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2011年 07月 31日

『印旛沼の龍伝説』

印旛沼は、大好きなポタリング・コースのひとつである。
印旛沼には、龍伝説がある。
この伝説は、龍を趣味とする上総にとって非常に興味深いもののひとつである。
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《印旛沼の龍伝説》
 その昔、印旛地方で日照りが続き村人は大変苦しんでいた。そこで聖武天皇の命により龍閣寺の釈命上人が印旛沼に船を漕ぎ出し沼の真ん中に出て、命がけで龍神様に雨乞いの祈祷をした。印旛沼には小さな龍が住んでいて、願いを聞いた沼の小龍は龍王に殺されるのを覚悟で天に昇り、暮れゆく空の中に姿を消した。真黒な雲が舞い上り大粒の雨が落ちてきて、だんだんが激しくなり7日7晩降り続き、ひび割れしていた田も枯れ草同様の畑の作物も生き返ったという。
 そして、7日目、ものすごい雷光と天も地もふっ飛ぶような雷鳴がとどろき渡り、三つに裂けた龍の姿が村人たち目に入った。心優しい小龍は龍王の言い付けに逆らって村人のために雨を降らせたので、斬られて三つになって落ちたのである
 村人たちは三つに裂かれた龍の体を捜しに出かけた。二本の角のついた頭は栄町安食に、腹は本埜に、尾はどういうわけか、はるか東南の匝瑳市大寺に落ちていたのが見つかった。変わり果てた龍を見つけた村人たちは、龍の冥福を祈りそれぞれの地で供養することにしたそうである。角のついた頭は石の唐櫃に納めて龍角寺の堂前に埋め、腹は本埜の地蔵堂に納め、尾は大寺の寺に納め、龍角寺、龍腹寺、龍尾寺がそれぞれ寺の名前になったと伝えられている。
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この印旛沼の龍伝説を調べていたところ、「古今佐倉真佐子」なる書物に「此末辺竜腹寺、竜角寺、竜尾寺といへる寺ある。印西の内也。 昔かしそらより蛇三つに 切て落ちし所也。 竜腹寺は腹落し所、竜角寺は頭の落し所、竜尾寺は尾の落し所也。 此 所に寺建右の名付、その寺々は右蛇のこつとも夫々あるよし」と綴られていることを知った。

「古今佐倉真佐子」とは何だろう?と、調べてみた。
佐倉市在住の方がこの書物のことについて綴っていた。
その抜粋をここに引用させて戴く。
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元禄のころ佐倉城主をつとめた稲葉氏の家臣に、渡辺善右衛門という人物がいた。生まれたのは元禄14年(1701年)。この人物は二冊の書物を残した。一つが「古今佐倉真佐子」でもう一つは「山州淀の記」という。二十三歳まで佐倉、その後大名の所替えにより淀に移り住んだため、このようなかけ離れた二つの土地についての書物ができた。
(略)「真佐子」は「まさこ」ではなく「まさご」と読み、佐倉のいろんなことを書きとめたものという意味だ。
(略)江戸から佐倉への道すがらの風物、途中の関所、佐倉城の建物の配置、武家屋敷や曲輪ようす、道筋や木立のこと、そこに並ぶ神社仏閣、年中行事、信仰のありよう、近在の村、直接間接に聞き知った怪談めいた噺の数かず。四季の気象や災害、野馬狩、鹿狩、猪狩から奉公人の年俸まで書かれている。
(略)
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「真佐子」は「まさご」=「真砂」で、細かい砂。
佐倉の「いろいろなこと」を「真砂」に擬えて、書物の名としたようだ。
ポタリングで訪れたところやその道中のことを何でも書き留めたがる上総の性癖にぴったりで、渡辺善右衛門さんに親しみが湧く。

この渡辺善右衛門さんはどのような人物なのであろうか?と電脳網でこの人物の名を打ち込み、検索してみたところ、「朝鮮聘礼使淀城着来図(ちょうせんへいれいしよどじょうちゃくらいず)」なるものが現れた。

この図は、延享度(1748年)の朝鮮通信使の船団が淀に着岸し、淀城下を行進する様子を描いたもので、淀藩の饗応役を務めた渡辺善右衛門守業の筆になり、同人の記した「朝鮮人来聘記」の付図にあたるとある。

渡辺善右衛門はいろんなことを書き留めるのみならず、絵心をも持った人物であったことが窺える。
ポタリングで訪れたところやその道中のことを何でもカメラに収めたがる上総の性癖にぴったりで、渡辺善右衛門さんに更に親しみが湧くのであった。

話が随分に逸れてしまった。
龍に纏わる三つの寺の話に戻そう。

角を祀る龍角寺(千葉県印旛郡栄町)は、北印旛沼の北東、数kmの地にある。
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腹を祀る龍腹寺(千葉県印西市、旧・本埜村)は、北印旛沼の西、数kmの地にある。
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尾を祀る龍尾寺(千葉県匝瑳市)は、印旛沼の東南、約50kmの地にある。

「角」と「腹」は印旛沼の近くにあり、北総をポタリングした際に訪れる機会を得た。
「尾」は印旛沼から遥か遠くにあり、いずれ、輪行にて訪れてみたい。

フォト:2011年6月4日
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by kazusanokami | 2011-07-31 19:01 | 伝説 | Comments(2)
2011年 07月 29日

『印旛沼龍伝説ゆかりの地を訪ねて(下)』

龍腹寺を巡り、折角、印旛沼水産センターまで来たことでもあり、龍角寺に向うことにした。

甚兵衛大橋の手前を右折する。
新ルートだ。
先ず、JR成田線下総松崎駅を目指す。
いつも思うことだが、「松崎」の読み方がなかなか興味深い。
「まつざき」ではなく、「まんざき」と読む。
「しもうさまんざき」、いい響きだ。

下総松崎駅近くの踏み切りを渡る。
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成田安食バイパスに向う道を走る。
成田安食バイパスは北総台地の高台を走っている。
想像通り、成田安食バイパスに至る道は上り坂である。

成田安食バイパスを走る。
龍角寺は北総台地の一画にある。
「千葉県立房総のむら」を過ぎ、右折し、龍角寺に至る。
龍角寺を訪れるのは2009年12月以来だ。
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本尊は薬師如来だ。
銅造薬師如来坐像は頭部のみが奈良時代の作で、体部は江戸時代の再鋳である。
関東の地に残る、奈良時代の仏像は稀有であるとのこと。
このフォトは実物ではなく、説明書きに添えられた写真を写したものである。
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最早、この寺には本堂や伽藍はない。
3x4の並びで、仁王門跡の礎石が整然と並んでいる。
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塔址に向う。
塔址は真ん中に穴の開いた心柱の礎石のみである。
「史跡龍角寺境内ノ塔址」と「史跡龍角寺境内ノ塔址/史跡天然記念物保存法ニ拠リ 昭和八年四月文部大臣」と刻まれた石柱は健在なるも、「塔址」を囲む石柱は倒壊していた。
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境内の燈篭の上部が落ちていた。
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境内のあちらこちらに虎マークのロープが張り巡らされ、立入禁止となっていた。
龍角寺も3月11日の巨大地震の被害を被ったようだ。

先に訪れた龍腹寺の門扉が閉ざされていた理由は不明ながら、この龍角寺の様子からして、龍腹寺も3月11日の巨大地震で何らかの損傷を被り、門扉を閉ざし、立入禁止にしていたのかもしれない。

サイクル・コンピュタの走行距離は52kmを示している。
さて、輪行で帰るか、自走で帰るかと思案しつつ、成田安食バイパスを走り、JR成田線安食駅へ向う。
自走で帰れば、本日の走行距離は80km超となる。
久方ぶりに80km超に挑戦してみようと自走に決める。

自宅到着。
よく日に焼けた。
走行距離81.28kmの「印旛沼龍伝説"取材"の旅」であった。

フォト:2011年6月4日

(完)
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by kazusanokami | 2011-07-29 23:43 | 伝説 | Comments(2)
2011年 07月 28日

『印旛沼龍伝説ゆかりの地を訪ねて(上)』

6月4日(土)晴れ。

印旛沼龍伝説に纏わる寺として、龍角寺、龍腹寺、龍尾寺がある。
龍角寺は何度か訪れたことがあるが、龍腹寺と龍尾寺はまだ訪れたことがない。
龍尾寺は匝瑳市にあり、これは相当に遠い。
龍腹寺を訪れてみることにした。

手賀沼CRから手賀川CR、布佐、木下を経て、JR成田線小林駅前を走り抜け、印西市本埜支所(旧・本埜村役場)に至る。
この辺りから左の田畑の中を走り抜けると"白鳥の郷"。
今回は本埜支所の角を右折し、県道65号線沿いの龍腹寺へ向う。

想像通り、上り坂だ。
標識を見誤ったらしく、一筋早く左折してしまった。
そのお陰と言っては何だが、「鳥見神社」を"発見"。
紅い鳥居が木立の中に映える。
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5月初旬、「京都・伏見ポタ」で「黄桜」を訪れた際、河童のベンキョーをした。
千葉県印西市の和泉鳥見神社の「いなざき獅子舞」では、河童の道化が踊るとのことであった。
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この和泉鳥見神社を調べてみると、毎々のポタ・コースである手賀川CRの南に在る神社であった。

今回、遭遇した神社も鳥見神社である。
和泉鳥見神社とこの鳥見神社は所在が異なる。
鳥見神社について、調べてみた。
或る資料に「印西市には、小林、大森、平岡、和泉、小倉、浦部に鳥見神社がある」と記されている。
この資料に照らすと、今回、遭遇した鳥見神社は小林に在る神社のようだ(その後、これはフォトにもある通り、「中根」の鳥見神社で、「小林」の鳥見神社は別にあることが判明)。
更に、別の資料では「鳥見神社の祭神は物部氏の祖神で、『続日本紀』に物部小事大連なる人物が勅命をうけて坂東を征し、その功によって下総国匝瑳郡を建てることを認められた(6世紀始め頃と推定される)。このことからして、物部小事の子孫または一族が印旛郡にも進出し、居住地に祖神を祀ったのが鳥見神社と推測される」とある。
印旛郡の一部は市町村合併で印西市となっており、この地域に幾つもの鳥見神社のある理由がよく分かった。
これらの鳥見神社をjitenshaで巡ってみるのも面白そうだ。

来た道を戻る。

県道65号線に至り、これを左折。
「延命地蔵尊」に立ち寄る。
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次が、愈々、龍腹寺である。
龍腹寺は道路脇から坂道を上る高台にあった。
坂道の入り口に門扉がある。
門扉は閉ざされ、南京錠で施錠されている。
折角、来たのだから、門扉の脇の隙間から中へ入ろうかとも思った。
しかしながら、その隙間には、入っちゃだめですよと言うが如くに、二本のロープが張られていた。
門扉の彼方に見える「天台宗」と「龍腹寺」と刻まれた石柱をカメラに収めた。
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来た道を印西市本埜支所まで戻る。
印旛沼水産センターで昼餉を摂ろうと思い、本埜支所の角を右折する。
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甚兵衛大橋を渡り、印旛沼水産センターに到着する。

うな重(並)1800円也を食す。
周年うなぎを食するのはこれで何度目であろうか、幾度も食すと有り難味がなくなるような気がした。

折角、ここまで来たことでもあり、印旛沼水産センターから龍角寺に向うことにした。

フォト:2011年6月4日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-07-28 23:58 | 伝説 | Comments(0)
2011年 07月 27日

『風景/舟運で栄えた町』

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フォト:2011年5月21日
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by kazusanokami | 2011-07-27 23:10 | 風景 | Comments(0)
2011年 07月 26日

『風景/南庭北庭」』

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足利学校の方丈。
大きく開け放たれた障子の向こうには南庭園。
裏手の渡り廊下の向こうには北庭園。
外から降り注ぐ光とそれが織りなす影。
五月の風が心地よい。

フォト:2011年5月21日
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by kazusanokami | 2011-07-26 19:10 | 風景 | Comments(2)
2011年 07月 24日

『風景/光と影』

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フォト:2011年5月21日
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by kazusanokami | 2011-07-24 22:30 | 風景 | Comments(0)
2011年 07月 22日

『下校風景二景』

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フォト:2011年5月21日
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by kazusanokami | 2011-07-22 23:48 | 風景 | Comments(2)
2011年 07月 21日

『下野国ポタ/蔵の町、栃木市の巻』 at-9

巴波川沿いを走る。
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幸来橋近くの蔵造り。
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幸来橋からの眺め。
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「蔵の町遊覧船」。
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マンホール図柄収集家の摂津守殿へのプレゼント。
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栃木県は日本の干瓢生産の8割を占めているとのことである。

当地は、利根川水系渡良瀬川の支流、巴波川の舟運により栄えた商都である。
巴波川は「うずまかわ」と読む。
なかなか興味深い名前である。
「渦巻き」の当て字かとも思い、意味を調べてみると「渦を巻き、波を立てて流れる」とのこと。
「二つ巴」や「三つ巴」など、「巴」の家紋がある。
中世の地方豪族、宇都宮氏、小山氏、結城氏などが「巴」を家紋としており、当地は小山氏の所領であったことから、「巴」の文字を使っているのかもしれない。
余談ながら、大石内蔵助の家紋も「巴」(「右二つ巴」)であり、大石家は小山氏の一族であることを忠臣蔵や赤穂浪士を趣味とする上総の補足として綴っておこう。

栃木駅から"蔵の街大通り"を走っていた際、街灯に「巴波の川風 蔵の瓦波」と染め抜かれた飾りが掲げられていた。
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巴波川沿いを走りながら、「巴波の川風 蔵の瓦波」の言葉を反芻してみた。

東武日光線栃木駅から輪行にて帰途に就く。
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東武鉄道はjitenshaに寛大である。
往路の「特急りょうもう」では、最後部座席の後ろはjitenshaを置くほどのスペースはなく、空席の足元に置かせて貰った。
検札の車掌さんからは何も言われなかった。
帰路の「特急きぬがわ」でも、空席の足元に置かせてもらった。
検札の車掌さん曰く、「自転車の置いてある席は押さえておきましたから」と。
これの意味するところは「この席は予約の受付をしないから、どうぞ」ということであったのだろう。

東武鉄道は、毎年、「東京・南会津サイクルトレイン」のイベントを行っている。
ご承知の通り、「サイクルトレイン」であるから、jitenshaを折り畳むことなく、そのままで乗せてくれるのである。
そうしたこともあって、東武鉄道はjitenshaに理解のある鉄道なのであろう。
東武鉄道はこれまで殆ど乗ったことがなかったが、今回のポタで東武鉄道ファンとなった。
これからのポタ企画では東武鉄道を大いに利用しようと思う次第である。

フォト:2011年5月21日

(完)
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by kazusanokami | 2011-07-21 23:57 | 下野国ポタポタリング | Comments(4)
2011年 07月 20日

『下野国ポタ/蔵の町、栃木市の巻』 at-8

"蔵の街大通り"を走る。
「巴波の川風 蔵の瓦波」。
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例幣使街道。
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例幣使街道につき、栃木市観光協会のHPとWikipediaを参照すると次の通りである。
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例幣使街道は京都から日光東照宮へ幣帛(へいはく)を奉納する勅使が通った道である。
元和3年(1617年)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後、正保3年(1646年)からは、毎年、京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)が遣わされ、その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。
例幣使街道は、中山道の倉賀野宿(現在の高崎市)を起点として楡木宿(現在の鹿沼市)にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る道である。
日光例幣使にとって、当時、日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また、道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は往路は東海道・江戸を経由せず、中山道~倉賀野宿~例幣使街道という内陸経由で日光に向かったとのことである。
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朝廷は物入りであったろう。
街道沿いの宿場は例幣使の一行で潤ったのであろうか、はたまた、物入りであったのでろうか...。

県立栃木高校。
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養正寮(記念図書館)。
大正時代の建物とのことだ。
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旧栃木町役場(現・栃木市役所別館)。
これも大正時代の建物とのことだ。
ビアンキ風のチェレステ・カラーだ。
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明治初期には県庁が置かれ、周囲は「県庁堀」なる堀が巡らされている。
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フォト:2011年5月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-07-20 23:48 | 下野国ポタポタリング | Comments(4)
2011年 07月 19日

『下野国ポタ/蔵の町、栃木市の巻』 at-7

JR足利駅から栃木駅に向う。
栃木市を訪れることにしたのは、「足利まで参りますなら、折角のことにて、蔵の町、栃木にも」との大給守殿の発案によるものである。
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JR栃木駅は「両毛線」である。
往路、北千住から乗った東武伊勢崎線の特急も「りょうもう」であった。
以前から、何故、この地方を「両毛」というのかとの疑問があった。
調べてみた。

古墳時代、毛野川(けぬのかわ=現在の鬼怒川)流域一帯に「毛野国(けぬのくに)」があった。
これを上下に分け、「上毛野国(かみつけぬのくに)」と「下毛野国(しもつけぬのくに)」となった。
のちに、「毛」が端折られ、「上野国(こうづけのくに)」、「下野国(しもつけのくに)」となった。
「上州」、「野州」とも呼ぶ。
「毛」は端折られるも、合わせて、「毛州」あるいは「両毛」と呼ばれている。
「毛野国」の名称の由来は、「嘗て、ヤマト王権から毛人(=蝦夷。えみし、えびす、えぞ)の住む地、二字表記にして毛野の字が当てられた」」、「毛は二毛作の毛。昔、この地域が穀物の産地であったことから毛野の名をなす」など諸説あるが、何れにせよ、古墳時代に生まれた「毛」は今も生きているのである。

因みに、東武伊勢崎線で足利市駅に向う途中、車窓から麦畑が多く見られた。
「麦のあとは米」と大給守殿。
「そうなると田植えは随分と遅くになりまするな」と上総。
「ちょっと聞いてみませう」と大給守殿。
「田植えは7月とのこと」。
毛野国の名の由来は、毛人説も面白いが、二毛作説も面白い。

JR栃木駅に降り立つ。
今日のjitensha/JR両毛線栃木駅にて。
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「えらく立派な駅舎に御座りまするな」。
「昼間、一時間に一本しかない路線にしては」。
「東武日光線もこの駅舎に御座る」。
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駅前の「武平作だんご」なる看板が掛かった店の前を通り過ぎる。
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「美味そうな串団子に御座りましたな」。
「食べませうか」。
「食べませう」。
Uターンする。
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店先の大きなポスターを眺め、「文豪の郷、栃木の味」、「山本有三は当地の出身」と語らいながら、店に入る。

「胡麻と海苔を一本ずつ」、「みたらしと粒餡を一本ずつ」、「胡麻を一本」。
足利ではポテト入りソース焼きそばを撮り損ね、またまた、団子も撮り損ねるも、途中で気付く。
大給守殿ご提供、「喰い止しの図」。
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「いやー、美味に御座った」。
「ハリポタ藩軍師六々守殿の甘党グルメ、踏襲に御座りまするな」。

フォト:2011年5月21日
フォト#4、5、7:大給守殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-07-19 23:41 | 下野国ポタポタリング | Comments(0)