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2012年 02月 29日

『世田谷寺社めぐり』 nk-9

世田谷区立郷土博物館で、「世田谷城主吉良氏」、「井伊直弼と桜田門外の変」と「吉田松陰と毛利家抱屋敷」の展示を眺めながら、おさらいと予習をした。

続いて、世田谷ボロ市の歴史をベンキョーした。

世田谷ボロ市の起こり。
1578年(天正6年)、後北条氏第四代当主、北条氏政の「楽市掟書」により世田谷城下で始まった楽市をその起こりとする。
江戸と小田原の間にある世田谷宿において伝馬の確保のため、宿場を繁栄させようという目的があったといわれる。

市の「掟」。
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右/上記「掟」の書き下し文、左/その解説。
(文字が小さいので、画面を150%くらいに拡大して読んでください。なかなか、よく出来た掟です。)
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1590年(天正18年)、後北条氏が豊臣秀吉により小田原の役で滅ぼされ、後北条氏の配下であった吉良氏の世田谷城も廃止されたことから、楽市は急速に衰えた。
しかし、その後も近郊農村の需要を満たすため、農具市として年末に開かれる歳市に形を変えて存続した。
最盛期には2000店の露店が並んだ。
古着の売買が盛んに行われたことから、「ボロ市」の名が付いた。
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現在は、古着のほかに、骨董品、古本、植木、食料品、神棚、玩具なども売られている。
1994年9月には世田谷区から、2007年2月には東京都から、それぞれ無形民俗文化財として指定されている。
世田谷ボロ市の歴史を通して、後北条氏以来、400有余年の世田谷の歴史を垣間見ることが出来た。

戦後、昭和20年代の世田谷界隈。
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大変、興味深い展示の数々であった。
博物館のエントランスにて深呼吸した。
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世田谷区立郷土博物館から、更に北上し、世田谷八幡宮に向った。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-29 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(4)
2012年 02月 28日

『3/11 キッズ フォト ジャーナル』

東日本大震災から1年が経とうとしています。

昨27日、「3/11 キッズ フォト ジャーナル写真展/東北の子供たちが撮影した『希望』」に足を運びました。
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岩手、宮城、福島の小中学生が撮影した写真展です。

被災の様子、仮設住宅の風景、お年寄りの顔、子供たちの笑顔、働く人たちの風景、建設中の新校舎の風景...。
子供たちの感性で撮った写真、ファインダーを覗きながら、《希望》に向って。
子供たちには希望を抱いてもらわねばなりません。
しかし、写真の中には、胸の痛む風景も。

「ふるさとの山道」。
ぼくと親友の斗治くんのふるさとの山道です。放射能が高いいわきから広島に引っ越した斗治くんとまた会える日を楽しみに待っています、とのコメントが添えられていました。
里山の、何気ない道の風景ですが、そこに込められた思いは、厳しい現実と、友と会える日を待つ《希望》でありましょう。

「帰れない我が家」。
この先700メートルのところに3月まで住んでいた家があります。上から撮れば、家が写るかもしれないと思って電柱にのぼって撮影しました、とのコメントが添えられていました。
道に置かれた柵と立入禁止の札、そして、その脇に電柱がある風景。
家が直ぐそばにありながら、そこへ帰れないもどかしさ、そして、電柱に上ることは《希望》への道か。
いや、それを希望というには、この子供さんにとっては酷なことでありましょう。

地震と津波は自然災害であったとしても、原発事故は人災と思わざるを得ません。
撮影するときの子供たちの心中は察するに余りあるものがあります。

震災がなければ、子供たちはカメラを手にすることはなかったかもしれません。
震災は不幸なことながら、これをきっかけに写真を撮ることを楽しんで欲しいと願うばかりです。
そして、彼らの中から写真家やジャーナリストを志す人が何れ出て来ることでしょう。

写真展では、写真集「3/11 キッズ フォト ジャーナル」(講談社)のサンプルが置かれていました。
「この本の印税の一部は3/11 キッズ フォト ジャーナルを含めた《RESTART JAPAN》の活動支援に当てられます」との掲示がありました。
早速、本日、書店で、この写真集を買い求めました。
写真好きのおっちゃんから子供たちへの僅かばかりの応援の気持ちを込めて。
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写真展は、銀座ソニービル1階エントランスホールにて、2月29日まで開催されています。

フォト:2012年2月27日、28日
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by kazusanokami | 2012-02-28 23:58 | カメラ | Comments(2)
2012年 02月 27日

『世田谷寺社めぐり』 nk-8

世田谷区立郷土博物館で、「世田谷城主吉良氏」に続いて、「井伊直弼と桜田門外の変」と「吉田松陰と毛利家抱屋敷」の展示を眺めながら、おさらいと予習をした。

吉田松陰と毛利家抱屋敷。
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説明書きをここに書き下しておこう。
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長州藩毛利家若林抱屋敷(抱地)は寛文12年(1672年)、同藩が江戸拝領屋敷の被災に備え、若林の百姓より175両で買得したもので、1万8300坪の広さがあった。
武家が百姓地に取得した抱屋敷・抱地は、拝領屋敷とは異なり、年貢が賦課された。
毛利家では、江戸市中の拝領屋敷が罹災した時、若林抱地の立木を伐り出して、新屋敷の作事に利用したが、若林の村民はその際の材木運搬を請け負っていたようである。
その他、同地内には広大な田畑と竹藪があった。
幕末になると、長州藩からは「志士」と呼ばれる人たちが多数輩出するが、彼らに大きな影響を与えたのは吉田松陰(1830-59)であった。
松陰は、萩の松下村塾で後進の育成に当たっていたが、安政の大獄に連座し、江戸小伝馬町の牢屋敷で死罪となった。
遺骸は、当初、小塚原の回向院に葬られたが、文久3年(1863年)、高杉晋作らによって若林抱地内に改葬された。
翌元治元年(1864)、禁門の変が起きると、幕府は勅命に従い、長州征伐を決行した。
それに先立ち、毛利家の江戸屋敷は没収されたが、この時、若林抱地も接収され、若林村の領主・旗本志村氏に引き渡された。
松陰の墓も破壊されるに及び、立木は売却されて、その売上金が村の諸費用に当てられた。
明治になると、毛利家が朝廷から改めて同地を拝領し、松陰の墓碑を建てた。
これが墓となり、明治15年(1882年)には松陰神社として東京府から認可され、今に至っている。
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「成程。長州藩は、リスク管理の一環として、斯様なところに抱屋敷を持っておったので御座るな」
「しかも、井伊家世田谷領の近くに」。
「吉田松陰は小塚原の回向院から改葬されておったので御座るな」。
「小塚原の回向院と申せば、杉田玄白や前野良沢などが小塚原で腑分けを行い、『解体新書』の翻訳をすることになったとか。小塚原の回向院には、『観臓記念碑』なるものがあるそうな。一度、そういう歴史めぐりもしようと思い居りまする」。

井伊直弼と桜田門外の変。
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「成程。桜田門外の変があった、その日、世田谷代官屋敷では、斯様な様子に御座ったのでありまするな」。
「彦根藩は、井伊直弼の死を隠すために、井伊直弼の名で桜田門外で負傷したと幕府に届けをしたそうに御座りまするな」。

1859年(安政6年)、安政の大獄で吉田松陰は命を落とし、また、1860年(安政7年)、桜田門外の変で井伊直弼は命を落とした。
安政の大獄に関わった、井伊直弼と吉田松陰が同じ博物館に展示されているとは、皮肉なものである。
そして、また、井伊家の菩提寺・豪徳寺と松陰神社は目と鼻の先というのも皮肉なものである。
井伊家が世田谷に所領を持っていなければ、毛利家が世田谷に抱屋敷を持っていなければ、斯様な皮肉なことにはならなかったのだが、歴史に「タラレバ」はないのである。

これで、この後に参拝で訪れる、井伊家菩提寺・豪徳寺、そして、松陰神社についての予習は完璧となった。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-27 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(0)
2012年 02月 26日

『世田谷寺社めぐり』 nk-7

世田谷代官屋敷では、近江彦根藩井伊家世田谷領についてベンキョーした。
代官屋敷の奥は、世田谷区立郷土博物館となっている。
立派な展示物が満載の、文字通りの、博物館である。

満載の展示物の中で、「世田谷城主吉良氏」、「井伊直弼と桜田門外の変」、「吉田松蔭と毛利家抱屋敷」などのおさらいと予習をすると共に、ボロ市の起こりなどもベンキョーした。

「世田谷城主吉良氏」。
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2006年夏、「赤穂浪士討入凱旋の旅」の<番外編>として、吉良庄(愛知県幡豆郡吉良町)を訪れた際、吉良家には、《西条吉良氏》と《東条吉良氏》の家系があることをベンキョーした。
今回、そのおさらいをすると共に、《東条吉良氏》の流れを汲む、《奥州吉良氏》、《世田谷吉良氏》をベンキョーした。

世田谷城主吉良氏に関わる説明書きは次の通りである。
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ここに、この世田谷吉良氏に関わる説明書きを書き下しておこう。
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吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国幡豆郡吉良庄より起こった。
世田谷吉良氏はその庶流で、足利義継を祖として、2代当主・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられる。
経氏の孫・貞家は建武政権・室町幕府の要職を歴任した後、奥州探題となって陸奥国に下向し、勢力を拡大した。
しかし、3代将軍足利義満の治世に至って、奥州探題が廃されたので、貞家の子・治家は鎌倉公方・足利基氏の招きによって上野国飽間に移住することとなった。
世田谷城は、この吉良氏が世田谷の地に築いた居館であるが、その構築年代は明らかではない。
しかし、治家が鎌倉鶴岡八幡宮に宛てた永和2年(1376年)の寄進状から、この時代には既に吉良氏の領地が世田谷郷内にあったことだけは確かである。
世田谷と蒔田(現横浜市)の2ヶ所に本拠を置いた吉良氏は「世田谷吉良殿」「せたがや殿」あるいは「蒔田御所」と称せられ、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在であった。
臨済宗の僧・万里集九が書いた「梅花無尽蔵」には、「閣下」の尊称を付けて「吉良閣下」と記されており、その地位の高さを窺い知ることができる。
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家系図をアップで。
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前述の、博物館掲示の説明書きで「吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国幡豆郡吉良庄より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、足利義継を祖として、2代当主・経氏の時、吉良姓を名乗ったと伝えられる」と綴られている。
これについて、2006年、「赤穂浪士討入凱旋の旅」の<番外編>として、吉良郷(愛知県幡豆郡吉良町/2011年、西尾市に編入)を訪れた際にベンキョーした、《西条吉良》と《東条吉良》のことも重ね合わせながら、小生なりに綴ってみたい。

吉良氏の起こった、三河国吉良荘は、矢作川を挟んで西を西条、東を東条と区分されていた。
足利義氏の長庶子・長氏は、三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗り、西条を本拠としたことにより、西条吉良氏とも呼ばれた。
一方、足利義氏の三男(四男とも言われる)義継は、兄・長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗り、東条を本拠としたことにより、東条吉良氏とも呼ばれた。
兄・長氏の家系は三河吉良氏となった。
忠臣蔵でお馴染みの、吉良上野介は三河吉良氏の家系にて、領国吉良荘では優しい殿様で通っていたそうで、同地では、今でも親しみを込めて「吉良さん」と、さん付けで呼んでいる。
弟・義継の家系は、東条吉良氏から、博物館掲示の説明書きの通りの変遷を辿り、奥州吉良氏を経て、世田谷吉良氏となっている。
なお、博物館掲示の家系図は、長氏の下に義継となっているが、長氏と義継は親子ではなく、兄弟である。
但し、博物館掲示の家系図には、「吉良系図は諸説あるので、その一例を示したに過ぎない」と但し書が付されているので、この家系図に、何ら、口を差し挟むものではないことをここに申し添えておきたい。

世田谷城は、こののち、訪れる、世田谷八幡宮や豪徳寺の一帯が、その城址であるとのことだ。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-26 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(0)
2012年 02月 25日

『風景/ランプと共に』

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フォト:2012年2月4日
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by kazusanokami | 2012-02-25 23:58 | 風景 | Comments(2)
2012年 02月 25日

『風景/白い世界の、"紅三点"』

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白い世界には、紅一点が映える。
雪の原野で群れる丹頂鶴の姿にも似て...。

フォト:2012年2月3日
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by kazusanokami | 2012-02-25 07:37 | 風景 | Comments(2)
2012年 02月 23日

『風景/国道48号線』

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フォト:2012年2月3日
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by kazusanokami | 2012-02-23 23:59 | 風景 | Comments(2)
2012年 02月 23日

『風景/源流』

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フォト:2012年2月3日
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by kazusanokami | 2012-02-23 23:58 | 風景 | Comments(2)
2012年 02月 21日

『世田谷寺社めぐり』 nk-6

駒沢オリンピック公園から北上する。

「ここがマイ・ファクトリーに御座る」と、猫殿御用達の自転車店に立ち寄る。
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「あの角の家が、元・笠置シズ子の家に御座る」。
「笠置シズ子とは、また、懐かしき名に御座りまするな」。
幼き頃、その歌声はラジオにて。
しゃべくりは、《大阪のおばちゃん》の元祖かもしれない。

「ここがボロ市通りに御座る。この通りの先に、代官屋敷と世田谷区立郷土博物館が御座る」と猫殿。

世田谷代官屋敷。
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世田谷代官屋敷とは、次の通りである(世田谷区HPその他資料より抜粋)。
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1633年(寛永10年)、彦根藩主井伊直孝に関東で2万石が加増され、うち2306石余が世田谷領であり、世田谷村20ヵ村といわれた。
世田谷代官屋敷は、彦根藩世田谷領20ヵ村の代官を世襲した大場家の役宅で、大場代官屋敷とも呼ばれている。
大名領の代官屋敷としては都内唯一の存在であり、1952年(昭和27年)、「都史跡」に指定された。
同時に同家所蔵の古文書は一括して「都重宝」(現・都指定有形文化財)に指定された。
更にまた、現存する大場家住宅主家及び表門の2棟が、近世中期の代表的上層民家として、よくその旧態を保存し、貴重な建造物であるとの理由で、1978年(昭和53年)、住宅建造物としては都内で初めての「重要文化財」に指定された。
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代官屋敷には「お白洲」もあったのだ。
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「樅の木は残った、欅の木も残った」。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-21 23:58 | 世田谷寺社めぐり | Comments(4)
2012年 02月 20日

『世田谷寺社めぐり』 nk-5

浄真寺から駒沢オリンピック公園方面に向う。

電柱の"巻き看板"を眺めながら走るのも、ポタリングの楽しみのひとつである。
面白い看板を見つけた。
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看板コレクションに、また、良きものが二つ加わった。

暫らく、住宅街を走る。

「あの家が、例の4億円云々の元代表宅に御座る」と、猫殿より有名人宅のご案内。
門の前にお巡りさんが一人、立っている。
無任所であっても、公的な警備が付くようである。
複雑な気持ちとなる。

「あれが日体大に御座る」、「こちらが駒沢大学に御座る」との案内を頂戴しながら、駒沢オリンピック公園に到着。
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走る、猫殿。
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五重塔をモチーフにしたような、オリンピック記念塔。
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オリンピック記念館。
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今年はオリンピック・イヤー。
ロンドン五輪での日本人選手の健闘を祈る。
1964年の東京オリンピックを思い出しながら...。

広場。
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縄跳びに興じる女の子。
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街灯に立て掛けてある、strider もこの女の子のものだろうか。

広場を遠望する。
一人、バイク・ポロに興じる若者をも眺めながら。
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公園の周囲に設けられた、サイクリング&ジョギング・コースを走る。
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「距離は約2kmに御座る」と猫殿。
「猫殿、そろそろ、昼餉を」。
「では、公園入り口前のフレッシュネス・バーガーにて」。

腹拵えを終え、更に北上する。

フォト:2012年1月28日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-02-20 22:39 | 世田谷寺社めぐり | Comments(4)