『上総守が行く!』

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カテゴリ:龍野ポタリング( 6 )


2011年 02月 13日

『龍野ポタ/醤油の町(2)』 tp-6

「カネヰ醤油」。
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「電気式しょうゆ・もろみ販売機」、発見!
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たつの市観光協会発行の観光案内所「播磨の小京都 龍野」に「醤油自動販売機/全国的にも珍しい醤油ともろみの自動販売機です。城下町の中のどこかの醤油工場の通りにありますので、探してみてください」とあった。
醤油資料館別館前で「カネヰ醤油」をカメラに収めていたところ、発見した。

醤油資料館別館。
本館「うすくち龍野醤油資料館」に続き、別館を訪れる。
本館は、菊一醤油本社社屋として建てられた後、ヒガシマル醤油の先代本社として使用された建物である。
別館は、先々代ヒガシマル醤油本社として使用された後に、龍野醤油協同組合本館として使用されていた建物である。
何れもという歴史のある近代建築である。
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ニカワ硝子。
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「硝子」と漢字で書くに相応しい風情だ。
傍らに飾られた、針金細工の赤とんぼが何とも微笑ましい。

二階ギャラリー。
日本画家 山下摩起の作品が常設展示されている。
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「観音図」はミョウバンを使っての「白ヌキ」の技法で描かれていた。
斯様な画家の存在すら知らなかったが、その技法、その作品の素晴らしさに驚いた。
龍の図もさることながら、観音図はより一層素晴らしく、誠に興味深い画家であった。

今日のjitensha。
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右から、摂津守殿、呑々守殿(六々守殿より愛馬、借用)、本町普請奉行殿、人麻呂殿、hitomaroyome殿、御典医殿、按針殿、maruyome殿、六々守殿、上総(御典医殿より愛馬、借用)。
早い話が、播磨守殿を除き、ハリポタ藩全員出馬ということであった。
更に申せば、本町普請奉行殿は、この龍野ポタが"初陣"。
翌日の京都ポタと合わせ、相当に楽しい思いをなされたようで、後日の電子飛脚便では、本町"浮心"奉行と名乗っていた。

龍野ポタの最後は、揖保川を挟んでの、ヒガシマル醤油の本工場の眺め。
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播州の小京都、龍野。
童謡の里、龍野。
醤油の町、龍野。
素麺の町、龍野。
龍野脇坂藩城下町、龍野。
無事の城、龍野。
数多くの顔を持つ町、龍野を満喫したポタリングであった。

フォト:2011年1月29日

(完)
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by kazusanokami | 2011-02-13 07:46 | 龍野ポタリング | Comments(2)
2011年 02月 13日

『龍野ポタ/醤油の町(1)』 tp-5

醤油の町、龍野。
子供の頃、「色がつかずに良い味つける淡口(うすくち)ヒガシマル醤油」で育った。
関東に移り住み、かれこれ四十年余。今や、キッコーマンやヤマサの世界にいるが、昔を懐かしみながら、醤油の町を巡ってみた。

キッコーマン旧工場。
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ハリポタ藩の走り初めに相応しく、多数の参加。
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「うすくち龍野醤油資料館」。
昨年8月、日経で見た、憧れ(???)の煉瓦造りの建物だ。
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「うすまりし醤油すずしく冷やっこ」。
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醤油醸造過程で分かったことは、淡口醤油には米を使うこと、そして...
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龍野藩主脇坂淡路守と赤穂藩浅野内匠頭が盟友であった証、「赤穂塩」であった。
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献納願い出。
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表彰状。
説明書きには「パナマ運河開通記念の博覧会に浅井醤油(名)が醤油を出品して名誉(優秀賞)を受ける」とある。
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 造船に携わっていた筆者は、パナマ国やパナマ運河の名を見ると惹かれるものがある。

パナマ運河開通記念博覧会とは何ぞや?と思い、調べてみたところ、次の通りであった。
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外務省記録「桑港ニ於テ巴奈馬運河開通記念博覧会開設一件 附軍艦派遣ノ件」に関連史料が残されている。 1880年(明治13年)、レセップスの設計によりフランスの主導で建設が始まったパナマ運河は、その後、運河の建設と管理などの権利を取得した米国の手によって1914年(大正3年)8月に開通した。これを記念して、翌年2月から12月まで、サンフランシスコにて、パナマ太平洋万国博覧会が開催されました。博覧会には当時第1次世界大戦(この段階で米国は中立国)の交戦国であったドイツ・イギリス・フランス・オーストリア・トルコを含め45カ国が参加した。 1912年(明治45年)2月に米国政府から博覧会への参加の打診を受けた日本政府は、他国に先がけてこれに参加することを決定し、政府予算を計上して参加に向けての準備を進めた。この時期カリフォルニア州で外国人土地法(いわゆる「排日土地法」)が成立する(1913年)など排日の気運が高まっており、一時は参加中止も検討された。しかし、対米関係と排日感情の悪化を懸念した日本政府は、1914年1月、再度参加方針を確認し、具体的計画の実施に着手することとなった。博覧会で日本は、金閣寺を模した政府館をはじめ日本庭園や特別陳列館を建設し、美術品や絹織物など日本固有の文化工芸品を多数出展しました。政府代表として開会式に出席するため渡米した出羽重遠(でわ・しげとお)海軍大将は、帰国後、日本が博覧会に進んで参加し展示物が好評を得たことで、米国における排日感情が緩和されつつあると報告している。
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龍野の醤油もこれに一役買ったのであった。

菊一醤油、浅井醤油、龍野醤油、ヒガシマル醤油といろいろと名前が出て来る。
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半纏の襟には、龍野醤油株式会社/ヒガシマル醤油の名が見える。
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菊一醤油のラベルとヒガシマル醤油のラベル。
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この説明書きで、ヒガシマル醤油に至る経緯が分かった。
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これは浅井醤油時代のヒガシマル。
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数々の展示品の中で、先程の俳句、赤穂塩、そして、この額が資料館三大お気に入りとなった。

「うすくち しょうゆ饅頭」。
店から出てきたのは、甘党の軍師六々守殿夫妻。
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フォト:2011年1月29日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-02-13 07:45 | 龍野ポタリング | Comments(2)
2011年 02月 12日

『龍野ポタ/街角』 tp-3

旧脇坂屋敷。
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鎧の家紋の「輪違い」。
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小京都の趣、「聚遠亭」。
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四階建て木造家屋。
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どういう目的で、この四階建て木造家屋が建てられたか、たつの市商工観光課へ問い合わせたところ、それは町並み対策課の担当ということで電話を回してくれた。

「何を目的として四階建てになっているのかまでは、調べが出来ておりません。調べてみます。折り返し、お電話します」とのことであった。
折り返し、電話があり、「幾つかの資料を見ましたが、分かったことは次の通りです。十分な答えにはなりませんが」との前置きで次のような答えを頂戴した。

・この御宅は「小林家」である。
・母屋は江戸時代のものだが、この四階建て木造家屋は大正から昭和に掛けて建てられたものといわれている。
・どういう目的で造られたかは分からないが、最上階は物見台となっている。

旧脇坂屋敷の案内の人から「是非、見て帰ってください」とお薦めのあったのが、この建物。
近所の書店「伏見屋商店」で何の建物か聞いたが、不詳とのことであった(伏見屋の内部もなかなか興味深い造りであった)。
お薦めのあった、旧脇坂屋敷の案内の人に問い合わせればはっきりしたことが分かるかもしれないが、「謎の建物/龍野の四階建て木造家屋」ということにしておくのが楽しいことかと...。

書店「伏見屋商店」。
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内部の明り取りが面白い造り。
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琺瑯製看板。
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フォト:2011年1月29日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-02-12 18:53 | 龍野ポタリング | Comments(2)
2011年 02月 12日

『龍野ポタ/龍野城と赤とんぼ』 tp-1

1月29日、ハリポタ藩走り初めは「龍野」。
龍野は、播州の小京都、童謡の里、醤油の町、素麺の町、龍野脇坂藩城下町など数多くの顔を持っている町だ。

龍野到着時に眺めた案内板。
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龍野を巡ったあと、街角で見掛けた看板。
やはり、盛りたくさんだ。
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龍野城。
城を見ると、兜を見ると、血が騒ぐ。
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大好きな龍!
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白雪姫の小人?
木彫りの福禄寿。
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童謡の町。
童謡と言えば、これ。
作詞家、詩人の三木露風は龍野の生まれ。
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こういう活動が大事だ。
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「赤とんぼ交番」。
この赤とんぼのデザインは、町のあちらこちらで見掛ける。
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フォト:2011年1月29日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-02-12 18:51 | 龍野ポタリング | Comments(0)
2011年 02月 10日

『龍野ポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅<番外編>脇坂淡路守の巻』 wa-2

明治に至り、脇坂の御殿様は、江戸から、否、東京から龍野に居を移した。
龍野城本丸御殿の展示では、「龍野藩江戸屋敷」につき、次のように綴られている。
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「日本最初の鉄道駅舎(新橋駅)建設のため公収される」とある。
新橋駅のあった汐留は仙台藩の屋敷跡であったと何かで読んだことがあるが、徳川幕府二百有余年の間、龍野藩江戸屋敷がその地に構えられた時代もあったのであろう。

旧脇坂屋敷。
ここは、明治になり、東京から龍野に移り住んだ屋敷である。
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脇坂家系図。
①安治/あの「賊ヶ岳の七本槍」の一人である。
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③安政/「寛文12年 龍野移封」とある。
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④安照/「元禄14年 赤穂城請取」とある。
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同じ家系図でも、龍野城本丸御殿のものと旧脇坂家のものは趣の異なるものとなっている。

「八畳間の天井は八畳になっています」と案内の人。
「八畳間やから、天井も八畳は当たり前と違うのん?」とハリポタ藩の面々。
「その通りなのですが、天井も畳と同じように張られているのです」と案内の人。
確かに、八畳間の天井は、八畳間の畳の敷き方と同じように板が張られ、桟が施されていた。
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次の部屋の天井の桟は、木と竹。
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床の間の天井は、矢羽。
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「最後の御殿様は、こうした遊び心を持った、ちょっと風変わりな人だったようです」と案内の人の言葉があった。
この言葉を聞き、「賊ヶ岳の七本槍」の一人である脇坂甚内安治の時代と最後の殿様の時代では隔世の感ありと感じたのであった。

龍野城本丸御殿や旧脇坂屋敷では、家系図に書かれた「元禄14年 赤穂城請取」の外には、特に赤穂浅野藩との繋がりを示すものは見当たらなかった。

しかし、昼餉で立ち寄った「すくね茶屋」でこんな歌舞伎絵を見た。
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「仮名手本忠臣蔵」の大星力弥の姿が描かれている。
大星力弥は、史実では、大石内蔵助の長男、主税に当たる。
「すくね茶屋」は、相撲の始祖といわれる野見宿禰(のみのすくね)に因んで名付けられた店であり、相撲錦絵なども飾られていた。
店としては、相撲錦絵と一緒に歌舞伎絵もと、軽い気持ちで飾っているのであろうことは察せられたが、ここは筆者の勝手な解釈で、この仮名手本忠臣蔵の歌舞伎絵を飾っていることにより、龍野脇坂藩と赤穂浅野藩が親密な関係にあったとこじつけてみた。

更に、ヒガシマル醤油の旧本社「うすくち龍野醤油資料館」で、龍野脇坂藩と赤穂浅野藩を関係づける証拠(???)を見つけた。
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醤油醸造過程の説明の中で、大麦、小麦、米、赤穂塩、麹、諸味、醤油粕のサンプルが置かれていた。
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単に「塩」ではなく、「赤穂塩」と書かれていることに感動を覚えた。
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龍野で醤油造りが始まったのは1589年(天正15年)といわれている。
淡い色の醤油製造技術が開発されたのは1666年(寛文6年)といわれており、これが「淡口醤油」の始まりである。
1672年(寛文12年)、龍野脇坂藩初代藩主 脇坂安政が他国にない淡い色の醤油を「国産(=領内物産)第一之品」として生産を奨励し、「淡口醤油」は龍野の特産品となったとのこと。

この龍野の醤油づくりの歴史からして、龍野脇坂藩と赤穂浅野藩は、醤油づくりで最も大事なもののひとつである、塩を通じて親密な関係にあったということは、資料館の「赤穂塩」が如実に示している。
第2代藩主 脇坂淡路守の時代には、「淡口醤油」は益々栄えたであろうことから、脇坂淡路守と浅野内匠頭が盟友であったということも、この資料館の「赤穂塩」が示している。

「うすくち龍野醤油資料館」で、こんなものも見た。
「城、それは姫路」
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「無事の城、龍野」。
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「断絶の城、赤穂」。
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話は家系図に戻るが、このブログを綴りながら、龍野城本丸御殿に展示されていた脇坂家譜の脇坂淡路守安照に関わる記述を仔細に眺めたていたところ、「妙心寺隣花院葬」(筆者注:「隣花院」は「隣華院」が正しい)と書かれていたことに気が付いた。

龍野を訪れた翌日、京都をポタリングし、あちらこちらの名所旧跡を訪ねたが、その中で、多くの塔頭寺院が建ち並ぶ妙心寺にも立ち寄っていた。奇遇であった。

妙心寺隣華院を調べてみると、「隣華院は妙心寺塔頭の一寺で臨済宗妙心寺派に属している。開山は南化玄興、開基は脇坂安治、慶長4年(1599年)の創建である」とあり、「賤ヶ岳の七本槍」の脇坂安治が開基となっている。

余談ながら、妙心寺を訪れた際、塔頭のひとつである海福院は福島正則の墓所との札が掲げられていた。「賤ヶ岳の七本槍」の人物と妙心寺の関わりも垣間見えて来た。

これまで、「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>として、忠臣蔵、赤穂浪士ゆかりの、幾多の地を訪れたが、新たに、龍野が、そして、脇坂淡路守安照が加わった。
有難きことかな!


フォト:2011年1月29日

(龍野ポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅<番外編>脇坂淡路守の巻、完)
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by kazusanokami | 2011-02-10 01:31 | 龍野ポタリング | Comments(0)
2011年 02月 09日

『龍野ポタ/赤穂浪士討入凱旋の旅<番外編>脇坂淡路守の巻』 wa-1

ハリポタ藩軍師六々守殿より「ハリポタ藩の走り初めは、1月29日、場所は龍野」との案内があった。
江戸詰めなるも、是非、出馬したいポタリングであった。
何故なら、この「龍野ポタ」、翻れば、昨年8月に次のようなことがあったからだ。

昨年8月某日付日経朝刊で、ヒガシマル醤油の旧本社「うすくち龍野醤油資料館」のことが写真入りで掲載されていた。
ハリポタ藩の面々にすれば、龍野は地元のようなもの。
煉瓦造りの建物が大好きな上総、早速、彼らに「本日の日経で龍野/ヒガシマル醤油の旧本社『うすくち龍野醤油資料館』の姿を見た。煉瓦造りの立派な建物。龍野へ行かれた際には、武家屋敷や白壁の土蔵に加え、是非、この煉瓦造りの"取材"も!」と、電子飛脚便を遣わした。

更に、赤穂浪士、忠臣蔵を趣味とする上総、次のことを申し添えた。

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龍野につき、"一口メモ"を。

龍野は「忠臣蔵」ゆかりの地でも御座りまする。

1701年(元禄14年)、浅野内匠頭長矩、江戸城松の廊下での刃傷事件にて赤穂浅野家改易。
赤穂城受け取りの正使は龍野藩主脇坂淡路守安照。
城受渡後約1年の間、赤穂城は龍野藩主脇坂淡路守預かりと相成り候。

それに先立つこととして以下の如きことも御座ったようで。

龍野は播州平野で育つ良質の大豆と小麦、揖保川の水、そして、地理的に赤穂の塩が容易に手に入ることから醤油の醸造が盛んとなる。
然様なことから龍野藩と赤穂藩は良好な関係にあり、脇坂淡路守と浅野内匠頭は懇意にしていた。

浅野内匠頭が勅使饗応役を命ぜられた際、浅野内匠頭の性格をよく知る脇坂淡路守は饗応指南役の高家肝煎筆頭吉良上野介と上手くやってくれればと思うも、松の大廊下での刃傷事件に。

刃傷の現場に駆けつけた脇坂淡路守の大紋の袖に大きく染め抜かれた家紋が、浅野内匠頭の小太刀で斬られた吉良上野介の眉間からしたたり落ちる血で汚され、家紋を汚されたことに怒った脇坂淡路守は「無礼者め!」と吉良上野介を一喝!
更に、吉良上野介を討ち損じた浅野内匠頭の無念の気持ちも込めて、手に持つ扇で吉良上野介の眉間の傷に一打ち!

松の大廊下でのことは史実かフィクションかは定かでは御座らぬも、龍野藩主脇坂淡路守は武士の気概を持つ人物かと...。

斯様なことも思い描きながら、龍野を散策すると楽しさは倍増となりませう(「それは忠臣蔵好きの上総だけやろ」との声も聞こえそうだが...)。

《何でも忠臣蔵、赤穂浪士にくっ付けたがる上総》

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斯様な伏線もあってのことか、有難くも、ハリポタ藩軍師六々守殿により、本年のハリポタ藩の走り初めとして「龍野ポタ」が企画され、脇坂淡路守の領地を訪ねる機会を得た。

本ブログでは、「龍野ポタ」のひとつとして、「赤穂浪士討入凱旋の旅<番外編>脇坂淡路守の巻」と題し、綴ってみたい。

龍野城へ向う。
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龍野城。
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龍野城は、1499年(明応8年)に豪族の赤松村秀が鶏籠山に築いた城である。
以後、赤松は4代続いたが、1577年(天正5年)、豊臣秀吉によって開城され、秀吉は新たに蜂須賀正勝を置き、その後、福島正則、木下勝俊、小出吉政と続いた。
江戸時代に入り、池田輝政、利隆、光政の池田3代、本田政朝、小笠原長次、岡部宣勝、京極高和が藩主となり、また、或る時期は天領となった後、1672年(寛文12年)、脇坂安政が龍野藩に移封され、それ以降、明治に至る間、龍野脇坂藩として、安政、安照、安清、安興、安弘、安実、安親、安薫、安宅、安斐と10代続いた。

京極高和が丸亀に移封された後、城は破却され、龍野脇坂藩の時代は山麓居館の陣屋形式の城になったとのことである。

本ブログで綴る「赤穂浪士討入凱旋の旅<番外編>脇坂淡路守の巻」は、龍野脇坂藩第2代藩主(脇坂家第4代当主)、脇坂淡路守安照のことである。

石段を上り、本丸御殿(1979年(昭和54年)再建)の中に入る。

先ず、「脇坂家譜」を眺める。
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龍野脇坂藩初代藩主、脇坂中務少輔安政。
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「寛文十二、五、十四(1671)、龍野移封(五万三千石)」とある。

龍野脇坂藩第二代藩主、脇坂淡路守安照。
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「貞享元、十一、二五、襲封(龍野)(1684)五万三千石、宝永六、十一、隠居(1709)」とある。
松の大廊下事件が起こったのは1701年(元禄14年)3月14日。
脇坂安照が藩主の座にあったときに起こった事件である。

なお、この家譜に見える「妙心寺隣花院葬」については、後編で述べてみたい。

「脇坂家譜」の文字の脇に「家紋 輪違」、「替紋 桔梗」の文字が見える。

本丸御殿内の襖には、「輪違い」と「桔梗」の家紋が描かれている。
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替紋とは?
調べてみた。
「替紋(かえもん・たいもん)」とは、本来の家を示す公式的な家紋である定紋以外の家紋のことである。「裏紋」、「別紋」、「副紋」、「控紋」などともいう。

脇坂家の家紋につき、調べてみた。
「脇坂氏はもともと桔梗の紋を用いていたようだが、賤ケ岳の七本槍で名を上げた安治のときに、はじめて『輪違い』紋を使用した。脇坂氏の輪違い紋は、雌雄二匹の貂に由来するものという。あるとき、安治は罠にはまった貂を逃してやった。そのとき、貂のいうことには、『この輪を結んで、家紋とすれば、よきこと候わん...』と。そして、脇坂家の輪違い紋が生まれた。その後、出世を重ね、江戸時代は五万石の大名となった。とはいうが、後世の作り話であろう」とあった。

更に、調べてみると「脇坂安治は若年時より秀吉に仕えた江州出身の武将で、賊ヶ岳の七本槍の一人として、あるいは、文禄・慶長の朝鮮出兵で知られる。天正6年(1578年)に播州三木砦の別所長治を攻めた際、秀吉から輪違を描いた赤幌を与えられたのが家紋『輪違』の由来になっている」というものもあった。

脇坂淡路守安照の家系は、本能寺の変による織田信長亡き後の後継争い、羽柴秀吉と柴田勝家との決戦である賤ヶ岳の戦い、賤ヶ岳七本槍の脇坂甚内安治に遡るのであった。

賤ヶ岳七本槍の、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則、片桐且元は徳川の時代になってから御家取り潰しなどに遭ったが、唯一、幕末まで残ったのが脇坂家であった。

家紋の描かれた襖のフォトを眺めながら、賤ケ岳の戦いや家紋の由来などに思いを馳せ、更に、松の大廊下で吉良上野介の血で汚された大紋は、「輪違い」、「桔梗」の何れであっただろうか、松の大廊下で脇坂淡路守が現れる作りの映画「忠臣蔵」を今一度見てみようなどと考えると、「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>脇坂淡路守の巻」は、益々、楽しくなって来る。

龍野城本丸御殿の窓から外の景色を眺め、龍野城をあとにした。
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フォト:2011年1月29日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-02-09 00:45 | 龍野ポタリング | Comments(0)