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2012年 07月 21日

『旧日光街道千住界隈』 sj-10

「やっちゃ場」を大いに楽しんだ。
千住仲町商店街、宿場通りへと向かう。

千住仲町商店街。
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この商店街では、特段の観るべきものはなかったが、記録として一枚だけ撮った。
この写真は、商店街の名と併せ、珍"看板コレクション"として撮ったのだが、過去、別のところで見たこともある歯科医院の名であり、特段、珍しいものではない。

宿場通り。
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ここら辺りはJR北千住駅近くの繁華街だ。
今回のポタリングの目的のひとつは、第1話で綴った通り、8月に予定されている備前守殿、伊豫守殿との「千住辺りを歩いた後に納涼会」の下見でもある。
北千住で飲んだことは一回くらいしかなく、店については不案内だ。
通りを走りながら、キョロキョロと店を見る。
ひとつだけ、候補らしきものが見つかった。
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Trattoria LA SIENNA。
帰宅後、電脳網で検索したところ、《上質な空間のオシャレな酒場 "飲むイタリアン"》のキャッチフレーズであった。

「横山家」と「吉田家」。
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通りをはさんで、右/横山家、左/吉田家。
街道沿いに今も残る、数少ない商家である。
「横山家住宅」。
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宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。
伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行き深い。
戸口は、一段下げて造るのが特徴である。
それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が十三間、奥行が五十六間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。
間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。
広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。
上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中の焼夷弾が貫いた屋根など、風説に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
平成二年十月
東京都足立区教育委員会
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「千住絵馬屋・吉田家」。
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吉田家は、江戸中期より、代々、絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。
手書きで描く絵馬屋は都内にはほどんど見掛けなくなって、希少な存在となった。
当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。
縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。
絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、三十数種ある。
これらの代表的絵馬が、現在、吉田家に一括保存されている。
時代ごとに庶民の祈願を知るうえで貴重な民俗資料である。
平成四年三月
東京都足立区教育委員会
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横山家と吉田家の次は、「槍かけだんごのかどや」である。
そう思いながら走るも、荒川土手の近くに至ってしまった。
確か、荒川の土手に向かって、宿場通りの左手にあったはずだ。
「槍かけだんご」の大きな旗印が立て掛けてあったはずだ。
あれこれと思いながら、来た道を戻る。
やっぱり、ない。
ふと、工事中の家が目に入った。
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改築中であった。
何時、一旦、店を閉めたのだろうと、帰宅後、電脳網で調べたところ、地元の人らしきブログにヒット。
今年3月25日に閉店とあった。
更に、「建物は明治40年に建てられたものらしく、もともとは足袋屋さんだったのを、昭和27年に譲り受け、今のお団子屋さんになったそうです」、「10月にまた営業がはじまるそうですが、どんな建物になるのでしょう」と綴られていた。
数年前、この店を"発見"したときは、「槍かけだんご」と大きく染め抜かれた旗印が店先に立て掛けられていたと記憶する。
新しい店になっても、この大きな旗印が立てられるのであろう。
10月が楽しみだ。

「槍かけだんご」の名の由来は「近所の寺の松の枝に槍が立て掛けられたから」と承知していた。
今回、ブログを綴るに際し、あれこれを調べていたところ、詳しいことが分かった。
近所の寺とは、清亮寺のこと。
この寺に、水戸街道に面し、松の木があったとのこと。
大名が行列をなして街道を行き来する際、槍もちは、如何なる理由があろうとも、槍を倒すことは許されなかったとのこと。
寺の松は、槍を横に倒さねばならないくらいに、街道いっぱいに張り出していたとのこと。
で、この松を切るかとなった際、常陸国水戸藩第二代藩主 徳川光圀が「切るには惜しい名松。ここで休憩を取り、槍を松に立て掛けて、再び出立するときには槍もちが反対側に回ってから槍を持ち直せば、槍を倒したことにはならないだろう」と言ったことから、松は切られずに済んだという逸話があるそうだ。
水戸光圀ゆかりとなったこの松は、樹齢350年余りを迎えた昭和20年頃に残念ながら枯れてしまったそうだ。
その姿は、清亮寺の山門脇の石碑に「槍かけの松」にまつわる逸話と共に写真が刻まれているそうである。
次の機会に、清亮寺を訪れてみたい。

再び、荒川土手近くに至る。

「千住名倉医院」。
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名倉医院は、江戸時代以来、骨つぎといえば名倉、名倉といえば骨つぎの代名詞となるおど、関東一円に知られた医療機関であった。
下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので、駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。
門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜まり場であった。
名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で、享保年間(1716~36)頃、千住に移り、明和年間(1764~72)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
現在、江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。
昭和59年、足立区登録記念物(史跡)となった。
かつて、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師や接骨師を兼ねていた。
平成23年3月
足立区教育委員会
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道路と医院の間は大きな駐車場になっている。
この駐車場辺りが駕籠や大八車などの溜まり場になっていたのであろう。
名倉医院を以て、「旧日光街道千住界隈」めぐりを終えた。

時計は午後1時過ぎを指している。
千住大橋に到着したのは午前11時頃であったから、数キロを、彼是、2時間掛かって巡ったことになる。
荒川の土手に上る。
荒川CRを眺めながら、にぎりめしとお茶で昼餉を摂った。
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長らく荒川CRを走っていない。
「千住界隈」の次は、「都電めぐり」も控えている。
荒川CRを上流方向へ走り、江北橋経由、王子駅方面へと向かった。

「旧日光街道千住界隈」、距離は短かったが、中身の濃いポタリングであった。

フォト:2012年6月26日

(完)
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by kazusanokami | 2012-07-21 05:35 | 都内ポタリング | Comments(0)
2012年 07月 20日

『旧日光街道千住界隈』 sj-9

やっちゃ場を、jitensha を押して歩きながら、両側の家々に掲げられた看板を楽しむ。
やっちゃ場の中程に差し掛かる。

「やっちゃ場 追想/大正・昭和初期」。
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裸電球の灯る早暁の市場 夏のやっちゃ場は朝が早い
三時ちかくになると問屋のせり場に続々と集まってくる出仲買人(投師)や仲買人の黒い人影
そして 甲高いせり人の声が響き渡る
主人 番頭がせり始める
それぞれが得意の品物をせる
数十軒の問屋で いろいろなせり声 甲高い声 低い声 そして ダミ声
こうして やっちゃ場の一日が始まる
やっちゃいやっちゃい 問屋のせり場は大混雑大混雑
まさに芋を洗うが如きである
数時間後 さしもの 雑踏も汐が引くようにゆるみ始める
荷を引く買出し人 仕切銭を貰って家路を急ぐやまの人
台所では遅い朝飯を摂り始め せり場では小僧が散らかったわらくずを竹箒で掃く
みるみる藁の山となる
若い衆は縁台で将棋でくつろぎ 旦那衆は寄り合いに急ぐ
御影石を敷き詰めたせり場は広々として 暫くの間 子供達の格好の遊び場に変わり 歓声がひびき渡る
穏やかなひととき 夕暮れが近づき わずかだが静かに時が止まる
ややあって 旧道の奥の方から地鳴りのようなひびきが徐々に伝わってくる
沢山の大八車や牛車が連なって来るひびきである
夕闇が濃くなる頃に手ぶら提灯を点けた大八車で旧道が埋まり 陸続をゆらゆらとやっちゃ場へ向かう
そして荷主は荷を下ろし 二階の仮眠部屋で朝までしばし眠りにつく

平成十八年は千住市場創立三百三十年祭記念碑建立(明治三十九年)より数ええて丁度百年の節目の年である

千住大賑会 河原
手漉和紙 谷野裕子
矢島光明 書
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なかなかの名文である。
やっちゃ場の人々の営みが目に浮かぶ。

「やっちゃ場 追想/大正・昭和初期」に添えられていた、二葉の写真もアップロードしておこう。
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「写真は記録」。
やっちゃ場の活気が伝わって来る。

「谷清 谷塚屋」。
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第8話で登場した、あの「谷清 谷塚屋」である。
両替商から青果物問屋に転身したのは明治34年。
店先の様子からして、青果物問屋に転身したあとの写真と思われる。

「昭和五年 千住市場問屋配置図」。
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先ほど、眺めて来た「傘弁 投師」、「大喜 新大阪屋」、「車茶や 佐野屋」、「葛西屋」、「谷清 谷塚屋」などを配置図で振り返ってみる。

ポタリングをしているとき、何かの標識が目に入ると、必ず、その文字を読んでしまう。
この標識もそうだ。
先ず、「狛犬」の文字が目に飛び込んで来た。
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「区内最大の狛犬 浅草神社と同作者」とある。
今年初めの「世田谷寺社めぐりポタ」の際、世田谷八幡宮で子連れの狛犬を見て以来、狛犬に凝っている。
やっちゃ場からちょいと脱線して、狛犬コレクション、河原稲荷神社に向かった。

「足立区最大の狛犬」。
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足立区最大の狛犬の詳細は、何れ、「狛犬に関わる考察」で綴ってみることとしたいが、一葉だけ、狛犬の姿をアップロードしておこう。
そして、この一葉の写真と共に、やっちゃ場に関わる言葉として、「この狛犬は何でも大きなものが好きなやっちゃ場の旦那衆が造りあげたものである」ということだけ、ここで触れておきたい。
なお、河原稲荷神社の狛犬は浅草神社の狛犬と同じ作者(らしい)とのこと。
こういう情報に触れるとどうしても浅草神社の狛犬を見たくなってしまい、二日後の6月28日、浅草神社を訪れたのであった。
これも、何れ、「狛犬に関わる考察」で綴ってみたい。

河原稲荷神社からやっちゃ場に戻る。

「やっちゃ場の文化人 建部巣兆」。
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巣兆は、文化文政の江戸文化華やかなりしころ、千住はずれの関屋の里に住み、俳画に長じ、江戸三大家に数えられた俳諧師である。
字を巣兆、菜翁、秋香庵と号した。
亀田鵬斎、酒井抱一など江戸一流の文人墨客と親交があり、千住にあっては俳句の点者や俳画、いけばなの指南で生活していたと思われる。
一説では、巣兆は酒を非常に嗜み、その門人で近所に住んでいる豆箕とはよい飲み相手であり、金銭に○○な巣兆は余財があれば惜しまず、酒代に差支える事も度々であった。
いつもの如く、秋香庵で両人が酒を酌み交していると、巣兆の妻女が背後から巣兆に小さな声で「もしもしもうお酒がありませんよ」と耳打ちすると「解った」と黙って着ていた羽織をぬいで妻女へ渡すと、度々の事で心得たもので、それが質屋の露地から酒屋の暖簾を潜って黄金の液体に化けてくると言う次第である。
豆箕は千住市場の青物問屋 伊勢屋七兵衛であり、まさに此の土地の人物である。
(「化政時代 秋香庵附近図」が添えられている)
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「水宗/元果物専門問屋」と「水菓子の話」。
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水菓子、いい響きの言葉である。
摺った林檎、病気のときは確かにそうであった。

遣っちゃ場の北詰に至った。
「古谷 相洲屋 元お酒や」と「此処は元やっちゃ場 北詰」。
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やっちゃ場の由来は、第8話で掲載した「南詰」の看板と同内容なので、ここでの書き下しは割愛する。

千住大橋北詰の立て札でその名を知った、千住大賑会の河原さんには、数々の解説で大変お世話になった。
ここに感謝申し上げる。

やっちゃ場から、千住仲町商店街、宿場通りへと北へ進む。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-20 11:05 | 都内ポタリング | Comments(0)
2012年 07月 20日

『旧日光街道千住界隈』 sj-8

足立市場脇の「千住宿/芭蕉像」から「やっちゃ場」へと向かう。

「此処は元やっちゃ場 南詰」。
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やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。
古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の西側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き、大正・昭和が盛んだったと聞いている。
街道の西側に三十数件の青物問屋が軒を並べ、毎朝、威勢のよいセリ声が響き渡り、江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。
昭和16年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来、青果物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみ残った。
五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。
まさに専門店街である。
日本の専門商店街はここから始まったと言っても良いだろう。
旧道を楽しくしようかい(会)
千住大賑会 河原
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やっちゃ場を北へ進む。
早速、看板が登場する。
「傘弁 投師/元 青物出仲買商」。
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「投師」とは?
「出仲買商」とは?
後ほど、答えが登場する。

「大喜 新大阪屋/元 青物問屋」。
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当主為成善太郎は俳諧をよくし、俳号を為成菖蒲園と称す。
高浜虚子の指導を受け、昭和19年、ホトトギス同人に推薦される。
やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。
その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。
菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。
今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
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「佐野屋/元 車茶や」。
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「車茶や」とは?
と思った途端、答えの看板が、即、登場。
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現代の駐車場である。
大八車の預かりと茶店を兼ねたもの。
初めは大八車を預かるだけが、お茶のサービスから始まり、お新香が出て、煎餅となり、おにぎり、お団子となれば商売である。
このようにして駐車場と茶店を併用したものが車茶屋である。
ただ預かるだけは繁盛しない。
サービス、ノウハウが大事。
やっちゃ場で大八車を預けるのは荷主(山方)と買出人である。
山方は前日の夕暮れから夜半に来て早朝帰る。
買出人は早暁に来て朝に帰る。
両者の毎日帰る時間を的確に把握し、帰る時に遅滞なく車を渡せるかが車茶屋としての腕の見せどころである。
やっちゃ場の街道筋に五、六軒が見受けられる。
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「月日は百代の過客にして」。
こういうのを見るとカメラを向けたくなる。
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「手漉和紙 谷野 紀崎 書」とある。

「葛西屋/元 青物問屋」。
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蓮屋と葛西屋の話
やっちゃ場には通称で話が通ってしまい、本来の屋号が忘れられている事がある。
典型的な例が「蓮屋」で、「蓮根」を主とした商いをしていた為、「葛西屋」が忘れられ、「蓮や」の屋号が定着してしまった。
この立看板を見て本来の屋号を知った人が殆どである。
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中村不可折と葛西屋
震災後、復興でやっちゃ場が賑わっていた昭和10年(1933年)当時、第九代葛西屋喜平は時代の先を見るように鉄筋コンクリートの建物を作っている。
このころ、早朝の競りが終わって、仕切り等の事務処理が終われば、時間的に余裕があった。
そこで絵を習い和歌などもたしなんでいたようだ。
その師が中村不折であったようだ。
喜平は季節の野菜が入荷すれば、不折に届けていたという。
子供達は根岸まで使いに出された事を覚えている。
戦災で焼け残ったものの中に不折よりの礼状が残されていた。
一枚の紙に栗、柿、松茸の絵をサラサラと描いて「ありがとう」の文字。
不折にしてみれば、全国にいる親しくしている友人の一人であったようだが、季節ごとに旬の野菜を口にすることができたと思う。
そのような縁で喜平に「六朝の書き方」を手ほどきしていたと思われる。
昭和11年2月には、喜平が中村不折に依頼した清亮寺(日の出町)の三額の寸法を下見にゆくという覚え書きが残っている。
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「谷清 谷塚屋/元 青果物問屋」。
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両替商から青果物問屋へ。
江戸後期よりやっちゃ場にて両替商を営み、明治34年より青果物商となる。
初代磯吉、二代は清吉、ここで谷清 谷塚屋を名乗る。
三代から五代までは婿とりで、五代目の午三郎を青果物問屋 和泉屋より婿として向かえて青果物問屋となり、主に土物を扱っていた。
谷塚屋に保存されていた両替商時代の帳面からみると、両替商の商圏は千住周辺のみならず、埼玉県草加や江戸川区平井周辺の地名が読みとれる。
青果物商となっても、両替商時代の商圏を活用して広範囲に青物の集荷をしているのが現存する帳面から窺い知る事が出来る。
特に大正期には、関東全般は元より常磐線を利用して福島県岩城市や宮城県仙台附近の地名が印されている。
やっちゃ場も昭和20年4月の空襲で消滅し、以後、東京都足立市場となる。
(「月勘定控帳」や「金銀覚之帳」の写真が添えられている)
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「やっちゃ場の最大の特徴 投師(なげし)の存在」。
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通称「投師」、正式には出仲買商という。
千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。
店を持たず、仲買人の店先を借り、セリに参加して、いち早く大八車に品物を積み、東京市内の全市場へ駆けつけてゆくのである。
セリはその為に夏は早朝3時から始まっていた。
何が利幅があるかは情報の勝負である。
昭和初期の投師は150人位である。
市内の市場は投師の持込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。
それだけ千住のやっちゃ場が巨大な市場であったということであろう。
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解説の書き下しは原文通り(一部、年号などはアラビア数字に置き換え)。
やっちゃ場めぐりはまだまだ続く。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-20 05:45 | 都内ポタリング | Comments(2)
2012年 07月 19日

『旧日光街道千住界隈』 sj-7

足立市場前交差点。
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市場の入り口の左側に芭蕉像が見える。
信号を渡る。
千住宿 奥の細道/芭蕉像。
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この矢立の筆じゃ書き難かろうと思うも、そんな野暮はここでは言わない。

芭蕉像建立の趣意書。
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ここにも「千住大賑会・河原」と記されている。
「芭蕉像に到る足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかもしれません」とある。
敷石と共に、今一度、芭蕉像をカメラに収める。
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せり場の御影石は写真左下に少しだけ写っている色の変わった敷石であったかもしれない。
次の機会にもう一度しっかりと見ておきたい。

「旧日光道中(陸羽街道)/此の先は元やっちゃ場跡/看板の語りをお楽しみください」。
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「旧日光道中(陸羽街道)」とある。
ここで、街道について少し触れておきたい。
五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった陸奥白川以南を指し、道中には27の宿場が置かれた。
日本橋から宇都宮までは日光道中(日光街道)と共通である。
奥州街道は、1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号(日本橋~青森)となっている。
芭蕉は、白河の関に至り、「心もとなき日数重ねるままに白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と書き残している。
深川を出立し、千住から那須を過ぎる間、心が落ち着かない日を重ねていたが、白河の関に至って、ようやく旅の心も落ち着いたのである。
白河の関で、曽良は「卯の花をかざして関の晴れ着かな」と詠んでいるが、芭蕉は一句も詠んでいない。
数年前、白河の関を訪れたとき、白河の関以降の道中が相当に難儀で、まさに「奥の細道」なんだなあと思った。

「看板の語り」を楽しみにしながら、やっちゃ場へと向かう。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-19 04:37 | 都内ポタリング | Comments(3)
2012年 07月 18日

『旧日光街道千住界隈』 sj-6

千住大橋/橋詰テラス。
「千住大橋際 御上り場」。
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「御上り場」。
将軍家日光門主(別掲参照)など高貴な人々が利用していた湊が千住大橋際御上り場である。
将軍家が千住近郊の鷹場(小塚原、花又村、たけの塚、そうか村など)や小菅御殿への通行などに通常利用された。
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「日光門主」。
日光門主は別名輪王寺宮上野の森宮様と呼ばれ、日光山のみならず、東叡山寛永寺、比叡山延暦寺の門主を兼ね、天台座主の地位を併せ持つ宗教的権威の頂点にいた人物である。
日光道中でもっとも重視されていたのは日光と江戸を三回往復する日光門主の通行である。
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天保13年(1842年)仙台藩13代藩主 伊達慶邦の大名行列。
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嘉永元年(1848年)千住大橋之図。
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千住大橋際の御上り場に将軍の御成船が着く様子をアップで。
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この図は小金原で行われた鹿狩に向かう将軍が千住に到着する様子を描いた図です。
描かれている川(図右側)は隅田川、橋は千住大橋です。
図の左側が千住橋戸町で、将軍の船には葵紋が付いた吹流しがたなびいています。
当時の将軍は12代将軍の徳川家慶でした。
「小金野鹿狩之記」(独立行政法人国立公文書館所蔵)
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昨年、何度か通った「国立公文書館」の所蔵資料である、と。
閲覧室でゆっくりと見てみたいものだ。

千住大橋公園と橋詰テラスで数多くの資料や絵図を眺めながら、ベンキョーした。
あれやこれやの歴史を堪能し、次は足立市場方面へ向かう。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-18 06:45 | 都内ポタリング | Comments(2)
2012年 07月 17日

『旧日光街道千住界隈』 sj-5

千住大橋/橋詰テラス。
「河番付」と「橋番付」。
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川番付の「大日本大河一覧」をアップで。
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行司は、江戸 隅田川、両国川、宮戸川のほか、ヒタチ 美奈川、セッツ 湊川、山シロ 高瀬川、ムツ 衣川、ヒタチ 逢初川と続く(注:カタカナは原文通り)。
以下、頭取 山城 宇治川ほか五つの川、勧進元 関東第一 利根川、差添 大坂 天満川と続く。
大関は、山城 加茂川、遠州 大井川。
関脇は、山城 淀川、筑後 筑後川。
小結は、信州 木曽川、仙台 大隅川。
前頭は、駿州 富士川、遠江 天竜川、羽州 最上川、大坂 宇治川ほか数多の川の名が続く。
前頭に、国許、播磨国の川として、市川、渡瀬川、宇根川、うろこ川、水将川などが散見される。
市川は分かるが、その他の川は調べてみたが、何処を流れている川かは判らない。
川の名が変わっているのだろう。

次に、橋番付の「日本大橋盡(づくし)/為御覧」をアップで。
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行司は、九十六間 江戸両国橋、九十間 江戸大川橋、八十五間 千住大橋。
江戸大川橋は吾妻橋のこと。
千住大橋は行司役で登場。
以下、頭取 江戸方 弁慶橋ほか四つの橋の名、世話人 大阪 四ツ橋ほか四つの橋、勧進元 江戸日本橋、大坂日本橋と続く。
大関は、二百間 岡崎矢矧橋(矢作橋)、百六十五間 岩国錦帯橋。
関脇は、木五十間 石四十五間 福井掛合橋、九十六間 爪六間 瀬田唐橋。
小結は、五十五数並 越中舩橋、百八十三間 大坂大神橋。
以下、前頭で、数多の橋の名が続く。

橋の名の頭に、橋の長さが記されている。
番付は橋の長いもの順かと思ったが、大関、関脇、小結を仔細に眺めてみると、必ずしもそうではなく、橋の長さに加え、橋の姿も加味されているように思える。
また、長さは、単に何間だけでなく、「木五十間 石四十五間 福井掛合橋」、「九十六間 爪六間 瀬田唐橋」、「五十五数並 越中舩橋」のような記述もある。
「爪六軒」や「五十五数並」の意味はこれからの宿題である。

川は日本全国の川の名が見られるが、橋は江戸と大坂のものが多く見られ、地方の橋は少ない。
これは、江戸時代、幕府が軍事上の理由から架橋を積極的にやらなかったことの現われと思える。

ふたつの番付表は随分と楽しめた。
次は「千住大橋際御上り場」だ。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-17 05:25 | 都内ポタリング | Comments(2)
2012年 07月 16日

『旧日光街道千住界隈』 sj-4

千住大橋/橋詰テラス。
「千住の橋戸河岸」。
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八枚の札が並んでいる。
「千住の橋戸河岸」について、いろいろと"能書き"が書かれている。
ひとつずつ、読んでみた。
幾つか、ベンキョーになることもあった。
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『橋戸河岸で陸揚げされた産物』
産物は多種にわたっている。
この中には赤穂塩や斉田塩など中国地方のものや薩摩のものとして知られた黒砂糖など遠隔地の物資も陸揚げされたいた。
その他食品類をはじめ肥料材木石材など多様な産物が取り扱われている。
<上総コメント>
「赤穂塩や斉田塩など中国地方のもの」と書かれているが、赤穂は播磨国、斉田は阿波国なので、中国地方というのは正しくないだろう。
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『河川のうつりかわり』
千住の南側を弧を描いて流れているのが隅田川である。
江戸時代のはじめには入間川水系の最下流部にあり、入間川と呼ばれていたが、寛永年間に川越市附近で入間川に荒川が繋げられてから荒川の下流となった。
千住では、古くは、渡裸川、千住川、豊島川、大川とも呼ばれていた。
<上総コメント>
以前に綴った「橋と川とスカイツリー」で隅田川のことに触れた。
その際、吾妻橋から下流を大川と称すると書かれた文献があると記し。
今回の立て札資料によれば、千住でも大川と呼ばれていたとのことだ。
諸説あると思いたい。
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『潮待茶屋』
江戸時代より千住の市場では船で運ばれた諸国の荷物が活発に取引されていた。
千住では、川は上流から下流に流れるだけでなく、海の干満によって遡行する。
かつて、船が自然の流れを利用していた頃はちょうどよい流れを待つ「潮待汐待」が行われていた。
<上総コメント>
瀬戸内海の「潮待ちの町」は承知していたが、千住も「潮待ちの町」であったのだ。
なお、本文中、「潮待汐待」とあるが、これは原文通りである。
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『千住節(川越舟唄)』
富士下離れりゃ 荒川までは 竿も櫓櫂も 手につかぬ
 千住出てから 牧の野までは 雨もふらぬに そでしぼる
  千住川さえ 竿さしゃ届く まして届かぬ主の胸
江戸と小江戸と呼ばれた川越を結んだ川越夜舟の船頭達などにより謳われていた。
<上総コメント>
この舟唄をYouTubeで探したところ、民謡大会での名調子がアップロードされていた。
歌詞は幾通りもあるようで、前述の節は YouTubeでは出て来なかった。
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『川蒸氣の登場』
江戸時代以来、江戸の交通には舟運も利用されていたが、明治に入り川蒸氣が登場した。
明治八年には千住大橋と両国橋間に川蒸氣船が開通 船賃は六銭であった。
吾妻橋から千住大橋間は二銭、川蒸氣はその後も路線が拡大した。
俗に一銭蒸氣と言う言葉がありますが、これは運賃が一銭であることに因む。
<上総コメント>
広辞苑を紐解くと、「一銭蒸気/第二次大戦前まで東京隅田川にあった小型客船。初め、1区間の乗車料が1銭であったためこうよばれた。1885年(明治18)就航。」とある。
或る書物には「現在、隅田川や東京湾で定期船を運航している東京都観光(とうきょうみやこかんこう)株式会社の前身は、一銭蒸気を運航していた隅田川汽船会社」とあった。
隅田川汽船会社の設立は、1898年(明治31年)とのことだ。
説明書きやその後の調べでは、川蒸気の船賃や開業年はばらばらであるが、それは瑣末なこと。
次回、浅草と東京湾を結ぶ隅田川の観光船を眺める機会があるときは、川蒸気と重ね合わせて見てみよう。
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『千住の大橋 架橋と変遷』
1594年 奉行 伊奈備前守忠次によって初代の橋が架けられた。
位置は現在より弐町(200メートル)上流と記録されている。
以来、正確な記録は残っていないが、8~16回の架け替えと推定され、橋杭は、槙、楠、檜と記されている。
最後の木橋の位置は、現在の鉄橋の上手部分と完全に一致している。
<上総コメント>
伊奈忠次は、徳川家康が江戸に移封された後、関東代官頭として家康の関東支配に貢献した。
因みに、江戸幕府関東郡代として、利水・治水事業や新田開拓に貢献した伊奈忠治は、忠次の次男である。
「伊能忠敬、間宮林蔵、師弟ゆかりの地を訪ねて」で知った伊奈忠治のことは、今回のことも含め、いろんなところで繋がっている。
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『明治四十三年 下町の大水害』
大橋がながされないように橋脚のところに大型の味噌樽や醤油樽に石や砂利を入れて重しにして乗せた。
樽が足りなくて橋の上に多くの人間が乗って流失を防ぎ、又、橋の上から手鉤のついた長い竿で流木が橋脚に当たるのを防いだ。
町の人々を総動員して地域ぐるみで橋を守った。
(古老の話)
この札の左側に「この3枚の写真は明治43年の大洪水の時のものです。右の説明板と見比べてみて状況を想像してみてください」の言葉と共に三枚の写真が貼られていた。
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次は浮世絵だ。
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『初代広重の画』
1856(安政3)年の成立
下部が南、北岸(左岸)には千住橋戸町の河岸が描かれ、川面には多くの船や筏が見える。
『葛飾北斎の著名な作品』
浮世絵には名所であった千住大橋が多数取り上げられている。
千住から富士を眺めている構図である。
今も千住葱は高級葱として取引されている。
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護岸壁に書かれた説明書きは以上の通りである。
護岸壁に描かれた浮世絵は、初代歌川広重(安藤広重)「名所江戸百景 千住の大はし」(右)、葛飾北斎「富嶽三十六景 武州千住」(左)である。
描かれている山は、片や、筑波山、片や、富士山。
馬の背に担がれた、千住葱も登場。
江戸には、千住葱、練馬大根、小松菜、駒込茄子など産地を冠した野菜もいろいろと。
駒込茄子は「一富士、二鷹、三茄子」と縁起物として川柳に詠まれている。

話があらぬ方へ外れていきそうだ。
次は、「河番付」と「橋番付」だ。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-16 17:12 | 都内ポタリング | Comments(2)
2012年 07月 15日

『旧日光街道千住界隈』 sj-3

千住大橋公園から橋詰テラスに降りてみた。
先ほど、橋を渡りながら見た、護岸の絵図を橋詰テラスで間近にみた。
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与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」とある。
護岸の曲がり部を使っているのは屏風を表現しているのかもしれない。
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「千住の大橋と荒川の言い伝え」。
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先ず最初に、この案内板に書かれている最後の言葉を記しておこう。
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このテラスの看板群は多くの企業の協賛金と東京都・足立区の後援により作られれました。
ご協力感謝致します。
千住大賑会・河原
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先ほど、千住大橋南詰で見た立て札で登場した「千住大賑会の河原さん」がここにも登場している。

「大橋と大亀」の言い伝え。
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千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。
昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。
こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。
千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「...中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。
川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。
ずっと以前から川の主と言われる大亀が住んでいて、その棲家が橋の川底にあったので、打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。
いくら打ち込もうとしても橋杭は入っていきません。
そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。
その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、苦もなく打ち込めました。
しかし、見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。
川を往来する舟が橋の近くで転覆するとか、橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。
船頭仲間でも大橋付近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ、最大の注意を払い,、ここを通り越すと"ほっと"したそうです。
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「大橋と大緋鯉」の言い伝え。
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千住大橋から十数丁遡った対岸の“榛木山”(ハンノキヤマ)から、下流の鐘ヶ渕に至る一帯を棲家としていた一匹の大きな緋鯉がいました。
その緋鯉は、 大きさが小さな鯨ほどもあり、 緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。
ですから、 かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟でこの川を往き来する人々の目を楽しませていました。
この緋鯉のことを川沿いの住民達は大川の主と呼び親しんでいました。
ところが、いつしかこの大川に橋をかけることになり、いざ橋杭を立てはじめますと、困ったことがおこりました。
それは、立てた橋杭と橋杭の間が狭いために、この大緋鯉が通れなくなったからです。
榛木山の方から下ってきた大緋鯉が鐘ヶ渕へ向けて泳いでくると、きまって橋杭にその魚体がぶつかってしまうのです。
そのたびに、立てたばかりの橋杭がグラグラ動いて倒れそうになります。
せっかく打ち立てた橋杭を倒されては、今までの苦労が水の泡になってしまいます。
そこで、橋の普請主は付近の船頭達に頼み、大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしました。
網に追い込まれた緋鯉は、捕らえられてなるものかと、ものすごい力をだして暴れ回りました。
船頭は、自分達の日ごろの腕の見せどころとばかりがんばりましたが、思うようにはいきませんでした。
それならばと、網の中の緋鯉を櫓で力いっぱい叩いたり突いたりしましたが、それでも捕らえることができませんでした。
とうとう鳶口まで持ってきて、大緋鯉の目に打ち込んでしまいました。
しかし、大緋鯉は目をつぶされただけで、網を破って逃げ去ってしまいました。
それからしばらくの間、緋鯉は姿を見せませんでしたが、たまたまその姿を目にした人の話では、片目がなくなっていたそ うです。
片目を失った緋鯉は、目の傷が治ると以前にも増して暴れ回り、橋杭にもよくぶつかりました。
ぶつかるたびに橋杭は、地震のときのように大きく揺れ動き、今にも倒れそうになりました。こうしたことが、いつまでも続いては困りますので、せっかく立てた橋杭の一本を岸辺に寄せて立て替え、大緋鯉が自由に泳ぎ回れるようにしてやりました。
それからというものは、大緋鯉が橋杭にぶつかることもなく、舟の事故や水死人の数が少なくなって、めでたしめでたしの結果に終わったということです。
もちろん、その後も緋鯉の大きく美しい姿が、この川を往き来する人々の目を楽しませたことは言うまでもありません。
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このように、千住大橋は大亀と大緋鯉のふたつの伝説を持っているのであった。

橋詰テラスには、まだまだ、幾つもの説明書きや絵図がある。
・「千住の橋戸河岸」
・「初代広重の画、葛飾北斎の著名な作品」
・「大日本大河覧」
・「大日本大橋盡(づくし)」
・「千住大橋際御上り場」
野外資料館の如くである。
時間はたっぷりある。
ひとつずつ、見ていくことにした。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-15 23:55 | 都内ポタリング | Comments(0)
2012年 07月 14日

『旧日光街道千住界隈』 sj-2

千住大橋北詰/千住大橋公園。
「奥の細道矢立初めの地」。
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「奥の細道 行程図」には、次のように綴られていた。
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旧暦元禄2年(1989)3月27日、深川を舟で立った芭蕉は、千住で上陸し、多数の門人らに見送られて、関東より奥州・北陸を経て大垣に至る長途の旅に出立した。
行程600里余、日数凡そ150日という大旅行であった。
この紀行が、元禄7年4月「おくのほそ道」として完成し、以後我が国を代表する古典文学作品となって長いに親しまれている。
古典の多くがそうであるように、この紀行文もなぞに包まれた部分がかなりあり、学究の筆のやすむことがない。
当時の芭蕉を偲びこの地に佇む人もまた少なくない。
時あたかも平成元年、曾良を伴い芭蕉が旅立ってより300年にあたる。
それを記念して「おくのほそ道行程図」を矢立初めの地に建てた。
足立区・足立区教育委員会・足立区観光協会
問い合わせ先:足立区郷土博物館 TEL 03-3820-9393
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「赤穂浪士討入凱旋の旅」で本所松坂町から高輪泉岳寺に向かう中、毎々、江東区芭蕉記念館や芭蕉稲荷神社に立ち寄ったり、隅田川沿いもあちらこちらの区間を走っており、今回のポタリングで「草の戸も住み替える代ぞひなの家」と「「行春や鳥啼魚の目は泪」の点と点が線でつながった。
白河の関、松島、平泉、立石寺、鳴子峡、出羽三山、酒田、新潟など「奥の細道」ゆかりの地を訪ねたことがあるが、これらも jitenshaで走り、線でつなげてみたいものだ。
行程図を眺めながらそんなことを思った。

千住大橋公園から護岸に設けられた階段で橋詰テラスに降りてみた。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-14 07:29 | 都内ポタリング | Comments(2)
2012年 07月 14日

『旧日光街道千住界隈』 sj-1

2年前から、二ヶ月に一回くらいのペースで、備前守殿と一献傾けながらの放談会をやっている。
今年に入り、伊豫守殿も加わっての鼎談も。
6月初旬の鼎談のあと、備前守殿より「次回は8月頃。上総殿の幹事で宜しく。千住辺りを歩いた後に納涼会でもと思いますが、如何でしょうか」と。
勿論、オーケーである。

6月下旬、下見も兼ねて、千住界隈を巡った。

JR南千住駅に降り立つ。
千住大橋南詰に向かう。

千住大橋南詰。
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橋の名のプレートは「大橋」。
「昭和二年十二月竣工」のプレートもある。
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橋の名のプレートが「千住大橋」ではなく「大橋」となっている訳は、橋の袂の碑文で直ぐに分かった。
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読み下してみる。
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千住大橋
"千住大橋"は"千住の大橋"とも呼ばれている。
最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄3年(1594年)に架けられた。
隅田川の橋の中では一番先に架けられた橋である。
当初は、ただ、大橋の呼ばれていたが、下流の大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから"千住"の地名を付して呼ばれるようになった。
江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約120メートル)、幅四間(約7メートル)であった。
奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
松尾芭蕉が奥州への旅で、人々と別れたところもここである。
現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927年)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973年)、新橋がそえられた。
昭和59年3月
東京都
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隅田川に架かる橋の中で、元祖「大橋」なのである。
ひとつの橋だけで、これほどの歴史を持っているのである。
橋の袂に、もうひとつの歴史が残っていた。
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「八紘一宇 陸軍大将林銑十郎書」なる石碑が、何故、千住大橋の袂にあるのかと思い調べてみたが、分からなかった。
或る書物に「東京市では『八紘一宇』の思想を直接に指導・訓練する国策協力組織として肇国奉公隊(ちょうこくほうこうたい)が結成され...」とあるので、当時の東京市内各所に「八紘一宇」の碑が設けられたのかもしれない。
戦中の歴史に加え、戦後、GHQよる占領政策が実施される中にあっても、こうした碑が撤去されなかったことに、また、別の歴史を感じる。

大橋を渡る。
隅田川左岸の護岸に「奥の細道」が描かれている。
「旧日光街道千住界隈めぐり」の気分が盛り上がってくる。
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千住大橋北詰。
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橋の袂に、「千住大橋を渡ると千住の風が吹いている 此処は大千住の木戸口橋戸町 千住賑会 河原」なる立て札と「千住大橋公園の奥の階段を登り 橋詰テラスえお立ち寄りください」の立て札が立っている。
案内の文面もさることながら、この「千住賑会 河原」がちょっと気になる人物である。
この河原さんは、後ほど巡る「橋詰テラス」や「やっちゃ場」でも登場する大事な人物なのである。

千住大橋公園と橋詰テラスに立ち寄る。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-14 05:33 | 都内ポタリング | Comments(2)