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2012年 07月 31日

『 Intermission 』

しばらく、行脚に出掛けてきます。
しばらく、歩録は休載とさせて戴きます。
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フォト:2012年4月29日、テーガヌーマ湖にて
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by kazusanokami | 2012-07-31 05:55 | エピソード | Comments(0)
2012年 07月 30日

『ホテイアオイ 』

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7月半ば、「maruchanchi の写真日記」で、水鉢に咲いた、一輪のホテイアオイを楽しんだ。
数年前に見た、手賀沼フィッシングセンターで群生しているホテイアオイのことを書き込んだ。
数年前のマイ・ブログ「ホテイアオイ」に《ホテイアオイ》のタグを付けてみた。
数日後、手賀沼夕暮れポタで、フィッシングセンターに立ち寄ってみた。
数年前に群生していた、大きなコンクリート製の水槽は廃墟になっていた。
何処か別の場所に咲いているのではないかと探してみた。
あった!
小さな水槽ではあるが、群生していた。
色は可憐だが、群生は逞しく見える。

フォト:2012年7月18日
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by kazusanokami | 2012-07-30 06:11 | | Comments(2)
2012年 07月 29日

『もうひとつの、藕糸蓮』

先日17日、手賀沼水生植物園脇の「藕糸蓮(ぐうしれん)」について綴った。
もうひとつ、手賀沼の畔、根戸新田の近くにも蓮池があり、ここも毎年、蓮の花を楽しませてくれている。
手賀沼ポタリングの途中、立ち寄ってみた。
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蕾、開花間近、開花。
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桃のよう。
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早くも、漏斗状化。
ハスの古語、ハチスは花托が蜂の巣に似ていることからからというのがよく分かる。
金モールの飾りがオシャレ。
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ふと、池の脇を見ると説明板がある。
以前は、こんなものはなかったはずなんだがと思いながら、目を通してみた。
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花蓮「藕糸蓮(ぐうしれん)」
品種登録名;誠蓮Z(まことはすぜっと)
この蓮は、昭和45年(1970)頃、岩国市の佐藤誠氏と土浦市の八島八郎氏が共同で開発して世に出されました。
この蓮田は、平成14年(2002)5月、八島八郎氏から栽培の許可を得て、苗の植え付けが行われ、年を追う毎に蓮田の整備、拡大が続けられてきました。
ここは、膝までぬかる手に負えない泥田でしたが、今の姿に変えました。
花の特徴;
花弁が108~146枚と多いこと、花弁の色が赤くあでやかなことです。
地下茎を延ばし、先の方に次々に蕾立ちをして花を咲かせます。
蓮根は食べられません。
蓮田の管理;
春先の施肥、芽吹きによる間引き、雑草除去、アブラ虫発生時の駆除、水管理、周辺土手の整備等、年間を通じて手入れをします。
藕糸とは;
蓮の茎や蓮根から取れる糸のことです。
この糸で布を織ることは古くから行われています。
今でもミャンマーのインレー湖に自生する蓮からとった藕糸で織った布は希少価値の高い製品とされています。
古い故事では、天平7年(735)、当麻寺(奈良県)に入った中将姫が化人の力を借りて一夜して織った霊機蓮糸曼荼羅を納めた話が有名です。
大隈重信の母三井子が、誕生した重信の安全を祈念して、上野不忍池や諸所の蓮茎を集め、蓮糸を取り出し、蓮糸織り育児観音像幅を織らせ、皇室や有名神社仏閣に奉納しました。
平成13年12月、皇太子の敬宮愛子内親王の誕生に当たり、健やか成長を祈念して、土浦市八島農園の花蓮から300人のボランティアで蓮糸を取り出し、敬宮の紋、五葉つつじ紋入りの袱紗を織り、献上しました。
これを機会に花名を藕糸蓮と改めました。
NPO法人 手賀沼トラスト
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先日、綴ったことに加え、あっ、そうなんだ!ということも書かれてあった。
品種改良は、一人ではなく、二人の共同によるものとのこと。
花弁は108枚に留まらず、148枚も、とのこと。
花蓮であり、蓮根は食せないとのこと。
皇室への献上のほか、ミャンマー産の話、当麻寺の故事、大隈重信の母の逸話など蓮糸に纏わる諸々も。

花蓮を楽しんだ。
新発見、新知識を楽しんだ。
手賀沼ポタリング はやっぱり面白い。

フォト:2012年7月23日
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by kazusanokami | 2012-07-29 16:01 | | Comments(2)
2012年 07月 28日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/新宿中央公園、久遠の像」 de-7

「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」

2月の面影橋「山吹之里」の碑から一足飛び。
6月の新宿中央公園「久遠の像」へ。

「久遠の像」。
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映画のカット割をイメージして、アップロードしてみた。

「山吹伝説」。
或るとき、道灌が鷹狩りに出かけた折、俄か雨に遭ってしまった。
近くの農家に駆け込み、蓑を貸してくれないかと頼んだところ、若い娘が山吹の枝を差し出した。
蓑を貸してくれと頼んだのに花の枝とは何事か、花では雨がしのげぬではないかと、内心腹立たしく思いながら、雨の中を帰っていった。
城に戻った道灌、早速、このことを家臣に語ったところ、家臣の一人が「後拾遺集に醍醐天皇の皇子 中務卿兼明親王(なかつかさきょうかねあきしんのう)の詠まれた『七重八重花は咲けども山吹のみ(実)のひとつだになきぞかなしき』との歌が御座りまする。農家の娘は『みのひとつだになきぞかなしき』と蓑ひとつない貧乏を山吹の花に例えたので御座りまする」といった。
それを聞いた道灌は己の不明を大いに恥じ、歌道に益々精進するようになった。

「山吹伝説、更なる言い伝え」。
山吹の枝を差し出した農家の娘の名は紅皿。
後に、道灌は紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたとの説もある。
道灌、亡き後、紅皿は大久保に庵を建てて尼となり、死後、その地に葬られ、大聖院(新宿6丁目)の境内にある碑は紅皿の墓ともいわれている。
また、大聖院の脇の坂は山吹坂と称されている。
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「久遠の像」は、山本豊一の作。
道灌の少し前かがみの姿を眺めていると、作者は、道灌が、後日、大いに恥じ入った気持ちを時系列を越えて織り込んでいるようにも思える。
「久遠の像」をいろんな角度から眺めていると、「山吹伝説」のドラマを見ているようである。

"現在の江戸城”、東京都庁舎。
1991年12月、築城完成、翌1992年4月1日、入城。
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東京都庁45階展望室から新宿中央公園を望む。
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園内の森の中、黄色い建物近くの「久遠の像」を心の中に描きながら、これまでに巡った「太田道灌ゆかりの地」を振り返ってみるのであった。

フォト:2012年6月18日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」 《完》

=あとがき=
「江戸の巻」を綴りながら、新たに都内おける「ゆかりの地」が幾つか見つかった。
新宿区/地名「山吹町」
新宿区6丁目/大聖院/紅皿の碑
新宿区6丁目/大聖院脇/山吹坂
荒川区/道灌山学園保育福祉専門学校
根津神社/文明年間、太田道灌が社殿を奉建。
これらは、何れ、「江戸の巻」Part II で巡ってみたい。
新宿区山吹町は走行済みなるも、地名標識の取材も兼ねて、もう一度。
根津神社は幾度も訪問済みだが、道灌ゆかりの地であることを念頭に、再び。

=予告編=
「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻」、近日公開!
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by kazusanokami | 2012-07-28 18:33 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(4)
2012年 07月 27日

『オリンピック・イヤー』

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ロンドン・オリンピックがいよいよ始まる。
ロンドンでオリンピックが開かれるのは、1908年、1948年に続き、史上最多の3回目である。
英国は、今、夏時間で、日本との時差は8時間。
現地時間の本日(27日)午後9時、日本時間の28日午前5時からメイン会場のオリンピック・スタジアムで開会式が執り行われる。
余談ながら、前回、ロンドンでオリンピックが開催された1948年は小生の誕生年でもある。
そして、1988年から4年間、ロンドンで過ごしたこともある。
ロンドンは"第二の故郷"でもある。
来月12日までの熱戦が楽しみである。
中でも、ロンドン市内をヴァーチャル・ポタリング出来るマラソンが楽しみである。

フォト:2012年6月18日、東京都庁前にて
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by kazusanokami | 2012-07-27 19:00 | エピソード | Comments(0)
2012年 07月 27日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/豊島区高田、山吹之里」 de-6

第5話までは、4月の江戸府内ポタリングで取材した「太田道灌ゆかりの地」を綴った。

時計の針を4月から、更に、寒い頃に戻してみたい。
今年2月、ドラポタ藩 大給守殿、武衛殿と共に、「江戸府内ポタ/中野&高田馬場」を挙行。
中野では、功運寺(吉良家江戸菩提寺)、童謡「たきび」発祥の地、新井薬師、哲学堂、妙法寺(ジョサイア・コンドル作/鉄門)などを巡った。

「今日の jitensha」、童謡「たきび」発祥の地にて。
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「今日のメンバー」、哲学堂にて。
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中野から、中山安兵衛の韋駄天よろしく、高田馬場へ疾駆。
高田馬場/水稲荷神社境内「堀部武庸加功績」の碑、甘泉園(徳川御三卿、清水家下屋敷跡)、そして、太田道灌ゆかりの地、面影橋北詰/「山吹之里」の碑を訪れたのであった。

「山吹之里」の碑。
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碑は、面影橋の北詰、オリジン電気の正門脇にひっそりと佇んでいた。
学生時代の4年間、面影橋の近くに下宿していた。
その頃、しばしばストライキをやるオリジン電気はよく承知していたが、「山吹の里の碑」の存在は全く知らなかった。
今、太田道灌ゆかりの地をめぐる中で、学生時代の頃と繋がるのもなかなか面白いものだ。

アップで。
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「〇〇三年 丙寅歳 十一月六日」、そして、家紋がふたつ刻まれている。
梵字も刻まれている。
年号は文字が潰れて判読出来ない。
ふたつの家紋について調べてみた。
太田道灌の家紋は「丸に細桔梗(太田桔梗)」であり、このふたつの家紋とは異なる。
年号と家紋の疑問は、「山吹之里の碑」に関わる説明書きによって解けることとなる。
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「山吹の里」の碑
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。
これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。
後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来、和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳2・1712年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。
ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は、神田川の改修工事が行なわれる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
平成16(2004)年3月
豊島区教育委員会
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碑は貞享三年に建立された供養塔を転用したものであった。
それがどのようにして解ったのかはこの説明書きだけでは不明なるも、家紋を手掛かりとしたのかもしれない。
碑を更に仔細に見ると、「山吹之里」と刻まれたあたりに小さい文字が刻まれていた痕跡があり、これも手掛かりになったのかもしれない。

「和漢三才図会」は寺島良安編纂による類書、云わば、江戸時代の百科事典のようなものだ。
そこに「山吹の里」がどのように書かれているのだろうかと思い、国会図書館の近代デジタルライブラリーにアクセスしてみた。
表紙は分かったが、どこに「山吹の里」のことが書かれているかまでは分からなかった。

いつも通り、「今日のポタの締め、反省会は何処でやりませうか」との話になった。
この日のポタリングは太田道灌ゆかりの地「山吹之里」で終えたのあるから、やはり、道灌ゆかりの江戸城の近く、《丸の内》の居酒屋がよかろうと、丸の内まで疾駆、否、正確には、関口芭蕉庵や凸版印刷/印刷博物館に寄り道しながら、丸の内へ向かったのであった。

フォト:2012年2月11日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-27 06:41 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(4)
2012年 07月 26日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/日暮里、道灌丘之碑、騎馬像」 de-5

雪見寺とも称される浄光寺、太田道灌が神領を寄進したという諏方神社から諏訪台通りを更に南へ進む。
上野戦争で彰義隊が逃げ込み、新政府軍の発砲を受け、今も山門の門扉にその弾痕が残る経王寺の角を左折し、本行寺に至る。

長久山 本行寺。
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1526年(大永6年)、大田道灌の孫、太田資高の開基、日玄の開山により創建されたという。
その後、寺地を転々とし、1709年(宝永6年)、日忠のとき、この場所へ移った。
江戸時代は月見の名所であったことから、月見寺とも呼ばれた。
山門に本行寺の名と共に月見寺の名も掲げられている。

「荒川区指定文化財/道灌丘碑」標。
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「道灌丘之碑」。
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碑文は漢文である。
碑文の内容は解らない(再度、訪れ、詳しく見てみたい)。
「道灌丘之碑」の書体が味わい深い。
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碑は「道灌丘之碑」だが、標は「道灌丘碑」となっており、「之」がない。
こういうことが気になる、損な性質なのである。

「荒川区指定文化財/道灌丘碑」標に碑の由来が記されている。
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太田道灌が長禄元年(1457)に江戸城を築いた際、ながめのよいこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。
寛延3年(1750)に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩太田氏などが道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。
塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った。
この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、一茶も当地で「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。
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なるほどと思う一方、「塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った」とあり、この意味がよく分からない。
推察するに、鉄道敷設工事の際、碑は残せたが、塚(見張り台)は土木工事の都合上、取り壊さざるを得なかったということなのかもしれない。
鉄道敷設とはJR線のことであろう。
JR線は寺の東側である。
ということは、「物見塚」は寺の位置よりもっと東側にあったということになる。
寺は1709年にこの地に移ったという。
寺の位置に「物見塚」があったとすれば、寺を建築する際に撤去されたということになる。
やっぱり、「塚は鉄道敷設でなくなり、この碑だけが残った」の意味がよく分からない。
荒川区役所広報課に問うてみよう。
こういうことが気になる、損な性質なのである。

一茶の句碑。
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上述の「物見塚」に関わる推測からして、一茶は「物見塚」を眺めながら一句詠んだのか、言い伝えから一句詠んだのかという判じものが起こって来た。
因みに、一茶は1763年に生まれ、1828年に没しているので、寺がこの地に移ったあとの人だ。
「物見塚」が寺の位置にあったのなら、塚は寺の建設で既に取り壊されていたはずであり(飽くまで推測)、一茶は塚を見ていないということになる。
小難しいことを考えるのは止めて、一茶の句を楽しんだ。

本行寺を出たところで、「谷中銀座はB級グルメの町」、「ちょいと、小腹も空いたので」。
本行寺から"夕焼けだんだん"を下り、谷中銀座のB級グルメ、「肉のすずき」のメンチカツを食す。

「反省会は、BS-TBS、『吉田類の居酒屋放浪記』で紹介されていた、鶯谷の居酒屋に行きませう」と大給殿、「この近くにお地蔵さんがいっぱい並んだお寺があったはず。そこへ行ってみませんか」と伊豆殿。
寺の名を失念の伊豆殿、人力車のお兄いさんに寺の名を尋ね、その寺は八万四千体地蔵の浄名院であるとの情報を得て来た。

浄名院でお地蔵さんを見て、鶯谷の居酒屋で反省会をして、この日の「江戸府内ポタリング/太田道灌ゆかりの地を訪ねて」を終えたのであった。
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帰宅して、ひとつ、やり残したことに気付いた。
それは、JR日暮里駅前の「太田道灌騎馬像」に立ち寄り損ねていたのであった。
場所は本行寺からJR日暮里駅を挟んで反対側の、目と鼻の先。
ところが、本行寺を出たところで、「谷中銀座はB級グルメの町」、「反省会は鶯谷」、「お地蔵さんがいっぱい並んでいる寺」などの話題に惑わされ(というよりも、ボケているのかも)、JR日暮里駅前「太田道灌騎馬像」は何処かへすっ飛んでしまっていたのであった。

で、翌朝、登城の途中、日暮里駅で下車して、駅前の騎馬像をカメラに収めたのであった。

橋本活道作「回天一枝」。
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フォト:2012年4月21日(騎馬像/4月22日)

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-26 21:52 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(4)
2012年 07月 25日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/日暮里界隈」 de-4

道灌山から諏訪台通りを南へ進む。

浄光寺。
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江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
山門をくぐって左手に、高さ一丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩がある。
元禄4年(1691)、空無上人の勧化により江戸東部六ヶ所に六地蔵として開眼された。
もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。
法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方神社の別当寺であった。
元文2年(1737)、八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同年5年以降、御膳所となった。
境内に「将軍腰かけ石」がある。
荒川区教育委員会
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「諏方神社の別当寺であった」とある。
確かに隣に「諏方神社」がある。
こう申しては何だか、お寺より神社の方が立派だ。
今年1月、「世田谷寺社めぐり」の際、世田谷八幡宮で子連れ狛犬を見て以来、狛犬に凝っている。
雪見寺をメインに訪れたが、「諏方神社の別当寺であった」との寺の云われを読んだ途端、狛犬みたさに、心は早、諏方神社の方に。
で、即、神社へ向かってしまい、お寺の姿を一枚もカメラに収めず仕舞いであった。

諏方神社。
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信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。
当社の縁起によると、元久2年(1205)、豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。
江戸時代、三代将軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰をあつめた。
旧暦7月27日の祭礼では、囃屋台・山車をひきまわし、神輿渡御が行われた。
神田芋洗橋までかつぎ、そこから府ねで浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒をそらえて帰座したと伝えている。
拝殿の脇には元禄12年(1699)銘・元禄14年(1701)銘の灯籠型の庚申塔が並んで建てられている。
荒川教育委員会
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石柱は「諏訪神社」、鳥居の扁額と説明書きでは「諏方神社」とある。
調べてみた。
「諏訪」とせず、「諏方」と使っているのは古来の表記であり、嘗ては、神社名にはこの方が多かったが、現在は全国で一万有余あるうち、三~四社のみになったとのこと。

そうしたことを調べている中で"新発見"があった。
「文安年間(1444~1499年)、太田道灌が神領を寄進し...」とあり、何と、この神社も太田道灌ゆかりの地だったのである。

諏方神社の狛犬の詳細は、何れ、「狛犬に関わる考察」の中で綴ることとしたいが、少しだけ、ここで触れておこう。
狛犬は二対あった。
一対は境内に、もう一対は拝殿の前に。
境内の狛犬は随分とひょうきんな表情、拝殿前の狛犬は胸を張り、堂々とした姿。
「れ組」の台座も興味深い。
拝殿前の狛犬の姿を、ちょこっとだけ、ここにご披露しておこう。
阿形の後ろ姿。
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吽形の後ろ姿。
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浄光寺と諏方神社を楽しんだ後、更に諏訪台通りを南へ向かう。
「あれっ!こんなところに『富士見坂』が!」。
浄光寺の目と鼻の先に「富士見坂」があった。
昨年末の「江戸府内ポタリング」で、大給殿の案内により、この富士見坂を訪れたことがあった。
今回のポタリングで、西日暮里/道灌山と富士見坂の点と点が線でつながった。
こういうのもポタリングの楽しみのひとつである。
因みに、東京23区内に「ふじみさか」と呼ばれる坂が23あるとのことだが、実際に富士山が見えるのは、この日暮里の富士見坂だけとのことだ。
この富士見坂と富士山をつなぐ延長線上に高層ビルが建つ計画があり、今、問題になっているそだ。
数ある富士見坂のうち、ここだけでも富士の眺望を残して欲しいものだ。

フォト:2012年4月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-25 23:58 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 07月 24日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻/日暮里、道灌山」 de-3

平川橋の袂、「太田道灌追慕之碑」から不忍通り「道灌山下」標識を目指し、走る。

「道灌山下」。
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都内ポタリングで、幾度もこの標識を見ている。
道灌山というのは不忍通りの左右どちらにあるのだろう?とおぼろげに思いながらも、調べることもなく、月日が過ぎた。
ひとつの標識を見ても、"太田道灌目線"であるかないかで大きく違うのである。
冒頭に綴った通りの調べごとの中で、地図で確認した。

道灌山下交差点を右折し、尾竹橋通りを西日暮里駅方面に向かう。
西日暮里駅の西側で右折し、線路沿いの細い道に入る。
その途端、急な上り坂。
坂を上り切ったところでマップを見る。
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道灌山(西日暮里公園)。
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「道灌山」/安藤広重「江戸百景」。
その昔、道灌山から荒川や遠く、筑波山の風景を楽しんだとのこと。
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「道灌山虫聴き」/尾形月耕「大日本名所図絵 」。
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その昔、道灌山は虫聴きの名所であったとのこと。
特に松虫が多かったとのこと。
道灌山のほか、真崎(南千住、白鬚橋の袂)、隅田川東岸(牛島神社あたり)、三河島周辺(荒木田の原あたり)、麻布広尾の原などが虫聴きの名所であったとのこと。
これらの場所はポタリングで通過したことがあるが、虫聴きの名所であるとは知らなかった。
次回、これらの辺りを走るときが楽しみだ。

公園内には数々の図絵や説明書きがある。
説明書きの中で、盛りだくさんのことながらシンプルに書かれているものをひとつだけアップロードしておこう。
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道灌山の地名の由来は、大田道灌がこの地に出城をつくったことのほか、新堀(日暮里)の土豪、関道灌が屋敷を構えたとの説もあるとのこと。
日暮里の地名の由来は、この辺りの台地が「ひぐらしの里」と呼ばれ、「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれているとのこと。
長らくの城勤めの中、登城・下城の途上で日暮里は幾度となく通過しており、日暮里の地名の由来は何だろう?と思い続けていたが、ここで長らくの疑問が解け、すっきりした。
しかも、見事な当て字である。感心した。
この辺りにある三つの寺は、それぞれ、雪見寺、月見寺、花見寺の別名を持っていることは事前の調べで承知はしていたが、こうして実際に道灌山を訪れ、江戸の人々がこの地で楽しんだ様子を想像すると、寺に洒落た別名を付けたことも頷けるのであった。

道灌山から諏訪台通りを南へ進む。

フォト:2012年4月21日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-24 23:25 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて | Comments(4)
2012年 07月 23日

『今日の獲物』

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暑さが戻った。
丁度いい暑さだ。
夕方、還暦創輪号を駆って、テーガ・ヌーマ湖畔を走った。
風に揺れるものが目に入った。
風に揺れるものを捉えた。

フォト:2012年7月23日
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by kazusanokami | 2012-07-23 22:56 | | Comments(0)