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2013年 03月 30日

「続続々・几号水準点探索ポタ/千石三丁目」 zzz-10

小石川/宗慶寺から、次の立ち寄り先、《千石三丁目の路傍》へと向う。

電脳網指南書によれば、「千石三丁目路傍/JR巣鴨駅17号線上り、千石一丁目交差点手前角を西へ400m先路傍にあり」と記されている。
17号線とは、白山通りのことである。
千石一丁目交差点とは、白山通りと不忍通りの交差点である。
宗慶寺から不忍通りを抜け、千石一丁目交差点を目指し、走る。
不忍通りの上り坂が堪える。
大した坂じゃないのだが、ポタの後半ともなると、結構、上り坂が堪える。

千石一丁目交差点に至る。
「千石一丁目交差点の西角から400m。不忍通りを少し戻るということですね」。
「いやいや、そうじゃないんじゃないですか。不忍通りじゃなくって、千石一丁目交差点のひとつ手前の角を西へ、ということでしょう。この指南書を綴った御仁はJR巣鴨駅を起点に書いているので、『交差点手前角』は交差点のひとつ手前の角を西へ、と読むべきかと」。

少々長くなるが、執念の発見に至る一節を綴ってみたい。

先ず、不忍通りを西へ進む。
路傍というのは、発見がなかなか難しい。
「不」の刻印は見当たらない。
ここは「不忍通り」だ。
「不」の刻印を「忍」ぶことは出来ない。
「忍ぶ」じゃなくって、「偲ぶ」だ。
そんな冗談を言っている暇はない。
探索に集中!だ。
不忍通りの西へ400m以上進んだ辺りを右折して、一筋、北側の通りへ向う。

不忍通りの一筋、北側にある通りは、電脳指南書の「千石一丁目交差点手前角を西へ」の通りである。
この通りを、我々は西から東へ進む。
それらしきものは見当たらない。
小さな交差点の角に自動車の衝突防止のための置石と思われる古めかしい石が置かれている。
そうした石も調べてみるが、「不」の刻印は見当たらない。
東へ、東へと進み、千石三丁目から四丁目となり、遂に、白山通りに出てしまった。

「もう一回、ぐるっと回ってみましょう」と、不忍通りを西へ、右折して、一筋北側の道へ。
その道を西から東へと進む。
「その先の交差点は、さっきの置石の交差点ですね」と言うか言わないうちに、《千石三丁目路傍の几号水準点》が自然と目に入った。
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我々は西から東へと辿って来た。
東側からの様子も記録としてカメラに収める。
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「不」の刻印を挟んで、発見の嬉しさを表す"今日の jitensha"。
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衝突防止用の古めかしい置き石が設けられた交差点の南西角に、こんな表示があった。
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その先に、古い佇まいの、こんな店もあった。
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再び、東へ進み、白山通りへ出る。
通って来た通りを振り返る。
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この通りは「千石本町通り商店街」というのであった。
商店街の入口近くには、白山通りに面して、千石一丁目のバス停がある。
その先が千石一丁目交差点である。
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電脳網指南書の記述「千石三丁目路傍/JR巣鴨駅17号線上り、千石一丁目交差点手前角を西へ400m先路傍にあり」は大変参考になった。
だが、次のように記した方が分かり易いと思われる。
「千石三丁目路傍/JR巣鴨駅から白山通り(国道17号線)上り線を進む。千石一丁目交差点手前の千石本町通り商店街を西へ約400m、進む。千石3-37の小さな交差点の北西角から10m先の路傍にあり」。

「ちょうど、5時ですね。巣鴨駅から輪行しますか」。
「自走しましょう。反省会は神田升亀」。
午後5時半、神田升亀に到着。
麦酒で乾杯!
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電脳指南書のコピーを広げて、綱坂、西光寺、覚林寺、神谷町八幡神社、ロシア大使館前、赤坂氷川神社、宝泉寺、南青山七丁目住宅街、宗慶寺、千石三丁目路傍の几号水準点探索を振り返る。
(写真、右/升亀名物「いか天」、左/電脳指南書コピー、消し込みのカラーマークや手書きの地図が見える)

「究極の、下りま専科/乗鞍岳」の話題も飛び出し、大いに盛り上がった反省会を終える。
神田駅は直ぐそば。
駅まで「押し」で行き、輪行にて帰途に就いた。

フォト:2013年3月2日

=予告編=
明治の初めに刻まれた几号水準点「不」の刻印を探索するポタリング、第五弾、最終回を、3月16日に挙行!
ブログ「続続続々・几号水準点探索ポタ」、近々、堂々のアップロード!

(完)
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by kazusanokami | 2013-03-30 10:01 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 30日

「続続々・几号水準点探索ポタ/小石川・宗慶寺」 zzz-9

《南青山七丁目の住宅街》から小石川/宗慶寺へと向う。
渋谷区から文京区と随分と離れたコース・設定だが、几号水準点探索個所がどんどん進み、残りが段々少なくなって来たということでもある。
六本木通り、外苑西通り、新宿通り、外堀通り、春日通りを走り抜ける。
春日通りから右に逸れ、小石川植物園への道、吹上坂を下る。
坂の途中の左側、宗慶寺に至る。

宗慶寺。
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電脳網資料によれば、几号水準点は「門前極楽水碑台座にあり」と記されている。
門前左側の植え込みの中に碑がある。
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果たして、碑には「極楽水」と刻まれていた。
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植え込みが邪魔をして、台座までは目が届かない。
植え込みをぐっと手前に引っ張って、何とか台座の下部を見ることが出来た。
あった!
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アップで。
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几号水準点は殆ど埋まった状態で、植え込みの根までが張り出し、几号水準点を隠すようなことになっていた。
「極楽水」碑に几号水準点が刻まれていることが全く承知われていないように思えてならない。
文京区役所y御住職ほか関係者にインタビューせねばならない部類に属する「不」の刻印であった。

因みに、「極楽水」とは何ぞや?と思い、調べてみた。
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宗慶寺の概要
浄土宗寺院の宗慶寺は、吉水山朝覚院と号します。
宗慶寺は、常陸国の了誉聖冏上人が応永22年(1415年)小石川の清泉のほとりに創建したと伝えられます。
この清泉を法然上人の遺跡にちなんで「吉水」と呼んだことから吉水山伝法院と称したといいます。「吉水」は極楽水、極楽の井とよばれ、付近一帯の地名となったといい、小石川パークタワー内に極楽水として遺っています。
慶長7年(1602)徳川家康の母於大の葬儀に利用され菩提所となり、伝通院となりましたが、普光観智国師が伝法院の旧蹟を再興、徳川家康の側室阿茶局(法名朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼)の隠居寺となり、寺号を宗慶寺、院号を朝覚院と改めたといいます。
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「小石川パークタワー内に極楽水として遺っています」とある。
小石川パークタワーとは、宗慶寺の近くにあるマンションのことだ。
マンションの辺りは、その昔、常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷であったとのことだ。
近くに、「播磨坂」なる坂(結構、有名な坂である)があり、この辺りに播磨守上屋敷があったことを示している。
極楽水が小石川パークタワー内にあるということは、宗慶寺ではなく、播磨守上屋敷にあったことになるのだが、元々、極楽水は宗慶寺であったものが、その地に播磨守上屋敷が置かれることとなり、宗慶寺は近くに移されたとのことである。
よって、現在の宗慶寺に「極楽水」碑が建立されているのである。
そして、明治の初めに、碑の台座に几号水準点が刻まれたということである。
宗慶寺が移転させられなければ、「極楽水」の碑はなく、几号水準点が刻まれることはなかったということになる。
歴史に「たら、れば」はないが、歴史の綾とは面白いものである。

午後4時を過ぎた。
急ぎ、次の立ち寄り先、《千石三丁目路傍》へと向う。

フォト:2013年3月2日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-30 05:20 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 29日

「続続々・几号水準点探索ポタ/南青山七丁目」 zzz-8

宝泉寺(渋谷区東2-6-16)から《南青山七丁目の住宅街》へと向った。
電脳網資料によれば、几号水準点は「南青山七丁目13-29にある住宅の塀の角、半分は土台に埋まっている」と記されている。
宝泉寺と違って、地図通りに進んで、迷うことなく、南青山七丁目3-29の住宅に至った。
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電脳網資料に記されている「住宅の塀の角、半分は土台に埋まっている」、これが難問である。
この御宅には御無礼ながら、家の前を行ったり来たりして探す。
玄関は硝子の引き戸である。
中から外がよく見えるのであろう。
不審(???)な二人連れが外をうろうろしているのが見えたのであろう。
おかみさんと思しき人が硝子戸を開けて、何か御用でしょうかと声を掛けて来た。
手元の資料を見せながら、用向きを伝えた。
「以前にもそういう方がお見えになりましたよ。わたしはその印が何のことかはさっぱり分かっておりませんが、その印はそこの塀の土台にありますよ」と教えて下さった。
左隣りの家との境界にある塀(上はブロック塀だが、土台は昔からのものと見受けられる)を調べる。
樋代わりのビニールパイプの下端に煉瓦や丸い石が置かれている。
それを少し横に除けると、何と、几号水準点が現れた!
(几号水準点は、写真の、赤い煉瓦の直ぐ右側)
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くっきりとした刻印ではない。
辛うじて、残っているという状態であった。
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おかみさんに教えて貰わなければ、発見できなかったかもしれない。
感謝、感謝である。
おかみさんに御礼を申し上げ、次の立ち寄り先、小石川/宗慶寺へと向う。

フォト:2013年3月2日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-29 21:45 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 29日

「続続々・几号水準点探索ポタ/渋谷・宝泉寺」 zzz-7

六本木通りを走り、次の立ち寄り先、宝泉寺(渋谷区東2-6-16)へと向った。
宝泉寺は国学院大学の近くだ。
南青山七丁目交差点を左折し、坂道を下る。
国学院大学近くに至るも、宝泉寺の場所がよく分からない。
地図を見ても何処からアプローチするのかよく分からない。
何人かの人に尋ねるも、誰も知らないと。
山勘で入った住宅街の細道で人に尋ね、漸く、「宝泉寺」に辿り着いた。

こう申しては何だが、然程、大きなお寺ではない。
住宅街の少し奥まったところにひっそり、という感じのお寺である。
電脳網資料によれば、几号水準点は「境内左手の手水鉢『常磐薬師堂』碑台座最下部中央にあり」と記されている。
境内左手の手水鉢とあるが、然様なものは見当たらない。
電脳網資料は2002年のものである。
境内の様子が変ってしまったのかもしれない。
何気なく、本堂を正面から見る。
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本堂の手前、左手に、植え込みに隠れるようにして、碑がある。
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果たして、碑に「常磐薬師堂」と刻まれていた。
よかった!
几号水準点が刻まれているという台座の最下部を見ようとするも、植え込みが邪魔をしてよく見えない。
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執念の大給殿、頭を突っ込んで、調べる。
「あります、あります。相当に見辛いですが」と大給殿。
植え込みの枝を手前に引っ張って、何とかカメラに収めた。
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宝泉寺の几号水準点探索は、お寺そのものの場所が分からない、几号水準点の場所が分からないというダブルパンチで、結構、疲れた。

次の立ち寄り先、《南青山七丁目の住宅街》へと向った。

フォト:2013年3月2日
フォト#3:大給守殿提供

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-29 12:02 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 29日

「続続々・几号水準点探索ポタ/赤坂・氷川神社」 zzz-6

狸穴/ロシア大使館前から赤坂氷川神社へと向う。
赤坂氷川神社は誠に馴染み深い神社だ。
毎年、年末恒例の本所松坂町から高輪泉岳寺までの「赤穂浪士討入凱旋の旅」に、番外編として、「瑤泉院ゆかりの地を訪ねて」をプラスし、この赤坂氷川神社に参っている。
そして、昨年3月には「東京十社めぐり」でも赤坂氷川神社を訪れている。

赤坂氷川神社。
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電脳網資料によれば、几号水準点は「社殿の手前にある鳥居左足基盤正面にあり」と記されている。

参道を進む。
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社殿前鳥居。
馴染みのある鳥居なるも、この日は別の趣きを感じる。
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電脳網資料に従い、鳥居の左側の台座を注視する。
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狛犬にも目を惹かれるが、昨年3月の「東京十社めぐり」で鳥居脇の子連れ狛犬や東側の獅子山風狛犬などを山ほど取材したので、この日は几号水準点に集中!

几号水準点は直ぐに見付かった。
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几号水準点が刻まれた頃のことを想像しながら、今一度、鳥居を眺める。
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赤坂氷川神社は、備後三次浅野藩江戸屋敷跡に建てられた神社である。
備後三次浅野藩江戸屋敷は、播州赤穂藩主浅野内匠頭の正室、阿久里の実家にして阿久里生誕の地であり、阿久里は、夫、内匠頭切腹の後、落飾して瑤泉院と称し、同屋敷に引き取られた。
年末恒例の「赤穂浪士討入凱旋の旅」の番外編「瑤泉院ゆかりの地を訪ねて」に几号水準点が加わり、赤坂氷川神社を訪れる楽しみが増えた。

六本木通りを走り、次の立ち寄り先、宝泉寺(渋谷区東2-6-16)へと向った。

フォト:2013年3月2日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-29 09:56 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 29日

「続続々・几号水準点探索ポタ/ロシア大使館前」 zzz-5

神谷町/八幡神社からロシア大使館前に向う。
ロシア大使館は八幡神社から目と鼻の先、直ぐに到着。
電脳網資料によれば、几号水準点は「ロシア大使館前西側(狸穴坂側)、警察官見張り所の足元歩道面に埋め込んである」と記されている。
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几号水準点の探索の前に、「狸穴坂」の標柱をカメラに収めていたところ、「ありました!」との大給殿の声。
電脳網資料の通り、警察官見張り所の足元にあった。
見張り所に立つ、若い警官さんに事情を話し、勤務の邪魔にならないよう写真を撮らせて貰った。
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几号水準点が別の石に埋め込まれたようになっている。
この几号水準点と水準点が埋め込まれている石のいずれも、何処かから移設されて来たようである。

地名の由来を知る、調べることも好きだ。
「狸穴坂」、その名の由来は「まみとは、雌タヌキ、ムササビまたはアナグマの類で、昔、その穴が坂下にあったという。採鉱の穴があったという説もある」と標柱(冒頭掲載の写真)に記されている通りである。
この「まみ」についてもう少し調べてみた。
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猯、魔魅(まみ)は、タヌキまたはアナグマのことである。
民俗学者・日野巌による『日本妖怪変化語彙』によれば、マミはタヌキの一種とある。
東京都の麻布狸穴町の「狸」を「まみ」と読むことからも、猯が狸と同一視されていたことがわかる。
一方、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では、「猯」は「狸」とは別種の動物として別々に掲載されている。
同書では中国の本草学研究書『本草綱目』からの引用として、山中の穴に住んでいる肥えた獣で、褐色の短い毛に体を覆われ、耳が聞こえず、人の姿を見ると逃げようとするが行動は鈍いとある。
また、その肉は野獣の中でも最も甘美で、これを人が食べると死に瀕した状態から治ることができるともある。
江戸時代には、この猯、狸、そして、ムジナが非常に混同されていたが、これはアナグマがムジナと呼ばれていたところが、アナグマの外見がタヌキに似ており、さらに「貉(むじな)」の名が日本古来から存在したところへ、中国で山猫が「狸」の名で総称されていることが知れ渡ったことから混乱が生じたものとされる。
また、ムササビ、モモンガも「猯」と呼ばれたことがある。
西日本に伝わる化け狸・豆狸は、この猯のことだともいう。
また、江戸時代の奇談集『絵本百物語』によれば、猯が老いて妖怪化したものが同書にある妖怪・野鉄砲とされる。
同じく江戸時代の随筆『耳嚢』3巻では、江戸の番町に猯が現れたとあり、体色は鼠色、目は太陽か月のようで、杖でたたくとガマガエルの背のような感触だったという。
「まみ」の発音が似ていることから、人をたぶらかす妖魔、魔物の総称を意味する「魔魅」の字があてられることもある。
(出典:ウィキペディア)
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その昔、「狸穴」と言えば、旧ソ連大使館のことを指したものであった。
今はそうした言い方を聞くことはないが、ロシア大使館の人たちは「狸穴」の意味をご存知なのだろうかと御節介なことを思ったりした。

余談を少々。
以前、ロシア大使館で開催された「琥珀展」なるものに行ったことがある。
どういう経緯でそうなったのかは知らないが、kazusayome 宛てに案内状が届いたので、yome に誘われ、一緒に行ったのであった。
琥珀に興味があった、ロシア大使館に入れる(中枢部ではないが)というふたつの理由から一緒に行ったのであった。
琥珀に興味があるというのは、20数年前、ロンドンに駐在していた頃、次男坊が自然史博物館で琥珀はどのようにして出来るかという説明書きを書き写して来て、それを訳してくれという。
専門用語も含めて、結構、難解な文章であったと記憶する。
そんなこともあって、琥珀に興味があるのであった。
「琥珀展」では、立派な琥珀、細工された琥珀の装飾品など興味深く見た。
殊に、虫の入った琥珀はタイムカプセルの如くで誠に興味深い。
ロシアが琥珀の産地であることをそのとき初めて知った。
カリーニングラード州が産地とのことだ。
カリーニングラード州はポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛地領である(何故、飛地領なのか、その歴史を綴ると長くなるので、ここでは割愛する)。
ロシア大使館に行ってみて分かったことだが、「琥珀展」とは名ばかりで、琥珀の装飾品の即売会の色合いが強い催しであった。

見張り所の若い警官さんは、几号水準点のことはご存知なかった。
少しばかり、その歴史を話させて貰った。
交代のとき、几号水準点のことが話題になるのではないかと思いながら、若い警官さんに礼を述べ、次の立ち寄り先、赤坂氷川神社へと向った。

フォト:2013年3月2日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-29 06:05 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 28日

「続続々・几号水準点探索ポタ/神谷町・八幡神社」 zzz-4

白金今里/覚林寺から神谷町/八幡神社へと向う。

神谷町の八幡神社は、飯倉交差点近くに鎮座する神社だ。
飯倉交差点は、都内ポタのときによく通過するところでもあり、八幡神社の存在は承知しているが、立ち寄ったことはなかった。

赤羽橋交差点から東京タワーを眺める。
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赤羽橋交差点は、東京タワーが地上から聳えるように見える、数少ないスポットのひとつだ。

飯倉交差点に向けて坂道を上る。
交差点を渡り、坂道を少し下ったところの左側に鎮座する八幡神社に至る。

神谷町/八幡神社。
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電脳網資料にによれば、几号水準点は「石段上の左側鳥居の足正面にあり」と記されている。
一の鳥居をくぐり、石段を上る。
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石段上の鳥居の左側の柱に焦点を合わせる。
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鳥居の柱の手前に灯籠が立っている。
灯籠の柱と鳥居の柱の間は結構狭い。
狭いながら、鳥居の柱の正面の足元の辺りを見る。
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あった!「不」の刻印が。
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アップで。
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更にアップで。
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八幡神社に参拝する。
参拝と几号水準点探しが後先になってしまい、礼を欠いたことになっているのだが...。
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境内に「西久保八幡貝塚」なる説明板が設けられている。
これに目を通す。
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港区虎ノ門飯倉交差点の北側にあたる台地の先端に西久保八幡神社があります。
この社殿の裏手斜面に貝塚が形成されており、都心部に良好な状態でのこる貝塚と言えます。
本貝塚が知られたのは昭和のはじめ頃に遡りますが、正式調査を経ぬまま今日にいたっていました。
昭和57年(1982年)度の都心部遺跡調査団による分布調査で存在が確認され、調査が行われました。
台地の縁辺から斜面にかけて、縄文時代後期前葉から後葉にかけての混土貝層が二枚発見されました。
また、貝層上には縄文時代晩期の遺物包含層、貝層下には縄文時代前期の遺物包含層が確認されています。
調査範囲が狭いにもかかわらず、貝層からは縄文時代後期中葉の完形の精製浅鉢土器や精製深鉢土器、粗製深鉢時が数個出土しており、E・Sモースが発掘した品川区大井の国指定史跡大森貝塚出土品(重要文化財)との比較資料として重要です。
平成22年(2010年)3月
東京都教育委員会
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縄文時代のこの辺りの光景を想像してみる。

貝塚のベンキョーの次は、勿論、狛犬コレクションだ。
二の鳥居脇の狛犬コレクション。
右/阿形。
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左/吽形。
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前肢脇の飾り彫りが美しい。
前肢の爪先の真ん丸さが愛くるしい。

拝殿前の狛犬コレクション。
右/阿形。
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左/吽形。
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子連れ狛犬である。
子連れ狛犬は大好きなタイプの狛犬だ。
大好きなだけではない。
この八幡神社のこの狛犬は、特筆すべき狛犬一対である。
何が特筆すべきことなのか、それは、阿形、吽形の何れかが子連れの狛犬が多い中、この狛犬は阿形、吽形、共に子連れなのである。

几号水準点、貝塚、そして、狛犬と、大いに愉しませてくれた八幡神社に感謝しながら、次の立ち寄り先、ロシア大使館前へと向う。

フォト:2013年3月2日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-28 06:28 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 27日

「続続々・几号水準点探索ポタ/白金今里・覚林寺」 zzz-3

白金三光坂下/西光寺から、次の立ち寄り先、白金今里/覚林寺へと向う。

電脳網資料によれば、「白金今里 覚林寺/山門の外、国道に面した『清正公大明神』の石碑台座左下にあり」とある。
事前に地図で覚林寺の場所を調べたところ、桜田通り(国道1号線)の清正公前交差点の角に位置していた。
清正公前交差点は都内ポタリングで何度か通過ことがあるが、今回の几号水準点探索ポタで初めて意識して知った交差点である。

清正公前交差点に至る。
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覚林寺。
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山門には「鎮守 清正公神儀御鎮座」と「山手七福神 大毘沙門天王御安置」の札が掲げられている。

電脳網資料を今一度、読み返す。
「山門の外、国道に面した『清正公大明神』の石碑台座左下にあり」。
境内ではないのだ。
国道に面した石碑を探す。
あった!石碑が。
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碑は、山門のずっと手前、清正公交差点角の「洋服お直しの上野」さんと公衆電話ボックスに挟まれて、鎮座していた。
電脳網資料では「清正公大明神」とあるが、「清正公神儀」(せいしょうこうしんぎ)と刻まれている。
神儀とは何か。
〔名〕(「じんぎ」とも)死者の霊魂。多くの場合、位牌または墓石などの法名の下に書く神位、大覚位などをいう。

電脳網資料の「台座左下」に従い、台座の左の方を見る。
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台座は三段ある。
あった!「不」の刻印が。
二段目の台座の、左面の真ん中辺りに「不」が刻まれていた。
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アップで。
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更にアップで。
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几号水準点をカメラに収める"探索総元締め"大給守殿。
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「不」の刻印を見つけたときのスッキリ感が何とも言えない、いい感じだ。

境内に入る。
清正公堂に掲げられた扁額「破魔軍」。
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覚林寺の縁起に目を通す。
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当山略縁起
通称白金の清正公さまと呼ばれる当山は、最正山覚林寺と号し、寛永8年(1631)可観院日延(韓国の王族)によって開創されたお寺であります。
開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大尊儀は古く江戸時代より開運の神さまとして霊験まことにあらたかで広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。
毎年5月4日、5日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され、東都における清正公信仰のみなもととして今もなお各界の参詣祈願者でにぎわいます。
ご神徳を仰ぎ謹んでご拝礼ください。
最正山 清正公 覚林寺
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山手七福神のサイトでは次の通り綴られている。
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加藤清正公は、尾張に生まれ、12歳の時に長浜城主であった豊臣秀吉に仕えた。
賤ヶ岳七本槍の一人に数えられるほど勇猛で、安土桃山時代に活躍した武将。
加藤清正は武将としての力量もさることながら、築城、治水、干拓など優れた土木技術の専門家としても、今日、高い評価を得ています。
これによりこのお寺では、江戸時代から庶民に信仰され、建築、治水等の祈願者が多い。
日本三大名城の一つとして数えられる熊本城主としても名高い。
清正公は、朝鮮出兵の際(文禄・慶長の役)に、朝鮮国の王子を連れ帰り養育した。
清正公は熱心な法華経の信者で、その影響を受け成長した王子は、やがて出家し、小湊の誕生寺住職となった。
この日延上人が、寛永8年(1631)、熊本藩の中屋敷だった現在地に覚林寺を開き、清正公を祀った。
清正公大祭(毎年5月4・5日)では、清正公像が特別開帳され、「勝守り」が授与される。
武運の強かった清正公にちなんだ「勝守り」は、あらゆる勝負に勝つという意味を持つ。
大祭に限り、菖蒲の入った勝守りを受けることができる。
菖蒲が、勝負や尚武に通じ、縁起がいいとされ、江戸時代から人気が高かった。
また、「開運出世祝鯉」という、紙でできた30センチほどの鯉のぼりも授与され、子供の成長を願う参拝者に人気だ。 
本堂の扁額には「破魔軍」という勝軍祈願を込めた字が書かれており、現在拡大解釈され、受験の勝負に勝つ御利益に変身しています。
なお、山手七福神(目黒)の毘沙門天(びしゃもんてん)も祀られている。
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「清正公」は「せいしょうこう」と音読みとなる。

境内の寒桜がその蕾をほころばせていた。
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次の立ち寄り先、神谷町/八幡神社へと向う。

フォト:2013年3月2日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-27 23:33 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 26日

「続続々・几号水準点探索ポタ/白金三光坂・西光寺」 zzz-2

三田/綱坂の歩道上にあるという几号水準点は発見出来ぬまま、次の立ち寄り先、白金/三光坂/西光寺へと向う。

三光坂/西光寺に至る。
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三光坂は、以前、「江戸府内坂道ポタ」の際に上ったことのある坂だ。
しかし、坂の上り口に西光寺なる寺の存在も几号水準点の存在も全く知らなかった。

西光寺。
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境内に入る。
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電脳指南書では「本堂左南無阿弥陀仏碑台座左面にあり」とある。
本堂へ向って進む。
本堂の左を調べる。
碑はない。
念のため、右側も見る。
碑はない。
本堂の左からずっと目を移す。
あった!境内の手前、左に「南無阿弥陀仏碑」が。
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あった!几号水準点が。
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アップで。
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超アップで。
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「不」の刻印を見ると心が落ち着く。

次の立ち寄り先、白金今里/覚林寺へと向う。

フォト:2013年3月2日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-03-26 17:32 | 几号水準点探索 | Comments(2)
2013年 03月 26日

「続続々・几号水準点探索ポタ/三田・綱坂」 zzz-1

明治の初めに刻まれた几号水準点「不」の刻印を探索するポタリング、1月26日の第一弾、2月10日の第二弾、2月16日の第三弾に続き、第四弾を3月2日に挙行!
第四弾ともなると、タイトルも「続続々・几号水準点探索ポタ」と「続」が三つと相成りて、どんな展開となるのか、本当にゾクゾクしてくるのである。

冒頭から余談となるが、シリーズとなった映画はというと、こういう題名になっている。
市川雷蔵主演「忍びの者」は、「続 忍びの者」、「新 忍びの者」...、以下省略。
勝新太郎主演「悪名」は、「続 悪名」、「新 悪名」、「続 新悪名」...、以下省略。
渥美清主演「男はつらいよ」は、「続 男はつらいよ」、「男はつらいよ フーテンの寅」、「新 男はつらいよ」...、以下省略。
外国映画の邦題では、「猿の惑星」(Planet of the Apes)、「続・猿の惑星」(Beneath the Planet of the Apes)、「新・猿の惑星」(Escape from the Planet of the Apes)...、以下省略。
各社、各作品、苦労のあとが見受けられる。

本題に入らせて戴く。
3月2日、几号水準点探索ポタ第四弾を挙行。
探索メンバーは、大給守殿と上総。
JR田町駅に集合、最初の立ち寄り先、三田/綱坂へと向う。

三田/綱坂。
電脳網指南書では「慶応中等部前の綱坂を上がった三叉路の右手前歩道上にあり。移設元不明」とある。
綱坂の右側歩道を上りながら、歩道上を注視する。
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標柱「綱坂」。
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電脳網指南書の「慶応中等部前の綱坂を上がった三叉路」の三叉路が気になる。
慶応中等部の角に三叉路がひとつあり、坂を下ってその辺りを探す。
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しかし、几号水準点は見当たらない。
探索の総元締めである大給殿、港区役所の電話番号を調べ、港区役所に問い合わせにトライ。
これは正しい調べ方だ。
以前、「赤穂浪士討入凱旋の旅」の《番外編》の途中、大石内蔵助ほか十六士忠烈の跡(港区)
大石内蔵助以下17名が預けられた肥後熊本藩細川家下屋敷跡の場所がよく分からず、港区役所に電話で聞いたこともあったので。
大給殿の問い合わせ結果は「綱坂と綱の手引き坂の交差点の角」とのことであった。
ということは、綱坂を上り切った辺りだ。
再び、坂を上り、綱の手引き坂に至る。
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綱坂と綱の手引き坂のT字型三叉路の角々を注視する。
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電脳網指南書を演繹すると「綱坂を上り切った、綱の手引き坂とのT字型三叉路、手前右側の歩道上」となるが、見当たらない(写真では、右の横断歩道を渡ったところの幅の狭い歩道)。
綱坂を上り切った左側の角にある、綱町三井倶楽部前の歩道も注視する。
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しかし、これも見当たらない。

綱坂と綱の手引き坂とのT字型三叉路から、綱坂を少し下がって、イタリア大使館脇あたりの歩道も調べた。
大使館脇のゴミ置き場に標識らしき石が転がっている。
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歩道の舗装工事の際、撤去されたのではなかろうかと思うと、何でも几号水準点が刻まれた石に見えてしまうのであった。

イタリア大使館は、大石主税殿以下10名が預けられた伊予松山藩松平家下屋敷跡である。
また、綱町三井倶楽部はジョサイア・コンドルの作である。
これまでに「赤穂浪士討入凱旋の旅」の番外編「四家お預けの旅」でイタリア大使館に立ち寄ったり、「日本近代建築の父、ジョサイア・コンドルゆかりの地を訪ねて」で綱町三井倶楽部に立ち寄ったりして来ているが、几号水準点がこの辺りにあったとは露知らず。
目線がちょっと違うだけで、ポタリングとは誠に面白いものである。

綱坂/綱の手引き坂が交差するT字型三叉路の角に立つ、情報がいっぱい書き込まれた地図「三田 坂めぐり」をここに掲載しておこう。
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天祖神社、赤羽沼ッ学校、簡易保険事務センター、三田高校、綱の手引き坂、三井クラブ(旧武家屋敷)、綱坂、消防庁第一本部、イタリア大使館、大石主税以下切腹跡、慶応義塾大学などが記されている。

綱坂の几号水準点は、この日、最初の探索。
まだ、他の探索が控えているので、綱坂でのこれ以上の探索はギブアップとした。
ただ何も無しでのギブアップは悔しいので、記念(?)「基準鋲 + 港区」をにカメラに収めた。
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港区役所まで電話で確認した大給殿の執念に敬意を表しながら、次の立ち寄り先、白金三光坂/西光寺へと向った。

フォト:2013年3月2日

(つづく)

=補遺=
4月8日、再び、綱坂を訪問。
詳しくは、4月18日付「続続続続々・几号水準点探索ポタ/落穂拾いの巻」第6話をご参照願いたい。 
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by kazusanokami | 2013-03-26 07:41 | 几号水準点探索 | Comments(2)