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2010年 04月 29日

『 Intermission 』

明日からしばらく行脚に出ます.
GW明けに、ブログで再びお目に掛りましょう。
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フォト:「何の実でしょうか@西表島」、2010年1月29日
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by kazusanokami | 2010-04-29 23:59 | エピソード | Comments(0)
2010年 04月 29日

『東京都写真美術館』

昨年12月のハリポタ藩関東遠征時、御典医殿、六々守殿と共に「東京都写真美術館」へ。
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先般、図書館でこんな本を見付けました。
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「写真の歴史入門/第一部 『誕生』 新たな視覚のはじまり」
三井圭司著、東京都写真美術館監修
2005年、新潮社発行

東京都写真美術館開館10周年を記念して刊行された書籍。
カメラ・オブスクラに始まり、ダイレクト・プロセス/ダゲレオタイプ、人工着色、ネガ・ポジ・プロセス/カロタイプ等々、写真の歴史を仔細に亘って解説。
同館のコレクションである1800年代からの数々の写真を交えながらの解説は、誠に興味深い内容でした。

これを読みながら、カメラ好きであった親爺のことを思い出しました。
親爺は、カラーフィルムが売り出された頃、直ぐにこれに飛び付きました。
撮影済みのフィルムを富士フィルムのラボに送る(当時は町の写真屋さんでは現像が出来なかった)と、1枚ずつマウントを施したポジとなって返送されて来ました。
2枚のマウントが差し込めるスライドを映写機に装着し、カチャッ、カチャッと動かしながら、1枚を映写する都度、1枚を入れ替えてのスライド・ショーでした。
手動でのこの作業は子供の"仕事"でした。
"仕事"というよりも「僕がやるんだ」と兄弟での獲り合いであったかもしれません。
映写機、スライド、マウンテッド・フィルムを携え、お袋の里へ赴き、祖母にスライド・ショーで写真を見せたことも思い出されます。
その後、かなりの時を経て、カラープリントが普及し、今や、デジタルの世界に。
幼き頃のカラーフィルムが斯様なものであったということも、今や歴史に。
それを間近に体験させてくれた親爺に感謝です。

「写真は時間を切り取る」と長らく思っていた小生、この本を読み、「写真が超えることのできるものは『時』だけではない。遥かな『距離』さえも、悠々と超えることができる」との著者の言葉が心に残りました。

フォト:2009年12月15日、2010年4月29日
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by kazusanokami | 2010-04-29 23:23 | カメラ | Comments(2)
2010年 04月 29日

『八重山諸島ポタ/西表島を巡る』 yp-47

レンタカーを返し、愛馬にて大原港へ。
大原港にて高速艇に乗り、石西礁湖を走り、石垣島へ。

大原港桟橋。
桟橋に置かれた荷物は石垣島からのもの。
高速艇は人のみならず、西表島の生活物資をも運んでいます。
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途中、少し、晴れ間が。
今回の旅で初めてのこと。翌日の黒島は晴れかもしれない...。
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石垣島離島桟橋に着く。
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一旦、ホテルに戻る。

「さあ、宴や、宴や!」と町へ繰り出す。
宴の前に、石垣島公設市場などを覗きながら、土産物をリサーチし、幾つかの品を買い物。

香辛料と調味料たち。
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シーサーたち。
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泡盛たち。
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陶器たち。
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街角で、「この店、いいTシャツを売ってるじゃん」と某殿様。
御典医殿、按針殿、摂津守殿はあれこれ吟味し、何枚かのTシャツをお買い物。

Tシャツは写っていませんが、お洒落な装飾品も並べられています。
店の名は「箱亀」さん。
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「何処か、お奨めの店はありますか?」と軍師殿はこの店で宴の場所をリサーチ。
因みに、この「箱亀」さんは、後々、我々の情報センターに...。
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「お隣の『パイカジ』さん、結構、美味しいですよ」。
即、『パイカジ』へと、なだれ込む。

店に入った後、「ええっと、この店は何という名だったっけ?」、「『パイカジ』です」、「『パイカジ』って?」、「南風。南は『ハイ』とか『パイ』とかいろんな言い方がありますが、この店は『ぱいかじ』です」、「成程!ベンキョーになりました!」。

泡盛は、先ず「請福」を、続いて、「於茂登」の古酒を味わう。
「クルクン」の唐揚げと泡盛がぴったりでした。
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<ハリポタ藩評定録>
今回の西表島"下見"を顧みて、次回の企画は可能な限り下記を考慮する。
一、jitenshaでの旅、或いは、jitensha&レンタカー併用の旅とする。
一、浦内川ジャングルクルーズ/カンピレーの滝&マリユドゥの滝を巡ることとする。
一、由布島は往路もしくは復路は徒歩で渡ることとする。
一、動植物をゆるりと観察をする旅とする。
  殊に、蝶の観察、カンムリワシとの遭遇、次にアカショウビンとの遭遇。
一、仲間川ジャングルクルーズ(○○の滝、サキシマスオウの大木)を新たに加えることとする。
一、ヒカリヘゴを間近に見られるところを調べ、蛇のような柄をした幹を間近に見ることをトライする。
一、東経123度45分56秒78の地点を探索を新たに加えることとする。
一、今回は雨模様。雨男の嫌疑を掛けられた殿様は鋭意自主鍛錬(???)により晴れ男に変身し、是非共、晴天のときに挙行出来るようにする。
一、以上を考慮して、西表島の旅は一泊もしくは複数泊とする。

なほ、次のことを評定録の補遺とする。
西表島の道幅は、石垣島のタクシードライバーさんから聞いた通り、それなりに広いものであった。カベルナリア吉田著「沖縄自転車!」では道幅の狭いところで難儀したとあるが、同氏が難儀したと思われる箇所は拡幅工事中もしくは道の付け替え工事中であった。
大原から上原までの間、かなりのアップダウンあり。我らの脚力と、あちらこちらの観光スポットにも立ち寄ることを考慮すると、1日でこの区間を走破することは難しい。次回、jitenshaで西表島を巡る場合は、西表島で一泊もしくは複数泊の計画とするのがよいだろう。

この日の四輪での走行距離は距離計未確認にて、次回jitenshaの下見の目的のひとつは達せず。
但し、道路標識からして、大原/上原間は32km、大原/南風見田間は6km、この区間の往復で76kmくらいかと。
因みに、jitenshaはホテルと石垣島離島桟橋の間と、西表島大原港とレンタカー店の間の往復のみで、2.2kmでした。記録の必要はなかったかも...。

フォト:2010年1月29日
フォト#10:人麻呂殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2010-04-29 23:07 | 八重山諸島ポタリング | Comments(3)
2010年 04月 29日

『八重山諸島ポタ/西表島を巡る』 yp-46

南風見田で見た、南の島らしい面白い造形。
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「ちょいと、御典医殿、車を止めてくだされ。サトウキビを撮りまするゆえ」。
後々、小浜島や石垣島で広々としたサトウキビ畑を見ることになりますが、今回の旅で初めて見たサトウキビでしたので...。
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「おっ、カンムリワシ?」。
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残念!ヤマバトのようでした。
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「あっ、つがいや!」。
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恥ずかしがって、飛んで行ってしまいました。
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「これ、ヤマイモ?サキシマヤマイモやろか?ヤエヤマヤマイモやろか?」、「何でもサキシマやヤエヤマを付ければええというもんではありまへん!リュウキュウヤマイモかも...」。
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「ということは、さっきのヤマバトは、リュウキュウ、サキシマ、ヤエヤマのどれやろね」。

南風見田を発った後、こんな状態でしたので、なかなか大原のレンタカー店に到着しないのでありました...。

フォト:2010年1月29日

(つづく)
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by kazusanokami | 2010-04-29 11:46 | 八重山諸島ポタリング | Comments(2)
2010年 04月 29日

『八重山諸島ポタ/西表島を巡る』 yp-45

西表島温泉から、大原まで戻り、大原の西に位置する「南風見田(はいみた)」へ行ってみました。

駐車場から浜に抜ける林の中を歩いていると、降りしきる雨の中を飛び交う何羽もの蝶が。
「何という蝶だったっけ?リュウキュウ...、サキシマ...」、「リュウキュウアサギマダラです」。

「乱舞するリュウキュウアサギマダラの図」。
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何処に蝶が写っているか分からないでしょう。
上下左右に自由自在に乱舞する蝶を撮るのは至難の業。
焦点は合っていませんが、写っています。

で、「静止するリュウキュウアサギマダラの図」を。
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由布島の「蝶々園」で、この蝶は珍しい種類のものと学びましたが、この島では普通に見られる蝶であることをここで実感!

ついでに、正体不明の幼虫も。
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林を抜けると「南風見田の浜」。
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「晴れた日には、ここから波照間島が見えるそうじゃ」などと語りながら、南風見田の浜から、再び、蝶が乱舞する林を抜け、駐車場へ。
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フォト:2010年1月29日

(つづく)
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by kazusanokami | 2010-04-29 07:45 | 八重山諸島ポタリング | Comments(2)
2010年 04月 28日

「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」 mi-10



ここで、この日の番外編を。
この日の朝、大給守殿と伊豆守殿は、御屋敷から集合場所の松戸/戸定邸まで自走。
その途上、弘法寺(ぐほうじ)に立ち寄り、観桜なされた由。

後日、伊豆守殿より弘法寺での観桜のフォトが送られて来ました。
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見事な枝垂桜です。

集合場所の松戸/戸定邸で、伊豆守殿と大給守殿から立派な桜であったことは聞くも、このフォトを見て、仕舞った!上総も見ておきたかった!と思い、来年の観桜に備え、弘法寺の所在地を調べたところ、何と、戸定邸をスタートし、ポタリングで辿った国府台ではありませんか!
ポタリングの途中、「某も弘法寺にお連れ下され」と申せばよかったと思うも後の祭り。
しかし、これは伊豆、大給両諸侯が御屋敷から戸定邸まで自走されたからこその"お駄賃"。
上総にとっては、来年の楽しみが増えたということでもあります。

この機会に、弘法寺(ぐほうじ)について、ベンキョーしてみました。
真間山弘法寺(ぐほうじ)は、奈良時代、天平9年(737年)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われた。
それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁13年(822年)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、「求法寺」を「弘法寺」と改称された。
その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275年)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。この時、寺名も真間山弘法寺(ぐほうじ)になった。以後、下総中山(現在、千葉県市川市)の法華経寺とともに日蓮宗の拠点となった。
当山は元亨3年(1323年)に千葉胤貞公(ちばたねさだこう)より寺領の寄進を受け、天正19年(1591年)に徳川家康公より御朱印状を賜り、元禄八年(1695)には水戸黄門公が来詣された折、茶室を賞(め)でて「遍覧亭(へんらんてい)」と称された。
明治21年(1888年)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、現在の諸堂は明治23年(1890年)に再建されたものである。
(出典/真間山弘法寺HPおよびwikipedia)

成程、弘法寺は、この日、訪れた法華経寺と並ぶ寺院だったのであります。

この日のポタはJR西船橋駅で解散。
上総は輪行にて走行距離は34.20kmなるも、大給守殿と伊豆守殿は帰路も御屋敷まで自走なされ、朝の集合場所までの自走も合わせ、走行距離は71.56kmとのことでした(大給守殿レポート)。
お疲れさまでした。

フォト:2010年4月3日、伊豆守殿提供

(完)
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by kazusanokami | 2010-04-28 21:50 | ポタリング | Comments(6)
2010年 04月 28日

「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」 mi-9

船橋電波塔跡を最後に、今回の「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」は終わりました。

「各々方、桜の季節のポタにて、実は背嚢に葡萄汁を一本、忍ばせておりまする。如何なされまするかな?」と大給殿。
「葡萄汁とな?」と上総。
「ボルドー産に御座る」と大給殿。
「ボルドー産とは、それはまた結構なものを!」、「重たいものながらのお気遣い。桜の下で頂戴致しましょうぞ」と伊豆殿と上総。
早速、行田公園のベンチに座り、桜を眺めながら反省会。

「手際が宜しゅう御座りまするなあ」、「お任せ下され」。
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「お味は如何に御座りませうや」、「なかなかのものに御座りまするぞ。ワッハッハッ!」。
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「ポタのあとのボルドー産は、また、格別に御座るのう」、「葡萄汁に御座りまするぞ。桜の色で顔が染まったので御座りまするぞ」。
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JR西船橋駅まで走り、解散。

まだ、この日の番外編があります。

フォト:2010年4月3日
フォト#1,2/伊豆守殿提供
フォト#3/大給守殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2010-04-28 21:39 | ポタリング | Comments(2)
2010年 04月 28日

「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」 mi-8

船橋電波塔跡。

数年前、あの「ニイタカヤマノボレ」が発信された無線塔が船橋市行田にあるということを知り、一度、訪れてみたいと思っていた場所である。

船橋電波塔記念碑。
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碑には、「ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年(1916年)にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる『ニイタカヤマノボレ一二〇八』の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた」と刻まれている。

この辺りを地図で見るとくっきりとした円形となっており、円形に沿って外周道路があり、円形内に送信所があったことを偲ばせる。

案内図。
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円形の跡地には学校や団地、公園などがある。
扇形に設けられた公園の形も送信所が円形であったことを偲ばせる。

記念碑の前にて、今日のjitensha。
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フォト:2010年4月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2010-04-28 00:18 | ポタリング | Comments(4)
2010年 04月 27日

「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」 mi-7

市川市東山魁夷記念館。
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東山魁夷は、戦後まもない1945年(昭和20年)から1999年(平成11年)逝去するまでの50余年間、市川に在住し、その輝かしい画業を市川の誇りとし、2005年11月に、この記念館を開館したとのこと。

数年前、四国・坂出の瀬戸大橋の袂にある「香川県立東山魁夷せとうち美術館」で画伯の作品を鑑賞したことがあった。
何故、香川県に?との思いをもっていたので、この機会に、同館のHPを見たところ、「香川県では、東山魁夷画伯の祖父が坂出市櫃石島の出身で、本県とゆかりが深いことから、ご遺族より版画作品270点余の寄贈を受け、これら作品を広く鑑賞していただくため、香川県立東山魁夷せとうち美術館を整備しました。」とあった。

市川市の記念館所蔵の作品は、いずれ、ゆっくり鑑賞することとし、記念館を後にした。

フォト:2010年4月3日

(つづく)
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by kazusanokami | 2010-04-27 06:47 | ポタリング | Comments(4)
2010年 04月 26日

「松戸・市川・船橋歴史探訪&ひさご亭美ぃ級グルメの旅」 mi-6

京成中山駅近くの踏み切りを渡り、緩やかな参道を上ると、法華経寺の黒門が見えて来ました。
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黒門と"案内人" 大給守殿。
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黒門をくぐると法華経寺に向かう参道の両脇には山内寺院や塔頭の寺々が並ぶ。
その寺々の中のひとつ、遠寿院の荒行堂。
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荒行堂から参道の桜を愛でる。
左手、軽やかに歩を進めるは、伊豆守殿と大給守殿。
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参道の風情。
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法華経寺。
1260年(文応元年)開祖の日蓮宗大本山の寺院。

五重塔。
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祖師堂。
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祖師堂と五重塔。
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祖師堂から更に奥に続く...。
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祖師堂の屋根。
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「祖師堂の屋根は木造りなんだ」とベンキョー中の上総の姿を撮られちゃいました...。
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「祖師堂の屋根は板張りに御座りまするな」と上総。
「サワラに御座る」と大給守殿。
「今、何と申されましたかな」と上総。
「サワラに御座る。長野の善光寺の屋根もサワラ。サワラは板塀などにも使われまする。先般、国許でもサワラの板塀の張替えを」と大給守殿。
「サワラとな?初めて聞く樹木の名に御座る」と上総。
「伊豆守殿はサワラをご存じでありませうか」と大給守殿。
「魚のサワラなら、存じ居るも...」と伊豆守殿。
「何やら自信がなくなって参りましたな」と大給守殿、早速、ogyu-yome殿にケータイ糸電話にて確認。
「やはり、サワラに御座る。漢字は木偏に甚平の甚と書きまする」と。
「草木の名にはとんと疎く、ベンキョーに相成り申した」と上総。

帰宅後、"復習"してみました。

「サワラ(椹)は、ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。日本特産種で、岩手県から九州各地にかけての山地に自生する。樹高は通常30~40m、大きいものでは約50mになる。主幹形であり外見はヒノキによく似るが、枝はヒノキほど茂らず、枝と枝の間隔が広くなるため、遠くからでも幹がよく目立つ。ヒノキのように鱗片状の小さな葉がつくが、一枚一枚の先端が尖っているため、ヒノキとの区別は容易である。ヒノキよりも成長が早いが、木材は柔らかいためヒノキのように柱などとしてはあまり用いられない。水湿に強く、ヒノキやアスナロのような臭いがないので、飯櫃や柄杓、桶などによく用いられる。木曽五木の一つである。殺菌作用があるため、松茸など食品の下の敷物としても使われる。国内最大のサワラは、福島県いわき市にある国指定天然記念物『沢尻の大ヒノキ』である。登録名称からもサワラとヒノキが似ていることが分かる。」(出典/WIKIPEDIA)

「木曾五木」とは何ぞや?
これもベンキョーしてみました。

「木曽五木(きそごぼく)とは、江戸時代に尾張藩により伐採が禁止された木曽谷の木。ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ(クロベ)、サワラの五種類の常緑針葉樹林のことを指す。木曽節にも唄われている。」(出典?)

ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ(クロベ)について、広辞苑を紐解いてみました。

「アスナロ」は漢字で「翌檜」。
明日は檜になろうの意。
「羅漢柏」、「ひば」、「あて」、「あすひ」、「あすはひのき」ともいう。

「コウヤマキ」は漢字で「高野槙」。
高野山に多く産するからという。
「ほんまき」、「くさまき」ともいう。

「ネズコ」はクロベの別称。

「クロベ」は漢字で「黒檜」。
「ねずこ」、「ごろうひば」、「くろび(黒檜)」ともいう。

大給守殿の「サワラ」の一言で随分ベンキョーが出来ました。
大給守殿に深謝!
そして、「魚のサワラなら、存じ居るも...」との言葉を発せられた伊豆守殿にも感謝!

フォト:2010年4月3日
フォト#11/大給守殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2010-04-26 23:46 | ポタリング | Comments(4)