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2014年 04月 18日

『鎌倉、春のポタリング/円覚寺仏殿天井画』 sk-1

4月5日、鎌倉ポタリングに出掛けた。
ドラポタでは、年に2、3回の鎌倉ポタリングを行っている。
春は紅葉ケ谷(もみじがやつ)に響く鶯の啼き始めの声を聞く会、夏は本格的に啼く鶯の声を聞く会、秋は紅葉狩りである。
今回は、紅葉ケ谷に響く鶯の啼き始めの声と、多分に上総の趣味に偏った、円覚寺仏殿/「雲龍図」、建長寺回春院/大島渚墓参、いつも昼餉を摂る小坪漁港ゆうき食堂近くの披露山公園&大崎公園/相模湾の眺望を加えさせて貰った。

集合場所のJR北鎌倉駅に少し早く着いた。
円覚寺側の臨時改札口の外で桜の花を眺めながら皆の到着を待つ。
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大給守さん、伊豆守さん、到着に続いて、武衛さんも到着。
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円覚寺。
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桜を愛でる。
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本日の本命、仏殿天井画「雲龍図」。
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円覚寺は何度か訪れているが、仏殿は外から眺めるだけで、不覚にもその天井画を見損ねており、昨年暮れ、円覚寺通の大給守さんが教えてくれたのであった。
仏殿の天井画から床に目を落とすと、床に置かれた「雲龍図(天井画) 前田青邨画伯監修 守屋多々志画伯作」の札が目に入った。
「円覚寺の雲龍図は前田青邨の作かと思っていたんですけど、監修となっていますね」。
「監修って、どういう意味なんでしょうかね」。
「はて...?さて...?」。
「弟子を指導したということですかね」。
まあ、それはそれとして、鎌倉における天井画の<龍コレクション>は、建長寺法堂、東慶寺鐘楼、そして、この円覚寺仏殿と、三つ、揃った。
鎌倉には未だこの他に、常楽寺仏殿の天井画「雲龍図」(狩野雪信)があるという。
常楽寺は大船寄りにあり、我らのいつものコースから外れているが、次回の立ち寄り先に加えるつもりである。

円覚寺の若い緑を愛でる。
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「上総さんの趣味は映画。小津安二郎と木下恵介の墓にご案内しましょう」と円覚寺通の大給さん。
「墓参り、大好き!是非!」と上総。
小津安二郎の墓。
墓というよりに墓碑といった方がよいかもしれない。
刻まれた文字、「無」が印象的である。
お酒がいっぱい供えられている。
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木下恵介の墓。
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こちらのお供えは Volvic が一本だけ。
「小津安二郎は何と言っても『東京物語』。英国映画協会が発表した『映画監督が選ぶベスト映画』の第1位やしね」、「木下恵介は『二十四の瞳』」、「日本初の長編カラー映画『カルメン故郷に帰る』もあります」、「『喜びも悲しみも幾歳月』もあります」と賑やか。
後ほど、建長寺回春院での大島渚の墓参も控えており、この日は松竹の名監督三人(正確には大島渚は作風が合わず松竹を退社し、独立するのだが)の墓参と相成った次第である。
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フォト:2014年4月5日

(つづく)
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by kazusanokami | 2014-04-18 23:57 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(2)
2013年 04月 23日

『卯月、鎌倉に遊ぶ/建長寺(2)』 au-2

建長寺。
塔頭を巡ったあと、久し振りに、小泉淳作画伯が描いた「雲龍図」が見たいと思い、法堂へと向う。

小泉淳作画伯の筆による「雲龍図」。
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いつもは雲龍図だけを撮ることが多いが、この日は法堂に鎮座する釈迦苦行像と千手観音坐像も入れて、贅沢に(???)撮ってみた。

「雲龍図」に関わる説明書き。
この説明書きは、いつ読んでも、子気味よく、気持ちがいい。
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小泉画伯は、建長寺の縁で、京都・建仁寺の開創800年を記念した法堂天井画「双龍図」を平成15年10月に完成させました。
平成16年4月に開眼法要を執り行い、現在、この壮大な二匹龍の天井画には、遠方から多くの拝観者が訪れています。
今回、建長寺・雲龍図と建仁寺・双龍図には「五爪の龍」が採用されています。
日本の龍は普通三本指ですが、本来、龍の指は五本あります。
中国では、皇帝の顔を「龍顔」、皇帝の正装を「龍袍」というように、「五龍の爪」は天子の象徴とされていたため、属国であった朝鮮半島代々の王朝は「四爪の龍」しか用いる事が許されませんでした。
朝鮮半島から我が国へは、更に一本少ない「三爪の龍」として、伝えられたといわれています。
(説明書き、右の図は建仁寺「双龍図」)
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余談ながら、「この説明書きは、いつ読んでも、子気味よく、気持ちがいい。」というその訳について、ちょいと触れておきたい。
十数年前、契約調印式で契約の記念にお客さんに龍のクリスタル製置物をプレゼントした。
その際、このビジネスの仲介をした某商社の重役さんが「この龍は三本爪だなあ」と少々、侮蔑したようなニュアンスでの発言があった。
「おめでたい席でそれはないでしょ」と内心、そう思い、以来、龍の爪は何本かに拘って来た。
日本国内の龍は勿論のこと、中国、台湾、韓国などに出張の都度、龍を目にする度に龍の爪の数を数えた。
日本は、中華料理店などの看板を除いて、寺院などで見られる彫刻などは三本爪。
中国は、玉座などに見られる通り、中国の皇帝だけが五本爪。
中国の庶民、台湾、韓国は四本爪。
これが小生の調べた結果である。
台湾に出張した際、取引先の人にそうした話をしたところ、「龍は精力絶倫。しかし、大陸から台湾や朝鮮半島へ飛んでいくときに一本、指が落ち、更に遠い日本まで飛んでいく途中、疲れ切って、もう一本、指が落ち、日本の龍は三本指になった。そう思えばいいでしょう」と、納得のいく、よき意見を貰った。
そうしたことが昂じて龍の蒐集が趣味となったのであった。
小泉画伯が五本爪の龍を描いた理由はよく分からないが、画伯の描いた「雲龍図」が五本爪であるというのは新発見で、誠に嬉しいことであった。
更に嬉しいことに、このあと訪れる光明寺の本堂の緞帳(緞帳というのかどうかは定かでないが)が、やはり、五本爪であった。
光明寺/本堂の緞帳。
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中華料理店の五本爪はあてにならないが、寺院は言わばオフィシャルな建物、その建物に五本爪が用いられているということは、中国皇帝以外にも用いてよいという、何か、特例があるのかもしれない。

法堂では、更に興味深いものが鎮座していた。
それは建長寺の続編にて。

フォト:2013年4月13日

(つづく)
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by kazusanokami | 2013-04-23 16:12 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(0)
2012年 05月 21日

『古寺巡礼/鎌倉ポタ/東慶寺』 kp-1

ゴールデンウィークの頃、盟友、大給守殿から「旧志賀村、現在の佐久市志賀にある、神津家屋敷、別名『赤壁』は、県下でも屈指の豪農であった家です。志賀高原の開発や長野電鉄の創設者、神津牧場の開発者を輩出。銀行の設立など明治期の企業設立に出資。島崎藤村の在諸中から、パトロンとなり、『破壊』などの出版にも出資したのは、当時の当主。」とのメッセージと共に、『赤壁』の写真が送られて来た。
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その後、大給守殿より、「東慶寺の鐘楼は、『赤壁』の神津猛が、志賀の持ち山の木を伐って、寄進し、建立されたものです。鐘楼の天井画は龍。東慶寺の住職、禅忠が描いいたそうです。大正10年頃のことと思われます。円覚寺管長は、しばしば、志賀の『赤壁』を訪れております。末寺の東慶寺の禅忠も老師の待者として佐久へ来ています。戦前、赤壁では、毎年、座禅会が催され、円覚寺管長が来ており、30回をかぞえています」のメッセージと共に、「古寺巡礼/鎌倉ポタリング」の企画が到来した。
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5月19日、古寺巡礼/鎌倉ポタリング。
信州佐久と鎌倉との関わりの考察として、先ず、東慶寺を訪れたのであった。
拝観料を支払う際、窓口の婦人に、鐘楼は神津家の寄進によるものであることを話題にしたところ、そのことはご存知ではなかったが、鐘楼を除いて、全て、関東大震災の被害に遭ったとのことであった。
鐘楼が寄進されたのは大正10年頃、関東大震災は大正12年。
鐘楼は、関東大震災が起こった頃、まだ、真新しかったことが伺える。
以来、約90年を経て、天井画の龍はやや色褪せてはいるが、眼はしっかりと。

境内を巡る。
新緑が眩しい。
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フォト:
『赤壁』/2012年5月3日、大給守殿提供
東慶寺鐘楼、天井画/2012年5月19日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-05-21 17:23 | 湘南鎌倉ポタリング | Comments(4)
2011年 10月 24日

『秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く/本因坊秀策の巻』<下>

<上>では、本因坊秀策囲碁記念館内の説明文ならびにホームページの記述と、上総が撮影した館内展示物ならびにDVD動画の一部の写真を織り交ぜて、本因坊秀策の生涯を綴ってみた。
また、<中>では、囲碁を嗜まぬ上総には「猫に小判」である、棋譜を中心に綴ってみた。

この<下>では、再び、本因坊秀策囲碁記念館内の説明文ならびにホームページの記述と、上総が撮影した館内展示物の写真を織り交ぜて、本因坊秀策の人となりについて、綴ってみたい。

秀策が受けた教育は、碁の修行を通して、人としての品格も身につける人間形成の学びであり、碁に秀でていただけでなく、書家の竹雪道人について書を学び、師の筆蹟と判別できないほどの上手であったといわれます。
書の多くは後世に伝えられていないものの、石谷広策に与えた囲碁十訣や愛用の碁盤に記した「慎始克終 視明無惑」の銘、父母に送った手紙等が残っています。
<両親宛の手紙>
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秀策の布石は秀策流と称され、今日の対局においても見ることができます。
秀策の残した棋譜は450局以上、秀策の棋譜を並べると段が上がるといわれるほどで、プロ棋士の多くもその手筋に学び、一度は並べたことがあるといわれています。
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秀策はその棋力と人格により碁聖と呼ばれていますが、これまでの多くの棋士の中で、碁聖と崇められるのは第4世本因坊の道策と秀策の二人だけで、その偉大さがわかります。

秀策は2004年(平成16年)、徳川家康、第1世本因坊算砂、第4世本因坊道策とともに、日本棋院の「囲碁の殿堂」入りをしました。
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左から、本因坊秀策、本因坊道策、徳川家康、本因坊算砂。

館内の展示物で、本因坊秀策の生涯や人となりを知った後、更に館内を巡った。

高橋りく画「九頭竜の砂絵」。
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この砂絵は、第一話で触れた、井上幻庵因碩との対局での本因坊秀策の一手、世にいう「耳赤の妙手」の棋譜からイメージして、描かれた作品である。
「耳赤の妙手」とは、井上幻庵因碩が有利に進めていた対局において、本因坊秀策の一手から形勢が逆転。
井上幻庵因碩の耳が、みるみるうちに、赤くなったことから、秀策の、この一手を「耳赤の妙手」と称するようになったとのことである。
龍コレクションも趣味のひとつである上総、この砂絵に見入ったことは申すまでもないことである。

棋譜。
囲碁好きの方へ、ズーム・アップ。
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砂絵。
龍好きの方へ、ズーム・アップ(「龍好きの方」って、上総自身のことなんですけど...)。
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「幽玄の間」。
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市ヶ谷にある日本棋院に、「幽玄」と呼ばれる特別な対局室があるとのこと。
その「幽玄の間」を再現した、この場所で、我が盟友、武衛殿が本因坊秀策に挑んでの対局するシーンを思い浮かべてみるのであった。

左の棚に、斯様な置物が。
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市井の人たちが碁に興じている姿であろうか。

記帳。
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上総 守(かずさ まもる)と記帳。
併せて、上総による代筆にて、武 衛(たけ まもる)殿の名も記帳。
秀策の書に触れ、悪筆での記帳には、ちょっと躊躇したが、これも記念だと、筆をとった次第。

館長さんに、本因坊秀策の墓がある寺について、尋ねてみた。
「地蔵院というお寺です。ここから、直ぐのところにあります。自転車であれば、そんなに掛かりません」と、道順を教えて貰った。

地蔵院。
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武衛殿に成り代わり、墓参したいと思ったが、皆さんを余り待たせる訳にもいかず、石段の前に立つ仁王像に合掌し、その場を離れた。
寺のある方を振り返ると、小高い山の中腹に墓地が見えた。
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そちらに向って、心の中で合掌し、皆と合流した。

フォト:2011年10月15日

『秋の大遠征2011/しまなみ海道を行く』<本因坊秀策の巻>/完
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by kazusanokami | 2011-10-24 20:41 | しまなみ海道2011 | Comments(7)
2011年 07月 31日

『印旛沼の龍伝説』

印旛沼は、大好きなポタリング・コースのひとつである。
印旛沼には、龍伝説がある。
この伝説は、龍を趣味とする上総にとって非常に興味深いもののひとつである。
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《印旛沼の龍伝説》
 その昔、印旛地方で日照りが続き村人は大変苦しんでいた。そこで聖武天皇の命により龍閣寺の釈命上人が印旛沼に船を漕ぎ出し沼の真ん中に出て、命がけで龍神様に雨乞いの祈祷をした。印旛沼には小さな龍が住んでいて、願いを聞いた沼の小龍は龍王に殺されるのを覚悟で天に昇り、暮れゆく空の中に姿を消した。真黒な雲が舞い上り大粒の雨が落ちてきて、だんだんが激しくなり7日7晩降り続き、ひび割れしていた田も枯れ草同様の畑の作物も生き返ったという。
 そして、7日目、ものすごい雷光と天も地もふっ飛ぶような雷鳴がとどろき渡り、三つに裂けた龍の姿が村人たち目に入った。心優しい小龍は龍王の言い付けに逆らって村人のために雨を降らせたので、斬られて三つになって落ちたのである
 村人たちは三つに裂かれた龍の体を捜しに出かけた。二本の角のついた頭は栄町安食に、腹は本埜に、尾はどういうわけか、はるか東南の匝瑳市大寺に落ちていたのが見つかった。変わり果てた龍を見つけた村人たちは、龍の冥福を祈りそれぞれの地で供養することにしたそうである。角のついた頭は石の唐櫃に納めて龍角寺の堂前に埋め、腹は本埜の地蔵堂に納め、尾は大寺の寺に納め、龍角寺、龍腹寺、龍尾寺がそれぞれ寺の名前になったと伝えられている。
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この印旛沼の龍伝説を調べていたところ、「古今佐倉真佐子」なる書物に「此末辺竜腹寺、竜角寺、竜尾寺といへる寺ある。印西の内也。 昔かしそらより蛇三つに 切て落ちし所也。 竜腹寺は腹落し所、竜角寺は頭の落し所、竜尾寺は尾の落し所也。 此 所に寺建右の名付、その寺々は右蛇のこつとも夫々あるよし」と綴られていることを知った。

「古今佐倉真佐子」とは何だろう?と、調べてみた。
佐倉市在住の方がこの書物のことについて綴っていた。
その抜粋をここに引用させて戴く。
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元禄のころ佐倉城主をつとめた稲葉氏の家臣に、渡辺善右衛門という人物がいた。生まれたのは元禄14年(1701年)。この人物は二冊の書物を残した。一つが「古今佐倉真佐子」でもう一つは「山州淀の記」という。二十三歳まで佐倉、その後大名の所替えにより淀に移り住んだため、このようなかけ離れた二つの土地についての書物ができた。
(略)「真佐子」は「まさこ」ではなく「まさご」と読み、佐倉のいろんなことを書きとめたものという意味だ。
(略)江戸から佐倉への道すがらの風物、途中の関所、佐倉城の建物の配置、武家屋敷や曲輪ようす、道筋や木立のこと、そこに並ぶ神社仏閣、年中行事、信仰のありよう、近在の村、直接間接に聞き知った怪談めいた噺の数かず。四季の気象や災害、野馬狩、鹿狩、猪狩から奉公人の年俸まで書かれている。
(略)
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「真佐子」は「まさご」=「真砂」で、細かい砂。
佐倉の「いろいろなこと」を「真砂」に擬えて、書物の名としたようだ。
ポタリングで訪れたところやその道中のことを何でも書き留めたがる上総の性癖にぴったりで、渡辺善右衛門さんに親しみが湧く。

この渡辺善右衛門さんはどのような人物なのであろうか?と電脳網でこの人物の名を打ち込み、検索してみたところ、「朝鮮聘礼使淀城着来図(ちょうせんへいれいしよどじょうちゃくらいず)」なるものが現れた。

この図は、延享度(1748年)の朝鮮通信使の船団が淀に着岸し、淀城下を行進する様子を描いたもので、淀藩の饗応役を務めた渡辺善右衛門守業の筆になり、同人の記した「朝鮮人来聘記」の付図にあたるとある。

渡辺善右衛門はいろんなことを書き留めるのみならず、絵心をも持った人物であったことが窺える。
ポタリングで訪れたところやその道中のことを何でもカメラに収めたがる上総の性癖にぴったりで、渡辺善右衛門さんに更に親しみが湧くのであった。

話が随分に逸れてしまった。
龍に纏わる三つの寺の話に戻そう。

角を祀る龍角寺(千葉県印旛郡栄町)は、北印旛沼の北東、数kmの地にある。
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腹を祀る龍腹寺(千葉県印西市、旧・本埜村)は、北印旛沼の西、数kmの地にある。
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尾を祀る龍尾寺(千葉県匝瑳市)は、印旛沼の東南、約50kmの地にある。

「角」と「腹」は印旛沼の近くにあり、北総をポタリングした際に訪れる機会を得た。
「尾」は印旛沼から遥か遠くにあり、いずれ、輪行にて訪れてみたい。

フォト:2011年6月4日
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by kazusanokami | 2011-07-31 19:01 | 伝説 | Comments(2)
2011年 02月 11日

『龍と出遭った旅/龍野にて、そして、京都にて』

1月29日、ハリポタ藩の走り初めで、龍野をポタリング。
翌30日は、ハリポタ藩の面々と共に、京都をポタリング。
両日のポタリングで多くの名所旧跡を巡ったが、上総の趣味のひとつである「龍」との出遭いの旅でもあった。

<出遭った龍、其の一>
龍野の「龍」。
地名の龍野の由来は、「立野」が「龍野」に変じたとのことで、「龍」ではないが、、龍を趣味とする上総として「龍」の付く町を訪れることが出来、誠に嬉しきことであった。
市の名が「龍野」から平仮名の「たつの」になったことは、ちょっと、寂しいことながら...。

参考までに龍野の由来をここに転記する。

龍野の由来/播磨国風土記によれば、相撲の元祖といわれる野見宿禰が 出雲へ帰る途中にこの地で亡くなり、人々が揖保川の石で墓を建てるために野に立ち並んだという故事から「立野」と呼ばれるようになり、それがいつしか「龍野」になった。

<出遭った龍、其の二>
龍野城本丸御殿/襖絵「龍煌々志」/出口龍憲作。
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案内の人から懇切丁寧な説明を頂戴した。
上総の永遠のテーマである「日本の龍の指は三本」につき、こちら側から触れることなく、話し出されたことに、何故か、ほっとした気分になった。

ここで、何故、「日本の龍の指は三本」が永遠のテーマであるかについて、触れておこう。

或る時、契約調印の場で、お客さんにガラス製の龍の置物を贈呈した。
同席していた仲介商社の某重役がこの龍を見て、「三本指じゃないか」と何やら侮蔑したようなニュアンスの発言があった。
それ以来、意地となって、ことあるごとに、日本の龍の指の本数を数えるのが常となった。
更に、中国、台湾、韓国、琉球などの龍も、現地へ赴く機会のある都度、調べてみた。
その結果、五本指は中国の皇帝のみ、台湾・韓国は市井の人々も含めて四本、琉球も四本、日本は三本ということが明らかとなった。
台湾の親しい知人に「日本の龍は三本指。これはおかしい。龍は使わせてやるが、三本指ということで、属国扱いや」と申したところ、「まあ、そう言わずに。パワフルな龍であっても、遠く、日本まで飛んでいく間に疲れが出て、四本指の一本が落ちてしまい、三本指になったと思えば如何でしょうか」と。
大人の発言、なかなか上手いことを言うなあと感心すること、しきりであった。

龍野城本丸御殿の案内の人から「五本の指の龍が使えるのは中国の皇帝だけながら、元の時代以前の皇帝が使った龍は四本指であった」との説明があった。
「元の時代以前は...」については初耳であり、「龍」好きにとって、これは誠に有難いご高説であった。

加えて、「龍の図は寺院に多く、城や武家屋敷で使われることは稀」との話もあり、思えば、成程、その通りであり、これも誠に有難いご高説であった。

<出遭った龍、其の三>
龍野/旧脇坂屋敷/袋戸棚引戸の「龍」。
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京の止事無きところから頂戴した織物が袋戸棚の引戸に張られている(との説明であったと記憶する)。
「日本の龍の指は三本」との思い込みがあり、その場では仔細に見なかった。
しかし、ブログにアップロードしながら、フォトを仔細に見てみると、指の部分に四つの点がある。
見ようによっては、五つの点にも見える。
四本指、或いは、五本指のようにも思える。
であれば、新発見である。

<出遭った龍、其の四>
龍野醤油資料館別館二階ギャラリー/「龍」/山下摩起作。
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斯様な画家の存在すら知らなかったが、その技法、その作品の素晴らしさに驚いた。
龍の図もさることながら、観音図はより一層素晴らしく、誠に興味深い画家であった。
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<出遭った龍、其の五>
京都花園/妙心寺法堂/天井画「雲龍図」/狩野探幽作。

案内の人から数多くの説明があったが、その中で「口は鰐、髭は鯰、目は牛、角は鹿、胴は蛇、鱗は鯉、足は鷹を手本に描かれた」と「目は八方睨み」、そして、「壁に立て掛けて描き、吊り上げたことにより、法堂は吊り天井となっている」との説明が、殊の外、興味深きことであった。

狩野探幽作「雲龍図」をゆるりと鑑賞した後、外を歩きながらの、呑々守殿との会話。
「おい、あの時代に鰐、おったか?」。
「織田信長の時代に南蛮渡来のものが数多く入って来ているので、その頃の資料を探幽さんは見たのかもしれないね」。
「その昔、鰐は鮫のことやった」。
「因幡の白兎やね」。

妙心寺を訪れる前に「天井画の龍は撮影禁止であろうから、せめて、絵葉書など」と思っていたが、予想通り、やはり、撮影禁止。
観覧券売り場で、絵葉書につき、問うたところ、「南総門近くの花園会館に置いてあります」とのこと。
ハリポタ藩の面々に花園会館までお付き合い願い、不繊布にプリントした「雲龍図」を手に入れることが叶った。

前置きが長くなった。
狩野探幽作「雲龍図」、登場。
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これらのフォトは、妙心寺法堂内では撮影禁止であったので、観覧券売り場で貰ったパンフレットを法堂前の床机に置き、撮ったものだ。
方向を変えての四葉は「八方睨み」のつもりである(四方であるが...)。

<出遭った龍、其の六>
京都嵐山/天龍寺。
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天龍寺の前に立ち、ふと、思ったこと。それは、いつぞや、或る画家の描いた雲龍図が天龍寺に納められる前に東京の某所で御披露目されるとの新聞記事を目にし、「龍」好きの上総はそれを見てみたかったということであった。

さて、それは何時頃のことだったろうか?何という画家であったろうか?と思いつつ、ポタリングの帰路、JR嵯峨嵐山駅に向った。
電車に乗る前に、駅前の案内板の「天龍寺」に関する説明を読んでみた。
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「平成9年、夢窓国師650年遠諱を記念して法堂天井に加山又造画伯により八方睨みの龍として『雲龍図』が描かれている」とあった。

今回の京都ポタでは、天龍寺法堂に立ち寄る時間はなかったが、次の機会に、是非、この「雲龍図」を眺めてみたいものだ。
更に、京の寺々の龍の天井画を調べ上げ、「京の寺/龍の天井画めぐり」なるものもやってみたいものだ。

フォト:2011年1月29日、30日
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by kazusanokami | 2011-02-11 07:07 | | Comments(0)