『上総守が行く!』

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2012年 07月 19日

『旧日光街道千住界隈』 sj-7

足立市場前交差点。
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市場の入り口の左側に芭蕉像が見える。
信号を渡る。
千住宿 奥の細道/芭蕉像。
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この矢立の筆じゃ書き難かろうと思うも、そんな野暮はここでは言わない。

芭蕉像建立の趣意書。
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ここにも「千住大賑会・河原」と記されている。
「芭蕉像に到る足下の敷き石は、やっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかもしれません」とある。
敷石と共に、今一度、芭蕉像をカメラに収める。
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せり場の御影石は写真左下に少しだけ写っている色の変わった敷石であったかもしれない。
次の機会にもう一度しっかりと見ておきたい。

「旧日光道中(陸羽街道)/此の先は元やっちゃ場跡/看板の語りをお楽しみください」。
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「旧日光道中(陸羽街道)」とある。
ここで、街道について少し触れておきたい。
五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった陸奥白川以南を指し、道中には27の宿場が置かれた。
日本橋から宇都宮までは日光道中(日光街道)と共通である。
奥州街道は、1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号(日本橋~青森)となっている。
芭蕉は、白河の関に至り、「心もとなき日数重ねるままに白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と書き残している。
深川を出立し、千住から那須を過ぎる間、心が落ち着かない日を重ねていたが、白河の関に至って、ようやく旅の心も落ち着いたのである。
白河の関で、曽良は「卯の花をかざして関の晴れ着かな」と詠んでいるが、芭蕉は一句も詠んでいない。
数年前、白河の関を訪れたとき、白河の関以降の道中が相当に難儀で、まさに「奥の細道」なんだなあと思った。

「看板の語り」を楽しみにしながら、やっちゃ場へと向かう。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-19 04:37 | 都内ポタリング | Comments(3)
2012年 07月 15日

『旧日光街道千住界隈』 sj-3

千住大橋公園から橋詰テラスに降りてみた。
先ほど、橋を渡りながら見た、護岸の絵図を橋詰テラスで間近にみた。
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与謝蕪村筆「奥の細道図屏風」とある。
護岸の曲がり部を使っているのは屏風を表現しているのかもしれない。
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「千住の大橋と荒川の言い伝え」。
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先ず最初に、この案内板に書かれている最後の言葉を記しておこう。
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このテラスの看板群は多くの企業の協賛金と東京都・足立区の後援により作られれました。
ご協力感謝致します。
千住大賑会・河原
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先ほど、千住大橋南詰で見た立て札で登場した「千住大賑会の河原さん」がここにも登場している。

「大橋と大亀」の言い伝え。
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千住大橋は隅田川に架けられた最初の橋です。この川は以前荒川とも渡裸川(とらがわ)とも読んでいました。
昔は文字の示すように荒れる川であり、トラ(虎)が暴れるような川と言われていました。
こうした川に橋をかけることは難工事ですが、当時土木工事の名人と言われた伊那備前守忠次によって架けられました。
千住大橋の架橋については“武江年表”文禄三年の条に「...中流急流にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて舟を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏 熊野権現に祈りて成就す」と書いてあります。
川の流れが複雑でしかも地盤に固いところがあって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。
そうしたことから完成時には、一部の橋脚と橋脚の間が広くなってしまいました。
ここで大亀の話が登場するのです。
ずっと以前から川の主と言われる大亀が住んでいて、その棲家が橋の川底にあったので、打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。
いくら打ち込もうとしても橋杭は入っていきません。
そうしているうちに杭は川の流れに押し流されてしまいました。
その場所を避けて岸辺に寄ったところに杭を打ち込んだところ、苦もなく打ち込めました。
しかし、見た目に橋脚は不揃いになってしまいました。
川を往来する舟が橋の近くで転覆するとか、橋脚にぶつかると大川の主がひっくり返したとか、橋脚にぶつけさせたと言われています。
船頭仲間でも大橋付近は難所として、かなり年季の入った船頭でさえ、最大の注意を払い,、ここを通り越すと"ほっと"したそうです。
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「大橋と大緋鯉」の言い伝え。
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千住大橋から十数丁遡った対岸の“榛木山”(ハンノキヤマ)から、下流の鐘ヶ渕に至る一帯を棲家としていた一匹の大きな緋鯉がいました。
その緋鯉は、 大きさが小さな鯨ほどもあり、 緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。
ですから、 かなり深いところを泳いでいてもその雄姿が認められ、舟でこの川を往き来する人々の目を楽しませていました。
この緋鯉のことを川沿いの住民達は大川の主と呼び親しんでいました。
ところが、いつしかこの大川に橋をかけることになり、いざ橋杭を立てはじめますと、困ったことがおこりました。
それは、立てた橋杭と橋杭の間が狭いために、この大緋鯉が通れなくなったからです。
榛木山の方から下ってきた大緋鯉が鐘ヶ渕へ向けて泳いでくると、きまって橋杭にその魚体がぶつかってしまうのです。
そのたびに、立てたばかりの橋杭がグラグラ動いて倒れそうになります。
せっかく打ち立てた橋杭を倒されては、今までの苦労が水の泡になってしまいます。
そこで、橋の普請主は付近の船頭達に頼み、大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしました。
網に追い込まれた緋鯉は、捕らえられてなるものかと、ものすごい力をだして暴れ回りました。
船頭は、自分達の日ごろの腕の見せどころとばかりがんばりましたが、思うようにはいきませんでした。
それならばと、網の中の緋鯉を櫓で力いっぱい叩いたり突いたりしましたが、それでも捕らえることができませんでした。
とうとう鳶口まで持ってきて、大緋鯉の目に打ち込んでしまいました。
しかし、大緋鯉は目をつぶされただけで、網を破って逃げ去ってしまいました。
それからしばらくの間、緋鯉は姿を見せませんでしたが、たまたまその姿を目にした人の話では、片目がなくなっていたそ うです。
片目を失った緋鯉は、目の傷が治ると以前にも増して暴れ回り、橋杭にもよくぶつかりました。
ぶつかるたびに橋杭は、地震のときのように大きく揺れ動き、今にも倒れそうになりました。こうしたことが、いつまでも続いては困りますので、せっかく立てた橋杭の一本を岸辺に寄せて立て替え、大緋鯉が自由に泳ぎ回れるようにしてやりました。
それからというものは、大緋鯉が橋杭にぶつかることもなく、舟の事故や水死人の数が少なくなって、めでたしめでたしの結果に終わったということです。
もちろん、その後も緋鯉の大きく美しい姿が、この川を往き来する人々の目を楽しませたことは言うまでもありません。
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このように、千住大橋は大亀と大緋鯉のふたつの伝説を持っているのであった。

橋詰テラスには、まだまだ、幾つもの説明書きや絵図がある。
・「千住の橋戸河岸」
・「初代広重の画、葛飾北斎の著名な作品」
・「大日本大河覧」
・「大日本大橋盡(づくし)」
・「千住大橋際御上り場」
野外資料館の如くである。
時間はたっぷりある。
ひとつずつ、見ていくことにした。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-15 23:55 | 都内ポタリング | Comments(0)
2012年 07月 14日

『旧日光街道千住界隈』 sj-2

千住大橋北詰/千住大橋公園。
「奥の細道矢立初めの地」。
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「奥の細道 行程図」には、次のように綴られていた。
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旧暦元禄2年(1989)3月27日、深川を舟で立った芭蕉は、千住で上陸し、多数の門人らに見送られて、関東より奥州・北陸を経て大垣に至る長途の旅に出立した。
行程600里余、日数凡そ150日という大旅行であった。
この紀行が、元禄7年4月「おくのほそ道」として完成し、以後我が国を代表する古典文学作品となって長いに親しまれている。
古典の多くがそうであるように、この紀行文もなぞに包まれた部分がかなりあり、学究の筆のやすむことがない。
当時の芭蕉を偲びこの地に佇む人もまた少なくない。
時あたかも平成元年、曾良を伴い芭蕉が旅立ってより300年にあたる。
それを記念して「おくのほそ道行程図」を矢立初めの地に建てた。
足立区・足立区教育委員会・足立区観光協会
問い合わせ先:足立区郷土博物館 TEL 03-3820-9393
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「赤穂浪士討入凱旋の旅」で本所松坂町から高輪泉岳寺に向かう中、毎々、江東区芭蕉記念館や芭蕉稲荷神社に立ち寄ったり、隅田川沿いもあちらこちらの区間を走っており、今回のポタリングで「草の戸も住み替える代ぞひなの家」と「「行春や鳥啼魚の目は泪」の点と点が線でつながった。
白河の関、松島、平泉、立石寺、鳴子峡、出羽三山、酒田、新潟など「奥の細道」ゆかりの地を訪ねたことがあるが、これらも jitenshaで走り、線でつなげてみたいものだ。
行程図を眺めながらそんなことを思った。

千住大橋公園から護岸に設けられた階段で橋詰テラスに降りてみた。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-14 07:29 | 都内ポタリング | Comments(2)
2010年 09月 08日

『伝説/九尾狐(きゅうびのきつね)』

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那須湯本温泉から那須岳に向う途中、山肌がむき出しになり、大きな石がごろごろとした地獄谷のような風景に出会う。
木製の遊歩道を辿り、奥に進むと「殺生岩」が鎮座している。
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「殺生岩」の脇にその謂れが記されている。
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写真では読み辛いので、原文を書き下してみる。

~殺生石の由来~
殺生石は、昭和二十八年一月十二日史跡に指定されました。
昔、中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾(はくめんこんもうきゅうび)の狐が今から八百年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来しました。
この妖狐は「玉藻の前(たまものまえ)」と名乗って朝廷に仕え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須ヶ原へと逃れて来ました。
その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命じ遂にこれを退治しました。
ところが、妖狐は毒石となり毒気を放って人畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と呼んで近寄ることを禁じていましたが、会津示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のうらみを封じましたのでようやく毒気も少なくなったと語りつたえられています。
芭蕉は元禄二年四月十八日奥の細道紀行の途中にこの殺生岩を訪れ 石の香や夏草あかく露あつし と詠んでいます。
注意
殺生岩附近は絶えず硫化水素ガス等が噴気していますので風のない曇天の日は御注意下さい。 
昭和五十二年十月二十五日
那須町

前述の謂れの中では「今から八百年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来」とあるが、或る書き物では「8世紀、若藻(わかも)という名の少女に化けた九尾狐は、吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂、鑑真和尚らが乗る遣唐使船に乗り、嵐に遭遇しながらも来日を果たしたといわれている」とある。
更に続けて、「それから360年後(1113年頃か)、北面の武士である坂部行綱(さかべゆきつな)が、子宝に恵まれなかったため、九尾狐が化けたとも知らず、藻女(みずくめ)という捨て子を拾い育て、17年後(1130年頃か)、坂部夫婦に育てられた藻女は18歳で宮中に仕え、玉藻前(たまものまえ)と名を改め、鳥羽上皇の寵愛を受けた。しかし、その後、鳥羽上皇は病を発し、その原因が玉藻前であると発覚し、玉藻前は宮中から逃亡した。 数年後、玉藻は下野国那須ヶ原に現れ、婦女子や旅人を誘拐し喰い殺すなどの暴行を働いたため、鳥羽上皇は白面金毛九尾狐の討伐を命令。8万の軍勢が那須へ集結し、白面金毛九尾狐を捕らえて殺すことに成功する。白面金毛九尾狐は、その直後、巨大な毒石(殺生石)に姿を変えた... 」とある。

伝説とは言え、九尾狐の伝説に吉備真備や遣唐使船が出て来たことに驚いた。
今年5月、「平城遷都1300年祭」の会場で、復元された遣唐使船を見た。
復元とは言え、遣唐使船を間近に見たことでもあり、あの船に乗って若藻という名の少女に姿を変えた九尾狐が渡来したのかとその姿を想像すると、歴史に裏打ちされた伝説というものに大いに興味を惹かれる。

前述の謂れの中で松尾芭蕉についても触れられている。
その句碑と解説の写真も掲載しておこう。
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故事に明るい芭蕉は、この地を訪れ、九尾狐の伝説を思い起こしたことであろう。

殺生岩を過ぎ、那須岳に向う途中で見掛けたのが、冒頭の写真の「白面金毛九尾狐(はくめんこんもうきゅうびのきつね)像」である。
尾は九本、口に巻物をくわえている。
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この巻物には何が綴られているのであろうか。
これまでの悪行の数々なのであろうか、妖術の数々なのであろうか、はたまた、鎮魂のための経文なのであろうか...。

九尾狐の伝説はおどろおどろしきものながら、那須高原観光周遊シャトルバスは九尾(きゅうび)を捩った「キュービー号」と、洒落っ気たっぷりの名前となっている。
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可愛らしいキャラクターに大変身しているのも、九尾狐の妖術のなせる業か...。

フォト:2009年11月9日
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by kazusanokami | 2010-09-08 23:52 | 伝説 | Comments(2)
2009年 06月 12日

『ふたつの"古関"を訪ねて』 ks-7

「奥の細道 白河の関」。

芭蕉と曾良が、江戸深川を出発したのは、元禄2年(1689年)3月27日、新暦の5月中旬の頃。
ここ、白河の関に至ったのは、同年4月20日、新暦の6月初旬でした。
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「心許なき日かず重ぬるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ...」。
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当地で、曾良は「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」と句を残すも、芭蕉は句を残さず。

何故、芭蕉は句を残さなかったかにつき、讃岐守殿のご高説を拝聴。

旅なれた芭蕉でさえ、奥州の旅に不安があったが、「心許なき日かず重ぬるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ」の通り、白河に至り、ようやく心が定まったことや、白河の関は歌枕になっており、古来、多くの歌人により詠み込まれこともあり、そうしたことに思いを馳せ、発句する気持ち以上に白河の関に至った喜びが勝っていたためとのこと。

「心許なき...旅心定まりぬ」は、ポタリングに出発するとき、そして、途中、この道でよいのかとの不安、目印に行き当たったときの嬉しさなどに相通じるものがあります。僭越ながらの比べ様ですが...。

芭蕉と曾良はここから奥の細道へ足を踏み入れましたが、我々はここで『ふたつの”古関”を訪ねて』の旅を終え、帰途に。

フォト:2009年5月30日

(完)
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by kazusanokami | 2009-06-12 20:20 | 旅、旅、旅/いろいろな旅 | Comments(2)