<   2012年 08月 ( 32 )   > この月の画像一覧


2012年 08月 31日

『葉月晦日の夕景』

8月15日、abk 郷を出立し、行脚に。
西国各地をめぐり、昨夕、帰館。
ハリポタ五周年記念に寄せての投稿、今回行脚の「カズ公の股旅夏日記」、「柳田國男ゆかりの地を訪ねて/福崎編」、ハリポタ藩秋の大遠征に向けての前哨戦として昨年の「ハリポタ藩秋の大遠征/しまなみ海道2011」などのブログアップ、摂津国、播磨国、讃岐国、筑前国などでの狛犬コレクションも含めた「狛犬に関わる考察」の執筆、そして、ドラポタ藩9月の企画と夜の自主練企画、kj中学同窓会関東支部設立準備、更に、オシゴト・メモなど、数多の執筆活動や企画検討が控えている。
そんな中、夕方、ハリポタ五周年記念執筆関連で、盟友六々守殿とケータイ糸電話。
「今、大堰で夕日を撮影中」と。
この言葉を聞いて、近所の跨線橋まで夕方散歩。

跨線橋から西方を望む。
夕日は見えない。
18:07、雲が僅かに茜色に染まる。
a0104495_21295178.jpg


東の空を眺める。
a0104495_21302469.jpg
18:09、月が赤く輝く。
太陽の色を感じさせる。
「茜月」とでも呼んでみたい気がする。
しばらく、月を眺める。
18:36、「茜月」から、月独特の輝きとなる。
a0104495_21311383.jpg

「満月やうさぎも染まる茜色」 霹靂火
「通勤の疲れを乗せて鉄路かな」 霹靂火

フォト:2012年8月31日
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-31 21:26 | 風景 | Comments(2)
2012年 08月 15日

『 Intermission 』

しばらく、行脚に出掛けて来ます。
しばらく、ブログは休ませて戴きます。
a0104495_0193471.jpg


フォト:2012年8月12日
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-15 16:00 | エピソード | Comments(4)
2012年 08月 15日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編&我孫子市編』 yk-11

柳田國男の著書を読んだことがない。
「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」を綴りながら、著書を一つも読んでいないのは片落ちを免れない。
民俗学に造詣の深い、盟友 松柏木殿の言によれば、「柳田國男の著書は、内容は勿論のこと、旧字体で書かれていることなども含め、難解です。しかし、『故郷七十年』は読み易いです」とのことであった。
早速、図書館で『故郷七十年』(のじぎく文庫、神戸新聞総合出版センター刊)を借り受けた。
併せて、柳田國男の校訂による赤松宗旦著『利根川図志』(岩波文庫刊)も借り受けた。
a0104495_12211727.jpg
『故郷七十年』への、柳田國男の思い。
a0104495_1216103.jpg

『利根川図志』は文庫本なので文字が小さく、齢を重ね、目の渋くなった小生にはいささか難儀であり、且つ、江戸時代の文体でもあり、これもいささか難儀に思われる。
然は然りながら、本書は柳田國男の校訂によるもので、冒頭に彼が記した「解題」を読むと、俄然、元気が出て来る。
a0104495_12174661.jpg
「『利根川圖志』の著者赤松宗旦翁の一家と、此書の中心となつて居る下總の布川といふ町を、私は少年の日からよく知つて居る。此書が世に公けにせられた安政五年から、ちやうど三十年目の明治二十年の初秋に、私は遠い播州の生れ在所から出て來て、此地で醫者をはじめた兄の家に三年ばかり世話になった。さうして大いになる好奇心を以て、最初に讀んだ本がこの『利根川圖志』であった...」。
旧字体、旧仮名遣いは、なかなか、味わい深い。

『利根川図志』は、少年だって(この言い方は御無礼ではあるが)読んだものである。
おっちゃんが難儀などと申すのは、恥!である。
で、目次を見た。
a0104495_1218959.jpg
全てを読むのは無理でも、今回の「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」に関わる布川や布佐については、読んでおきたい。
そして、ポタリングのマイ・ホーム・コースである手賀沼についても読んでおきたい。
そして、関八州に君臨した女河童「ねねこ」のことも読んでおきたい。
なお、余談ながら、目次を見ると、先に借りた人が「布川」や「布佐」などに鉛筆で印を入れている。
図書館の本に鉛筆を入れるとは如何なものかと思うも、このときばかりは、何やら、同好の士に巡り合えたようで嬉しくなった。

次は、柳田國男の生まれ故郷、兵庫県福崎町に旅する予定だ。

フォト:2012年8月12日

《利根町編・我孫子市編/完》
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-15 12:34 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 08月 15日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編&我孫子市編』 yk-10

利根町歴史民俗資料館をあとにして、帰途に就く。
利根川に架かる栄橋に至る間に、布川神社、来見寺、琴平神社など寺社が見られ、國男少年が神秘体験にするに足る環境であったことが窺がえる。
a0104495_824863.jpg
a0104495_83769.jpg
a0104495_832330.jpg
栄橋を渡る。
振り返り、利根町布川を今一度、眺めてみる。
a0104495_12104189.jpg
ここで、栄橋について少し触れておこう。
この橋は、ポタリングの途中、しばしば、渡る橋である。
柳田國男記念公苑の管理人さんに栄橋のことを聞いた。
「昔は、渡しでした。そのあと、吊り橋が出来ました。吊り橋は今の橋の少し川下側にありました。今の栄橋が出来たのは、さて、何時の頃だったでしょうか...」とのことであった。
盟友 松柏木殿から「『さかえ橋』は、最初、『境橋』であったが、後に『栄橋』になったとの話しもあります。橋の建設には、長兄、鼎も関わったようです」との報も貰った。
後段で、利根町教育委員会・編「少年柳田國男」の「兄/鼎」の全文を引用しているが、その中で「松岡鼎は布佐町長として栄橋を立案。この栄橋の設計をしたのは、小川家当主東作の弟、小川東吾」とある。
wikipediaで橋の歴史を参照したところ、「1930年(昭和5年)、布佐町(当時)に栄橋が開通。1971年(昭和46年)、栄橋の架け替え工事終了」とある。
松岡鼎は、1927年(昭和2年)、布佐町長に就任し、一期務めているので、1930年(昭和5年)の栄橋開通と符号する。

栄橋を渡り、布佐(我孫子市)に至る。
長兄、鼎は、布川から布佐に移ったのちも医院(「凌雲堂医院」)を営んでいた。
布佐にある、松岡邸に立ち寄ってみた。
「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」の出立前に、我孫子市役所広報課に松岡邸の場所を確認した。
栄橋の南。356号線沿い、南に向かって左側。右側に近隣センターふさの風がありますので、詳しくはそこでお聞きください。個人の御宅ですので、ご留意ください」とのことであった。
いつも、jitensha や四輪で通っている道だ。
松岡邸であることは知らずに、その前を通過していたのであった。
おおよそ、検討はついていた。
直ぐに分かった。
今は医院ではなく、普通の個人のお宅である。
許可は頂戴していないが、写真を掲載させて戴く。
a0104495_843285.jpg
a0104495_845028.jpg
ここで、利根町教育委員会・編「少年柳田國男」から「兄/鼎」の一節を引用しておこう。
----------------------
兄/鼎
鼎は松岡家八人兄弟(うち三人は早世)の長男として生まれました。
十九歳で、小学校校長に任命されるような秀才でしたが、小さな家に大勢住むという無理から結婚生活は不幸で、妻は実家へ戻ってしまいます。
その後、鼎は上京して帝国大学の医学科に学び、医師になりました。
その頃、布川の小川家では、主人の医師東作が若死にし、困っていました。
そこで布川出身の医師海老原精一のたのみで、鼎はこの小川家のはなれを借り、済衆医院を開業します。
そして、両親や弟たちを呼び寄せ、めんどうをみました。
小川家は、東作の父秀庵、祖父東秀、曽祖父導専と、いずれも学者で、数多くの蔵書があり、國男少年の読書欲をみたしました。
のち、鼎は布佐に移り、その地で医院(筆者注:凌雲堂医院)を営むかたわら、千葉県医師会会長を務めたり、布佐町長として栄橋を立案しています。
この栄橋の設計をしたのは、小川東作の弟東吾でありました。
------------------------
布佐の松岡邸の真新しい石塀の向こうの前庭に、百日紅の花が咲いていた。

フォト:2012年8月10日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-15 11:11 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 08月 15日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編』 yk-9

利根町歴史民俗資料館。
さあ、愈々、《不思議の玉》の実物のコーナーだ、と思った途端、壁に掲げられた、大きなパネルに目を奪われた。
「徳満寺の間引き絵馬」であった。
a0104495_815158.jpg
柳田國男記念公苑資料館(旧小川家土蔵)で見た写真や徳満寺の境内で見た複製(日光で変色していた)とは異なり、随分としっかりとした複製である。
柳田國男記念公苑資料館での説明書き、即ち、「産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なもので、障子に映った影絵には角が生えており、そばには地蔵様(現在は足の部分だけが残る)が立って泣いています」の記述を思い出しながら、仔細に見てみた。
a0104495_81628.jpg
「産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけている」は、これまで見て来た写真や複製でも見て取れた。
だが、「障子に映った影絵には角が生えており」は、このパネルでしっかりと見て取れる。
「そばには地蔵様(現在は足の部分だけが残る)が立って泣いています」、これはよく分からない。

柳田國男記念公苑資料館の説明書きは第6話で引用しているので、ここでは、利根町教育委員会・編「少年柳田國男」から《間引き絵馬》の一節を引用しておこう。
-------------------徳満寺の間引き絵馬。
徳満寺の地蔵堂に一枚の絵馬がかかっていました。
それは一人の女が、鉢巻をしめ、産んだばかりの赤ん坊を、力いっぱい押さえつけているというものでした。
障子には、その女の影が映り、角が生えています。
「その意味を、私は子供心に理解し、寒いような気持ちになった」と國男はのちにのべています。
天明の飢饉(天明3年<1783年>、浅間山の噴火を原因にして空がくもり、洪水がおき、何年も米たとれず、たくさんの人々が餓死した事件)以来、食べ物がなければ、こうする以外に方法はなかったのです。
こうした「飢饉を絶滅しなけらばならない」という思いもまた、國男少年をして学問の道にかりたてたのでした。
-------------------
寄り道が大好きである。
ここ、利根町歴史民俗資料館内でも寄り道が多かった。
愈々、《不思議の玉》の実物の登場である。
「小川家の土蔵と祠」。
a0104495_8213952.jpg
a0104495_8312460.jpg
-----------------------
小川家の土蔵と祠
布川での少年時代の柳田國男は、身体が弱いということから学校へは入らず、裸で棒切れをもって野山を飛び回る一方、やたらに本を読むという実に両刀使いでした。
今も残る小川家の土蔵(写真参照)には、当時、たくさんの本が納められており、赤松宗旦著『利根川図志』と初めて出会ったのもこの土蔵でした。
國男は後にこのときのことを、播州の三木家に次いで「第2の濫読時代」と位置付けています。
一方、國男は布川での約3年間の生活で、様々な新しい体験をしました。
その一つに、小川家の祠(写真参照)での神秘体験があります。
いたずら盛りの國男が、ある日、小さな石の祠の中にあった美しい珠を覗いて見たところ、興奮して妙な気もちとなり、昼間の空に数十の星を見たといいます。
ヒヨドリの鳴き声で我に返るのですが、後年、「あのヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたかもしれない」と、異常心理について振り返っています。
-----------------------
土蔵と祠。
a0104495_8351257.jpg
いつ頃、撮られた写真であろうか。
撮影時期の明記はない。

祠と國男少年の神秘体験。
a0104495_8353730.jpg
a0104495_8401832.jpg
----------------------------
布川で少年國男はこんな体験をしました。
この祠は、小川家がこの地に移り住んだとき、初代の祖母にあたる人を屋敷神としてまつったもので、屋敷の奥の方に建っていました。
祠には石の小さな扉がはまっていました。
その中がどうなっているのだろうか。
いたずらな少年はある春の日、だれもいないのを見計らって、おそるおそる開けてみたのです。
すると、じつに綺麗な玉が入っていました。
それを見たとたん、気持ちが変になって、見上げた青い空に星が幾十も輝いているのが見えたのです。
と、突然、ヒヨドリが「ピーッ」と鳴いて空を通りました。
その声で人心地がつきます。
「もし、あの時にヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたかも...」と、後年、この日の体験を思い出し、國男は述べています。
このような体験が、のちのち、神隠しや異常心理、あるいは、民間の不思議な伝説に関心をいだかせ、『遠野物語』へつながっていったといえるでしょう。
-----------------------------
《不思議の玉》/小川家氏神の玉。
a0104495_8465127.jpg
遂に、《不思議の玉》の実物を見ることが出来た。
超アップで。
a0104495_8481561.jpg
《不思議の玉》の紋様が見て取れる。
当時は光り輝いていたのだろう。
気が変になるくらいに...。

最後に、國男少年の自筆を。
「酒巻宗三郎におくられた國男少年自筆のノート」。
a0104495_8502144.jpg
「度差日記創見」と題し、「未だいとけなる頃、手習いのすさびに我兄井上通泰がもてる本を借りて写したるなり...」と綴られている。
日付は明治25年12月30日となっている。
國男17歳のときのものである。
柳田國男記念公苑資料館で、最晩年の『海の道』の自筆原稿を見た。
達筆であったが、この自筆ノートを見ると少年時代から達筆であったことが窺がえる。

職員さんに礼を述べ、利根町歴史民俗資料館をあとにした。

フォト:2012年8月10日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-15 11:10 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 08月 15日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編』 yk-8

柳田國男記念公苑から利根町歴史民俗資料館へ向った。

ここ暫く、涼しい日がつづいた。
だが、この日は暑さが戻った。
炎天下、《不思議の玉》の実物を目指して、ペダルを漕いだ。

利根町歴史民俗資料館。
a0104495_11463140.jpg
a0104495_11471080.jpg
入り口の扉を開けようとしたが、鍵が掛かっている。
あれ?休館日?
で、あれば、先程、出遭った生涯学習センターの職員さんはそう言ったはずだ。
で、入り口の貼り紙を見た。
休館日は、月・火曜日、祝祭日、年末年始。
「今日は金曜日だ」と思いつつ、別の貼り紙を見たところ、「資料館へお越しの方へ 現在、職員が不在です。見学者の方は、たいへん恐れ入りますが、後ろの生涯学習センター事務室まで、お声をおかけください。鍵をお開けいたします。利根町立歴史民俗資料館長」とあった。

生涯学習センターの受付に趣き、資料館の見学をお願いした。
職員さん曰く、「今日は案内の者がいませんが、よろしいでしょうか」と。
「いつもは学芸員さんがいるのですか」。
「いえ、学芸員というほどの者ではないのですが、案内人がいて説明を差し上げています。その人は、今日は休暇になっているもんで」。
「説明は次の機会に聞かせて戴くとして、ひとりで見学させて戴きます」。
職員さんは鍵を開け、館内を点灯し、「見学が終わりましたら、声を掛けてください」と資料館の事務室の中へ消えて行った。

館内は、この地が海であった時代から順に展示がなされていた。
a0104495_1148299.jpg
館内の中央に、高瀬舟の模型が展示されている。
a0104495_11491334.jpg
高瀬舟の説明書きの外、「水運図」や「利根川の東遷」などの資料も展示されていた。

高瀬舟/船首部。
a0104495_1150196.jpg
高瀬舟/船尾部と赤松宗旦書「布川村絵図」。
a0104495_11511178.jpg
赤松宗旦の名は、國男少年が愛読した『利根川図志』でその名を知った。
この資料館には、「布川村絵図」の外、赤松宗旦の関係資料も幾つか展示されたいた。

遠目ながら、壁際に奇妙なものが見えた。
近くに行ってみた。
何だ、これは!
猿?、いや、河童だ!
a0104495_1153259.jpg
説明書きを読む。
「ねねこ」だと!?。
a0104495_1155820.jpg
成程! 関八州に君臨する女河童なるものがいたんだ!
ここでも赤松宗旦が登場。
茨城大学教育学部美術科の学生さんの作、いい仕事、しています!

「ねねこ」を仔細に見てみた。
手には、大好物の胡瓜がしっかりと握られている。
a0104495_11563380.jpg
河童の手足には水掻きがあるというのが通説である。
この「ねねこ」、手の水掻きははっきりとは分からないが、足の水掻きはしっかりとある。

河童の最も大事な部位のひとつ、お皿。
a0104495_11573441.jpg
河童コレクションに新たなコレクションが加わった。
茨城県内の河童コレクションとしては、牛久沼の畔にある、小川芋銭の「河童の碑」以来である。

さて、愈々、《不思議の玉》のコーナーである。

フォト:2012年8月10日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-15 08:08 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 08月 14日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編』 yk-7

徳満寺から柳田國男記念公苑に到着。
Jitensha を止めて、苑外の管理人室に向かう。
管理人さんに、見学の旨を伝える。
これは2年前と同様で、手馴れた(???)ものである。
管理人さんは、2年前は女性であったが、今回は男性であった。
「丁度、いま、障子張りから戻って来たところなんですよ」と管理人さん。
「障子張り?それはそれはお世話様です」。
「この間、子供たちが40人ばかり合宿して、元気がいいもんですから、障子を破いてしまったんですよ。それで障子張りです」。
「そうですか。母屋はそういう利用も出来るんですね。ここで合宿した子供さんは柳田國男さんのように立派な人になるんでしょうね」。
「そうだといいですが。まだ、障子張りのつづきがあるんで、一緒に母屋へ参りしょう」。

母屋に向かう。
玄関で靴を脱ぎ、母屋に上がる。
部屋部屋を巡る。
「2年前にここにお邪魔したことがあるんですが、今一度、見学したくて参りました。さっき、徳満寺へ寄って来ました。『絵馬』の実物を見ることは出来るんでしょうか」。
「さて、どうでしょう? ひょっとしたら、生涯学習センター隣りの、歴史民俗資料館にあるかもしれません」。
「歴史民資料館は遠いんですか」。
「ここから4kmばかりあります。是非、行ってみてください」。
「jitensha ですから、4kmくらいは大丈夫です。行ってみます」。
丁度、そこへ、生涯学習センターの職員さんが来訪。
「『絵馬』の実物は徳満寺の本堂で見ることが出来ます」。
「本堂の扉は閉じられていました」。
「お寺の人に言えば、見せて貰えると思います」。
「トライしてみます」。
「歴史民俗資料館には、『玉』の実物があります」。
「実物、大好き! 是非、見てみたいです」。

母屋から庭を回って、裏手の祠と土蔵に向かう。
祠と土蔵の風景。
2年前と変わりはない。
a0104495_91199.jpg
祠とその説明書き。
これも2年前と変わりはない。
a0104495_924727.jpg
2年前と同様に、説明書きに目を通す。
第3話でこの説明書きの読み下しと利根町教育委員会・編『少年柳田國男』の一節を綴ったが、今一度、ここでリピートしておこう。
-----------------------------
「祠の由来と國男の神秘体験」
小川の祠は明治14年から15年頃、当主の東作が祖母の屋敷に神様をお祀りし、その長命にあやかろうと、日頃から愛玩していた玉を御神体としたものである。由来のことは知らずに、いたずら盛りの國男少年は家人の留守を見計らい、石の扉を開けてみた。ところが予想もしなかった綺麗な玉が入っていたのに驚いて、興奮のあまり気が遠くなってしまった。よく晴れた青い空を見上げたところ、数十の星が見えたという。その時、突然、ピーッとひよどりが鳴いて通った。その拍子に身がひきしまって人心地がついたという。後年、あの時、ひよどりが鳴かなかったら気が変になていたかも知れないと、異常心理について振り返り、そうした境遇に永くいてはいけないという暗示だったかも知れないと述べている。当時、間もなく、両親が郷里から布川に出て来て家の中が複雑になったのを機に上京して学問の道へと進んだのである。國男少年は繊細な感受性の持主だったわけで、民俗学の樹立につながった資質の片鱗を垣間見るエピソードであった。
-------------------------
『少年柳田國男』(利根町教育委員会編)には、次のような記述がある。
-------------------------
「不思議の玉」
祠の扉を開けると美しい玉がありました。その玉を覗いたとたん、國男はフーッと興
奮し、妙な気持ちになりました。布川で少年國男はこんな体験をしました。この祠は、小川家が、明治14,15年頃、東作の祖母にあたる人が屋敷神としてまつったもので、屋敷の奥の方に建っていました。祠には石の小さな扉がはまっていました。その中がどうなっているのだろうか。いたずらな少年は、ある春の日、だれもいないのを見計らっておそるおそる開けてみたのです。すると実に綺麗な玉が入っていました。それを見たとたん、気持ちが変になって、見上げた空に星が幾十も輝いているのが見えたのです。と、突然、ヒヨドリが「ピーッ」と鳴いて、空を通りました。その声で人心地がつきます。「もし、あの時にヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたかも...」と、後年、この日の体験を思い出して、國男はのべています。このような体験が、のちのち、神隠しや異常心理、あるいは、民間の不思議な伝説に関心をいだかせ、『遠野物語』へつながっていったといえるでしょう。
-------------------------
柳田國男記念公苑資料館(旧小川家土蔵)の前に立つ。
ここも2年前と変わっていない。
a0104495_965655.jpg
変わっていたことと言えば、2年前は扉が開いていたが、今回は閉まっていたことだ。
恐る恐る、自らの手で開けた。
恐る恐るとは、土蔵の中から何か飛び出してくるんじゃないかと、怖いもの見たさの気持ちがあったからかもしれない。

展示資料をひとつずつ、見る。
2回目なので、簡単に目を通すだけだ。
今回、最も見たかったものは《不思議の玉》である。
「小川家氏神の玉」(複製)。
a0104495_9101754.jpg
先程、実物は歴史民俗資料館にあると聞いた。
歴史民俗資料館の場所も教えて貰った。
複製を見た後に実物を見る、順当である。
心は、早、もう一つの資料館へ。

管理人さんと生涯学習センターの職員さんに挨拶し、歴史民俗資料館へと向かった。

フォト:2012年8月10日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-14 20:43 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 08月 14日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編』 yk-6

先日、民俗学に造詣の深い、盟友 松柏木殿との会話の中で、柳田國男の長兄、鼎が布川(利根町)や布佐(我孫子市)で開業医をしていた頃のことや少年期の國男が布川で過ごしたときのことが話題となった。
それを機会に、8月10日、利根町を訪れた。
「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」として、利根町を訪れるのは、2010年の秋につづいて、これで二回目である。
前回、利根町を訪れたときの「柳田國男ゆかりの地を訪ねて」は、第1話から第5話で綴った。
その中で、小川家の祠に納められていた《不思議の玉》と徳満寺の《間引き絵馬》については、後ほど述べるとしていた。
先ず、それらついて、2010年秋とこの8月のことを交えて綴ってみたい。

「満寺徳の間引き絵馬」。
この絵馬のことを知ったのは、2年前の秋、柳田國男記念公苑資料館(旧小川家土蔵)でのことだった。
a0104495_18142048.jpg
※額のガラスの反射を避けて撮ったため、上部が欠けており、全体像が撮れていない。
a0104495_18173910.jpg
------------------------------------
徳満寺の間引き絵馬。
柳田国男は、「故郷七十年」の中で、「利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか。堂の正面右手に1枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである」と述べています。
今も布川の徳満寺本堂に掲げられ「間引き絵馬」として知られるこの絵馬は産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なもので、障子に映った影絵には角が生えており、そばには地蔵様(現在は足の部分だけが残る)が立って泣いています。
この絵馬は、先に当地方を襲った飢饉の被害の甚大さを物語る貴重な資料の一つで、食料が欠乏した場合の調整は死以外になく、人工中絶ではなく、もっと露骨な方式がとられてきたことが伺えます。これを見た国男は、「その意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になった」と述べており、後に、民俗学を志す原点になったともいわれています。
------------------------------------

この8月、利根町に向かった。
先ず、「間引き絵馬」の徳満寺、次に柳田國男記念公苑を巡るプランだ(結果的に、利根町歴史民俗資料館まで足をのばすことになるのだが)。

手賀沼CR~手賀川CR~布佐(何れも千葉県我孫子市)を経由して、利根川に架かる栄橋を渡る。
利根川を渡ると、茨城県利根町だ。
a0104495_1955599.jpg
この栄橋は、國男の長兄、鼎にゆかりのある橋だ(これについては、後程、触れたい)。
左の白い建物は利根町役場、その右の里山に徳満寺はある。

徳満寺。
真言宗豊山派、山号は珠海山、本尊は地蔵菩薩。
府川(布川)城跡に建立されたとのことだ(府川城については、ここでは割愛する)。

山門に向け、石段を上る。
a0104495_1963560.jpg
a0104495_197297.jpg
昼間だからまだいい。
これが夕暮れ時なら、ひとりじゃ、ちょっと気味が悪いかもしれない。
そう思うのは「間引き絵馬」のせいである。
山門で、お地蔵さんが迎えてくれる。
a0104495_1974118.jpg
手水鉢は、龍ではなく、蛙。
これは珍しい。
a0104495_1992625.jpg
境内には菩提樹や涅槃仏が見られる。
a0104495_1912948.jpg
a0104495_19123144.jpg
毘沙門天も見られる。
可愛い毘沙門天だ。
鐘楼堂では、不動明王であろうか、梵鐘の下に。
a0104495_19152045.jpg
梵鐘の音を快く聞ける、我慢強い御姿である。

鐘楼堂には、木魚を枕に眠る小僧さんの姿も。
a0104495_1916568.jpg
a0104495_19181222.jpg
木の札に書かれた文言が愉快だ
小僧さんの肩に乗っかっている鼠がこれまた可愛い。
ウィットに富んだ御住職なのかもしれない。、
そして、表情ゆたかな石仏や石像を見ていると心が和む。
御住職はこうした石仏や石造を建立されるのがお好きなのかもしれない。

客殿の脇に、「徳満寺と文学」と題して、「当山と小林一茶」、「当山と赤松宗旦(「利根川図志」の著者)」、「当山と柳田國男」、「当山と中勘助」が縷々綴られていた。
第5話で、柳田國男記念公苑資料館で見た、「利根川図志」の布川の図絵を言葉での補足と共にアップロードしたが、徳満寺のものがより鮮明なので、ここにこれをアップロードしておこう。
(図絵、上から、徳満寺、府川の町、利根川)
a0104495_193186.jpg
「大刀祭」なる伝統行事が7月に催されるとのことだ。
a0104495_19333748.jpg
徳満寺の境内は、上述の如く、明るい感じである。
さて、テーマがテーマだけに心がちょっと重いが、本論の「間引き絵馬」のことに移ろう。
客殿前に「間引き絵馬」に関わる由来が掲示されていた。
a0104495_19351769.jpg
a0104495_1935317.jpg
-----------------------------
柳田國男が、13歳のとき、この絵馬を見て「その意味を、私は子供心に理解し、寒いような気持ちになった」とのちに述べています。
「このようにする外ない飢饉の悲惨さを絶滅しなければならないという思いが彼に農政学の道を選ばせたのです。
利根町教育委員会
-----------------------------
2年前に柳田國男記念公苑資料館で見た「間引き絵馬」の写真ほどの鮮やかさはないが、間近に全体像を見ることが出来た。
実物は本堂に掲げられているとのことだが、本堂の扉は閉じられていた。
(写真/正面が本堂、右は客殿)
a0104495_19442194.jpg
山門をくぐる。
a0104495_19464695.jpg
石段を下り、徳満寺をあとにして、柳田國男記念公苑へと向かった。

フォト:2010年11月27日、2012年8月10日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-14 08:06 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 08月 13日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編』 yk-5

柳田國男記念公苑資料館(旧小川家土蔵)。
家族に関わる展示につづき、更に別の展示に目を通す。

ここで最も興味深いことは、後に柳田國男が民俗学を確立する原点になったともといわれている、小川家の祠に納められていた《不思議の玉》と徳満寺の《間引き絵馬》のことである。
これら、ふたつについては、後ほど、別のページで触れてみたい。

赤松宗旦著『利根川図志』。
小川家の土蔵で見つけた、この江戸時代の書籍は、國男少年の愛読書のひとつであった。
この書籍は、國男の民俗学構成の根底に深く記憶されていた。
a0104495_8343079.jpg
『利根川図志』<巻三>布川。
a0104495_835425.jpg
この図絵を仔細に見てみた。
言葉であらわすとつぎのようなこととなる。
「布川」の町の風景が描かれている。
図絵の最上部には寺が描かれている。
「本堂」や「地蔵堂」の文字が見える。
徳満寺である。
右上に「地蔵市 廿一日より廿七日まで(あ)り」と書かれてある。
徳満寺の地蔵市のことと思われる。
徳満寺のことは別のページで述べることとしたい。
町の風景の右端に「カルワザ」の文字があり、見世物小屋と思われる建屋が描かれている。
最下端には、左右(即ち、東西)に利根川の流れが描かれている。
船着場と何艘かの舟も描かれている。
町の中から参道に向かって大勢の人が歩いている。
布川の賑やかさが感じ取れる。

柳田國男の校訂による、赤松宗旦著『利根川図志』(岩波文庫/昭和13年11月15日、第一刷発行)。
[#IMAGE|a0104495_8352347.jpg|201208/13/95/|mid|398|530# ]『利根川図志』について、利根町教育委員会編『少年柳田國男』では次のように記されている。
------------------------------
布川の兄の家ですごした二年あまりのあいだ、國男は学校に通うこともなく、自由な生活をしました。
悪太郎のように遊びまわっておりましたが、反面、やたら本を読む、両刀づかいでした。
家主の小川さんの家の土蔵には、少年國男の好奇心を満足させる本がいっぱいつまっていました。
それを自由に読ませてもらえたのです。
その中に『利根川図志』がありました。
赤松宗旦という布川の医者が長い年月をかけて利根川流域のことを調べ、書き上げた本でした。
この本は、國男が布川へ来る30年前の安政5年(1858年)に刊行されました。
この本に誘われ、國男は弟の輝夫(のちの日本画家 松岡映丘)と銚子まで徒歩旅行を試みています。
------------------------------
國男、静雄兄弟は銚子まで徒歩旅行をした、とある。
小生も、2008年の冬、利根川に架かるJR常磐線鉄橋辺りから銚子まで利根川サイクリングロードポタリングしたことがある。
JR常磐線鉄橋の袂には「河口から86km」の標識がある。
利根町布川はここから少し下流寄りなので、86km未満ながら、それでも80キロ超はある。
それを國男、静雄兄弟は徒歩で旅したのである。
坂東太郎、利根川の流れを眺めていると河口まで行ってみたい気になるのは、小生も同様だ。
こちらは jitenshaながら、兄弟の徒歩旅行気分が何となく分かような気がする。

「当地方はじめての英文の入った石碑」(拓本)。
a0104495_8501315.jpg
a0104495_8503022.jpg
櫻樹五百本寄附の中に、松岡鼎、柳田國男、松岡静雄の名がある。
「明治38年1月1日旅順陥落之日 建」と刻まれている。
柳田國男、29歳、法制参事官の頃のことと思われる。

数々の著書。
a0104495_92883.jpg

『海上の道』。
a0104495_9284131.jpg
『海上の道』原稿。
柳田國男、最後の著書である。
a0104495_929417.jpg
----------------------
「海上の道」は柳田國男の最晩年の著作で、原日本人の渡来について各地の民俗を比較研究し証明しようとした。
1898年、東京大学2年の夏休み、愛知県伊良湖岬の恋路が浜に流れ寄った椰子の実を三度も見て、帰郷後、詩人藤村に話したのが藤村の有名な「椰子の実」となった。
以来、60年の研究の成果をまとめて「みろくの舟」をはじめ、稲の渡来経路や古代中国で貨幣として用いられた宝貝が宮古島や八重干瀬で産出する
「海の道」の仮説を打ち立てた。
----------------------
同じく「海の道」について、利根町教育委員会編『少年柳田國男』では、次のように記されている。
----------------------
少年時代の長い初旅で、胸を熱くこがした好奇心は生涯持続され、國男はじつによく旅をしました。
そのたびの見聞によって、民俗学に関する多数の著作を達成します。
わけても学生時代に伊良湖崎で拾ったヤシの実の感激は、長くあたためられて、晩年に『海上の道』として結晶しました。
考古学では北から文化がやって来たという説が主流をしめていますが、國男は、伊良湖崎に漂着したヤシの実のように、日本人は黒潮の流れにそって「海上の道」をやって来たという考えを終生持ちつづけました。
そして、80歳をこえ、自分の余命を知った國男は、自分自身が築き上げた民俗学の枠をこえて、さまざまな分野の研究者たちに、この考えを呼びかけずにはいられなかったのです。
『海上の道』はこういう思いを託し、昭和36年(1961年)に刊行されました。
そして、その翌年に亡くなります。
『海上の道』は、後世への遺書といってもよいでしょう。
----------------------
柳田國男ゆかりの地と旅。
北から、
「遠野物語」誕生の地(岩手県遠野市)
第二の故郷(茨城県利根町)
青春時代の故郷(千葉県我孫子市)
永住の地(東京都世田谷区)
「椰子の実」ゆかりの地(愛知県渥美町)
柳田家先祖の地(長野県飯田市)
柳田國男生誕の地(兵庫県福崎町)
「後狩詞記(のちのかりことばのき」誕生の地(宮崎県椎葉村)
「海上の道」誕生の地(沖縄県平良市)
がプロットされている。

遠野は訪れたことがある。
しかし、柳田國男を意識してのことではなかった。
もう一度、訪れてみたいものだ。
利根町と我孫子市、まさに、今、訪ねているところだ。
世田谷の旧居について調べてみた。
-------------------------------
小田急線「成城学園前」下車3分、駅前の道を北進して二つ目の四つ角を左に折れると、木立の中に洋館があり、現在は、建て直されて、ご子孫が住まわれている。
柳田國男存命中の大きな書斎を持つ建物は、昭和63年に解体され、柳田家先祖ゆかりの信州飯田にある「飯田市美術博物館」の中に移築され、今は当時の面影はない。
(出典:成城大学HP)
--------------------------------
世田谷と飯田市を訪れてみたいものだ。
渥美町(伊良湖岬)を初めて訪れたのは、1970年代始め、妹の結婚が決まり、両親兄妹と共にの"最後"(?)の家族旅行のときであった。
以後、2006年夏と2010年秋と都合三度、訪れている。
2006年は、趣味の「忠臣蔵」の一環で、次男坊、尾張くんの運転で「吉良の里」(愛知県幡豆郡吉良町)を訪れた際、伊良湖岬まで足をのばしたのであった。
そして、2010年は、ハリポタ藩秋の大遠征/渥美半島ポタリングのときであった
柳田國男を意識して訪れたのは、三度目の2010年秋のことであった。
そして、それが、今、綴っている、2010年秋の「柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編」に繋がっているのである。

椎葉村を訪れる機会はあるだろうか。
沖縄は訪れたことはあるが、柳田國男を意識してのことではなかった。
もう一度、訪れてみたいものだ。
そして、柳田國男生誕の地、兵庫県福崎町は、近々、民俗学に造詣の深い、盟友 松柏木殿の案内で訪れる予定となっている。


2年前、2010年の晩秋。
土蔵を眺めながら、柳田國男記念公苑をあとにした。
a0104495_1093052.jpg
裏の里山でヒヨドリのピーッと鳴く声が聞こえたのは空耳だったのであろうか...。

フォト:2010年11月27日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-13 16:32 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)
2012年 08月 12日

『柳田國男ゆかりの地を訪ねて/利根町編』 yk-4

柳田國男記念公苑資料館(旧小川家土蔵)。
ひとつずつ、資料に目を通してゆく。
a0104495_8142369.jpg
先ず、家族のことについて綴っておこう。
a0104495_8144153.jpg
「父と母」。
a0104495_83456.jpg
「長兄 鼎」。
a0104495_815274.jpg
「私の家は日本一小さな家」。
a0104495_8155990.jpg
a0104495_8161328.jpg
a0104495_822794.jpg
a0104495_822338.jpg
a0104495_8225174.jpg
これらを読んで、世にいう「松岡五兄弟」のこと、長兄、鼎の苦労と長男としての責任感、兄弟の絆、周囲の人たちとの絆、五兄弟それぞれの英才ぶりなどが垣間見えて来た。
ここで、兄弟のことを簡単に纏めておこう。
兄/松岡鼎、医師
兄/井上通泰(松岡泰蔵)、 国文学者、歌人、医師
本人/柳田國男(松岡國男)、民俗学者
弟/松岡静雄、海軍大佐、言語学者、民族学者
弟/松岡輝夫、日本画家(松岡映丘)
俊次、芳江、友治の兄3人は早世している。

兄弟による渡欧の送宴(大正10年4月)。
a0104495_12482999.jpg
左から、松岡映丘(輝夫)、松岡静雄、柳田國男、松岡鼎、井上通泰。
(柳田國男記念公苑/母屋展示写真)

「英才兄弟」。
a0104495_124938.jpg
上/柳田國男、下/左から、松岡輝夫(映丘)、松岡静雄、井上通泰、松岡鼎。
(利根町立歴史民俗資料館展示資料)

更に、資料や展示物に目を通してゆく。

フォト:土蔵・資料館内/2010年11月27日、兄弟写真/2012年8月10日

(つづく)
[PR]

by kazusanokami | 2012-08-12 18:43 | 柳田國男ゆかりの地を訪ねて | Comments(2)