『上総守が行く!』

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2011年 10月 24日

『秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く/本因坊秀策の巻』<下>

<上>では、本因坊秀策囲碁記念館内の説明文ならびにホームページの記述と、上総が撮影した館内展示物ならびにDVD動画の一部の写真を織り交ぜて、本因坊秀策の生涯を綴ってみた。
また、<中>では、囲碁を嗜まぬ上総には「猫に小判」である、棋譜を中心に綴ってみた。

この<下>では、再び、本因坊秀策囲碁記念館内の説明文ならびにホームページの記述と、上総が撮影した館内展示物の写真を織り交ぜて、本因坊秀策の人となりについて、綴ってみたい。

秀策が受けた教育は、碁の修行を通して、人としての品格も身につける人間形成の学びであり、碁に秀でていただけでなく、書家の竹雪道人について書を学び、師の筆蹟と判別できないほどの上手であったといわれます。
書の多くは後世に伝えられていないものの、石谷広策に与えた囲碁十訣や愛用の碁盤に記した「慎始克終 視明無惑」の銘、父母に送った手紙等が残っています。
<両親宛の手紙>
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秀策の布石は秀策流と称され、今日の対局においても見ることができます。
秀策の残した棋譜は450局以上、秀策の棋譜を並べると段が上がるといわれるほどで、プロ棋士の多くもその手筋に学び、一度は並べたことがあるといわれています。
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秀策はその棋力と人格により碁聖と呼ばれていますが、これまでの多くの棋士の中で、碁聖と崇められるのは第4世本因坊の道策と秀策の二人だけで、その偉大さがわかります。

秀策は2004年(平成16年)、徳川家康、第1世本因坊算砂、第4世本因坊道策とともに、日本棋院の「囲碁の殿堂」入りをしました。
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左から、本因坊秀策、本因坊道策、徳川家康、本因坊算砂。

館内の展示物で、本因坊秀策の生涯や人となりを知った後、更に館内を巡った。

高橋りく画「九頭竜の砂絵」。
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この砂絵は、第一話で触れた、井上幻庵因碩との対局での本因坊秀策の一手、世にいう「耳赤の妙手」の棋譜からイメージして、描かれた作品である。
「耳赤の妙手」とは、井上幻庵因碩が有利に進めていた対局において、本因坊秀策の一手から形勢が逆転。
井上幻庵因碩の耳が、みるみるうちに、赤くなったことから、秀策の、この一手を「耳赤の妙手」と称するようになったとのことである。
龍コレクションも趣味のひとつである上総、この砂絵に見入ったことは申すまでもないことである。

棋譜。
囲碁好きの方へ、ズーム・アップ。
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砂絵。
龍好きの方へ、ズーム・アップ(「龍好きの方」って、上総自身のことなんですけど...)。
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「幽玄の間」。
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市ヶ谷にある日本棋院に、「幽玄」と呼ばれる特別な対局室があるとのこと。
その「幽玄の間」を再現した、この場所で、我が盟友、武衛殿が本因坊秀策に挑んでの対局するシーンを思い浮かべてみるのであった。

左の棚に、斯様な置物が。
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市井の人たちが碁に興じている姿であろうか。

記帳。
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上総 守(かずさ まもる)と記帳。
併せて、上総による代筆にて、武 衛(たけ まもる)殿の名も記帳。
秀策の書に触れ、悪筆での記帳には、ちょっと躊躇したが、これも記念だと、筆をとった次第。

館長さんに、本因坊秀策の墓がある寺について、尋ねてみた。
「地蔵院というお寺です。ここから、直ぐのところにあります。自転車であれば、そんなに掛かりません」と、道順を教えて貰った。

地蔵院。
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武衛殿に成り代わり、墓参したいと思ったが、皆さんを余り待たせる訳にもいかず、石段の前に立つ仁王像に合掌し、その場を離れた。
寺のある方を振り返ると、小高い山の中腹に墓地が見えた。
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そちらに向って、心の中で合掌し、皆と合流した。

フォト:2011年10月15日

『秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く』<本因坊秀策の巻>/完
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by kazusanokami | 2011-10-24 20:41 | しまなみ海道2011
2011年 10月 24日

『秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く/本因坊秀策の巻』<中>

第一話では、本因坊秀策の生涯を追ってみた。
ここ、第二話では、棋譜を中心にアップロードしてみたい。

館内には、本因坊秀策の棋譜が、何点か、展示されていた。
上総は囲碁を嗜まないので、棋譜は、謂わば、「猫に小判」。
一方、囲碁を嗜まれ、本因坊秀策誕生の地を訪れることを楽しみにされるも、この jitensha の旅への参加が叶わなかった、武衛殿にとっては、棋譜は大いに興味のあるところであろう。

本因坊秀策全集。
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御城碁譜。
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扇。
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秀策がは「書」にも長けている。
それについては、第三話で綴ってみたい。

河北種房著「囲碁小学」。
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河北種房と「囲碁小学」について調べてみたが、今のところ、全く不明。
武衛殿が、何か、ご存知かもしれない。
旅のあとの、こうした"宿題"、"判じ物"が、また、楽しいのである。

フォト:2011年10月15日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-10-24 00:02 | しまなみ海道2011
2011年 10月 23日

『秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く/本因坊秀策の巻』<上>

8月中旬、猛暑の頃、毎年恒例の「ハリポタ藩/秋の大遠征」につき、軍師六々守殿と江戸家老上総の間で謀議を開始。
幾つか、候補が挙げられる中、2007年、2008年に続き、今年も「しまなみ海道」を、との軍師殿の提案に江戸家老も賛同。
更に、軍師殿より「上総殿が世話役を務め居る、ドラポタ藩も合同で如何で御座ろうや」との提案も。
ドラポタ藩大給守殿、伊豆守殿、武衛殿、そして、ハリポタ藩ならびにドラポタ藩の盟友、印旛歩駄守殿に声を掛けたところ、諸般の事情により、参加は伊豆守殿のみ。
しかしながら、武衛殿より「因島と申せば、本因坊秀策の生誕地。是非、参加したきところながら、所用あり、参加叶わず、残念!」との報あり。
上総は囲碁を嗜むことはなきことながら、因島に本因坊秀策囲碁記念館があることは承知しており、以前から、機会があれば、訪れてみたいと思っていたことでもあり、軍師殿にこれを立ち寄り先に加えようと提案。
軍師殿より「しまなみ海道は幾度も走っており、新機軸として、本因坊秀策囲碁記念館も」との賛同を得、ここを訪れることとなった次第。

10月15日朝、関西勢として、六々守殿、御典医殿、本町浮心殿、按針殿、人麻呂殿、hitomaroyome殿、摂津守殿の7名、関東勢として、伊豆守殿、上総の2名が、jitensha を携え、尾道に参集し、ハリポタ藩・ドラポタ藩連合軍9名にて、向島を経て、因島に上陸。
本因坊秀策囲碁記念館を訪れた。

本因坊秀策囲碁記念館。
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揮毫は、第二十四世本因坊石田秋芳。
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武衛殿への報告は勿論のこと、ブログ・ネタも兼ねて、棋聖につき、精力的に"取材"。
併せて、上総も自分自身のために大いにベンキョー。

歴史好きの上総、囲碁の起源や歴史について事前ベンキョーしたが、それは、紙面の都合上、割愛したい。

本因坊について、物心がついたときから言葉としては知ってはいるが、しからば、具体的にはどのようなことかと問われれば、さて?ということになってしまう。
で、先ず、「本因坊」とは何ぞやということから綴ってみたい。

江戸時代、本因坊家と井上家、安井家、林家の四家が碁の家元と呼ばれるようになり、優秀な棋士を育て、互いに切磋琢磨しあうこととなった。
四家はそれぞれ幕府から扶持を受けており、それぞれの宗家は血筋ではなく、実力により決められる事となった。
その技術の発揮の場が、年に一回、江戸城内、将軍御前にて行われる「御城碁」であった。
この勝負は四家がそれぞれ代表を数人選んでの対局で、負けることは家の不名誉であり、弟子の集まり方にも影響があった。
(出典/ウィキペディアでの事前ベンキョーと本因坊秀策囲碁記念館での説明より)

次に、本因坊秀策とは、どのような人物であったか。
本因坊秀策囲碁記念館内の説明文ならびにホームページに分かり易く綴られていることでもあり、それを転記(省力化です)し、一部、僭越ながら、上総流にて加筆させて戴くこととしたい。
併せ、上総が撮影した、館内展示物ならびにDVD動画説明の写真も織り交ぜてのこととしたい。

幕末に活躍し、囲碁における、近代の布石の基礎を築き、今なお碁聖と仰がれる天才棋士「本因坊秀策」は、父桑原輪三と母カメの次男として、文政12年(1829年)、備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)に生まれました。
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幼名を虎次郎といい、3、4歳のときには、碁石を与えればすぐに泣き止み、黒白を並べて遊んだといわれています。
母に囲碁を学んだ虎次郎は、5歳の時、尾道の豪商橋本吉兵衛(橋本竹下)に、その才能をいち早く見出されました。
6歳の時には近郷に敵がなく、その技の巧妙さに人々は驚き、神童と称しました。
7歳の時には、吉兵衛を介し、三原城主・浅野甲斐守忠敬と対局し、棋力を認められた秀策は、竹原の宝泉寺住職葆真和尚に師事しました。
<三原城主との対局>
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秀策は、9歳の冬に浅野公の薦めにより江戸へ赴き、本因坊家に入り、本因坊丈和の弟子になりました。
<江戸への出立/母との別れ>
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11歳で初段の免許を得て翌年帰国、浅野公より五人扶持を賜り、15歳で4段の免許を得、名を秀策と改めました。
17歳の時には12人扶持ちに増録され、18歳のとき大阪で井上幻庵因碩と対局しました。
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世にいう「耳赤の妙手」は、このときの一手を指し、有名です。
20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘、花と結婚しました。
21歳で将軍の御前対局である御城碁に初出仕しましたが、このときから12年間御城碁において19連勝で負けることがありませんでした。
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しかし、34歳という若さで他界しました。
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フォト:2011年10月15日

(つづく)
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by kazusanokami | 2011-10-23 02:58 | しまなみ海道2011