月 28日

『印旛沼龍伝説ゆかりの地を訪ねて(上)』

6月4日(土)晴れ。

印旛沼龍伝説に纏わる寺として、龍角寺、龍腹寺、龍尾寺がある。
龍角寺は何度か訪れたことがあるが、龍腹寺と龍尾寺はまだ訪れたことがない。
龍尾寺は匝瑳市にあり、これは相当に遠い。
龍腹寺を訪れてみることにした。

手賀沼CRから手賀川CR、布佐、木下を経て、JR成田線小林駅前を走り抜け、印西市本埜支所(旧・本埜村役場)に至る。
この辺りから左の田畑の中を走り抜けると"白鳥の郷"。
今回は本埜支所の角を右折し、県道65号線沿いの龍腹寺へ向う。

想像通り、上り坂だ。
標識を見誤ったらしく、一筋早く左折してしまった。
そのお陰と言っては何だが、「鳥見神社」を"発見"。
紅い鳥居が木立の中に映える。
a0104495_23574867.jpg
a0104495_23581244.jpg
a0104495_23582639.jpg
a0104495_23584352.jpg
5月初旬、「京都・伏見ポタ」で「黄桜」を訪れた際、河童のベンキョーをした。
千葉県印西市の和泉鳥見神社の「いなざき獅子舞」では、河童の道化が踊るとのことであった。
a0104495_23595119.jpg
この和泉鳥見神社を調べてみると、毎々のポタ・コースである手賀川CRの南に在る神社であった。

今回、遭遇した神社も鳥見神社である。
和泉鳥見神社とこの鳥見神社は所在が異なる。
鳥見神社について、調べてみた。
或る資料に「印西市には、小林、大森、平岡、和泉、小倉、浦部に鳥見神社がある」と記されている。
この資料に照らすと、今回、遭遇した鳥見神社は小林に在る神社のようだ(その後、これはフォトにもある通り、「中根」の鳥見神社で、「小林」の鳥見神社は別にあることが判明)。
更に、別の資料では「鳥見神社の祭神は物部氏の祖神で、『続日本紀』に物部小事大連なる人物が勅命をうけて坂東を征し、その功によって下総国匝瑳郡を建てることを認められた(6世紀始め頃と推定される)。このことからして、物部小事の子孫または一族が印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社と推測される」とある。
印旛郡の一部は市町村合併で印西市となっており、この地域に幾つもの鳥見神社のある理由がよく分かった。
これらの鳥見神社をjitenshaで巡ってみるのも面白そうだ。

来た道を戻る。

県道65号線に至り、これを左折。
「延命地蔵尊」に立ち寄る。
a0104495_004968.jpg
a0104495_011029.jpg
a0104495_01215.jpg
次が、愈々、龍腹寺である。
龍腹寺は道路脇から坂道を上る高台にあった。
坂道の入り口に門扉がある。
門扉は閉ざされ、南京錠で施錠されている。
折角、来たのだから、門扉の脇の隙間から中へ入ろうかとも思った。
しかしながら、その隙間には、入っちゃだめですよと言うが如くに、二本のロープが張られていた。
門扉の彼方に見える「天台宗」と「龍腹寺」と刻まれた石柱をカメラに収めた。
a0104495_021237.jpg
a0104495_022870.jpg
a0104495_024382.jpg
来た道を印西市本埜支所まで戻る。
印旛沼水産センターで昼餉を摂ろうと思い、本埜支所の角を右折する。
a0104495_032488.jpg
甚兵衛大橋を渡り、印旛沼水産センターに到着する。

うな重(並)1800円也を食す。
周年うなぎを食するのはこれで何度目であろうか、幾度も食すと有り難味がなくなるような気がした。

折角、ここまで来たことでもあり、印旛沼水産センターから龍角寺に向うことにした。

フォト:2011年6月4日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2011-07-28 23:58 | 伝説
2010年 09月 08日

『伝説/九尾狐(きゅうびのきつね)』

a0104495_23364337.jpg

那須湯本温泉から那須岳に向う途中、山肌がむき出しになり、大きな石がごろごろとした地獄谷のような風景に出会う。
木製の遊歩道を辿り、奥に進むと「殺生岩」が鎮座している。
a0104495_23391339.jpg
a0104495_23394473.jpg

「殺生岩」の脇にその謂れが記されている。
a0104495_2340469.jpg

写真では読み辛いので、原文を書き下してみる。

~殺生石の由来~
殺生石は、昭和二十八年一月十二日史跡に指定されました。
昔、中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾(はくめんこんもうきゅうび)の狐が今から八百年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来しました。
この妖狐は「玉藻の前(たまものまえ)」と名乗って朝廷に仕え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須ヶ原へと逃れて来ました。
その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治しました。
ところが、妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていましたが、会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のうらみを封じましたのでようやく毒気も少なくなったと語りつたえられています。
芭蕉は元禄二年四月十八日奥の細道紀行の途中にこの殺生岩を訪れ 石の香や夏草あかく露あつし と詠んでいます。
注意
殺生岩附近は絶えず硫化水素ガス等が噴気していますので風のない曇天の日は御注意下さい。 
昭和五十二年十月二十五日
那須町

前述の謂れの中では「今から八百年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来」とあるが、或る書き物では「8世紀、若藻(わかも)という名の少女に化けた九尾狐は、吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂、鑑真和尚らが乗る遣唐使船に乗り、嵐に遭遇しながらも来日を果たしたといわれている」とある。
更に続けて、「それから360年後(1113年頃か)、北面の武士である坂部行綱(さかべゆきつな)が、子宝に恵まれなかったため、九尾狐が化けたとも知らず、藻女(みずくめ)という捨て子を拾い育て、17年後(1130年頃か)、坂部夫婦に育てられた藻女は18歳で宮中に仕え、玉藻前(たまものまえ)と名を改め、鳥羽上皇の寵愛を受けた。しかし、その後、鳥羽上皇は病を発し、その原因が玉藻前であると発覚し、玉藻前は宮中から逃亡した。 数年後、玉藻は下野国那須ヶ原に現れ、婦女子や旅人を誘拐し喰い殺すなどの暴行を働いたため、鳥羽上皇は白面金毛九尾狐の討伐を命令。8万の軍勢が那須へ集結し、白面金毛九尾狐を捕らえて殺すことに成功する。白面金毛九尾狐は、その直後、巨大な毒石(殺生石)に姿を変えた... 」とある。

伝説とは言え、九尾狐の伝説に吉備真備や遣唐使船が出て来たことに驚いた。
今年5月、「平城遷都1300年祭」の会場で、復元された遣唐使船を見た。
復元とは言え、遣唐使船を間近に見たことでもあり、あの船に乗って若藻という名の少女に姿を変えた九尾狐が渡来したのかとその姿を想像すると、歴史に裏打ちされた伝説というものに大いに興味を惹かれる。

前述の謂れの中で松尾芭蕉についても触れられている。
その句碑と解説の写真も掲載しておこう。
a0104495_2341287.jpg
a0104495_23413513.jpg
故事に明るい芭蕉は、この地を訪れ、九尾狐の伝説を思い起こしたことであろう。

殺生岩を過ぎ、那須岳に向う途中で見掛けたのが、冒頭の写真の「白面金毛九尾狐(はくめんこんもうきゅうびのきつね)像」である。
尾は九本、口に巻物をくわえている。
a0104495_23422378.jpg

この巻物には何が綴られているのであろうか。
これまでの悪行の数々なのであろうか、妖術の数々なのであろうか、はたまた、鎮魂のための経文なのであろうか...。

九尾狐の伝説はおどろおどろしきものながら、那須高原観光周遊シャトルバスは九尾(きゅうび)を捩った「キュービー号」と、洒落っ気たっぷりの名前となっている。
a0104495_23424873.jpg

可愛らしいキャラクターに大変身しているのも、九尾狐の妖術のなせる業か...。

フォト:2009年11月9日
[PR]

by kazusanokami | 2010-09-08 23:52 | 伝説
2010年 09月 01日

『伝説/牛鬼』

「牛鬼」は「うしおに」とも「ぎゅうき」とも言われる妖怪で、日本各地に「牛鬼伝説」がある。
a0104495_23473362.jpg

香川県五色台/根来寺に伝わる牛鬼(うしおに)伝説は次の通りである。

「今から400年以上前、当山に牛鬼という怪獣が住んでいて人畜を害していた。人々は大変困り、弓の名手 山田蔵人高清(現在の香川県塩江町に住んでいた)にたのんで退治してもらうことになった。高清は、毎日弓矢を持ち、山中を隈なく探したが見つからない。さすがの弓の名人も困り、当山本尊に、怪獣が現れるよう21日間の願をかけ、一心に祈った。やがて、21日目の満願の日、崖下にピカッと光るものを見つけた。それは、大きな皿のような目の牛鬼だった。高清は、素早く矢のねらいを定めて射た。矢はまっしぐらに飛び命中したが、牛鬼は怒り、高清めがけ飛びかかろうとした。そこで、二の矢、三の矢と続けざまに射たところ、その三の矢が、牛鬼の口の中に刺さり、ギャーと悲鳴をあげた。あまりの悲鳴の大きさに驚く間に、牛鬼は姿を消してしまった。高清は、血のあとをたどっていき、定が渕というところで死んでいるのを見つけた。高清は、牛鬼の角を切り取り、人々からお礼にもらった米15俵をそえて、当山に奉納し、菩提をとむらったという。その角は、今でも当山に残っている。また、いつの頃からか、牛鬼の絵姿は、不思議にも魔よけの効能があるといわれるようになった。山田蔵人高清のお墓は、香川県塩江町に現存する。」(根来寺ホームページより)

根来寺秘蔵の牛鬼の姿が描かれた掛軸と牛鬼の角は、同寺のホームページで見ることが出来る。
香川県の外、徳島県、福岡県にも牛鬼の遺物といわれるものがあるそうだ。

根来寺は、四国八十八箇所霊場第八十二番札所でもある。
秋の紅葉は勿論のこと、新緑の頃の青もみじも美しい寺である。

フォト:2010年5月5日、根来寺門前にて
[PR]

by kazusanokami | 2010-09-01 23:54 | 伝説
2010年 08月 30日

『伝説/烏天狗』

四国八十八箇所霊場第八十一番札所「白峯寺」(香川県)の境内に烏天狗の石像がある。

a0104495_23513496.jpg

何故、この寺に烏天狗の像があるのだろうと、上総得意(???)の"なぜなぜ問答"が頭を過ぎり、wikipedia等を紐解いてみた。

1156年(保元元年)、保元の乱で後白河天皇(後の法皇)に敗れた崇徳上皇は、讃岐に流刑となった。
崇徳上皇は流刑生活の中で五部大乗経(法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経)の写本作りに専念し、戦死者の供養と反省の証しとして写本を京の寺に収めて欲しいと朝廷に差し出したが、後白河法皇に呪詛の念が込められているのではないかと疑われ、写本は讃岐に送り返された。
これに怒った崇徳上皇は、舌を噛み切り、その血で写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」、「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込み、後に生きながらに天狗になったと言われる。
因みに、「魔縁」とは「天狗」の異称。「皇を取って民とし民を皇となさん」は「古来より連なる万世一系の国体を覆さん」との強い怨念を表した言葉だ。

1164年(長寛2年)、崇徳上皇が流刑地の讃岐で没した際、慰霊のために陵墓近くに頓証寺が建立され、これが現在の白峯寺になったとされる。

これにて、白峯寺に烏天狗の像がある訳が判明した。

フォト:2010年5月5日
[PR]

by kazusanokami | 2010-08-30 23:55 | 伝説