『上総守が行く!』

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2014年 03月 29日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/帰路も向い風』 stm-9

話を少し戻して、朝、北千住駅で、愛馬、BD-1Alfineに不具合が生じ、修理のため、お花茶屋「サイクルハウスしぶや」へ向った伊豆守さんの様子を。

12時半頃、大給守さんから伊豆守さんにケータイ糸電話し、様子を確認。
シフト・ケーブルワイヤがヒゲ状になっていて、これが悪さをしてギア・シフトが上手く動かなかったとのこと。
ケーブルワイヤを交換し、復旧。
ついでに、内装スプロケットにオイル注入も。

午後3時、我らが旧坂東家住宅を出発する頃、伊豆守さんから「芝川水門休憩所にてお待ちします」とのケータイ電子飛脚便が到来。
北千住から旧坂東家住宅までの走行距離は約37km。
往路は川口盆栽村に立ち寄ったりで若干多めに走っているので、帰路は30kmくらいの見込み。
夕方5時頃には芝川水門に到着するであろうとの見込み。

伊豆守さんを待たせているので、急ぎ、戻らねばならないところではあるが、当初の予定通り、見沼自然公園近くの鷲神社に立ち寄る。
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鷲神社御由緒。
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「当社は奥州街道(後の日光御成街道)の西、やや奥まった所に鎮座している。(中略)社伝によると、平安期、兄、八幡太郎義家を援けんと、新羅三郎義光が奥州街道を下向する途次、当地において奇瑞を感じた。そこで神楽を奏上し、跡地に祠を建てて、鷲明神を奉納したという(以下、略」とある。
興味深い由緒である。

再び、見沼代用水沿いの「緑のヘルシーロード」に戻り、見沼自然公園の遊歩道を走る。
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遊歩道はブロックが敷き詰められており、自転車にとってはやや走り辛い。
と、思った瞬間、後方でチーン、チーンとベルの音がする。
振り向くと、大給守さんからの合図だ。
遠目からも愛馬の調子が悪いことが分かる。
前方を行く南国守さんの姿は見えない。
ケータイ糸電話で「大給守さんの愛馬にトラブル発生」と伝え、南国守さんは戻って来た。
大給守さんの愛馬のトラブルは後輪のパンク。
「後輪だとチューブの取替えが面倒ですね。パッチで修理しましょう」。
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無事、パンク修理を終え、出発。

パンク修理で20分ほど喰ってしまったので、当初予定の、東沼神社への立ち寄りはカットし、走り続ける。
午前中のままの風なら帰路は追い風と思いきや、風向きは変わり、帰路も向い風。
合気道で鍛えた南国守さん、スキーで鍛えた大給守さんは元気だが、小生は段々とへばって来た。
帰路も漕ぐ漕ぐ自転車で頑張るだけだ。

芝川水門休憩所に到着し、伊豆守さんと合流。
朝、出遭った富士見100景の親子像は夕景を眺めていた(カメラ・データによれば、午後5時25分)。
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「さあ、北千住で反省会だ」と荒川右岸CRを走る伊豆守さんの雄姿(写真、左)と東京スカイツリー(写真中央、前方遠くに)。
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いろんな出来事があったが、江戸時代の新田開発や水運の歴史を知る「芝川CR&見沼代用水CRポタリング」であった。

フォト:2014年3月22日

(完)
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by kazusanokami | 2014-03-29 01:07 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 29日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/坂東家住宅』 stm-8

見沼代用水路から外れ、見沼自然公園の西にある「旧坂東家住宅見沼くらっしく館」へと向った。

さいたま市指定文化財「旧坂東家住宅」。
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坂東家は、8代将軍徳川吉宗の時代にこの地(加田屋新田)を開拓した名主の家である。
展示されている屋敷は、安政4年(1857年)、10代目助次郎によって建てられたものである。

床の間に違い棚。
昔は小生もこんな家に住んでいた。
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床の間には季節の掛け軸。
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黒光りしている階段。
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コの字型の囲炉裏。
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庭の光り。
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庭で竹馬に興じる子供たち。
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竹馬作り。
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昨秋、訪ねた常総市の坂野家住宅も立派だが、この坂東家住宅も立派である。
全体の風景としては坂野家住宅に軍配だが...。

フォト:2014年3月22日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-29 01:03 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 29日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/見沼代用水CR』 stm-7

木曽呂の富士塚をあとにして、見沼代用水東縁(ひがしへり)沿いを走る。
見沼代用水東縁沿いのこの道は「緑のヘルシーロード」と名付けられている。
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「緑のヘルシーロード」は、行田市にある利根大堰から鴻巣市(旧川里村)、騎西町、菖蒲町、白岡町、蓮田市、上尾市、さいたま市、川口市を通って川口グリーンセンター付近まで繋がっている、総延長約56kmの遊歩道である。
「緑のヘルシーロード」なる名称は超お役所的なネーミングで、今ひとつだなあと思うのは小生だけであろうか。
ということで、ここでは「見沼代用水CR」と呼ぶことにする。
=備考=
写真のマップは、方位記号が示す通り、斜め左上方向が北である。
マップを縦にして見た方が方角的には現実に即している。
こういうマップの作り方もお役所的やなあと思う次第である。

さて、見沼代用水とは何ぞやについて触れておこう(出典:主にウィキペディア)。

江戸時代初期、関東郡代であった伊奈忠治によって、荒川下流の治水や新田開発を目的として現在の元荒川を流れていた荒川を入間川へ付け替える工事や利根川の流路を太平洋へと付け替える利根川東遷事業が行われたが、これらの川の付け替えは、元の流域周辺の水不足を招く恐れがあった。
そこで、周囲の灌漑用水を確保するため、寛永6年(1629年)、伊奈忠治は、天領浦和領内の川筋(現財の芝川に当たる)を堰き止める形で、長さ約870m(8町)の八丁堤(現在の埼玉県さいたま市緑区大間木付近 ※本ブログの第5話で八丁橋や大間木が登場した)と呼ばれる堤防を築き、水を溜めた。この灌漑用ダムを「見沼溜井(みぬまためい)」と称した。

時は変わり、8代将軍徳川吉宗の時代(享保元年(1716年)-延享2年(1745年))となり、享保の改革が始まった。幕府の財政建て直しのための増収策として、新田開発奨励策が示され、各地で灌漑用溜井が新田として干拓されることとなり、見沼溜井もその対象となった。幕臣の井沢弥惣兵衛為永によって、見沼溜井の干拓が行われ、併せて、農業用水を利根川から供給する水路も設けられた。灌漑用溜池であった見沼溜井の代替用水路であったことから「見沼代用水」と称された。
流路は、現在の埼玉県行田市付近(利根大堰)で利根川より取水され、上尾市瓦葺/瓦葺中学校脇で東縁(ひがしへり)と西縁(にしへり)に分かれ、東縁代用水路は東京都足立区、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至る。

見沼干拓後は加田屋など商業資本も加わった新田開発が進み、開発面積1,228ha、新田面積1,172haの見沼田圃が完成した。それ以後、この地は肥沃な穀倉地帯となった。さらに、見沼干拓に併せて、八丁堤跡に建設された見沼通船堀により、江戸とを結ぶ見沼通船が開通、見沼代用水流域の川船輸送の発達にもつながった(※本ブログ第5話で登場)。

見沼のあれこれを調べていたところ、「見沼の龍神伝説」なるものを発見した。
見沼には龍神が住んでいるとされ、その龍神が住んでいると考えられていた四本竹という場所(現・さいたま市緑区大字下山口新田字四本竹)では近隣の氷川女体神社が龍神を鎮めるために御船祭という行事を行っていた。見沼が干拓されるにあたって龍神は見沼に住めなくなってしまうので、美女に姿を変え、井沢弥惣兵衛のもとにお願いをしに行ったり、怒って嵐を起したりしたといわれている。しかし、見沼の干拓は完了してしまい、龍神は天に昇っていったという。また、龍神は印旛沼に引っ越したとも言い伝えられる。干拓が終わった後は、御船祭に代わり、磐船祭が執り行われるようになったとのことである。
龍を趣味とする小生、数年前に印旛沼の龍伝説を綴ったことがあり、龍神が印旛沼に移り住んだというところに惹かれる。
印旛沼の龍伝説は、2011年7月29日付ブログ「印旛沼龍伝説」を参照いただきたい。

「緑のヘルシーロード」は利根大堰まで続いているが、この日のポタは見沼自然公園まで。
見沼自然公園は鳥見のメッカであると聞いたことがあり、双眼鏡を携行して来たが、鳥の声も鳥影も少ない。
そんな中、疎水の対岸の藪で、コジュケイが♪ちょっと来い、ちょっと来い♪と賑やかに鳴いていた。
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=鳥見メモ=
コジュケイ(声のみ)、カモ類、ヒヨドリ、キジ(オス、声だけ)、キジ(メス)など。
重装備のバーダーさん、1名のみ。
疎水に張り出した枝振りからして、カワセミがいそうな感じ。

見沼自然公園で見沼代用水路から外れ、公園の西にある「旧坂東家住宅見沼くらっしく館」へと向った。

フォト:2014年3月22日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-29 01:01 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 29日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/木曽呂の富士塚』 stm-6

木曽呂の富士塚。
見沼通船堀を背にして富士塚を見上げる。
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富士塚の裾を見沼代用水が流れている。
見沼代用水沿いのサイクリングロード「緑のヘルシーロード」の標識も見える。

富士塚の裾を流れる見沼代用水路を渡り、坂道を上り、富士塚へと向う。
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国指定有形民俗文化財 木曽呂の富士塚
昭和55年4月24日指定
富士塚は富士山を模した塚で、江戸高田の行者藤四郎が老若男女だれでも心やすく富士に登山できるようにと安永9年(1780年)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。
木曽呂の富士塚は、地元で"ふじやま"または"木曽呂浅間"と呼ばれ、寛政12年(1800年)に富士講の一派である丸参講の信者蓮見知重の発願によって見沼代用水と通船堀の連結地点の縁に築造されたもので、高さ5.4m、直径約20m、塚全体が盛土で築かれている。
頂上にはお鉢めぐりができるように火口が掘ってあり、また、今日では入り口が埋没しているが、塚を貫いて胎内めぐりの穴を設けている。
富士塚の麓には文化2年(1805年)建立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。
この他、塚ならびに周囲には享和4年(1804年)の石燈籠、天保4年(1833年)の石鳥居など丸参講によって造立された石造物が多く残されている。
富士塚の中でも古い築造で、特に埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので貴重である。
文化庁
埼玉県教育委員会
川口市教育委員会
蓮見武夫
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富士見塚脇の店「日本料理 ふじ」で昼餉を摂る。
店内の壁に皇太子ご夫妻が富士塚を訪問された際の写真が飾られている。
皇太子殿下は、オックスフォード大学留学時、英国水運史を研究されたと記憶するので、富士塚のみならず、見沼通船堀も見学なされたのであろう。

昼餉ののち、富士塚に上った。
富士塚から見沼通船堀を眺める。
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200年前、富士塚に上った信者の皆さんもこうして見沼通船堀を眺めたのであろう。

フォト:2014年3月22日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-29 00:59 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 28日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/見沼通船堀』 stm-5

芝川/八丁橋に至る。
この辺りから、このポタのハイライト、見沼通船堀や見沼代用水路の始まりとなる。

八丁橋東詰に鎮座する「水神社」。
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神社脇の説明板に目を通す。
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水神社
水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保17年(1732年)6月の創建と伝えられています。
祭神は水の神である罔象姫命(みづほのめのみこと)をお祀りしています。
享保16年、井沢弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。
船は、代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主でした)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできました。
荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに59ケ所あり、ここ八丁にも河岸場がありました。
八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人たちが住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人たちが水難防止を祈願して祀ったものです。
なお、本殿は大正12年9月1日の大地震により全壊し、同13年に再建されたものです。
また、境内は国の史跡「見沼通船堀」の一部になっています。
平成24年3月
さいたま市
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八丁橋から芝川の川上方面を眺める。
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右側(東側)の道に小さな橋が見える。
これが見沼代用水路東縁と芝川を繋ぐ見沼通船堀の出入り口である。
左側(西側)の道にも小さな橋が見える。
これが見沼代用水路西縁と芝川を繋ぐ見沼通船堀の出入り口である。
見沼代用水路とその東縁・西縁とは何ぞやについては、後ほど、述べることとしたい。

「あちらに何やら立派な民家がありますね。ちょっと、立ち寄っていきましょう」ということで、県道103号線を少し西に向い、南国守さんの企画書外の旧家を尋ねた。
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建物脇の説明板に目を通す。
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鈴木家住宅
国指定史跡見沼通船堀のうち昭和57年7月3日指定
享保12年(1727年)、鈴木家は高田家とともに井沢弥惣兵衛為永に従って見沼干拓事業に参加しました。
享保16年の見沼通船堀の完成と同時に、鈴木・高田両家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり、八丁堤などには通船会所を持っていました。
鈴木家は各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行い、文政年間以降は八丁会所において船割りにあたり、住まいも八丁に移しました。
現在残る鈴木家住宅は、この頃の建立になり、見沼通船堀の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物です。
平成9年3月
さいたま市教育委員会
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住宅内部の見学は不可、今も鈴木さんが住まわれているとのこと。
住宅裏庭の資料館でいろいろとベンキョー。

再び、八丁橋を渡り、芝川を少し遡り、小さな橋を渡って右折。
「見沼通船堀」を見学。
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通船のしくみ
見沼通船堀に使われた船は「ひらたぶね」と呼ばれるそこの平らな長さ11m・幅2m程のもので約60kgの米俵100~150俵積みの小型船でした。
江戸から来た船が八丁河岸に着くと船頭は、近所の人々に声をかけ人々を集めます。
およそ20人くらいの人々が土手から綱を引いて一の関まで引きます。
一の関では水門から勢いよく流れ出る水の上を一気に引き上げます。
そして、このとき二の関は水位を保つために閉められています。
船が一の関にはいると「枠抜き」の人が角落板を一枚ずつ積み上げます。
板を10枚近く積み上げると水位は二の関の敷板の高さまで上がり、二の関に入ったときと同様に船は引き上げられ、代用水まで引かれて通船が終わります。
見沼代用水から芝川へ船が下るときは逆の手順で行い、関に積み上げられた角落板が1枚ずつ外されて楽さを無くして船を通過させます。
このように通船堀の船を通すには、大勢の人々と手慣れた船頭の力が必要でした。
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芝川と見沼代用水の水位差が約3mあったことから運河に関(閘門)を設け、水位差を克服し、船を通過させていたのである。
閘門式運河では日本最古の部類に入るとのことである。
見沼通船堀を見て思い出すのは、20数年前にロンドンに住まいしていた頃に見た英国の運河のロック。
有名どころでは、マーローのロック。
その他にも、地方の運河を見ているとロックの開閉が機械式のものであったり、手動式のものがあったりと多種多様。
その頃、まだ、年少であった息子二人は Canal Boat の通過で手動式を手伝っていたこともあった。
因みに、皇太子殿下は、オックスフォード大学留学時、英国水運史を研究されたと記憶するので、運河やロックの研究もなさったのであろう。

第一の関(芝川側出入り口)。
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第一の関(見沼代用水側側出入り口)。
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第二の関。
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見沼通船堀沿いを進むと正面に「木曽呂の富士塚」が見えてくる。
富士塚を背に見沼通船堀を眺める。
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「次は富士塚です。富士塚の隣りに日本料理屋がありますんで、そこで昼餉を摂りましょう」とナビゲーターの南国守さん。
富士塚の裾を流れる見沼代用水路を渡り、坂道を上り、富士塚へと向う。

フォト:2014年3月22日(#7/大給守殿提供)

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-28 07:15 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 27日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/川口盆栽村』 stm-4

在家橋で芝川CRから外れ、川口盆栽村へと向う。

川口盆栽村。
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南国守さんからコース案内が到来した際、「川口盆栽村」とあったので、ヤッホー!マップで調べたところ、盆栽業者が集まった「村」ではなく、盆栽の一業者の名が「川口盆栽村」なのであった。
ということで、この看板を見たとき、ショック(???)は感じなかった。

一足早く咲いたソメイヨシノを愛でる。
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花にピンが合っておらず、没かな?と思いきや、上手い具合に盆栽鑑賞中の南国守さんが写っていたので、採用!

並んでいるものが好き!なのである。
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白龍のような姿が好き!なのである。
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先の大雪で国許の老松の枝が折れてしまったという大給守さんは、殊の外、松の盆栽に興味ありの様子。
「同じような姿をした松の盆栽の値段が一桁違うのは、畑で育てて鉢に植えたものと最初から鉢に植えて育てたものの違いだそうです」と盆栽村でのヒアリング事項の報告あり。
お客さんであろうか、20代の頃からサツキの盆栽をやっていて、今は盆栽に凝っているという御仁曰く、「輸出用もあるんです。輸出用はビニールハウスの中で棚に置いて育てねばならないんです。検疫のためです」と。
"Bonsai"は世界共通の言葉。
20年前くらいであったろうか、クラシック音楽のエラート・レーベルが Bonsaiシリーズと銘打って廉価版のCDを発売していたことを思い出した。
CDジャケットが"Bonsai"なのであって、演奏は<凡才>ではなく、フランスの名立たる演奏家の素晴らしいものばかりであった。
30年以上も前のことだが、盆栽好きの親父を香川県の鬼無や大宮の盆栽村へ連れて行ったことも思い出される。
鬼無は桃太郎伝説と盆栽の町である。
鬼無の松盆栽は80%のシェアを占めていると何かの本で読んだことがある。

「川口盆栽村」の辺りの地名に興味深いものがあるので、それについて触れておこう。
この辺りの住所は川口市神戸(ごうど)。
「神戸」といえば、兵庫県の神戸(こうべ)市が有名である。
我が生誕地でもある。
それ以外で知っている「神戸」の地名としては、江ノ電腰越駅近くの神戸(ごうど)川と神戸(ごうど)橋、豊橋鉄道渥美線の神戸(かんべ)駅などがある。
全国には多くの「神戸」という地名があり、その読みは「かど」、「かのと」、「かみと」、「かみど」、「かんど」、「かんべ」、「ごうと」、「ごうど」、「こうど」、「こうべ」、「じんご」、「じんど」など多岐に亘っているそうだ。
因みに、「神戸(かむへ=かんべ)」とは神社に租税を納める民のことだそうだ。
「かんべ」といえば、神戸一郎という歌手がいた。
これは芸名だ。
芸名の由来は不詳ながら、彼は兵庫県神戸市出身なので、神戸という芸名をつけたのであろう。
但し、神戸一郎(こうべいちろう)では語呂が悪いし、出身地がみえみえなので、神戸一郎(かんべいちろう)にしたのかもしれない。
甘い歌声の、いい歌手であった。

「川口盆栽村」を出発する際、店の娘さんであろうか、表まで出て来て「お立ち寄りくださって有難うございました」と挨拶があった。
更に続けて、「まあ、かわいい自転車だこと」と。
「ミニベロですから、自転車の盆栽みたいなもんです」と言い残し、出発した。

在家橋まで戻り、再び、芝川CRを走る。
次は、愈々、こ日のポタのハイライト、見沼通船堀や見沼代用水路である。


フォト:2014年3月22日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-27 11:05 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 27日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/芝川』 stm-3

芝川サイクリングロードを走る。
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芝川。
地理的には;
埼玉県桶川市末広を発する流れと桶川市小針領家を発する湧水が芝川の源流とされ、この2本の流れが上尾市本町の一本杉橋の北側で合流し、東南に流れる。
さいたま市の見沼田圃を流れ、川口市に入り青木水門で芝川と新芝川(芝川放水路)に分かれる。
川口市南端の領家水門で新芝川と再合流し、芝川水門で荒川(荒川放水路)に注ぐ。
歴史的には:
さいたま市東部に存在した沼地である見沼に注ぎ、見沼から流れ出て荒川に注いでいた川が芝川の原形である。
江戸時代のはじめに、関東郡代の伊奈忠次によって溜井(ため池)に改修されていた見沼が、1727年に干拓されて見沼田圃(見沼たんぼ、さいたま市見沼区、緑区)になると、排水路として見沼田圃の最も低いところが開削されて、現在の芝川の河道がつくられた。
更に、その下流も改修されて、芝川は江戸と干拓地を繋ぐ通船路としても用いられた。
別名、悪水、見沼中悪水路といわれたが、ここでの悪水は汚い水の意ではなく農業用水でない水という意である。
近代には、荒川放水路掘削に関連して下流に手が加えられ、1965年に新芝川(芝川放水路)が作られた。現在、新芝川を芝川の本流としているため、青木水門から先の芝川は「旧芝川」と呼ばれている。
(出典:ウィキペディア)
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数年前の小貝川ポタでベンキョーした関東郡代の伊奈忠次の名がここでも登場した。
伊奈忠次が関わった見沼も訪ねることとなっている。
江戸と干拓地を繋ぐ通船路も訪ねることとなっている。
書物で知ったことをこの目で見る。
これ、楽しみなことである。

今日の jitensha@芝川マリーナ&オオカンザクラ。
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川沿いであってもマリーナとはこれ如何に、なーんちゃって。

「キューポタ、撮りました」と大給守さん。
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「外環が見えて来ましたね」。
「証拠写真、撮っておきましょう」。
何の証拠写真かは分からないが...。
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四輪を運転中に車窓から自転車道が見えることがあり、そんなことも四輪を運転しているときの楽しみであるが、外環(東京外環状自動車道路)は防音壁を覆われており、車窓から芝川CRは見えない、つまらない(???)道路である。

在家橋で芝川CRから外れ、川口盆栽村へと向う。

フォト:2014年3月22日(フォト#1、#3/大給守殿提供)

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-27 11:04 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 26日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/関東の富士見百景』 stm-2

鹿浜橋をくぐると、芝川の荒川への流れ込み口である芝川水門が見えて来る。
芝川水門手前の、足立区都市農業公園に立ち寄る。
農業公園前に、アルミ製の親子(?)像が立っている。
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像の名は?と銘板を探したところ、「関東の富士見100景」なる銘版があった。
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親子像の目線の彼方に目をやるとビルの脇に富士山の姿が見えた(写真中央、煙突右のビルの右側に)。
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右手/川口マンハッタン、対岸/岩淵水門。
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足立区都市農業公園内/和井田家住宅母屋(足立区花畑より移築)と薊家納屋(足立区入谷町より移築)。
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説明書きによれば、「和井田家住宅母屋は安永2年(1773年)頃に建てられたという」、「安政大地震(安政2年、1855年)を経てきた」、たというこの家屋は増改築の跡をうかがうことができる」、「土間や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時だの花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である」とある。
煉瓦好きの上総、花又帝国煉瓦について電脳網で調べてみた。
煉瓦工場についての詳しいことは分からなかったが、「花又」について、ウィキペディア「花畑(足立区)」では次の通り記されていた。
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「花畑」は、1889年(明治22年)の市町村制施行に伴い近隣8か村が合併し、近代行政村として成立した際に名づけられた地名である。
正平7年(1352年)の古文書に「花俣(はなまた)」として登場する東京都区内屈指の古村である。
その後、「花又」と表記されるようになり、江戸時代は一貫して御料所(天領=将軍直轄地)であった。
上記の合併に際し、うち最大だった花又の名に基づき「花畑」(村)が誕生した。
これは「花又」の美称地名であると同時に、花又村のままでは合併した諸村が従属的立場となり好ましくないとの配慮から付けられたものである。
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この記述により、花又帝国煉瓦は、その名「花又」から、現在の足立区花畑(足立区北東部)にあった煉瓦工場であることが推察出来る。
また、現在の足立区花畑の辺りが、その昔、天領であったことも知ることが出来た。
「天領めぐり」というのも面白い企画かもしれない。

足立区都市農業公園を後にして、芝川CRに入る。

フォト:2014年3月22日(フォト#4/大給守殿提供)

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-26 23:58 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 25日

『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/北千住駅集合』 stm-1

3月22日(土)、芝川CR&見沼代用水CRポタリングに出掛けた。
コースは、JR北千住駅~千住新橋~荒川左岸CR~都市農業公園~芝川水門~芝川CR~在家橋~川口盆栽村~芝川CR/在家橋~八丁橋/水神社、鈴木家住宅~見沼通船堀~富士塚~緑のヘルシーロード(見沼代用水沿いCR)~見沼自然公園~旧坂東家住宅見沼くらしっく館の往復。
メンバーは、大給守さん、伊豆守さん、南国守さん、上総の4名。
企画&ナビゲーターは南国守さん。

朝9時、JR北千住駅に集合。
伊豆守さんの愛馬、BD-1 ALFINEの調子が悪い。
「屋敷から最寄り駅までの自走では何ともなかったんだけど、北千住駅で愛馬を組み立ててから、ギアが上手くシフト出来なくなったんです」とぼやく。
数度、駅のそばを走りながら、コントロール・レバーを操作するが、よろしくない。
BD-1 ALFINEのギアは内装なので、ギアがどんな状態かは分からないが、走れることは走れるのでギアの不具合ではないようだ。
コントロール・レバーもちゃんと動いているので、これも問題はないようだ。
「多分、シフト・ケーブルワイヤが丸まっているか、切れていると思われますね。ケーブルワイヤはフレームの中を通っているんで、見ることは出来ないけれど」。
「日本橋のLOROへ行ってみます」。
「そんな遠いところへ行かずとも、お花茶屋のサイクルハウスしぶやなら目と鼻の先。開店は10時だから、今から行けは、少し待つ程度かと」。
「サイクルハウスしぶやなら何度か行ったことあり。今から行って来ます」。
「直ったら電話をください。何処かで合流することにしましょう」。

北千住駅を出発する。
荒川に架かる千住新橋を渡る。
荒川左岸CRに入る。
土手から富士山を眺める。
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アップで。
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この朝、富士山を眺めるのは二度目だ。
屋敷天守にて、そして、荒川左岸土手にて。

荒川左岸CRを川上に向け走る。
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北西の風。
向い風がきつい。
前日がこのポタの予定日であったが、強風のため、1日延期した。
前日の風よりはマシだが、それでもきつい風だ。
先が思いやられるが、漕げ漕げ自転車で進むのみだ。

フォト:2014年3月23日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-03-25 23:58 | 彩の国ポタリング
2014年 03月 22日

『高野山甲午歳注連縄』

盟友 松柏木さんのブログを開いたところ、切り絵がアップロードされていた。
お絵描き、版画、そして、切り絵の世界へと彼の芸術心はどんどんと広がっているようだ。
切り絵といえば、高野山で見た紙製の注連縄が頭に浮かぶ。
松柏木さんの切り絵のコラボとして高野山の紙製注連縄について綴ってみたい。

昨年11月下旬、高野山を訪ねた。
そのとき、紙で作った注連縄があることを知った。
白い紙で作った三枚の注連縄。
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何故、藁を編んだものではなく、紙で作っているのか、その訳も知った。
高野山では米が取れない。
米が取れないので、藁がない。
藁がないので、注連縄が作れない。
注連縄の代わりに白い紙を貼っている。
白い紙は一枚だけ貼られているところもあるし、写真のように、白い紙が三枚貼られているところもある。
右から、「寿」、「宝珠」、「干支/巳」となっている。
左端の白い紙の、「干支/巳」をアップで。
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年が明け、2月初め、再び、高野山を訪ねた。
その目的は幾つかあったが、そのひとつは紙で作った注連縄の「干支/午」を見ることであった。
白い紙で作った三枚の注連縄。
遠目には、昨年11月と変わりはないが...。
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近寄って見てみると...。
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右から、「壽」、「宝珠」、これらは昨年と変わりないが、左端は今年の干支の「午」に。
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参道で見た注連縄の外、昼餉を摂った食堂ではこんな注連縄も見た。
参道では「宝珠」、食堂では「宝船」。
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参道では三頭、食堂では一頭、しかもモダンな感じで。
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来年、再来年と高野山詣でを重ね、毎年、新たまる干支の注連縄を見続けて行きたいものだ。
高野山詣でが叶わないときは、松柏木さんに干支の切り絵を拵えてもらおう。

フォト:2013年11月30日、2014年2月1日
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by kazusanokami | 2014-03-22 19:15 | 旅、旅、旅/いろいろな旅