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2012年 12月 31日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/鎌倉宮、瑞泉寺...』 kk-8

逗子・小坪漁港での「ゆうき食堂」の昼餉とアルコール・コンロ野点を楽しんだあと、鎌倉に戻った。
吉田類の居酒屋放浪記ではないが、もう、二、三軒、いや、もう、ひとつか、ふたつ、寺社をめぐって、フィニッシュすることにした。
いつも、ウグイスがその美声を楽しませてくれる、紅葉が谷(もみじがやつ)の瑞泉寺に向った。

瑞泉寺の手前、鎌倉宮に至る。
素通りしては申し訳ない。
ちょっと立ち寄る。
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鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりながしんのう)を祭神とする、建武中興十五社の一社である。
観光シーズンの頃は多くの人で賑わっているが、この日は師走、境内は閑かである。
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12月の祭典行事。
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23日は「天長節祭」。
未だ、斯様な言い方が残っているのだ。
ロイヤル・ファミリー・ファンとしては、ちょっと、驚きだ。
31日は「大祓」と「除夜祭」。
未だ、一度も聞いたことのない、鎌倉の町に鳴り響く除夜の鐘の音を想像する。

瑞泉寺。
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紅葉が谷(もみじがやつ)と月。
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拝観券販売所の親爺さんと、暫し、会話。
「こんにちは。今日は拝観はしませんが、今年も数度、こちらに通ったので、挨拶にと立ち寄りました」。
「それは、それは」。
「ウグイスは何時頃から鳴き始めるのでしょうか」。
「3月頃から藪の中で鳴き始めます。縄張り確保です。6月末頃から7月に掛けて、絶妙の鳴き方となります」。
「やっぱり、その頃なんですね。今年もいい声を楽しませて貰いました」。
「ところで、1月、2月の瑞泉寺は観光客はまばらということですか」。
「いやいや、1月になるとスイセンが咲き始めます。1年中、楽しめるお寺ですよ。強いて言えば、ここは盆地のような地形なので、夏は暑く、まあ、その頃がひと休みかもしれませんね。夏、暑く、冬、寒い、そういう地形の土地なんですよ」。
「冬、雪の瑞泉寺というのも、年によってはあるんですね」。
「雪の瑞泉寺はきれいですよ。素人写真ですが、私の撮った写真がありますので、ご覧にいれましょう」。
数葉の、雪景色の写真を見せて貰った。
雪の降ったその日に足跡もない写真が撮れるというのは、この地に住まいする人の特権であろう。
「見事な景色、見事な写真ですね。これ、撮らせて貰ってもいいでしょうか」。
「どうぞ、どうぞ。右下に貼ってある『平成19年1月』の紙が邪魔になりますね」。
「いやいや、この紙が大事なのです。私が写した写真ではありませんし、出所や時期を明らかにしておくために大事なものです」。
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因みに、ウグイスの季節の頃の、この親爺さんの口癖は「今、鳴いているウグイスの声はテープですか?とよく聞かれるんです」なのである。
親爺さんに礼を述べて、鎌倉駅方面へと向う。

若宮大路。
「人通りが全くない若宮大路。これは珍しい風景ですね」と大給殿。
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年が改まる頃には、この大路は大勢の初詣客が列をなすのであろうなあと思いながら、カメラに収める。
この二の鳥居の狛犬は、何れ綴る「狛犬に関わる考察」のために、以前、前後左右から撮影済みなるも、阿吽形の狛犬を眺めていると、狛犬コレクターのムシが騒ぎ始め、数葉をカメラに収めた。
阿形と吽形の狛犬を代表して、阿形の狛犬をアップロードしておこう。
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鰻やが背景なので、ウナギ犬ならぬ、ウナギ狛犬になっちまった。

反省会。
夕方5時ちょっと前から約3時間、新橋でしっかりと。
今日のjitensha /19:48 p.m./新橋駅前広場にて。
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やはり、今年の〆は、機関車じゃなくって、jitensha であろう。
今日の jitensha、 "GIRL'S KEIRIN/田中麻衣美選手"/19:50 p.m./ラ・ビスタ新橋 電光掲示板。
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大給殿、武衛殿と別れ、新橋駅ホームに立つ。
新橋駅前広場を眺める。
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仕官先が浜松町であった頃、幾度も見た風景だ。
今年5月に晴れて隠居の身となった。
同じ風景を眺めながら、隠居の気楽さにほっとするのであった。

フォト:2012年12月23日

(完)
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by kazusanokami | 2012-12-31 08:01 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(2)
2012年 12月 30日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/逗子・小坪漁港(2)』 kk-7

ゆうき食堂で昼餉をたっぷり頂戴し、食後の珈琲は野点で。
小坪漁港の一画で御道具を広げる。
御道具は maruchanchi 工房特製アルコール・コンロ、しかも、2タイプのコンロ。
一つ目のタイプは、チュウハイ・アルミ缶製コンロと+ライフガード・アルミ缶製風防。
これは、既に、11月25日に、テーガ・ヌーマ湖畔での《初釜》にて使用し、上手いカフェオレを飲んだ。
その《初窯》の風景がこれだ。
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二つ目のタイプは、その後に頂戴した、ヱビスビール・アルミ缶製コンロ+フォトナム&メイソン紅茶缶の風防。
それがこれだ!
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小坪漁港での《御手前》は、二つ目の未使用のタイプ、ヱビス・コンロ+F&M風防にて。
黄色いジャケットの手は、百均チャッカマンで着火作業中の上総(写真提供:大給守殿)。
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紅茶缶の高さが高い分、炎が届かないのと、F&M缶に開けられ開口部が大き過ぎて熱がこもらないのか、なかなか湯が沸かない。
F&M缶を諦め、テーガ・ヌーマ湖畔の《初釜》でお試し済みのコンロに替えて沸かす。
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《初釜》のときと同様に、上手く沸いた。
出来た珈琲を武衛殿と上総でワケワケする。
もう1回、今度は、大給殿のでかいカップ(小さめのコッフェル?)で多めに湯を沸かすことにする。
カップのサイズからして、F&M缶が適当だ。
もう一度、F&M缶風防+ヱビス・コンロを使ってみることにする。
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クリープを入れないコーヒーなんて。
湯が沸く前からたっぷりと。
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熱効率を高めてやるため、ライフガード・アルミ缶の風防をF&M缶の開口部に立て掛けてやる。
風でアルミ製風防が飛びそうになるので、十徳ナイフのスプーンで押えてやる。
流石、十徳である。
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大分、沸いて来たが、アルコールが切れたようだ。
火が消えたことを確認して、アルコールを足してやる。
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食後の珈琲を楽しみ、漁港と海を眺めながら、寛ぐ。
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ここで、ヱビス・コンロ+F&M風防に関する考察を纏めておこう。
①姿、形は、大変によい。
②気温が低かったこと、風が強かったことなど、自然条件で、燃焼効率が下がったと言えよう。
③野点の場所が少し傾斜していたので、燃料アルコールが水平になっていなかったかもしれない。これも燃焼効率を下げる一因であっただろう。
④また、設計的には、開口部が大きいことと、炎が缶の高さと五徳の高さで離れ過ぎていたことで燃焼効率が下がったと言えよう。これは、開口部の大きさを小さくすることと、コンロを台の上に置くことで解決出来よう。

午後2時を過ぎた。
「今日の野点道具」、maruchanchi 工房特製コンロを片付けて、鎌倉方面に戻ることにした。

フォト:2012年12月23日(#1、2/同11月25日、アーカイブより)

=2013年1月5日、追記=
上記の考察第④項の「炎が缶の高さと五徳の高さで離れ過ぎていた...」とあるが、その後の maruchanchi アルミ工房の主人との交信の中で、缶が深い方が熱をこもらせる効果があるので、缶の高さ云々は誤りであることが判明。
なお、開口部の大きさと位置は熱をこもらせることと関係するので、大きさと位置には配慮が必要である。

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-30 22:15 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(4)
2012年 12月 30日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/逗子・小坪漁港(1)』 kk-6

「さあ、昼餉だ!」。
妙本寺から逗子の小坪漁港に向う。
日が射して来た。
冬の日差しは、殊の外、嬉しいものだ。
材木座海岸から小坪海岸トンネルを抜け、リビエラ逗子マリーナを走る。
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ゆうき食堂。
5月のときは列をなしていたが、今回は直ぐに座れそうだ。
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先客、KUOTA三人衆。
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ゆうき食堂初見参の武衛殿に「刺身一点盛りは880円、二点盛りは1000円。二点盛りはお好みで組み合わせ自由」と品書きを眺めながら、注文要領を説明するのであった。

大給殿と武衛殿は、鯵と鰤の刺身二点盛りを注文。
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上総は、鰈の唐揚げと鯵の刺身の二点盛りを注文。
毎度のことながら、食い気が先走りして、箸を付けてからの写真と相成る。
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超大盛りのご飯、大振りのお椀の味噌汁、温泉玉子と納豆も付く。
納豆は、刺身二点盛りには納豆も付が、刺身と唐揚げ二点盛りには付かない。
その理由は定かではないが、店に問う必要もないだろう。

そうこうしている中、サンタクロースとトナカイが登場!
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「よく似合ってますよ」、「1年に1回くらいは馬鹿やってもいいかと思って」、「その着ぐるみはドン・キホーテで?」、「通販です」。

サンタくんとトナカイくんの愛馬。
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CORONAGOは馴染みのあるブランドである。
"issa"、"COGGEY"というのは馴染みのないブランドだ。
で、調べてみた。
"COGGEY"は神奈川県を中心に店舗を持つサイクル・ショップだ。
"issa"は"COGGEY"のオリジナル・ブランドであった。
サンタくんとトナカイくんは長後(ちょうご)から来たと言っていたので、"COGGEY"藤沢店の上顧客なのであろう。

「我らも年に1回くらいは、馬鹿やってもよいのでは」、「討入凱旋ポタですな」、「そう!播州赤穂浪士の、あの装束で」、「上総殿、お一人でどうぞ」、「それは、ズッコイですぞ。全員で、コスプレ・ポタですぞ」などと宣いながら、箸をすすめる。

昼餉、完食!満足!
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旨い昼餉を食したあとは、食後の珈琲だ。
愈々、maruchanchi工房特製アルコール・コンロの、ドラポタ藩の面々への御披露だ。
小坪漁港の野点場所に向う。

フォト:2012年12月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-30 22:14 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(2)
2012年 12月 30日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/妙本寺』 kk-5

「さて、次は何処へ」、「逗子方面へ向かいませう」、「久し振りの『ゆうき食堂』に御座りまするな」、「遠いのでせうか?」、「このまま走れば、15分くらいかと。途中、何処かの寺に立ち寄りも可能かと」。
若宮大路のひとつ、東側の道を走る。
「ちょっと、お待ちを!」、「何か、よきものでも?}、「珍名、発見!紅葉に鹿は付き物に御座る」。
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柏から流山に向う道で発見した「奈良歯科」(未撮影)に続く、久方ぶりの珍名発見であった。

本覚寺前の、滑川に架かる夷堂橋を渡る。
「妙本寺へ行ってみませうか」、「あの、ペンキを塗りたくったような山門と、大きな日蓮像のある寺に御座りまするな」。
5月の鎌倉ポタで立ち寄った寺である。
武衛殿は初めてにて、立ち寄ってみることにした。

妙本寺。
この辺りの谷戸は、比企谷(ひきがやつ)と呼ばれている。
赤い山門に紅葉、そして、人力車。
比企谷も結構な風情である。
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久し振りに手水鉢の「龍コレクション」を愉しむ。
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カメラマンと紅葉。
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今日の jiensha。
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フォト:2012年12月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-30 05:15 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(4)
2012年 12月 29日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/報国寺』 kk-4

浄妙寺をあとにして、西に向って走っていたところ、「報国寺」の標識があった。
「どんなお寺か、ちょっと立ち寄ってみましょう」と報国寺へと向った。
jitensha は自由自在、これがポタリングのよいところだ。

報国寺。
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能書きを紐解いてみる。
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臨済宗建長寺派の禅宗寺院。
淨妙寺中興の足利貞氏の父、家時(足利尊氏の祖父)が開基。
夢想国師の兄弟子、天岸慧広(仏乗禅師)の開山で、建武元年(1334年)の創建。
古くから境内の孟宗の竹林で知られている。
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浄妙寺に続いて、ここを訪れたのは大正解であった。
参道を清掃中の檀家さん(多分)に挨拶しながら、奥へ進む。
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参道に続き、本堂も大掃除の真っ最中。
師走である。
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東国花の寺百ヶ寺。
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先ほど、訪れた、太田道灌ゆかりの地、英勝寺でも「花の寺」と書かれた札を見た。
「東国花の寺百ヶ寺」とは何ぞや?
電脳で検索したところ、そのホームページが現れた。
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東国花の寺は、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、平成13年3月に発会いたしました。(中略)東国花の寺では、宗派や宗旨の隔てなく、仏さまの教えを基に、この物質社会の現代に生きる人々が、心に「花」を咲かせて欲しいとの願いで結成されたものです。現在は103ヶ寺の寺院が加盟しております。それぞれのお寺に咲く花々を機縁とし、一般の方々と仏教寺院との垣根を取り払い、「いのち」や「祈り」の尊さを伝え、心豊かな社会づくりに貢献できる「安心の場」となることを願っております。
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関東1都6県でそれぞれ11ヶ寺から15ヶ寺が「花の寺」となっている。
1都6県の外、鎌倉だけで11ヶ寺ある。
鎌倉は別格のようである。
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山門の外に出ると人力車が止まっていた。
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先ほど、参拝客と共に本堂で合掌していたリキシャマンの車かもしれない。
もう一枚、メカっぽく撮ってみた。
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「これ、着物の柄みたいで、なかなか、いいですよ」と大給殿が見せてくれた写真がこれだ。
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人力車の脇の水溜りに落葉した紅葉であった。

「こちらの細道を行きましょう」。
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やっぱり、鎌倉はええなあ、と思いながら、紅葉を踏みしめて走るのであった。

フォト:2012年12月23日(フォト#13/大給守殿提供)

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-29 23:48 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(6)
2012年 12月 28日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/浄妙寺』 kk-3

鎌倉五山第五位、浄妙寺。
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名残の紅葉を愛でる。
茶室「喜泉庵」のディスプレーに、紅葉の葉を置いて演出を楽しむ大給殿。
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「植田正治風の演出ですなあ」といいながら、上総は、茶菓子の上に置かれた紅葉の葉を茶碗の上に置き換えて、再演出(と言えば聞こえはよいが、早い話が演出のパクリである)。
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「浄妙寺って、あの和菓子のジョウミョウジ?」、「それは道明寺でありましょう、大阪の」、「安珍、清姫のドウミョウジ」、「それは道成寺でありましょう」、「関西では道明寺、関東では長命寺」。
桜餅のことだけで、寺の名が次々と飛び出す、このええ加減さがまた愉しいのである。

喜泉庵の枯山水。
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この寺には足利貞氏の墓があるという。
奥の墓地に入る。
「ところで、足利貞氏って、誰でしたっけ?」、「足利尊氏のお父さんです」などと話ながら、足利貞氏の墓を探す。
「足利貞氏の墓」と書かれた立て札を見付けた。
時々、墓を探し回って疲れ果てることがあるが、こういう立て札があるのは有難い(墓好き経験者談)。
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脇に立っている標柱には「石造宝篋印塔 (ほうきょういんとう)」、そして、「明徳三年銘 伝足利貞氏墓」と記されている。
「伝」なのである。

「石窯ガーデンテラス」なる場所を矢印で指し示す標識がある。
さて、何であろうかと、坂道を上る。
水盆に冬枯れが映る。
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石窯ガーデンテラス。
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「元は貴族議員の館、今はレストラン。浄妙寺の住職の御内儀が購入し、レストランを営んでおるそう」、「なるほど、お寺の御内儀はしっかり者」、「鎌倉を訪れて、ちょっとお食事をと斯様なレストランに誘ったらカッコいいでしょうな」。
そんなことを語りながら、石窯ガーデンテラスで使う薪であろうか、薪の山を眺める。
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木道もなかなかお洒落だ。
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坂道を下りながら戯れる、おっさん、二人。
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今回の鎌倉五山第五位の浄妙寺を以て、5月の建長寺(第一位)、円覚寺(第二位)、浄智寺(第四位)、6月の寿福寺(第三位)と合わせ、鎌倉五山すべてをめぐることが叶った。

鎌倉五山について、今一度、おさらいをしておきたい。
「鎌倉時代末期頃より幕府が制定した京都と鎌倉の寺院で構成される五山制度が変化して、室町時代に京都の南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山の寺格が固定された」(出典/ウィキペディア)。
京都五山も訪問未達のところがある。
南禅寺(上位別格)、天龍寺(第一位)、相国寺(第二位)、東福寺(第四位)は訪れたことがあるが、建仁寺(第三位)と万寿寺(第五位)は訪れた記憶がない。
西国行脚の際の新たな立ち寄り先が出来た。
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帰り掛けに、案内板に目を通した。
案内板の最後に、由来好きとしては大いに気になる記述があった。
「本堂の奥にある鎌足稲荷神社は鎌倉の地名の由来になったとされています」と記されている。
鎌倉稲荷神社なるものを見損ねた。
こういうときは、次回に楽しみを残したと考えるようにしている。
次回訪問に備え、ベンキョーしてみた。
誠に結構なサイトにヒットした。
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浄妙寺の奥にある藤原鎌足を祀った小さな社がある。
藤原鎌足と言えば645年に中大兄皇子(後の天智天皇)とともに大化改新の立役者として有名。
その鎌足は幼い頃から稲荷大神から鎌を授けられていたという。
鎌足は大化改新の翌年に故郷である東国に向かい、途中、相模国由井里に宿泊した。
すると、その夜に、「蘇我入鹿を討つという宿願が叶ったのだから、あなたを今まで守護してきた鎌を我が土地に奉納しなさい」というお告げを聞いた。
その鎌を奉納したのが現在の鎌足稲荷神社の地であり、この出来事から、この地が鎌倉と呼ばれるようになったとされている。
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「故郷の東国」とは何処かと紐解けば、「出生地は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)(『藤原伝』)。藤原という姓も出生地の地名から取られたものである。大原(現在の奈良県明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある」とあり、常陸国なのであった。

鎌倉五山があらぬ方向へ脱線した。
しかし、これだからおもしろいのだ。

浄妙寺をあとにして、西に向って走っていたところ、「報国寺」の標識があった。
「どんなお寺か、ちょっと立ち寄ってみましょう」と報国寺へと向った。

フォト:2012年12月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-28 23:58 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(4)
2012年 12月 27日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/英勝寺、太田道灌』 kk-2

鎌倉五山のひとつ、北条政子と源実朝ゆかりの地、寿福寺から、太田道灌ゆかりの地、英勝寺へと向う。
向うといっても、寿福寺とは然程離れては居らず、ほぼ、隣り合わせの距離である。

浄土宗東光山英勝寺。
「太田道灌邸舊蹟」の碑。
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此ノ地ハ武略文藻兼備ヘ忝クモ武蔵野は萱原の野と聞きしかとかかる言葉の花もあるかなテフ叡感ニサエ預リタル道灌太田持資ガ江戸築城前ノ邸址ナリ
寛永十一年今ノ英勝寺ト為ル
其ノ創立者水戸藩祖頼房ノ准母英勝院ハ道灌ノ嫡流太田康資ノ女ナルヨリ晩年将軍家光ヨリ特ニ此ノ地ヲ授リテ之ニ住スルニ至レルナリ
孤鞍雨ヲ衝イテ茅茨を叩ク少女為ニ遣ル花一枝ノ詩趣アル逸話ハ道灌ガ壮年猶此ニ在リシ日ニ於テ演ゼラレシ所ノモノナリ
大正十三年三月建之 鎌倉町青年會
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刻まれた碑文は文節の区切りがないが、読み下し易くするために筆者が勝手に文節を区切ったことを申し添えておきたい。
大正13年(1921)年に刻まれた碑文であるが、少々、難解である。
上総流に読み下してみた。
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この地は、軍略と文才を兼ね備え、「武蔵野は 萱原(かやはら)の野と聞きしかど かかる言葉の花もあるかな」と天皇からもお誉めの言葉に預かる程の人であった道灌、太田持資(幼名/鶴千代、諱/持資(もちすけ)、資長(すけなが)、法名/道灌)が、江戸城を築く前に住んでいた屋敷跡である。
寛永11年(1634年)に、現在の英勝寺となった。
英勝寺は、水戸藩の祖、徳川頼房の乳母であった英勝院によって建てられた。
その英勝院は、道灌の子孫である太田康資(やすすけ)の娘で、晩年、徳川家光から特にこの地を授り、ここに住んでいたのである。
太田道灌が一人で馬に乗り、雨の中を駈け、萱葺きの人家の前で雨具を乞うと、少女が山吹の花一枝を差し出したという故事は、この場所に住んでいた頃の逸話である。
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大好きな(???)ウィキペディアを紐解くと「徳川家康の側室で、大田道潅四代の太田康資息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したが、その後、三代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建した」とある。
「太田道灌邸舊蹟」の碑文がぐっと分かり易くなった。

太田家について、少し触れておきたい。
関東管領上杉氏は、幾多の変遷を辿り、山内上杉家・犬懸上杉家・宅間上杉家・扇谷上杉家に分かれた。
扇谷上杉家の家宰(家老)の職にあったのが太田道灌ならびにその父祖であり、その居をこの地に構えていたのである。
碑には「山吹の里」伝説も刻まれているが、その伝説は各地にある。
それについては、既に、マイ・ブログの2012年7月27日付「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/江戸の巻」第6話で触れたこともあるので、ここでは割愛したい。
なお、同7月28日付第7話の末尾に「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻」近日公開!と、随分と張り切った予告をしているが、6月8日に"取材"した「岩槻の巻」は未だ手付かずとなっている。
今回の鎌倉、そして、何れ、訪れる伊勢原の道灌まつりなどと共に岩槻の巻も綴ってみたい。

英勝寺をあとにして、鶴岡八幡宮に向う。
鎌倉に来て、鶴岡八幡宮は通過するだけとなると、罰が当たりそうなので...。

鶴岡八幡宮前にて。
「カードマン、います?」。
「いないようですね」。
「ガードマンがどうかしましたか?」。
「参道に自転車を入れるなと五月蝿いんですよ。人出の多いときはそう言われても仕方ないですけどね」。
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源平池は僅かながら氷が張っている。
「あんなところに社殿があったんですね」と旗上弁天社の映り込みを眺めながら、つぶやく。
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旗上弁天社とは?
「源平池の東の島にあり、御社殿は八幡宮御創建800年(1980年、昭和55年)に、文政年間の古図をもとに復元したもの、頼朝公の旗上げに因み、源氏の二引きの旗に願をかける人が大勢いる」。
なるほど!
いつもは、上宮に向ってスタコラと進んでいくので、源平池をゆっくりと眺めたことはなかったのであった。

鶴岡八幡宮から、鎌倉五山の第五位、浄明寺へと向う。
Y字路の「岐れ路(わかれみち)」にある魚三商店で、浄明寺への道を訪ねる。
地図も持たずの、ええ加減な、ぶらり旅なのである。
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「ひもの、買って帰りたいですなあ」。
「この左っかわにある、大きいヤツ、タチウオでっせ。うまそうやなあ...。まだ、朝10時、干物を背嚢に入れて何時間も走るというは、どうも、抵抗がありますなあ...」。
次回は干物対策を講じての鎌倉来訪としよう。
魚三さんに教えて貰った道を辿り、浄明寺へと向う。

フォト:2012年12月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-27 23:58 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(4)
2012年 12月 26日

『ちょいと遅めの鎌倉紅葉狩り/寿福寺』 kk-1

12月23日、師走の鎌倉に出掛けた。
5月中旬の初夏の鎌倉、6月下旬の紫陽花の鎌倉、そして、今回と今年は三度の鎌倉詣でだ。
夏の頃、秋に鎌倉で紅葉狩りをと、皆で言いながら、夫々に都合が付かず、この日となった。
これまで、鎌倉のあちらこちらをポタリングしているので、今回は特段、何処のコースという決め事もなく、名残の紅葉を求めて適当に走ればよいとして、JR北鎌倉駅に集合した。

今日の jitensha。
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左から、大給守殿、上総、武衛殿。
伊豆守殿はクリスマスの準備で大忙し、南国守殿は、当初予定していた22日が雨天で翌23日に順延となり、この日は合気道の納会があるとのことにて、伊豆、南国御両氏は不出馬、大給、武衛、上総のドラポタ三人衆での師走のポタと相成った。

「さて、今日は何処のコースを辿りませうや」。
「鎌倉五山、未達の寺あり。第三位の寿福寺と第五位の浄明寺」。
「某の未達は第五位の浄明寺のみ。寿福寺は、6月の一人ポタの際に立ち寄り済み。ご案内致しませう。で、その後、『太田道灌ゆかりの地を訪ねて』シリーズの一環として、英勝寺に立ち寄りたく」。
「源義朝が改葬されたといわれる寺があったと思うので御座るが、名が思い出せませぬ。そこへの立ち寄りは、次回で結構で御座る」(後日、「勝長寺院跡」と判明)。
「昼餉は逗子小坪漁港の『ゆうき食堂』にて」。
「あとの立ち寄り先は、都度、そのときの気分で。では、先ずは、寿福寺へ」。

鎌倉五山、第二位の円覚寺を線路を挟んで左手に、第四位の浄智寺を道の右手に、続いて、第一位の建長寺を道の左手に見ながら、坂を上り、坂を下り、第三位の寿福寺に至る。

臨済宗建長寺派、亀谷山寿福金剛禅寺。
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ここは、今では扇ガ谷と呼ばれているが、その昔は亀ヶ谷と呼ばれた、源氏家父祖伝来の地。
頼朝の父、義朝の旧邸もこの地にあった。
「北条政子と源実朝の墓所は何処に?」。
「突き当たりを左へ、次に、右、左、右と進み、石段を上ると墓地。その奥の、やぐら(窟、岩倉/鎌倉特有の横穴式墓所)が墓所に御座る。某はこの辺りで名残の紅葉を愛でながら、ぶらぶら致し居る故、ゆるりと、どうぞ」。

大給殿と武衛殿は総門をくぐり、北条政子と源実朝の墓所へ。
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上総は、総門、参道、中門あたりで遊ぶ。
総門脇の塀に貼られた「禅」のポスターを眺める。
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寿福寺は臨済宗の寺院であるから「禅」のポスターは珍しくはない。
目を惹いたのは、ポスター下段の「妙心寺」に続く「黄檗宗」と「臨済宗黄檗宗連合各派合議所」の文字であった。
何故、これらが気になったのかは、話が長くなるので、最後段で述べたい。

中門に貼られた「守ろう文化財」のポスター。
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仁王像がなかなかよく描けており、邪魔にならないポスターのように思えた。

中門の前に立って、右方向を向く。
その姿勢で眺める鐘楼の風景が好きだ。
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参道の脇に置かれた、ガンジキ。
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この長い柄のついた竹製の掃除道具は、子供の頃、「ガンジキ」と呼んでいた。
広辞苑や造園語辞典を紐解くと「熊手」となっている。
少なくとも、播磨国では、「ガンジキ」がヒョージュン語だった(はずだ)。
「ガンジキ」の方が落ち葉がよく集まるような気がするのだが、そう思うのは私だけであろうか...。

ガンジキの上には、名残の紅葉が...。
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総門脇の塀に貼られた「禅」のポスターについて、少々、余談を。
ポスター最下段の寺々の名前を、ひとつづつ、眺める。
訪れたことのある寺、馴染みのある名の寺が幾つもある。
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「妙心寺、黄檗宗、南禅寺、建長寺、東福寺、円覚寺、大徳寺、方広寺、永源寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、向嶽寺、佛通寺、国泰寺」とあり、更に「臨済宗黄檗宗連合各派合議所」とある。
「妙心寺」に続き、「黄檗宗」とある。
更に、最後の「国泰寺」に続き、「臨済宗黄檗宗連合各派合議所」とある。

北条政子と源実朝の墓所から戻って来た大給殿、武衛殿と、黄檗宗につき、暫し、会話。
「宇治と伏見の間あたりに、黄檗宗大本山の萬福寺が御座りまする。以前から、一度、ポタリングで訪れてみたいと思い居る寺に御座りまする」。
「黄檗宗は仏教で最も新しい宗派。寺の数はそう多くはありませぬな」。
「寺の名と場所は失念するも、江戸でも黄檗宗の寺がほんの少しあったかと」。

帰宅後、関連書物を紐解いてみた。
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黄檗宗は、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。
唐の僧、黄檗希運(臨済義玄の師)の名に由来[する。
臨済宗と曹洞宗が日本風に姿を変えた今でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。
本山は、隠元隆琦の開いた、京都府宇治市の黄檗山萬福寺である。
1874年(明治7年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」に改称させられたが、1876年(明治9年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。
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なるほど、これで「臨済宗黄檗宗連合各派合議所」の意味するところがおぼろげながら分かって来た。
そして、「妙心寺」のあと、臨済宗各派の本山よりも先の、二番目に「黄檗宗」が入っているのは、過去の歴史からの気遣いであるように思えた。

江戸における黄檗宗の寺は、弘福寺(墨田区向島)、祥応寺(国分寺市本多)、禅林寺(三鷹市下連雀)。
三鷹の禅林寺には、森鴎外、太宰治の墓があり、毎年6月19日には太宰治を偲んで「桜桃忌」が開催される。
「江戸府内ポタ/黄檗宗の寺めぐり」もよさそうである。

余談ついでに、もう少々、脱線を。
ポスターの最後にある国泰寺は富山県高岡市にある臨済宗国泰寺派の大本山だが、同じ名の寺が広島にもある。
こちらの寺は、曹洞宗鳳来山国泰寺。
ここには、紀州和歌山藩第二代藩主で、後に、芸州広島藩初代藩主であった浅野長晟(ながあきら)の墓、そして、播州赤穂藩第三代藩主浅野内匠頭長矩が家臣、大石内蔵助の妻、香林院(りく)と、三男、大石大三郎の墓、更に、赤穂浪士の一人である武林唯七の祖父、武林治庵(明人の孟二官)の墓もある。
小生の趣味のひとつ、「忠臣蔵」、「赤穂浪士」の"取材"の一環として、数年前、盟友、人麻呂殿に、有難くも、この広島・国泰寺の"代理取材"をして貰ったことがある。

脱線し過ぎた。
「太田道灌ゆかりの地」、英勝寺に向う。

フォト:2012年12月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-26 11:55 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(4)
2012年 12月 17日

『大放談会と義士祭』 (下)

築地本願寺から明石町/聖路加病院に至る。
「この辺り一帯が播州浅野家江戸上屋敷に御座りまする。浅野内匠頭邸跡と刻まれた碑をご覧あれ」。
「ここは、芥川龍之介生誕の地でもありまする。中央区教育委員会の案内板をご覧あれ。いつも思うことながら、この案内板に芥川の名作が列挙されて居りまするが、『或る日の大石内蔵助』を書き加えて貰えると、浅野屋敷と内蔵助が繋がり、ベストなので御座るが、これ、中央区教育委員会の配慮不足かと...」。

芥川龍之介は、1892年(明治25年)3月1日、京橋区入船町(現在の中央区明石町)に生まれ、生後7ヶ月で母が病気となり、本所区小泉町(現在の江東区両国)に住む伯父の芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられた。
両国には「芥川龍之介生育の地」と記された標識や「芥川龍之介文学碑」がある。
文学碑は、両国小学校の脇に在り、両国小学校は、その昔、龍之介が通っていた頃には江東(えひがし)小学校と呼ばれたそうだ。
毎年恒例のポタリング「赤穂浪士討ち入り凱旋の旅」で吉良邸跡を訪問する際に、いつもこの碑を目にしているのだが、1週間前のポタリングで新発見があった。
それは、いままで気付かなかったが、この文学碑の前に、高さ30cmくらいであろうか、小さな、小さな不動明王が鎮座していることであった。
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新発見なので、この小さな、小さな不動明王をしゃがんでカメラに収め、立ち上がろうとしたときにやっちまったのが、久方ぶりの、ギックリ腰。
完全にゴキッといった訳ではなく、ピリピリーンッといった感じで、何とか討入凱旋ポタを終えることは出来たのだが、数日間は腰を曲げての、トホホ歩行であった。
余談が過ぎた。
本論に。

聖路加病院一帯は、浅野屋敷跡と芥川龍之介生誕の地に加え、立教大学の前身、立教学院発祥の地でもある。
同校出身の備前守殿の案内で「立教学院発祥の地」の碑を眺める。
碑には「立教学院発祥の地 1874 C.M. ウィリアムズ主教 立教学校を開く すべての人に仕える者になりなさい 聖マルコによる福音書 第9章35節 創立125年を記念してこの碑を建立する 1999年12月2日 立教学院」と刻まれている。

更に歩を進め、聖路加タワーに入る。
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「テラスからの、隅田川の景色が、結構、いけてるんで、テラスへ行ってみませう」と備前殿。
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大川を行き交う船を眺める。

大放談会は、後ほど、一献傾けながらであるが、聖路加タワーで珈琲を飲みながら、大放談会の前哨戦。
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大放談会前哨戦の話題は、当然のことながら、翌々日の16日に投票日を控えている衆議院選挙のこと。
本ブログを綴っている今、既に選挙は終わっており、何を書いても選挙妨害にはならんでしょうから、ちょいと、オブラートに包むところは包んで、大放談(???)を綴っておきたい。
「10月下旬、石原慎太郎が都知事を辞任して新党を立ち上げると言うたとき、伊豫殿から面白いメールを貰いましたね。『若い橋下なら兎も角、80歳の石原慎太郎は《障子を突き破る》ことができますかねえ』っていうヤツ。あれ、関西の jitensha 仲間にご披露したら、バカ受けでした」。
「ああ、あれね。あれが分かるのは我々の世代までやろね。我々だって、あの小説が芥川賞を受賞した頃は子供やったしねえ」。
更に続けて、「未来とかいうところの嘉田某は薄汚れた印象になってしまいましたなあ。知事になったとき、新幹線の新駅は不要と唱え、その通り、実現したし、爽やかな印象を持ってたけど、小沢某と手を握って強欲ババアになってしもた」。
更に、続けて、「強い希望は、阿倍クンがお腹を壊して、至急、学級委員長を辞めて貰うことやね」。
そんなん、言うてええんやろか? そんなん、書いてええんやろか?と思うも、まさにその通りであり、言い得て妙であり、これは書き残しておくべきことかと...。

「あっ、もうこんな時間ですね。吉良邸へ立ち寄る積もりでしたが、それは次回に。森下のさくら鍋『みの家』は4時から、居酒屋『山利喜』は5時から開店です」。
「ふむ、ふむ。先ずは、森下へ参ろう」。

「山利喜」で大放談会。
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「先ずは、煮込みとガーリック・トーストを。薬丸くんがそう言うておりました」、「西班牙みたいやね」。
飲みものは、先ずは麦酒。
そのあとは、皆、それぞれにお好みのものを。
「おにいさん、お酒、ください」、「銘柄は?」、「やっぱり、東北応援やから『南部美人』を」、「お猪口は幾つ、お持ちしましょう」、「グラスに注いで来るんじゃないの?」、「いえ、片口です」、「片口ですか!片口、大好き!」。
目の前で、一升瓶から片口に酒が注がれる。
片口の口から酒があふれそうになる。
片口の口の下にお猪口を添えてやる。
溢れた酒がお猪口に流れる。
明日香の「酒船石」を思わせる。
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「グルメ写真は撮らない主義なんですけど」と言い訳しながら、既に相当に喰い散らかした料理をカメラに収める。
麦酒、焼酎、日本酒、突き出し(にこごり)、煮込み、煮込み玉子入り、ガーリック・トースト、焼きとん各種、しめさば、くさや、エトセトラ、エトセトラ。
どれも、オイチカッタ!

「では、次回は来年2月に。両国から門前仲町あたりを」、「了解!」。
「わたしゃ、東京メトロ半蔵門線で」、「わたしゃ、都営地下鉄新宿線で」、「わたしゃ、都営地下鉄大江戸線で」、皆、夫々、お好みの電車で森下駅から帰途に就いた。
小生は、都営地下鉄上野御徒町で下車。
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この日の店仕舞いとなりつつあるアメ横を抜け、いい気分で、徒にて御徒町からJR上野駅へ...。

フォト:2012年12月8日(アーカイブより)、12月14日

(完)
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by kazusanokami | 2012-12-17 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅 | Comments(4)
2012年 12月 16日

『大放談会と義士祭』 (中)

義士祭で賑わう泉岳寺参拝の後、地下鉄にて東銀座下車。
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「勘三郎さんが亡くなりましたなあ」。
「新しい歌舞伎座の姿が随分と現れて来ましたなあ」。
「歌舞伎座は来年の春に出来上がるんですなあ」。
「おっ、鉄骨に何やら親しみのある名が白ペンで印字されておりますなあ」。

萬年橋を渡る。
橋と言っても、橋の下に川は流れていない。
昔は築地川が流れていたが、今、流れているのは首都高速都心環状線を走る車の流れだ。

築地の交差点が見えて来る。
「東銀座から築地は、意外と近いんやね」。
「駅が東銀座や築地になっているんで、何やら離れているように思いますけど、然程の距離はありませんね。もうちょっと歩くと、勝鬨橋ですし」。
jitensha をやっていると、距離感がよく掴めるのである。

築地本願寺。
「赤穂浪士つながりで、ちょっと、ご覧にいれておきたいものが」。
間新六の供養塔(もしくは墓)にご案内する。
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先般、「赤穂浪士討入凱旋の旅 2012」第5話で、間新六の墓と供養塔のことについて触れた。
築地本願寺に墓があることが、今一つ、解せないのだ。
もう一度、説明書きに目を通す。
「築地本願寺に葬った」とあるが、説明書きの標題は「供養塔」となっており、我々が目にしているのは墓ではなく、供養塔なのである。
然らば、墓は築地本願寺の何処にあるのか。
因みに、間新六の「供養塔」の隣りには、土生玄碩墓、森孫右衛門供養塔、酒井抱一墓があり、「墓」と「供養塔」が混在している。
やっぱり、間新六の「墓」なのか「供養塔」なのか、疑問は続くのであった。

「築地本願寺って、何であんな形、してんの?」
「大谷さんはシルクロードを探検したりしたりして、そのときに、えーっと、何と言う名の建築家やったかなあ、ジョサイア・コンドルの教え子の辰野金吾、そのまた教え子の...、その人に出会って、寺の設計を依頼して、その人が古代インド風の設計をしたんです」。
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「狛犬って言っていいのかどうかは分かりませんが、ここの狛犬は羽があるんですよね。狛犬は西方から伝わって来て、伝来の途中で形が変わって来たということがよく分かります」。

石段を上り、本堂に入る。
本堂では「源流を追い求めた2人 であいが生んだインド風寺院建築 文化財登録・本堂修復記念 大谷光瑞師と伊東忠太博士 パネル資料展」なるものが開催されていた。
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先ほど、思い出せなかった名前がここにあった。
伊東忠太であった。
幾つかの展示物を眺める。
その中のひとつをアップロードしておこう。
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これまで本堂に入ったことが何度かあるが、それは葬儀のときだけだ。
本堂の内部をゆっくりと眺める。
パイプオルガンが設けられている。
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築地本願寺のリーフレットによれば、「1970年(昭和45年)に設置されたもので、旧西ドイツのワルカー社製で、3メートルから1センチまで、大小2000本のパイプで構成されている」とある。
1970年と言えば、学生の頃だ。
下宿近くの、東京カテドラルを散歩し、見事なパイプオルガンを眺めたことがあるが、同じ頃、築地本願寺にもパイプオルガンが設けられたとは知らなかった。

築地本願寺は、しばしば、訪れる寺のひとつである。
趣味の「赤穂浪士」と狛犬コレクションで、間新六の供養塔(もしくは墓)と本堂前の狛犬(らしきもの)を眺めるためだ。
しかし、よくよく考えると、他のことは余り知らない。
で、築地本願寺のリーフレットとホームページを参照してみた。
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築地本願寺は、浄土真宗本願寺派の直轄寺院であり、首都圏における開教活動を担う関東最大の念仏道場です。
その発祥は1617年(元和3年)、西本願寺(京都)の別院として建立されました。
浅草・横山町にあったことから「江戸浅草御坊(ごぼう)」と呼ばれていましたが、1657年(明暦3年)、明暦の大火(「振袖火事」)により焼失。
大火後の幕府の区画整理のため、旧地への再建が許されず、その替え地として下付されたのが八丁堀の海上でした。
そこで佃島の門徒が中心となり、海を埋め立てて《地》を《築》き、1679年(延宝7年)に再建され、「築地御坊」と呼ばれるようになりました。
このときの本堂の正面は西南(現・築地市場)に向いて建てられ、場外市場のあたりは58ヶ寺からなる寺内町でした。
1923年(大正12年)、関東大震災により坊舎を焼失し、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計により、1934年(昭和9年)、現在の本堂が落成しました。
この本堂の外観は古代インド仏教様式の石造りとなっていますが、本堂内部のお荘厳は伝統的な真宗寺院の造りになっています。
2011年(平成23年)、本堂および周囲の大谷石積塀が国の登録有形文化財に登録され、2012年(平成24年)、正式名称が「本願寺築地別院」から「築地本願寺」と改められました。
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築地本願寺のことはよく分かった。
京都を訪れて、いつも思うこと、それは西本願寺と東本願寺のこと。
極々、近しい人の御骨は五条坂の大谷本廟に安置されている。
ついでと言ってはなんだが、この機会に整理してみた。
・浄土真宗本願寺派(西本願寺)・・・大谷本廟
・真宗大谷派(東本願寺)・・・・・・大谷祖廟
何故、二つの派があるのか、それはここでは割愛する。
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築地本願寺をあとにして、赤穂浅野家上屋敷跡である、明石町/聖路加病院方面へと向った。

フォト:2012年12月14日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-12-16 23:58 | 赤穂浪士討入凱旋の旅 | Comments(2)