『上総守が行く!』

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2013年 02月 21日

『 Intermission 』

暫らく、行脚に出掛けます。
ブログは、暫らく、休ませて戴きます。
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フォト:2012年12月3日、越知谷ロッジ/プチ別荘遊びにて
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by kazusanokami | 2013-02-21 05:39 | エピソード
2013年 02月 20日

『続・几号水準点探索ポタリング/湯島天神』 zks-11

ニコライ堂から聖橋を渡り、湯島天神に向う。
「真っ直ぐ行くと、アップダウンがあるんで、下の道から行きましょ」と軟弱上総。
蔵前橋通りから昌平橋通りに出て北上する。
湯島中坂あたりに差し掛かる。
「ここら辺りで左折しましょうか」と大給殿。
「もうちょっと行って、下から石段で上がりましょ」と軟弱上総。
「石段よりも坂道を」と大給殿。
湯島中坂を上る。
きつっ!

湯島神社。
時々、訪れる。
直近では、昨年3月の「東京十社めぐりポタの際、湯島神社の脇を通った。
湯島神社は「東京十社」に含まれていないので、脇を通り過ぎただけだが...。
昨年夏、太宰府天満宮を訪れた。
数年前、京都ポタで北野天満宮を訪れたこともあった。
菅原道真は好きな人物の一人だ。
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jitensha を止めて、電脳網資料をポケットから取り出す。
電脳網資料には「正門の鳥居の本殿に向って左側台座正面にあり」とある。
鳥居の左側台座に目を遣る。
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台座は梅を模っているようだ。
普段、何気なく眺めている鳥居も、几号水準点探索だからこそ、台座の形をじっくり見る機会を得たのである。

「ある、ある、ありますね」。
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アップで。
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通り過ぎる参拝客の視線を背中に感じる。
「このおっちゃんら、何、やってるんだろう」というような視線だ。
探索第一弾の靖国神社のときは几号水準点のことを参拝客と《共有》したが、最早、夕方である。
早く反省会に行きたいので、参拝客と《交友》している暇はない。

「湯島神社由緒」に目を通す。
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目を吸い寄せられた文字がある。
それがこれだ。
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「文明10年(1475年)、太田道灌がこれを再建し」とある。
この日、市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇に続き、「太田道灌ゆかりの地を訊ねて」シリーズのネタを見つけることが出来た。

「ちょっと、境内へ入ってみましょうか」。
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「受験の季節で合格祈願、そして、梅まつり。湯島神社さんも出店の屋台さんもウハウハやろね」。
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梅まつりの余興か、はたまた、受験生への景気づけか、チンドン屋さんのパフォーマンスも。
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「さて、これにて本日の探索は終了」。
「お疲れさまでした」。
「大京町の路傍とJR市ヶ谷駅/飯田橋駅間の路上は発見出来ず」。
「日比谷公園の亀石は二度目なので、それは除けて、今日は7勝2敗」。
「では、反省会へ」。

最近、大給殿ご執心の神田「升亀」は休業日。
その隣りの「大越」も休業日。
で、その隣りの「馬力」で反省会。
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軽くやって、お開き。
20m先の JR神田駅まで「押し」、そして、輪行にて帰館。

この日、巡ったのは、一石橋/迷子の碑、二度目の日比谷公園/亀石、赤坂見附、大京町路傍(発見叶わず)、市谷亀ヶ岡八幡宮、JR市ヶ谷駅/飯田橋駅間の路上(発見叶わず)、神楽坂/善國寺、小日向/本法寺、番外の神田三崎町六叉路、ニコライ堂、湯島天神と都合11ヶ所、日比谷公園を除く几号水準点探索は都合9ヶ所。
几号水準点探索ポタ第二弾は、7勝2敗ながら、大満足のうちに終えることが出来たのであった。

=予告編=
明治の初めに刻まれた几号水準点「不」の刻印を探索するポタリング、第三弾、2月16日に挙行!
ブログ「続々・几号水準点探索ポタ」、近々、堂々のアップロード!

(完)
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by kazusanokami | 2013-02-20 18:21 | 几号水準点探索
2013年 02月 20日

『続・几号水準点探索ポタリング/ニコライ堂』 zks-10

小日向の本法寺から神田三崎町の六叉路に寄り道したあと、外堀通りを走り、ニコライ堂に至る。

ニコライ堂。
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「上総の昼餉散歩」や「日本近代建築の父 ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」などで、幾度もここを訪ねている。
今回は、全く視点を変えた、几号水準点探索での訪問だ。

聖堂の足元の石材は、几号水準点を刻むのに誠によさそうな材質だ。
そんなことを思いながら、聖堂の足元を見ていく。
刻印の気配はない。
電脳網資料をポケットから取り出す。
「ニコライ堂主教館北側、建物の壁下にあり」と書かれている。
聖堂ではなく、主教館であった。
信者と思しきご婦人に、何れの建物が主教館であるかを訊ね、教えて貰った。
「大給殿、これが主教館です。北側の壁下となっているので、建物の北側へ入ってみましょう」。
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「上総殿、ありました!」。
「どれどれ」。
「ここです、ここです」。
「お見事、お見事! こんなところにあるのを、よー、見付けましたね」。

几号水準点が刻まれた場所は、主教館の入口に設けられた石段の一段目の壁。
主教館の壁はベージュ色のペンキが塗られている。
そのペンキを通して、辛うじて、「不」の刻印が見て取れた。
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アップで。
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「大給殿、よくぞ、発見なされました!」の気持ちを込めて、上総も刻印にカメラを向ける。
辛うじて見える「不」の刻印に集中する余り、油断したか、上総、大給殿に激写されちまった、之図。
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後日、この写真を見た武衛殿より「ロシア正教でも五体投地?」との電子飛脚便が遣わされた。

《五体投地》の姿勢で撮った写真がこれだ!
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石段にカメラを置いての、地べた写真だ。
赤い汚れ(?)は石段を補修したときの接着剤と思われる。

主教館入口の石段と扉の風景。
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几号水準点は、石段の一段目、左側の奥の壁に刻まれている。

教主館の北側奥から、教主館と聖堂を眺める。
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探索の醍醐味を堪能し、大聖堂を見上げる。
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「いやー、上出来!でしたね」。
「ペンキがべっちょり塗られているということは、教主さんは几号水準点の存在をご存知ないのかもしれませんね」。
「教主さんにお手紙、或いは、インタビューもいいかもしれませんね」。

次の立ち寄り先、湯島天神へと向った。

フォト:2013年2月10日
フォト#5:大給守殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-02-20 12:50 | 几号水準点探索
2013年 02月 20日

『続・几号水準点探索ポタリング/小日向から神田へ』 zks-9

小日向の本法寺からニコライ堂に向う。
東京ドーム遊園地の大観覧車やジェットコースターを眺めらながら水道橋交差点に至る。
「寄ってみますか?」。
「六叉路ですね。折角だから、寄ってみましょう」。
以前から、機会があったら立ち寄ってみようと話をしていたので、阿吽の呼吸である。

テレビ東京「出没!アド街ック天国」の「神田三崎町」で紹介された、JR水道橋駅の南側にある《六叉路》に立ち寄ってみた。
番組での紹介は次の通りであった。
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三崎町2丁目の交差点は細い6本もの道が合流。
どちらに進めば良いのか分からなくなるほどです。
この辺り一帯は、かつて三菱財閥が所有していた土地。
三菱財閥はこの地を娯楽の街にすることを計画しました。
この時、参考にしたのはフランス・パリの街。
多くの人が行き交うパリのような街角を目指したのです。
パリの七叉路にあるダンフェール=ロシュロー広場にはライオンの像が鎮座していますが、三崎町の六叉路には新日本プロレスのグッズを扱う「闘魂ショップ 水道橋店」のライオンマークがあります。
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ライオン・マークのビル。
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三角ビル/LAWSON。
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三角ビル/白菊ビル。
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「弥太郎さんは遣りたい放題だったみたいですね」。
「三菱やからね」。

ライオン・マークのビル、LAWSONの三角ビル、白菊ビルの三角ビル...。
地図で見ると、くっきりと六叉路が見て取れる。
しかし、地上で六叉路を撮り切ることは難しい。
交差点の中央に設けられた「+」の白いマークと路地のひとつ、ふたつを入れることで、六叉路であることを表現してみた(どやろ?)。

10年前くらいであったろうか、東京都現代美術館で催された横尾忠則の展覧会「森羅万象」で、彼が描いた《三叉路》の作品を何点か観た。
何故、《三叉路》なのか、それもそのとき知った。
《六叉路》だったら、彼はどのように描くだろうか、そんなことを思いながら、次の立ち寄り先、ニコライ堂へ向った。

フォト:2013年2月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-02-20 11:29 | 几号水準点探索
2013年 02月 20日

『続・几号水準点探索ポタリング/小日向・本法寺』 zks-8

神楽坂の善國寺から地下鉄江戸川橋近くの本法寺に向う。
電脳網資料によれば「文京区 小日向 本法寺 地下鉄江戸川橋北側 巻石通り先 水道端図書館前 本法寺庫裏前台座にあり」とある。
本法寺の場所は、Yahoo!地図で確認済みである。
神楽坂から目白通りに入る。
印刷博物館/トッパンホールを過ぎた辺り、神田川に架かる小桜橋を渡り、巻石通りに入る。
この辺りは、巻石通りを境に、南は水道一丁目、二丁目、北は小日向一丁目、二丁目となっている。
巻石通りは、旧神田上水路で、暗渠化されて出来た道とのことだ。
小日向の標識がある。
「こひなた、ですね」と大給殿、「こひゅうが、じゃないないですか?」と上総。
Kohinata の標識もあった。
「こひなた、ですね。失礼しました」。

本法寺。
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電脳網資料をポケットから取り出し、几号水準点の在り場所を今一度確認する。
「本法寺庫裏前台座にあり」とある。
境内で見える建物は本堂と庫裏のふたつだけ。
庫裏の前に矩形の石が置かれている。
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矩形の石の周りを時計回りで回ってみる。
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あった!
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几号水準点は、矩形の石の本堂側の横っ腹に刻まれていた。

アップで。
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「上手いこと、見つかりましたね」、「あの矩形の石は、元々、何だったんでしょうね」、「あの矩形の石の表に刻まれた文字は何なんでしょうね」などと話ながら、境内をひとめぐり。

句碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」 夏目漱石
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手前の碑文は次の通り刻まれている。
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夏目漱石は、明治22年2月5日に「兄の死」と題し、一高で英語の演説をし、墓参の心境と境内の情景を語った。
29年正月松の内には、本法寺で「展先妣墓」として「梅の花不肖なれども梅の花」と詠んだ。
名作「坊ちゃん」の清の墓のモデルも他ならぬ小日向の菩提寺のこの墓である。
平成14年3月吉日
早稲田大学総長 奥島孝康 識
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「この寺に夏目漱石の墓があるんでしょうかね」。
「であれば、そういう案内板があるはず。調べておきましょう」。
帰宅後、調べてみた。

1)資料その1
高源山随自意院本法寺は、東本願寺の末寺で、眞宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。
夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。
明治14年1月に母、20年3月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。
それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。
亡き母を詠んだ句もある。
兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。
蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。
作家となってからは「坊ちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。
境内には、早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。
早稲田大学創立125周年記念『早稲田大学で教鞭をとった文豪シリーズ』より

2)資料その2
夏目 漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。
本名、金之助(きんのすけ)。
江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。
俳号は愚陀仏。
(中略)
墓所は、雑司が谷霊園である。
「ウィキペディア」より

矩形の石の表に刻まれた漢字一文字も気になる。
本法寺のホームページがあったので、これを開いてみた。
「鉄水鉢臺石」というアイコンがある。
クリックしてみた。
いいことが綴られている。
---------------------------
鉄水鉢臺石
地図製作のために刻まれた几号水準点が残る。
墓参の折立ち寄る、玄関横の「尾」という字のついた大きな石、この臺石の左側面に、一見、漢字の「不」という字に似たしるしが刻まれていますが、これが几号(きごう)水準点と呼ばれているものです。
もともとこの臺石は、本堂前に一対で安置されて、緊急の火災に備える天水受けが置かれていたと代々聞いています。
現在の場所に移動したのは、おそらく東京オリンピックの頃のことではないかと思います。
(写真が掲載されている。「臺座の上にあった鉄製の天水受けは、戦争時の供出のため失われた」と奥書されている)
----------------------------
上述の記述の中に「几号水準点の詳細」というアイコンが添えられている。
これをクリックしてみた。
几号水準点について、簡潔な記述あり。
測量標石研究家 上西勝也氏の名も記されている。
大いに参考になった。
帰宅後のベンキョー、あとづけベンキョー、これもまた愉しいのである。

次の立ち寄り先、ニコライ堂へ向った。

フォト:2013年2月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-02-20 09:38 | 几号水準点探索
2013年 02月 19日

『続・几号水準点探索ポタリング/神楽坂・善國寺』 zks-7

JR市ヶ谷駅とJR飯田橋の中ほどの歩道にあるという几号水準点が見つからず、失意のうちに(???)、神楽坂の善國寺へと向う。

善國寺。
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開運、厄除けの毘沙門天。
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電脳網資料によれば、几号水準点は「本殿右側虎石基台正面にあり」とある。
探すまでもなく、「あった!」である。
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下から二番目の台座の中央にくっきりと刻まれている。
遠目でも直ぐに分かる位置に刻まれている。
立て看板を眺めながら「嶋田暁裕上人 大荒行成満帰山式というのは、中山法華経寺での荒行なんでしょうかね」と大給殿。

几号水準点をアップで。
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刻印をカメラに収める大給殿。
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刻印をカメラに納める上総。
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刻印が液晶に写っているところを撮るなんざぁ、大給の旦那もやるねぇっ!

さあ、几号水準点の次は、狛犬コレクションだ。
虎石とは珍しい。
「上総の狛犬コレクション」の珍品だ。

虎石、阿形(右)。
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アップで。
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虎石、吽形(左)。
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アップで。
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右、阿形、左、吽形に見えなくもないが、口の開き方は同じように見える。

台座のレリーフもなかなかよい。
台座(右)。
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台座(左)。
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「善國寺の毘沙門天像」に関わる説明を読む。
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「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃を推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。
善國寺は、文禄4年(1595年)德川家康の意を受けて日惺上人により創建された。
この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。
毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国寺・増長天・広目天と共に四天王の一つである。
寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。
善國寺の毘沙門天は、江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。
現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門を開帳し、賑わいを見せている。
平成21年12月
新宿区教育委員会
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「善國寺の石虎」に関わる説明書きを読む。
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安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が82センチ、吽形(左)は85センチで、台石・基礎部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。
台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。
嘉永元年(1848年)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」、「藁店」、「神楽坂」、「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。
石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。
善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。
また、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。
石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。
戦災による傷みが見られるが、希少な石像であるとともに、地域にとっても貴重な文化財である。
なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
平成21年12月
新宿区教育委員会
-------------------

「善國寺の石虎」に関わる説明書きの最後に、尚書きで、几号水準点に関する記述がある。
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新宿区教育委員会はやるなあと、誠に喜ばしい気がした。
これまで見て来た几号水準点には、何ら、説明書きはなく、明治の遺跡の扱いとしてそれでよいのかとの気持ちがあったので...。
ただ、台座にあれだけ堂々と刻まれ、誰の目にも触れるであろう「不」の記号が何か別のものに勘違いされても困るので、付記したのかもしれないとも思ったりして...。
何れにせよ、この善國寺はまた訪れてみたい寺である。

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多くの人出で賑わう神楽坂。
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その中で、几号水準点を目当てに神楽坂の毘沙門天を訪れた人は幾人いるだろう。
そんなことを考えながら、次の立ち寄り先、地下鉄江戸川橋駅近くの本法寺へと向う。

フォト:2013年2月10日
フォト#6、#18:大給守殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-02-19 22:28 | 几号水準点探索
2013年 02月 19日

『続・几号水準点探索ポタリング/市谷見附東』 zks-6

市谷亀ヶ岡八幡宮から市谷橋を渡り、千代田区に入る。
次に探索すべき几号水準点は、電脳網資料によれば「千代田区 市ヶ谷見附 JR市ヶ谷駅と飯田橋駅中間の橋のたもとのトイレ入り口前歩道埋め込み」とある。
市ヶ谷橋を渡り左折する。
「一般道ではなく、桜並木の遊歩道を走りませう」と大給殿。
一般道は走ったことがあるが、一般道脇のお濠側に設けられた遊歩道を走るのは初めてである。
遊歩道は、眼下に、中央線と総武線、そして、市ヶ谷濠、新見附濠、牛込濠を眺めながらの誠に結構な散策路である。
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「ここは、桜の頃になると、大勢の人出となります」と大給殿。
「"野点"も出来そうですね」と上総。
ドラポタ藩ではアウトドア・クッキングを"野点"と称しているのである。

JR市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間あたりで、お濠に架かる橋に差し掛かる。
「新見附橋」である。
電脳網資料によれば、橋のたもとにトイレがあるはずだが、トイレは見当たらない。
更に先に進む。
遊歩道が終わり、一般道に出る。
歩道の左手にトイレがある、その向こうに石垣が見える。
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立派な石垣である。
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石垣を左へ廻りこむと橋がある。
牛込橋である。
そのたもとは、JR飯田橋駅である。
ということは、ここは牛込見附(牛込御門)跡である。
目的の几号水準点の在り場所は通り過ぎていることになる。
「さっきの、新見附橋のたもとあたりだったようですね」。
「ちょっと、交番で聞いてみましょう」。
おまわりさんは交番手持ちの地図を出して来て、見てくれた。
やはり、新見附橋のたもとにトイレがある。
「もう一度、新見附橋まで戻りましょう」。
「その前に牛込御門の石垣もしっかりと見ておきましょう」。

牛込橋から石垣を眺める。
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やはり、立派な石垣である。
"指南書"によれば、几号水準点が刻まれた日比谷公園の亀石は「牛込見附門にあったものである」と記されている。
日比谷公園が造園された時期から見て、几号水準点はこの牛込見附(牛込御門)の石垣の時代に刻まれたものであると想像される。

再び、遊歩道を走り、新見附橋のたもとに戻る。
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トイレを探すが、ない。
橋のたもとの地図を見る。
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交番の地図と同様に、この地図にもトイレの表示がある。
今一度、その辺りを眺める。
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トイレがあったと思しき場所とその周辺も探る。
しかし、ない。
時期は分からないが、トイレが撤去されていることは明らかだ。
几号水準点があると思しき「トイレ入り口前歩道埋め込み」も見当たらず、歩道整備の際に撤去されたのかもしれない。
探しきれないのは残念であるが、後行程のこともあるので、潔く(???)諦める。
外苑西通り/大京町路傍に続き、この日、二度目の未発見と相成ってしまった。

新見附橋を渡り、外堀通りを走り、次の立ち寄り先、神楽坂/善国寺へと向う。

フォト:2013年2月10日

(つづく)

=補遺=
4月8日、再び、市谷見附東を訪問。
詳しくは、4月12日付「続続続続々・几号水準点探索ポタ/落穂拾いの巻」第3話をご参照願いたい。 
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by kazusanokami | 2013-02-19 20:29 | 几号水準点探索
2013年 02月 19日

『続・几号水準点探索ポタリング/市谷亀ヶ岡八幡宮』 zks-5

外苑西通りから靖国通りに入る。
昼餉を摂る。
午後から所用のある武衛殿と別れ、次の立ち寄り先、市谷亀ヶ岡八幡宮へ向け、靖国通りを走る。
市谷亀ヶ岡八幡宮は、市ヶ谷見附交差点の手前左側の路地を入ったところであることは事前調べ済みであり、直ぐに分かった。

市谷亀ヶ岡八幡宮。
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社は高台にある。
石段を上る。
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石段を上り切り、大きな鳥居をくぐる。
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鳥居に関わる解説が掲げられている。
軍配団扇のことも記されている。
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「軍配団扇が太田道灌ゆかりのものとして伝えられている」とある。
『太田道灌ゆかりの地を訪ねて』シリーズのポタリングもやっている小生、この記述に大いに惹かれるのであった。
そして、狛犬コレクションもやっており、鳥居の足元にある狛犬一対にも惹かれるのであった。
狛犬(阿形)。
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狛犬(吽形)。
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なかなかユニークな風貌の狛犬である。
高輪・承教寺の"謎の狛犬"(履歴を調べると狛犬ではないようだが)に次ぐ、ユニークさではなかろうかと思う次第である。

更に数段、石段を上る。
再び、一対の狛犬が目に入る。
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立派な唐獅子である。

今回のポタリングは太田道灌や狛犬ではなく、几号水準点探索ポタである。
寄り道、脱線の多いのが小生の悪癖である。
几号水準点に話を戻そう。

電脳網資料によれば、几号水準点は「本殿右手水鉢 本殿側下にあり」と書かれている。
本殿と手水舎を眺める。
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「大給さーん、本殿の際じゃなくって、こっちの手水舎ですよ~」。
どんどん、真っ直ぐに、本殿に向って進んで行く大給殿を呼び止める。
手水鉢を眺める。
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発見!
「水を掛けた方が見易いですね」と、大給殿、刻印に水を掛ける。
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刻印のある場所は、手水鉢の台座の本殿側。
これは電脳網資料の通りである。
しかし、刻印の手前に手水舎の柱と囲いがあり、その間隔は非常に狭く、誠に見付け辛い場所に刻まれていた。
カメラに収めるにも、ちょいと、難儀をした。
しかし、電脳網資料あっての発見であることは申すまでもないことである。
先達に感謝!である。

感慨深く、刻印をカメラに収める大給守殿。
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感慨深げに、刻印をカメラに収める上総。
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石段を下る。
愛宕神社ほどではないが、上から見ると結構、急な石段である。
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初めて訪れた市谷亀ヶ岡八幡宮は、なかなか趣きのある神社であった。

次の立ち寄り先、千代田区/市ヶ谷見附東側の歩道埋め込みの几号水準点へと向った。

フォト:2013年2月10日
フォト#13:大給守殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-02-19 15:05 | 几号水準点探索
2013年 02月 19日

『続・几号水準点探索ポタリング/大京町』 zks-4

赤坂見附跡で「見附」の意味をベンキョーしたのち、外苑西通りへ向う。

几号水準点探索は、先達の"指南書"や"電脳網資料"が大いに役立っている。
これらの資料を参照しながら、Yahoo!地図で社寺や近くの目印となる建物などの所在をチェックしている。
これも探索ポタのために大事な準備作業だ。

次の立ち寄り先、大京町路傍の几号水準点は、電脳網資料によれば「外苑西通り、創価学会北側路地入る 独立標石上面にあり」となっている。
外苑西通りは南北に走る道だが、それなりの距離がある。
「創価学会 外苑西通り」で検索すると「外苑西通り沿いの創価学会新宿文化会館」というのが現れる。
この辺りには創価学会の施設が幾つかあるが、外苑西通り沿いにあるのは、この新宿文化会館のみのようであり、電脳網資料の「創価学会北側路地」は「この新宿文化会館の北」であろうというところまでは事前に調べた。

創価学会新宿文化会館は直ぐに見付かった。
その20mくらい北側に路地があった。
その路地に入り、几号水準点を探す。
ない。
大京町の交番所で訊ねる。
外苑西通りの創価学会の施設は新宿文化会館しかないとのことだ。
電脳網資料では2009年に几号水準点の独立石標を実際に見たことになっている。
創価学会新宿文化会館から出て来た若者に「この会館はいつ出来ましたか。2009年より前ですか、後ですか。外苑西通り沿いにこの会館以外に施設はありますか」と訊ねた。
「この会館は2009年以前に出来ています。この通り沿いには、この会館以外の施設はありません」と。
もう一度、北側の路地を探索する。
矢張り、それらしきものはない。
路地の両側はマンションと住宅だ。
何らかの事情で、その後、撤去されたのかもしれない。
路地の路傍の電柱とマンションの入口の陰に石標がある。
しかし、これではない。
記録(???)として、几号水準点があると思しき、この路地と、この石標をカメラに収めた。
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彼是、小一時間、探しても見付からなかった。
探しきれないのは残念なことであるが、後行程のこともあるので、潔く(???)諦めた。
几号水準点探索ポタの第一弾、そして、第二弾のこの時点現在で、初めての探索失敗と相成った。

昼餉を摂ることにした。
その後、次の立ち寄り先、市ヶ谷亀岡八幡宮へ向うことにした。
午後から所用のある武衛殿は昼餉のあと、別れ、大給殿&上総の二人探索ポタとなった。

フォト:2013年2月10日

(つづく)

=補遺=
4月8日、再び、大京町を訪問。
詳しくは、4月17日付「続続続続々・几号水準点探索ポタ/落穂拾いの巻」第5話をご参照願いたい。 
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by kazusanokami | 2013-02-19 13:24 | 几号水準点探索
2013年 02月 19日

『続・几号水準点探索ポタリング/赤坂見附』 zks-3

日比谷公園から赤坂見付へ向う。
三連休の中日の都内。
車の数が少ない。
気持ちがよい。
赤坂に近づくと、いつも思うこと、それは10数年前までは、夜な夜な、ここら辺りを徘徊していたことだ。
今やそんなことをしたいと思うことはないが、昼間、こうして jitensha で走っていると、何故か、そうしたことが懐かしく思い出されるのであった。

赤坂見附交差点に至る。
赤坂プリンスホテルの解体工事が随分と進んでいる。
電脳網資料によれば、「赤坂見附の几号水準点は、弁慶橋から三宅坂へ100m弱の左側の石垣、歩道側赤坂見附寄り最下段にあり」とある。
赤坂見附交差点を弁慶橋側に渡り、三宅坂を上がる。
左側に石垣が見えて来る。
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石垣に到着する。
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石垣の端を下から上へと目を遣り、刻印を探す。
あった!
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アップで。
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几号水準点に見入る大給殿と武衛殿。
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石垣脇の「赤坂見附跡」の標識。
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アップで。
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赤坂見附跡
左側にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。
江戸城の門は敵の進入(筆者注:原文通り。「侵入」であろう)を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。
詳しい説明は、右の坂を登った角にある説明板に記されています。
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「見附とは、そういう意味だったんですね」。
「ずっと長い間、赤坂見附は交差点の辺りのことと思っていましたが、全く間違っていました」。
「大手門、桜田門、平川門なども、高麗門と櫓渡で構成された枡形門ですね。赤坂御門がどんなものだったか、イメージ出来ますね」。
「三宅坂は、江戸府内ポタで何度か下っていますが、この標識は意識していませんでしたね」。
「坂の上の説明板を見に行きましょう」。
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史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門
正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。
江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附(みつけ)」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門(ますがたもん)」の形式をとっています。
赤坂御門はその面影をほとんと残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。
赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之(くろだただゆき)により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直(まさなお)・小川安則(やすのり)によって門が完成しました。
江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道(おおやまみち)の重要な地点でもありました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。
現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。
千代田区教育委員会
寄贈 帝都高速度交通営団
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在りし日の赤坂御門。
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石垣とホテルニューオータニ・ガーデンタワー。
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三宅坂を下る。
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「次の几号水準点は、外苑西通り、大京町路傍です」。
「青山通りから絵画館前を抜けて外苑西通りに出ましょう」。

フォト:2013年2月10日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-02-19 07:52 | 几号水準点探索