2014年 05月 24日

『彩の国/緑のヘルシーロード/利根自転車道』 ts-12

利根大堰をあとにして利根川自転車道を走り、東武伊勢崎線羽生駅へと向う。
県道20号線/武蔵大橋南詰を過ぎ、下流側から武蔵大橋と利根川の流れを眺める。
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武蔵大橋南詰の少し下流に「海から154.0kmです」の標識。
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小生は利根川右岸(一部、時々、左岸)サイクリングロードを利根大橋や新利根大橋を起点に下流方面や上流方面を走っている。
下流は銚子まで、上流は下総利根大橋南詰(千葉県野田市木間ヶ瀬)まで走ったことがあるが、このサイクリングロードで「です」調の標識を見たのは、記憶の限りでは、これが初めてだ。
この「海から154.0kmです」の標識は、サイクリングロード部門の珍百景かもしれない。
余談はさておき、この「海から154km」の標識を見て嬉しかったのは、利根大橋や新利根大橋が「海から86km」、「海から92km」なので、利根大堰(武蔵大橋)までの距離をこの目で実感でき、今後のポタリング企画の参考になったことである。

利根川自転車道を走る。
午後4時35分、西に傾いた太陽が路面に影を作る。
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あれこれ、写真を撮っている間に武衛さんと南国さんの姿は遥か彼方へ。
急ぎ、走ると、二人が jitensha を止めて待ってくれている姿が見えた。
片手ハンドル、片手カメラで一枚!
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この写真は、ここで土手のサイクリングロードが未舗装になっている記録でもある。

未舗装を回避して土手の坂を下りると、土手の中腹に舗装されたサイクリングロードがあった。
よかった!
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標識「151.0km」。
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この標識には「海から」も「です」も書かれていない。
先ほどの「海から154.0kmです」とこの「151.0km」はセットで珍百景ではないだろうか...。

昭和橋南詰を右折して、自転車道から外れ、羽生市街へと向う。
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東武伊勢崎線羽生駅前で"反省会"。
羽生駅から輪行にて帰館。
走行距離79km超。
内訳は、緑のヘルシーロード:約50km+deviation:約29km。
Deviation で結構走ったのであった。
見沼代用水、さきたま古墳群、忍城と盛りだくさんのポタリングであった。

フォト:2014年4月26日

=備忘録=
次回、なすべきことを書き残しておくこととする。
1.見沼代用水関連:
・瓦葺吹越、芝山吹越、八間堰、十六間堰を更に仔細に見ること。
・芝山吹越近くの常福寺にて、見沼干拓や見沼代用水開削の功績者、井沢弥惣兵衛為永の墓参をすること。
・見沼代用水と星川の合流地点を更に仔細に見ること。
・見沼元圦公園で見沼代用水の歴史に関わる石碑を見ること。
・利根大堰の取水口、沈砂池、大分水工を更に仔細に見ること。
・利根大堰の魚の遡上用水路を見ること、遡上観察室から魚の様子を観察すること。
※利根大堰から下流に向け、巡ること。
2.さきたま古墳群関連:
・稲荷山古墳、丸墓山古墳のほか、二子山古墳、軍山古墳、愛宕山古墳、瓦塚古墳、奥の山古墳、鉄砲山古墳、中の山古墳、すべてを巡ること。
・埼玉県立さきたま史跡の博物館にて「稲荷山古墳出土鉄剣(銘)」を見ること。
3.忍城関連
・映画「のぼうの城」は、既に映画館、飛行機内、テレビ放映にて三度観ているが、今一度、観ること。


(完)
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# by kazusanokami | 2014-05-24 06:16 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 23日

『彩の国/緑のヘルシーロード/利根大堰』 ts-11

見沼代用水沿いの「緑のヘルシーロード」、ゴールの利根大堰に至る。
利根川の土手に上がる。
利根大堰を眺める。
今日の jitensha @利根大堰。
右から、南国守殿、武衛殿、上総。
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12の水門による堰と幅広の口から扇状になった取水口。
(この写真では、右岸に最も近い水門は入っておらず、水門の数は11となっていますが、「今日の jitensha」には全て写っています。)
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利根川から取り込まれた水は右岸の土手に埋められた水路を通り、沈砂池へと流れ込む。
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勢いよく沈砂池へ流れ込む水。
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立ち位置を変えて、沈砂池への流れ込みを眺める。
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沈砂池をアップで。
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沈砂地の先端に何やら文字が見える。
目を凝らして見てみる。
右から「見沼代用水」、「武蔵水路」、「埼玉用水路」と掲示されている。
それぞれの水路への流れ込み口が示されているのであった。
更に、その両端にも何やら文字が見える。
右端は「行田市浄水場取水口」とある。
左端は一部隠れてよくは見えないが、「邑(楽)(用)(水)路」とある。
(注)括弧内の文字は後付けベンキョーで判明。詳しくは後述をご参照。

ブログを綴りながら、利根大堰について後付けベンキョーしたことを掻い摘んで記しておこう。
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高度経済成長期において、東京都の水需要の急激な増大は深刻な問題となっていった。
更に、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを控え、益々、水需要は深刻な問題となった。
そうした中、利根川から水道用水を取水するため、見沼代用水元入(注1)がある地点に利根大堰を建設し、首都圏の水需要に応えようとの計画が具体化し、1963年(38年)に着工、1968年(昭和43年)に竣工。
利根大堰から取水した水は、沈砂後、大分水工(注2)で行田浄水場、武蔵水路、見沼代用水路、埼玉用水路、邑楽(おうら)用水路に上水あるいは灌漑用として分水される。
邑楽(おうら)用水路は対岸の群馬県の農業用水路だが、埼玉県側で取水してから利根大堰上流の河床下に敷設されたパイプで送水されている。
サイフォン式なのかどうかは不明ながら、「伏越」のひとつと言えるであろう。
利根大堰には魚の遡上用の水路が設けられており、遡上観察室の窓から、4月乃至6月には鮎、10月乃至12月には鮭の遡上が見られるという(次回、必見)。
利根大堰には武蔵大橋が通っており、栃木県道・群馬県道・埼玉県道20号足利・邑楽(おうら)・行田線を結ぶ橋となっている。
(注1)「元入」とは、第10話に登場した「見沼元圦公園」でベンキョーした通り、用水の取り入れ口のことである。
(注2)「分水工」とは、第5話に登場した路面敷設プレートの「瓦葺分水工」でベンキョーした通り、、水路の流水を必要な所へ分流させる施設のことである。
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利根大堰をあとにして利根川自転車道を走り、東武伊勢崎線羽生駅へと向う。

フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-23 06:15 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 22日

『彩の国/緑のヘルシーロード/利根大堰へと向う』 ts-10

忍城址をあとにして、利根大堰へと向う。
行田市内、県道125号線を東へ走る。
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「栗橋まで23kmなんだ」。
今後の、輪行の際の参考としてカメラに収める。
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星川橋西詰に至る。
再び、見沼代用水(兼)星川沿いのサイクリングロードに入る。
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左右入れ替わって、更に走る。
前方に、ふたつの流れ込みらしきものが見えて来る。
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ふたつの流れ込みがしっかりと見える。
ここが見沼代用水(向って右)と星川(向って左)の合流地点なのだ。
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左右入れ替わって、更に走る。
「利根大堰まで2km」。
利根大堰まであと少し、<秒読み>段階だ。
星川との合流区間が終わり、見沼代用水<専用>となったので、水路の幅は狭くなっている。
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「利根大堰まで1km」。
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先ほど、星川との合流地点を見たが、ここでもふたつの流れ込みがある。
これは見沼代用水(向って右)と周辺の農業用水路(向って左)のようだ。
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この写真について、後付けベンキョーで分かったことを掻い摘んで綴っておこう。
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これは「見沼元圦公園」の展望台で、公園の南端にあたる。
左の水路は「北河原用水」。
北河原用水の幹線は羽生市まで続いていて、見沼元圦公園の北端では利根導水路の下を伏越で横断している。
見沼元圦公園は、見沼代用水の元圦跡(もといり、用水の取り入れ口)を公園として整備されたものである。
公園内には、見沼代用水の歴史を語る石碑などがあるという(次回、必見)。
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県道59号線、行田警察署須賀駐在所前に至る。
「緑のヘルシーロード」と「利根自転車道」の標識。
「緑のヘルシーロード」の終点(=起点)に至ったのである。
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利根川の土手に上がる。
利根大堰を眺める。

フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-22 18:43 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 21日

『彩の国/緑のヘルシーロード/忍城址』 ts-9

さきたま古墳群から忍城址へと向う。
途中、大きな公園を抜ける。
「水城公園」である。
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水城公園は、忍城の外堀跡を利用した公園とのことである。
行田市街はよく整備された町だという印象を持つ。
なかでも、さきたま古墳公園と水城公園はよく整えられており、斯様な大きな公園を有する行田市は立派なものである。

忍城址に到着。
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幟旗が迎えてくれる。
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忍城御三階櫓を見上げる。
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忍城は明治6年(1873年)に解体されたが、昭和63年(1988年)に忍城御三階櫓が再建され、行田市郷土博物館となっている。

城門をくぐる。
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内側から城門を眺める。
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城門内から櫓を見上げる。
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「忍城の由来」に目を通す。
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忍城の由来
忍城は、文明10年(1478年)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐え、この城は水に浮くのかと恐れられ、「忍の浮城(おしのうきしろ)」とも称されたという。
寛永16年(1639年)、時の老中 阿部忠秋が入場し、忍城大改築に着手、孫の正武の代にいたり、忍城御三階櫓の建設、城門土塀の修築などが完成し、面目を一新したという。
文政6年(1823年)、伊勢の桑名から松平忠堯(ただあき)が移封し、忠誠(ただざね)のとき、明治維新を迎えた。
市では、維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し、永く後世に伝えることとなった。
平成3年3月 
行田市
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このポタリングと同じ頃、「太田道灌ゆかりの地/岩槻の巻」のブログを執筆中で、岩槻城のことが頭の中に残っており、忍城と岩槻城はその築城で重なるところがあるなと思った。
但し、岩槻城については太田氏築城説(長禄元年(1457年)築城)と成田氏築城説(文明10年(1478年)築城)があり、後者の成田氏築城説が正しいとせば、忍城も岩槻城も同じ年、即ち、文明10年(1478年)に、同じ成田氏が築城したということになるのである。
また、この地の豪族であった成田氏は、文明10年(1478年)頃、この地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、忍城を築城したが、翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められ、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解し、以後、成田氏が領有したとのことで、太田道灌が関わった地でもあるのであった。

忍城御三階櫓は行田市郷土博物館となっている。
館内に入り、展示物を見たり、上階の展望台に上ったりした。
展示物のコーナーは撮影禁止。
数多の展示物があり、ここに全部は書けないが、ひとつだけ記しておこう。
行田市は「足袋」の生産量が日本一とのことである。
足袋の展示の中に、力士の足袋がある。
力士の足袋の殆どは行田市で作られているという。
展示された足袋の中で最も大きいのは横綱曙の34cm、最も小さいのは舞の海の25.5cmであった。
深川・富岡八幡宮の力士の手形と共に相撲好きには誠に興味深い展示物である。

廊下に四つの家紋が掲げられている。
家紋を見ると血が騒ぐ。
廊下は撮影禁止外、四つの家紋をカメラに収める。
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どれが誰の家紋か調べねばと思った途端、「歴代忍城主の家紋」が目に入った。
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鉄砲狭間と矢狭間。
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三角形や丸形が鉄砲狭間、縦長の四角形が矢狭間。

鐘楼を眺める。
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鐘楼に提げられた鐘は、松平忠堯が伊勢国桑名から忍へ移封となった際に桑名から持ってきた鐘を模したもの。
本物の鐘は郷土博物館に展示されている。
毎年大晦日には年越しの鐘が撞かれるという。

城門を出る。
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今一度、忍城御三階櫓を見上げる。
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外堀。
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堀の角から鐘楼を眺める。
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「のぼうの城」。
忍城と言えば、「のぼうの城」。
これについて触れておかねば、片落ちとなろう。
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領民から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれ、親しまれた領主、成田氏一門の成田長親と天下統一目前の豊臣秀吉との戦いを描いた、和田竜原作、脚本の「のぼうの城」。
映画は2011年4月公開の予定であったが、その直前の3月11日に東日本大震災が起こり、石田三成による忍城水攻めのシーンが時節柄相応しくないとの配慮により、公開は延期され、翌2012年11月の公開となった。
(ポスター三種は行田市郷土博物館の入り口付近にて撮影)

午後3時40分。
利根大堰へと向う。

フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-21 07:13 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 15日

『彩の国/緑のヘルシーロード/さきたま古墳群(下)』 ts-8

さきたま古墳群。
第7話では、数ある古墳の中で巡った二つの古墳、丸墓山古墳と稲荷山古墳について綴った。
時間の都合上、他の古墳を巡ることは出来なかったが、それらは次回の楽しみに置いておきたい。
このページでは、資料的に残しておきたいことを綴っておくこととしたい。

県道125号線、306号線を経由して、77号線に入ると「さきたま古墳群」の標識が見えて来る。
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入り口近くに、こんなにデッカイ看板が。
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世界遺産になれば喜ばしいことではあろう。
しかし、そうなると人が大勢集まることになり、古墳群の環境保全のために如何なものかとも思う。
この日だって、人が然程多くないから心穏やかに過ごせるのだ。
最近のニュースを見ていると、富岡製糸場には朝から行列が出来るとのこと。
どっと人が繰り出した中で文化遺産を見学する、サイアクである。

看板の上段に小さく「埼玉県名発祥の地 行田」と書かれている。
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埼玉県県名の由来
藩制の頃、今の埼玉県、東京都、神奈川県の一部を合わせた地域を武蔵国(むさしのくに)と呼んでいました。
今の埼玉県は北武蔵地方にあたります。
埼玉(さいたま)という地名は古くは前玉(さきたま)と呼ばれ、文献上で初めて出て来る『正倉院文書』神亀3(726)年の戸籍帳にも前玉郡(さきたまのこおり)と 記されて居ます。
この「前玉」の更に元を辿れば「人に幸福を与える神の霊魂」を表す言葉「幸魂・幸御魂(さきみたま)」に行き着き、幸は古代では「幸(さきは)ふ」などと訓じました。
幸御魂(さきみたま)→幸魂(さきたま) → 前玉(さきたま)→ 埼玉(さきたま) → 埼玉(さいたま)と変化して来た地名なのです。
「さきたま」の「さき」は先端とか前方を表し、「たま」は水辺とか湿地とか宝玉を表す語で、「さきたま」で水辺の前方とか多摩郡(現東京都)の前方の土地とも解釈され、更に幸御魂(さきみたま)に通じて居るのです。
事実この土地からは勾玉が多く出土して居ます。
(出典:某サイトからのコピペ)
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埼玉県を「ダサイタマ」なんていう人がいるが、県名の由来を知っていれば、そのようなことを言ったりはしないだろう。
読みを「サイタマ県」から「サキタマ県」に変えるというのも一つの案であろう。

入り口の掲示板、三点。
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稲荷山古墳 ---金錯銘鉄剣が出土。
丸墓山古墳 ---日本最大の円墳。
二子山古墳 ---武蔵国最大の前方後円墳。
将軍山古墳 ---後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。
愛宕山古墳
瓦塚古墳 ------形象埴輪が多数出土。
奥の山古墳
鉄砲山古墳 --- 数少ない三重の周濠を持つ前方後円墳。
中の山古墳

金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)。
1968年、稲荷山古墳から出土した鉄剣。
1978年、鉄剣の両面に115文字の銘文が金象嵌で表されていることが判明。
1981年、重要文化財に指定。
1983年、国宝に指定。
「金錯銘鉄剣」は一般名詞なので、研究者は「稲荷山古墳出土鉄剣(銘)」と呼称することが多い。
この鉄剣は、さきたま古墳群の直ぐ近くにある「埼玉県立さきたま史跡の博物館」で保管、展示されている。
これを見るのも次回の楽しみである。

古墳の道先案内板。
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数ある古墳の中で小生の<お気に入り>は、見事な円を描いている丸墓山古墳である。
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さきたま古墳群をあとにして、忍城址へと向う。

フォト:2014年4月26日
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# by kazusanokami | 2014-05-15 07:58 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 14日

『彩の国/緑のヘルシーロード/さきたま古墳群(上)』 ts-7

八幡山古墳からさきたま古墳群へと向かう。
ちょいと道を間違え、畑を挟んで古墳群の向い側に出た。
道を間違えたお陰で、さきたま古墳群を遠望することができた。

さきたま古墳群、遠望の図。
前方の林の一帯に古墳群がある。
中央の、頂上に木の生えた小高いところが「丸墓山古墳 」である。
畑の緑は麦である。
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丸墓山古墳へ向う入り口の碑/「史跡 埼玉村古墳群」。
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丸墓山古墳を見上げる。
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丸墓山古墳の説明書きに目を通す。
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丸墓山古墳(まるはかやまこふん)
直径105mあり、円墳では日本最大です。
墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19mあります。
墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。
出土した埴輪から、6世紀後半ころに築かれたと推定されています。
埋葬施設の内容は、現在のところ、確認されていません。
南側から古墳に至る道は、1590年の石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。
水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。
平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会
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丸墓山古墳下の碑/「埼玉村古墳群」。
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階段を上って、頂上へ。
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頂上から上って来た階段下を見下ろす。
「石田堤」がしっかりと認識出来る。
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石田三成は古墳の頂上に陣を張ったという。
罰当たりめ!と思うも、小生自身も頂上に上っているのだから同罪か!?

頂上から「稲荷山古墳」を眺める。
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前方後円墳であることがしっかりと分かる。
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階段を下りて、丸墓山古墳の円墳の「円い縁」と稲荷山古墳の前方後円墳の「前方部」を眺める。
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南側の広場から丸墓山古墳を眺める。
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稲荷山古墳を前方から眺める。
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説明書きに目を通す。
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稲荷山古墳(いなりやまこふん)
全長120mの前方後円墳です。
周囲には長方形の堀が中堤(ちゅうてい)をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出し(つくりだし)と呼ばれる張り出しがあります。
古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。
前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復元されました。
1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。
そのうち、礫槨(れきかく)はよく残っており、多くの副葬品が発見されました。
その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の服装品とともに1983年に国宝に指定されています。
平成19年(2007年)  埼玉県教育委員会
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この図で、墳丘くびれ部と中堤の造出し(つくりだし)の様子がよく分かる。
また、この図と左下の小さな写真で、前方部の復元前と復元後の様子がよく分かる。
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フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-14 07:07 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 13日

『彩の国/緑のヘルシーロード/八幡山古墳』 ts-6

昼餉を済ませ、行田市内めぐりに。
八幡山古墳、さきたま古墳公園、忍城址の順にめぐる。

八幡山古墳(はちまんやまこふん)。
飛鳥の石舞台に似ていることから、考古学者の大場磐雄はこの古墳を「関東の石舞台」と形容したという。
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説明書きに目を通す。
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埼玉県指定史跡
八幡山古墳石室
昭和19年3月31日指定
八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉(わかこだま)古墳群の中心となる古墳のひとつで、7世紀前半につくられた直径約80mの大型の円墳と推定されています。
昭和9年に約2km東にあった小針沼埋め立てのために古墳を崩した際に石室が現れ、翌年には発掘調査が行われて、前・中・後室の3室からなる全長16.7mの巨大な石室であることが明らかになりました。
その後、昭和52~54年に発掘調査と復元整備が行われて現在の姿になっています。
発掘調査では最高級の棺である漆塗木棺の破片や銅鋺など豪華な遺物が発見されており、この古墳に葬られていた人物がかなりの権力者であったと考えられることから、この古墳を「聖徳太子伝暦」に登場する武蔵国造物部連兄麿(むさしのくにのみやつこもののべのむらじえまろ)の墓と推測する説もあります。
なお、この石室は奈良の石舞台に匹敵する巨大な石室であることから「関東の石舞台」とも呼ばれています。
平成21年3月
行田市教育委員会
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因みに、この八幡山古墳は工業団地の中にあり、歴史の息吹を感じるという環境的にはないが、石室に籠っておれば、古代の音が聞こえて来る。
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埼玉県指定史跡
八幡山古墳石室復元記念之碑
昭和54年3月
埼玉県知事 畑 和  書
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「瓦葺吹越」の石碑につづき、またまた、埼玉県知事 畑 和(はたやわら)さんが登場。
1972年から1992年、第8代~12代の長期に亘る知事であったことでもあり、宜なるかな、である。
古代の権力者は古墳を残し、近代・現代の政治家は碑と書を残す。
少々、下世話な話になってしまった。
さきたま古墳公園を目指す。

フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-13 07:47 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 12日

『彩の国/緑のヘルシーロード/芝山伏越、八間堰、十六間堰』 ts-5

元荒川に架かる高虫橋を渡る。
見沼代用水は「伏越」で元荒川の下をくぐっている。
見沼代用水上流側の伏越入り口は白岡市柴山、見沼代用水下流側の伏越出口は蓮田市高虫。
上流、入り口側の地名をとって、「芝山伏越」と名付けられている。
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写真で説明すると;
この写真は高虫橋から元荒川の下流方面を見ている。
写真左側に見える白い建物は「芝山伏越」の施設の一部である。
見沼代用水は、この白い建物の辺り(芝山)から元荒川をくぐり、対岸(高虫)に出ているのである。

帰宅後の後付けベンキョーも含めて、「芝山伏越」について掻い摘んで綴っておこう。

見沼代用水の開削当初(1727年、享保12年)は、伏越(木製の樋を埋め込み))と懸樋(木製の樋の水路橋)であった。
その後、懸樋は洪水で破壊されたり、元荒川の舟運の邪魔になるということで、宝暦10年(1760年)に撤去され、新たに伏越が設けられ、以前からの伏越と合わせ、2連の伏越になった。
その後、老朽化の激しい木製の伏越は修理や伏せ換えを続けながら維持された。
明治20年(1887年)、当時の最先端の建材であった煉瓦を使って大改修が行われ、200年以上も続いた木製の2連から煉瓦造りの1連となったのであった。
第3話で登場した「瓦葺伏越」が懸樋から伏越に改修されたのは昭和の終わりの頃のことである。
一方、「芝山伏越」は江戸時代から伏越であった。
江戸時代から200余年、修理や伏せ換えを重ねながら、木製のまま明治に至り、漸く、煉瓦造りとなった。
江戸時代から伏越であったことに加え、埋設した樋が木製であったことからしても、江戸時代の伏越の土木技術は大したものであったことが十分に窺える。

Yahoo!マップで「埼玉県白岡市 常福寺」で検索すると芝山吹越の付近が現れる。
元荒川に架かる高虫橋の辺りを拡大すると、見沼代用水が元荒川の下をくぐっていることがよく分かる。

柴山伏越の近くに「常福寺」という寺がある。
この寺には、見沼溜井の干拓や見沼代用水の開削に携わった幕臣、井沢弥惣兵衛為永の墓がある。
時間の都合上、「芝山伏越」の辺りをゆるりと見ることもなく、墓参りは次回の愉しみとして、先へと進む。

「また、東北新幹線?」、「いや、高速道路のよう」、「まだ、建設中やね」。
建設中の圏央道なのかもしれない。
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ぞろ目だ!
「利根大堰まで22km」。
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八間堰。
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十六間堰。
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今回は、集合時刻や集合場所の都合上、下流からのスタートとせざるを得なかったが、八間堰や十六間堰を見て、やっぱり、モットー通りに走るのが一番いいなと思った。
モットーとは、川沿いのサイクリングロードは上流から下流に向けて走るということである。
見沼代用水は川ではなく水路ではあるが、利根大堰から取水した水路なので、利根川の支流のようなもの。「川」と同じ扱いである。

ということで、八間堰と十六間堰の説明は上流から下流へと走ったつもりで綴ることとしたい。
これも電脳網を駆使し、後付けベンキョーしたことも含めてのことである。

見沼代用水路の上流部は開削当初から自然河川の星川を水路として利用している。
即ち、見沼代用水と星川は行田市見沼公園の辺りで合流し、久喜市菖蒲町上大崎の辺りで分流する。
分流する手前に八間堰と十六間堰がある。
八間堰を流れ出た水は見沼代用水に、十六間堰を流れ出た水は星川となる。

写真の「八間堰」は南側から見ている。
我々は見沼代用水右岸を北上して来て、この八間堰を正面に見て、左折し、八間堰(=見崎橋)を渡り、右折して、見沼代用水(=星川)左岸を北上。
すると、右手に十六間堰が見えて来たのである。

Yahoo!マップで「埼玉県久喜市 菖蒲図書館」で検索するとこの辺りが現れる。
南北に見沼代用水が流れ、東へ星川が流れ、分流していることがよく分かる。

キリのいい数字。
「利根大堰まで20km」。
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ここが最も狭いサイクリングロードだったかも。
もう一ヶ所、スッゴク、狭いところがあったような気も。
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県道12号線、仲橋の西詰を横断し、右岸を北上する。
見沼代用水と星川が合流しているので、水路というよりも川のようである。
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利根大堰が近いせいか、流れは結構きつい。
そんな中、キンクロハジロの群れが遊んでいる。
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「走りながらずっと思っていたんですが、見沼代用水はこの星川も含め、ゴミが流れているようなことが全くありませんね」。
「ほんと、そうですね。生活排水が流れ込んでいるようなところも見ませんね」。

緑の牧草畑と「コロン」。
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昔、一時、英国にいた頃、刈り取った牧草を丸めた形がグリコのお菓子「コロン」に似ていることから、子供たちは丸めた牧草を「コロン」と呼んでいた。

閘門と、キリのいい数字、「利根大堰まで15km」。
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この見沼代用水・星川合流区間の途中には幾つかの閘門が設けられている。
見沼代用水の下流で溢れそうなところが一ヶ所あり、あれこれ議論があったが、やっぱり、水量はこうした閘門で調整しているのであろう。

県道38号線、榎戸橋の西詰を横断する。
見沼代用水・星川合流区間はまだまだ続く。
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大谷石の蔵であろうか。
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「利根大堰まで9km」。
「利根大堰まで10km」は、ブヨがいっぱい飛び交っており、それに気を取られて、撮り損ねた。
利根大堰まで一桁になった。
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「利根大堰まで〇〇km」の標識が立てられている地面には必ずプレートも埋め込まれている。
前方に新たな閘門が見える。
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↑上尾市
瓦葺分水工へ23.8km
ここは
行田市小針
↓行田市
利根大堰へ9.8km
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各地のサイクリングロードでは路面にペンキで距離が大書されているのが多い。
それは読み易いのが、この路面埋め込みプレートは走りながらではよく読めない。
見易いようにと、新たに標識が立てられたのであろう。
因みに、「瓦葺分水工」は「瓦葺伏越」のあった場所で、「分水工(ぶんすいこう)」とは水路の流水を必要な所へ分流させる施設のことである。

利根大堰まで残すところ、5kmくらいのところで、県道125号線に入り、行田市街へと向う。
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「ああ、こわーっ!歩道に入っていて、よかった!」
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これから訪ねる「さきたま古墳群」、「忍城址」の方角を標識で視認する。
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交差点脇の蕎麦やで昼餉を摂る。

フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-12 08:46 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 11日

『彩の国/緑のヘルシーロード/梨畑』 ts-4

綾瀬川を渡り、上尾市から蓮田市に入る。
見沼代用水沿いをどんどん走る。

水位が道とほぼ同じレベルの水路。
コンクリート壁を道のレベルより立ち上げているのは、全線の中でこの辺りだけの特徴。
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「ここら辺りの水位は道と同じくらいですねぇ」、「雨が降ったら浸水ですねぇ」、「何処か上流に堰や遊水地があって調整するんじゃないですか」などと話ながら走る。

住宅地を流れる水路。
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左手、桜並木の向こうに見える高架は東北新幹線。
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田園地帯を走る。
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梨畑。
蓮田市に入ってから、梨畑をよく見掛けるようになる。
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「利根大堰まで25km」。
「25」は、ぞろ目ではないが、「5」の付くキリのよい数字なので、カメラに収める(片手ハンドル片手カメラで)。
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切り株だけの梨畑が散見される。
「何でやろねぇ」、「青梅の梅林はウィルス発生で切り倒したというから、梨の病気でも発生したのかねぇ」、「梨の木にも寿命があるんじゃないの」などと勝手なことを言いながら走る。
切り株だけの梨畑で jitensha を止めて記録写真(?)を撮る。
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丁度、通り掛かった人に切り株のことについて尋ねてみた。
梨畑の持主が高齢で後継者もおらず、世話をしないと虫や病気が発生するので、切り倒したとのこと。
後継者問題は深刻である。

フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-11 05:08 | 彩の国ポタリング | Comments(0)
2014年 05月 09日

『彩の国/緑のヘルシーロード/見沼代用水東西縁分水点と瓦葺伏越』 ts-3

”緑のヘルシーロード”を更に走る。
埼玉県のマスコットの「コバトン」と1ヶ月ぶりの再会だ。
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前回、立ち寄った鷲神社に再び。
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この神社の由緒は「平安期、兄、八幡太郎義家を援けんと、新羅三郎義光が奥州街道を下向する途次、当地において奇瑞を感じた。そこで神楽を奏上し、跡地に祠を建てて、鷲明神を奉納したという」である。
前回、この由緒を知ったとき、次回、機会があれば、武衛さんを案内せねばならない神社だと思った。
何故なら、武衛さんは源頼朝の別名「武衛」を由来とするハンドルネームとしており、源氏ゆかりの御方であるからである。
(鷲神社の詳細については、3月29日付『芝川CR&見沼代用水CRポタリング/帰路も向い風』をご覧ください)

更に走り、見沼自然公園を抜ける。
見沼代用水の水路はコンクリートで固められてしまっているが、見沼自然公園沿いの水路だけは素掘りの面影を残している。
前回はここで折り返したが、今回、ここから未踏の地(ちょいと、大袈裟か!?)に入るのである。

見沼弁財天。
「この赤い建物は緑のヘルシーロードのサイトに必ず出て来ます」と、彩の国の領主、南国守さん。
「であれば、記録写真(???)を」と上総。
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広い田畑を見渡す場所に建立された赤い小さな御堂。
弁柄色風になるにはまだまだ月日が掛かるであろうが、真に結構な風情である。

走る。
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東北本線の踏切を渡る。
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「緑のヘルシーロード 利根大堰まで33km」。
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「利根大堰まで〇〇km」の標識はほぼ1km毎に立てられているが、<33>のぞろ目なので、記念に1枚!
並んでいるものは何でも好きだ。
ということで、ぞろ目も好きだ。
サイクルコンピュータの走行距離の全桁が一瞬同じ数字で並ぶことがある。
これを見るのもポタリングの楽しみのひとつだ。
昔、結構、熱中したパチンコの<777>フィーバー!がDNAに刻み込まれてしまっているのかもしれない。

大きな石碑が見えて来た。
ここは jitensha を止めてじっくりとと思い、ベルをチン、チン、チンと鳴らすも、先頭を行く南国守さんは気づかず。
おーい、おーい、と声を掛けるも気づかず。
碑とこの場所のことにについてのベンキョーはあとでするとしても、そのヒントとなる写真だけは撮っておかねばならない。
jitensha を止め、武衛さんと二人で石碑を眺める。
石碑は三つある。
向って右から、明治43年(1909年)建立の「改修懸樋碑記」、大正5年(1916年)建立の「懸樋改修碑記」、平成元年(1989年)建立の「埼玉合口二期工事 見沼代用水東西縁竣工記念碑」である。

右/明治の「改修懸樋碑記」と左/大正の「懸樋改修碑記」。
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明治の「改修懸樋碑記」をアップで。
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大正の「懸樋改修碑記」をアップで。
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よく見ると、明治の碑は「改修懸樋」、大正の碑は「「懸樋改修」となっており、言葉がひっくり返っている。
この違いは後ほどの後付けベンキョーで分かることとなる。

平成の「埼玉合口二期工事 見沼代用水東西縁竣工記念碑」。
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後ほどの後付けベンキョーで分かったことだが、これは「平成の」というよりも昭和63年度(1988年度)のものであり、「昭和」を強調した方がよいかもしれない。

石碑の背後にある閘門。
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見沼代用水の「懸樋」のことは事前ベンキョーで承知していたので、直ぐに理解出来た。
また、上尾市瓦葺地区に見沼代用水の東縁と西縁の分岐点があるということも事前ベンキョーで知っていたので、それが此処であることをこの目で確認出来た。
石碑のみならず、閘門も含め、この周辺をしっかりと見ておけば、この場所の水路の構造などもこの目で見られたはずなのだが、時間の都合上、碑を眺め、何かのヒントになるだろうとと閘門をカメラに収めただけで、先行する南国さんを追い掛けたのであった。

帰宅後、電脳網で「改修懸樋碑記」と「埼玉合口二期工事 見沼代用水東西縁竣工記念碑」で検索したところ、わんさかと情報が出て来た。
軽めの事前ベンキョーで知ったこと、深めの後付けベンキョーで知ったことを掻い摘んで綴っておきたい。

見沼代用水の東縁(ひがしへり)と西縁(にしへり)に分かれる場所は「上尾市瓦葺」、上尾市立瓦葺中学校の近くである。
Yahoo!マップで「瓦葺中」で検索するとこの場所が現れる。
この場所は「瓦葺伏越」と呼ばれている。
ここで、利根大堰から流れて来た見沼代用水と綾瀬川が交差しており、代用水の水路を川の下にくぐらせ、サイフォンの原理で代用水を通しているのである。
こうした構造を「伏越(ふせごし)」というのだそうだ。

当初は「伏越」ではなく、「懸樋(かけとい)」であった。
「懸樋」とは水路橋のことである。
「懸樋」は、最初は木製であったが、レンガ造りに改修された。
その竣工を記念して建立されたのが明治43年(1909年)の「改修懸樋碑記」なのである。
このレンガ造りの懸樋が洪水で損傷し、それを修復した際、その修復を記念して建立されたのが大正5年(1916年)の「懸樋修繕碑記」なのである。

その後、昭和43年(1968年)に完了した利根川導水路合口第1期事業および昭和63年年度(1988年年度)に完了した合口第2期事業の一環として、懸樋から伏越に改修され、現在の形になったのである。
因みに、この事業の「合口(ごうぐち)」とは、河川に設置された何系統もの取水口を1か所に集約し、新しい水利系統に統合し、取水量の確保と配分や施設の維持管理を効率化する手法のことである。
これらの事業の竣工を記念して建立されたのが平成元年(1989年)の「埼玉合口二期工事 見沼代用水東西縁竣工記念碑」なのである。

Yahoo!マップで「瓦葺中」(上尾市立瓦葺中学校)の付近を最大で拡大すると、綾瀬川の下を見沼用水路がくぐっているのが地図上できちっと読み取れる。

以上が電脳網を駆使してベンキョーしたことである。
電脳網でヒットした資料のコピペも一部、含まれていることを付記しておきたい。

で、折角の機会でもあるので、平成元年(1989年)建立の碑文の全文をここに書き残しておきたい。
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埼玉合口2期事業 見沼代用水路東西竣功記念碑
埼玉県知事 畑和 書

碑文
見沼代用水路は、徳川8代将軍吉宗の新田開発の命により、享保12年(1727年)見沼溜井を干拓しこれに代わるものとして水源を利根川に求め、行田市大字須加地先に取水口を設け長大な水路が開削され、爾来260有余年に亘り、埼玉県行田市他18市6町2村及び東京都足立区の沃野に潤沢な農業用水を灌いできた。
然るに、昭和30年前後より日本経済のめまぐるしい進展が首都圏に都市用水需要の増大をもたらし、これと相俟って東京オリンピックの開催により水資源の開発が急務となった。これに対応するため、埼玉合口1期事業として昭和43年利根大堰が建設され、農業用水取水口を統合し、埼玉県及び東京都への都市用水の供給を可能ならしめた。
その後も経済発展は持続し県南地域の都市化は農地の潰廃を早め、農業用水を都市用水に転用する機運が急速に高まった。
一方これに係る施設及び用水路は、老朽化と機能低下が著しく営農上支障を来たし、これを踏まえ組合員27000余名の深い理解と同意を得、水利用の合理化と、安定供給を目的とし埼玉合口2期事業計画が樹立され、昭和53年度より着工の運びとなった。
なお、利根大堰より大宮市東宮下地内大宮第2調節堰及び浦和市上木崎地内正樹院橋上流地点までは、水資源開発公団が施工し、同地点より東西縁下流川口市地内に至る区間は、埼玉県直轄工事として、県営及び団体営かんがい排水事業、県単見沼下流農業用水合理化事業にて実施した。この間幾多の艱難辛苦を克服し、先人が築いた偉業とその意を体し、近代技術の粋を集め昭和63年度をもって歴史と伝統を誇る用水路の竣功の喜びを見るに至った。
本事業実施に際し、国・県・東京都・関係市町村の御指導御援助と、組合員各位の深い理解と御協力に対し深甚より感謝の意を表し、本事業の使命達成はもとより沿線住民の安らぎと憩いの場として活用されんことを祈念し茲に概要の一端を刻す。
平成元年3月吉日 撰文 見沼土地改良区理事長 渡辺一郎

事業概要
水資源開発公団営事業
総事業費:524億円、基幹線水路31.7km、東縁用水路6.2km、西縁用水路10.6km
県営かんがい排水事業
総事業費:16億5500万円、東縁用水路3.2km、西縁用水路6.0km
団体営かんがい排水事業
総事業費:21億100万円、東縁用水路7.0km、西縁用水路3.5km
見沼下流農業用水合理化事業
総事業費:37億500万円、東縁用水路9.7km、西縁用水路1.3km
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=備考=
原文通りながら、縦書きを横書きに、漢数字をアラビア数字に置き直す等、一部、筆者にて手を加えた。

土木技術、土木機械は異なれど、江戸時代の大工事、明治以降昭和にかけての大工事に敬意を表するばかりである。
そして、碑文末尾に「沿線住民の安らぎと憩いの場として活用されんことを祈念し」とある。
沿線住民ではないが、こうして見沼代用水沿いのポタリングを愉しませて貰っており、安らぎと憩いの場とさせて貰っている。
ただ、「見沼代用水」という歴史ある立派な名を持っている水路沿いのサイクリングロードなので、「緑のヘルシーロード」などという訳の分からない名前ではなく、「見沼代用水サイクリングロード」とすべきではないかと思うのは小生だけであろうか。
しかし、それは些細なこと。
江戸時代から昭和の間、尽力された人たちに感謝!だ。

フォト:2014年4月26日

(つづく)
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# by kazusanokami | 2014-05-09 08:57 | 彩の国ポタリング | Comments(0)