『上総守が行く!』

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カテゴリ:大阪・堺ポタリング( 11 )


2011年 06月 30日

『大阪・堺ポタ』 sk-11

「皇太子さんの自転車、ええもんを見させて貰いました。次は大鳥神社へ行きましょ。ここから4kmくらい。この間、DeAGASTINIの東宝特撮DVDシリーズ『日本誕生』を観たんや。それで、日本武尊のことをおさらいしていたら、大鳥神社に日本武尊の像があることが分ったんで、これを見たいんや」と上総。
「最寄駅は?」と軍師殿。
「大鳥神社はJR阪和線鳳駅の近く」。
「それやったら、大阪駅まで直で輪行出来ますね。阪堺線で輪行するより乗換が楽」。

JR阪和線沿いに大鳥神社方面へ走る。
アップダウンがある、雨が降り出しそうな雲行きでもある。
しかし、誰からも文句は出ない。
これがハリポタ藩のいいところ。

大鳥神社。
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御神馬。
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御神馬の胴には「鳳凰」が刻まれている。

「最近、調子が悪いから、よー、お祈りしとこ」と播磨守殿。
競馬を趣味とする播磨守殿、調子が悪いというのは体調ではなく、お馬さんのこと。

念願の日本武尊像をカメラに収める。
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「おーい、手水舎の龍、指が四本やで」と御典医殿。
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いつもなら、神社仏閣を訪れた際は真っ先に手水舎の龍を眺めるのであったが、心は龍にあらず、日本武尊像であった。
龍に失礼なことをしてしまった。
「ほんまや、四本や。この間、鎌倉の建長寺法堂の天井画では五本指も発見。有難や、有難や」。
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金網がちょっと邪魔をしているが、確かに四本指である。

金網の間からもう一枚。
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四本指がくっきりと。

ここで、大鳥神社のホームページからその由緒について転記しておこう。
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主祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)
相殿神 国常立尊(くにのとこたちのみこと) ※日本の国開きの神様です
    弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)※日本武尊のお妃さまです

景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社(やしろ)がありました。
日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。
この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らん事をお願いされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、再び剣を持って働く事ができるようになったので、当社を盲神(めくらがみ)と称え、手近に持って居られた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。
この剣を天武雲剣と申し、当社の神宝となっております。
当社の社伝によると、「尊の霊(みたま)が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神(とりみょうじん)として祀る」とあり、大同元年には、社殿が造営されました。
当社の社紋が鳳凰(ほうおう)の紋を用いているのはこのためです。
また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
尚、この江戸図に記載される社は九社しかなく、当社は江戸九社の一つにかぞえられております。
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斯様な由緒を読みながら、大鳥神社の日本武尊像と、子供の頃に観た、そして、先般、DVDで観た、東宝映画「日本誕生」で三船敏郎が演じる日本武尊の姿を重ね合わせるのであった。

JR阪和線鳳駅から輪行にて帰途に。
「大阪・堺ポタ」、古代から現代に至る伝説と歴史を辿る旅、そして、美ぃ級グルメの旅、大いに愉しめたポタリングであった。

フォト:2011年5月3日

(完)
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by kazusanokami | 2011-06-30 21:31 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 28日

『大阪・堺ポタ』 sk-10

帰宅後、自転車博物館で貰った「自転車博物館/サイクルセンター/自転車の不思議がいっぱ...」の小冊子をゆるりと眺め、堺の歴史と自転車の歴史をベンキョーした。
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「堺のあゆみ」、そのハイライトは;
・巨大な古墳をつくるために、鉄器をつくる優れた技術を持つ人が、たくさん堺に集まってきて住むようになりました。
・鉄の加工技術に優れた人が、やがて刀や包丁などの刃物をつくるようになりました。
・16世紀半ば、ヨーロッパから鉄砲が伝わってくると、堺の商人たちは戦国時代の武将たちに売ってお金儲けをしようと考え、日本で初めて鉄砲を大量生産したのです。以来、堺は「鉄砲づくりのまち」と呼ばれるようになりました。
・明治時代、ヨーロッパから自転車が輸入されるようになると、その修理のために鉄砲づくりの技術が役立ちました。やがて、修理だけでなく、自転車や部品をつくる会社がたくさん生まれ、堺は日本の自転車の半分近くまで生産する「自転車のまち」として、世界的に有名になったのです。
「さあ、自転車の歴史をタイムトラベルだ!」、そのハイライトは;
・1818年 ドライジーネ/自転車の元祖、地面を蹴った。
・1861年 ミショー型ボーンシェーカー/地面から足が離れた。ヨーロッパの石畳では乗り心地が悪く、イギリスではボーン・シェーカー(背骨ゆすり)と呼ばれた。
・1880年頃 オーディナリー/より速く。前輪をどんどん大きくしていった。
・1885年 セーフティバイシクル/より安全に。1879年にチェーンを付けて後輪を駆動する仕組みが発明され、1885年に前輪と後輪が同じ大きさの自転車が発明され、現在の自転車のモデルとなった。
・20世紀 コンフォートバイク/より快適に。乗り心地を良くする空気入りタイヤや車体を軽くするパイプ構造などが発明され、誰もが"より快適に乗れる自転車が登場した。

因みに、この小冊子の発行元は財団法人シマノサイクル開発センターである。

更に、5月8日付毎日新聞朝刊の"余禄"に次のようなことが綴られていた。
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「新製陸舟車」という乗り物が18世紀の日本に存在したという。彦根藩士が記述した江戸中期の文書に、ペダルやハンドルの機能を備えた人力で走る三輪車について記述されている。フランスでのペダル式自転車の発明から100年以上もさかのぼる▲もっとも、実際に日本で自転車が使われるようになったのは、明治に入ってから。西洋からもたらされたものを模し、車大工や鉄砲鍛冶などの職人が製造を始めたことからのようだ▲その自転車が、今回の東日本大震災の直後、首都圏では飛ぶように売れた。電車が運行を停止し、渋滞で車は進まない。歩いて帰るには遠すぎる。帰宅難民の多くが自転車の存在を再認識した結果だった▲とはいえ、日本の都市の道路は、自転車にとって必ずしも走りやすいようにはなっていないのが現実だ。江戸時代の“自転車”が個人の発明で終わったのも、当時の道路事情が影響したのではないかと思われるのだが、この点については、今も似たような状況があるのではないだろうか▲車道は自動車のもので、歩道は人が歩くためのスペース。法的には軽車両という位置づけが与えられているものの、邪険にされている印象がぬぐえないのが自転車だ▲製造、販売、そしてその後のメンテナンスといった形で産業に厚みがある自動車と違い、自転車の産業としての政治力は大きくない。そんな事情も背景となって、本来なら車道を走るべき自転車を、歩道に追いやっている。しかし、震災に強い都市づくりには、帰宅難民対策も重要なポイントだ。そうした観点も入れ自転車と道路の関係を見直してもらいたい。
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明治のみならず、江戸時代からの自転車の歴史から説き起こし、震災に強い都市づくりに繋ぐ簡潔な論調、流石、"余禄"氏であると、震災直後に弊ブログで「四輪/電車/自転車/徒歩比較論」を綴った筆者は感心すること、頻りであった。

シマノさんは「新製陸舟車」のことはご存知なんやろか?と余計なことを考えながら...。

フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-28 19:24 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 27日

『大阪・堺ポタ』 sk-9

「仁徳天皇陵の向かいの大仙公園に自転車博物館があります」と軍師殿。
jitenshaを趣味とする者、是非、見てみたいと思うも、前回の堺ポタで、軍師殿、御典医殿、呑々守殿は自転車博物館を見学済み。
待たせるのは申し訳ないし、上総の我が儘で、更に南へ下り、大鳥神社にも行ってみたいので、「自転車博物館はパスしようかな」と上総。
これに対し、「皇太子さんの自転車も展示されていますよ」との軍師殿の一声で、ロイヤル・ファミリー・ファンの上総、「やっぱり、行くわ」と、播磨守殿と共にこれを見学。
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軍師殿の言葉「皇太子さんの自転車」の「皇太子さん」は今上天皇であった。
今上天皇は1933年(昭和8年)のお生まれ。
1台目の自転車は陛下3歳のときに献上されたものとなる。
皇太子時代に献上された3台の自転車を眺めながら、東日本大震災の被災地を回られておられる天皇皇后両陛下へ思いを馳せるのであった。
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「上総さん、もう行くでぇ」との播磨守殿の声に、急ぎ、退出。

「お待たせしました。ええもん、見させて貰いました」。
「皇太子さんの自転車、見た?」。
「見た、見た、凄いね。1台目の、昭和11年に献上された自転車、大人用と寸分違わず、見事な作り。菊の紋章もしっかりとカメラに。堺は、ええ仕事をしてますねえ」。
「自転車博物館はシマノが相当に力を入れたよう」。
「昔の自転車から、よくぞ、集めた!やね。2階は見る時間がなかったけど、何があったん?」。
「最近の自転車がずらっと」。
「それは次回に愉しみにしとこ」。

フォト:2011年5月4日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-27 23:41 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 21日

『大阪・堺ポタ』sk-8

千利休屋敷跡から旧紀州街道「御陵前」を左折し、「御陵通」を走る。
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「御陵前」、「御陵通」、そして、「仁徳天皇陵ゾーン」の名称が気分を盛り上げてくれる。

「堺市歯科医師会館」の看板が目に入る。
走りながら「サカイシシカイシカイカン」と唱えてみる。
舌を噛みそうな名前。
歯科医師と唱えながら舌を噛んでは何とも皮肉なことで洒落にもならない。
しかしながら、面白い名前の看板の蒐集も趣味のひとつ。
遣り過ごすのは勿体無いと思い、少し戻って、これをカメラに収める。
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仁徳天皇陵。
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「墳長486m、前方部幅305m、陸上競技場に擬えると...」とボランタリーの案内の人の声が響く。
陵号は「百舌鳥耳原中陵」。
読みは「もずのみみはらのなかのみささぎ」。
これも舌を噛みそうだなど申したなら、世が世であれば、不敬罪に問われるかも...。

フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-21 23:46 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 20日

『大阪・堺ポタ』sk-7

「次は"かん袋"のくるみ餅です」と軍師殿。
続けて、「くるみ餅ってどんな餅やと思いますか」と。
横手から「胡桃とちゃうで。餡子で包んでるんや」と呑々守殿。

「さっきのザビエル像は何線の何駅?」と甘党よりも歴史党の上総。
「南海電車堺駅、橋は南蛮橋」と軍師殿。

かん袋/くる美餅。
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「くるみ」ではなく「くる美」であった。
甘党軍師殿と播磨守が店内へ。
御典医殿と呑々守殿は「わしゃ、ええわ」と店の外。
「上総は食べへんのか」。
「さっき、住吉神社でどら焼、食べたし、店先の写真だけにしとくわ」。
店内を覗くと大勢の客が席でくる美餅を頂戴している。
軍師殿と播磨守殿はレジで並んでいる。
「五十六番や」と札を持って、店内から播磨守殿、現る。
「成程、そういうシステムになっとるんや。写真、撮ったるわ」。
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お土産用は壺入り。
包装紙は「くる美」が「久留美」となっている。
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「午後5時まで」、「火・水曜は休業」、「売り切れ御免」、ええ商売、してはります。

「次は、せいろ蒸し蕎麦です」と軍師殿。
「場所は何処?さっき、阪堺線の大通りに蕎麦屋があったけど」と上総。
「渡り廊下というか何というか、そういうのが見えた店」と御典医殿。

ちく満。
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「こういう蕎麦が好きか嫌いか、両論あるでせう」と軍師殿。
そばつゆと猪口、薬味と生卵が運ばれてくる。
しばらくすると、蒸籠が運ばれて来た。
「先ず、そばつゆだけで食べてみよう」と呑々守殿。
「こりゃ、濃い、辛い。やっぱり、玉子がいるね」と。
「いつぞや、蕎麦屋で一献。〆にざる蕎麦を頼んだところ、茹で汁に浸かっていたような蕎麦が。それを思い起こさせる蕎麦なるも、ぷつり、ぷつりと切れずに、腰のない蕎麦を食べさせるには、蒸籠で蒸すのが一番かとも」と上総。
これが美味いかと問われれば、疑問符は付くが、創業は元禄11年、リピーターも数多くいるからこその老舗。
そのように思えば、斯様な蕎麦もあってもよいかもしれない。

店内には、堺の歴史が。
「堺の燈台」。
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「堺と自転車」。
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店を出て、改めて店の外観を眺める。
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真ん中は歴史を感じさせる仕舞屋風の作り、両脇はコンクリートの打ちっ放しによる建て増しの建屋。
御典医殿の言の通り、渡り廊下もある。
何とも不思議な店だ。

走りながら「あの蕎麦はなあ...。次に堺に来たときは、かん袋のくる美餅、食べよっと」と、腰のない蕎麦はどうもお気に召さなかったのか、甘党に転じた呑々守殿。

「次は上総殿御所望であった、千利休屋敷跡へ」と軍師殿。
千利休屋敷跡は、せいろ蒸しそば「ちく満」の裏手にあった。
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茶室を模した建屋でもあるのかと思いきや、然にあらず、庭に井戸の設え。
復元された建屋などよりも斯様な設えの方が当時の様子を想像する愉しみがあるとも言える。

次は仁徳天皇陵だ。

フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-20 23:43 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 18日

『大阪・堺ポタ』sk-6

大浜公園から堺旧港に向う。

旧堺灯台。
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旧港沿いを走りながら、乙姫像(龍女神像)を眺める。
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次回は対岸に渡り、近くでご尊顔を拝したい。

旧紀州街道を横切り、街中を走る。
「ザビエル像です」と軍師殿。
先程、ザビエル公園前で「駅の近くにザビエル像が」と聞いていたので、駅前広場の中央にでも聳えているのかと思いきや、意外にも、欄干にもたれる姿が、突如、現れた。
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ザビエル像は、海の方ではなく、内陸の方を向いていることに疑問を抱きつつ、出発する。
内陸に向いていたのは、多分、布教活動に思いを馳せている姿を表現していたのだろう。

「次は"かん袋"のくるみ餅です」と軍師殿。
続けて、「くるみ餅ってどんな餅やと思いますか」と。
横手から「胡桃とちゃうで。餡子で包んでるんや」と呑々守殿。

「さっきのザビエル像は何線の何駅?」と甘党よりも歴史党の上総。
「南海電車堺駅、橋は南蛮橋」と軍師殿。

フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-18 06:10 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 16日

『大阪・堺ポタ』 sk-5

旧紀州街道(197号線)を走る。
車道も歩道も広い。
車道の真ん中は阪堺線の専用軌道。
それを挟んで片道三車線の道路。
歩道の幅も一車線くらい、或いはそれ以上あり、jitenshaも走り易い。
「道が広いなあ」。
「戦災を受けたんで、その後の復興の結果によるもののよう」。

堺HAMONOミュージアム(堺刃物伝統産業会館)。
刃物も堺の伝統技術だ。
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この顔抜き看板で記念写真を撮るにはちょいと勇気がいるだろう。
顔を突っ込んだ途端、ギロチン!てなことがありそうで。
顔抜き看板のコレクションが、また、ひとつ増えた。

「ここがザビエル公園です」と軍師殿。
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「ザビエルの銅像があるのかな」と上総。
「ここには何もありませんが、駅の近くにあるので、後程、ご案内」と軍師殿。
「ザビエルの綴り、知っとう?」と呑々守殿。
「うん、さっき、しっかりと見たよ。エックスで始まっていたねえ」と上総。
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堺の豪商、日比屋了慶の屋敷跡。
ここにザビエルが滞在したことにより「ザビエル公園」と称すると。
「戎公園」の後に括弧書きで「ザビエル公園」と記しているのが奥ゆかしい。

「そろそろ、昼餉を摂りませう。ゲコ亭で」と軍師殿。
「ゲコ亭はおかずは大したことはないけど、コメが美味い」と呑々守殿。
「昨日、軍師殿からおかずの取り方につき、ご指南あり。おかずは皿に盛ってある。セルフサービス。余り、皿数は取らないようにと」と上総。

この日のポタには不出馬の、"マンホール図収集家"摂津守殿への土産を撮る。
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与謝野晶子生家の跡。
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与謝野 晶子/1878年(明治11年)12月7日-1942年(昭和17年)5月29日。
旧姓:鳳(ほう)、戸籍名:志よう。
ペンネームの「晶子」の「晶」は、この「しよう」から取った。
実家は老舗の和菓子屋「駿河屋」。
与謝野晶子が堺の生まれであったとは知らなかった。

「ありゃー、ゲコ亭は休みや」。
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「ほんなら、穴子寿司にしよか」と御典医殿。
直ぐに、代案が出てくるのが凄い。

深清鮨。
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「穴子は箱寿司と巻き寿司があるねん」と御典医殿。
「箱」、「箱」、「箱」、「箱」の声のあと、「巻き」と一人だけ、へそ曲がり(???)の声。
店先を覗きながら、「伊達巻も美味そうやなあ」とは呑々守殿。
「テイクアウトだけで、店の中では食べられへんけど、どっかで」。
「ほんなら、港か公園で」。
大浜公園で穴子寿司を食す。
ツメが穴子にたっぷりと塗られ、誠に美味。

「この後、くるみ餅とせいろ蒸し蕎麦も待ってます」と軍師殿から"美ぃ級グルメ"のご案内あり。

フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-16 19:39 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 15日

『大阪・堺ポタ』 sk-4

「一寸法師ゆかりの町 安立」から旧紀州街道を更に南下し、大和川に架かる大和橋を渡り、堺市に入る。

堺鉄砲館。
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鉄砲館にて懇切丁寧な説明を受ける。
そのハイライトは;
周囲に環濠が築かれた自治都市、堺。
近隣に三国ヶ丘の地名がある通り、摂津国、和泉国、河内国の三つの国に跨る町。
三つの国の「境」で発展した町、「堺」。
往時、鉄砲の生産量は年間2万丁。
それ程に多くの生産が出来たのは分業体制をとっていたことによるもの。
この界隈の家々は鉄砲造りに携わっていた。
鉄砲館隣りの浅香家もそのひとつ。
園芸で使うスコップを日本で初めて作ったのは、この浅香家である(銃身を筒状に巻く途中の段階が正にスコップの柄と刃の境目の形状と同じである)。
鉄砲鍛冶の伝統技術は今も堺の工業に脈々と生きている。

因みに、世界に冠たる自転車のパーツ・メーカーである、あのシマノの本社も堺市である。

フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-15 23:59 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 14日

『大阪・堺ポタ』sk-3

旧紀州街道を走る。
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商店街を走り抜ける。
否、ルールに従い、「押し」で商店街を抜ける。
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商店街のアーケードに「一寸法師ゆかりの町」なるものが吊るされている。
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安立商店街/「一寸法師ゆかりの町」。
この地が一寸法師ゆかりの町とは?
あれこれ、紐解いてみたところ、一寸法師の物語には諸説あるが、この地が一寸法師ゆかりの町であることが解けた。
子供のない老夫婦が子供を恵んで欲しいと「住吉の神」に祈ると、子供が生まれた。
生まれた子供の身長は一寸しかなく、「一寸法師」と名づけられ、成長しても一寸のままであった。
子供を授けてくれた「住吉の神」の「住吉」は、古来、「すみのえ」と読まれ、平安時代になって「すみよし」と読まれるようになった。
「すみのえ」とは「澄んだ入り江」のことで、古代、天皇は即位すると住吉(すみのえ)の海で清めの儀式を行ったのである。
住吉大社周辺に墨江や住之江という地名があるが、これらは「すみのえ」の読みに漢字を当てはめたものとされる。
安立商店街の住所を調べてみると「大阪市住之江区」となっており、この地が「一寸法師ゆかりの町」であることに疑いはない。

♪指に足りない一寸法師 小さな体に大きな望み 御椀の舟に箸の櫂 京へ遥々上りゆく♪
一寸法師は、摂津国住之江から淀川を上り、京へ向ったのであろう。

更に、旧紀州街道を南下し、大和川を渡る。

フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-14 19:58 | 大阪・堺ポタリング
2011年 06月 13日

『大阪・堺ポタ』 sk-2

住吉大社。
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手水舎の水は、龍ではなく、兎の口から流れ出ている。
さて、何故、兎なのかと、住吉大社の謂れを紐解くと、「兎は当社の御鎮座(創建)が神功皇后摂政十一年(西暦211年)辛卯(かのとのうさぎ)の年、卯月(うづき)の卯日(うのか)である御縁により奉納されたものです」とある。
因みに、今年、2011年も辛卯の年である。

住吉大社に到着した際、六々守殿と御典医殿は大通りを走り、何処かへ。
反橋の上から眺めていると両諸侯が現れた。
美味そうに何かを食している。
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「上総殿の分も御座りまするぞ」と袋から出て来たものがこれ。
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住吉名物、住吉菓庵「喜久寿」のどら焼。
甘党、軍師六々守殿の面目躍如の品である。

どら焼を食した後の、軍師殿、渾身のワン・ショットはどんな絵柄であったのだろうか。
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どら焼を食した後の、上総、渾身(???)のワン・ショットはこれ。
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フォト:2011年5月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-06-13 23:46 | 大阪・堺ポタリング