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『上総守が行く!』

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2011年 12月 11日

『ドラポタ藩/酒々井"野点"ポタ』 sn-9

麻賀多神社から佐倉城址へ向かう。
右手に「歴博」を見ながら、佐倉城址の入口に到着する。
地図と説明書きを詠む。
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_18172870.jpg
説明書きの最後に「明治6年(1873年)第一軍管第二師営の衛所が築かれ、城の施設はことごとく壊された。その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった」とある。
これは、明治維新の「廃城令」によるものである。

「廃城令」とは、「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」のこと。
1873年(明治6年)、明治政府から大蔵省に発せられた、全国の城郭陣屋の財産所管方針の太政官達書。
陸軍が軍用として使用する城郭陣屋と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城郭陣屋に区分された。
単に「廃城令」または「存城廃城令」と略されて使用されている場合が多い。
(出典:ウィキペディア)

先程、麻賀多神社から佐倉城址に向かう途中、市立佐倉中学校校門前で「大手門跡」の説明書きと写真を見た。
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_1824242.jpg

写真には「明治5年ごろ阿部忠忱撮影」と添え書きされている。
阿部忠忱なる人物のことを調べてみた。
詳しいことは分からなかったが、「旧佐倉藩士、阿部忠忱」とあった。
佐倉藩士であった人物が、廃城になる直前に撮影したこととなる。
撮影するとき、旧佐倉藩士として、如何なる気持ちであったろうか...。

佐倉城址内に入る。
堀田 正睦(ほった まさよし)像。
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_20413588.jpg
堀田正睦は、下総佐倉藩の第五代藩主、正俊系堀田家九代。
江戸時代末期の老中首座。
幕末において、攘夷鎖国は時代錯誤、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_2042869.jpg
家紋は「堀田木瓜」。
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_20422359.jpg
孤高の、紅葉。
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_20502182.jpg
更に進む。
この辺りには、「銅櫓(あかがねやぐら)」と称される、櫓があったそうだ。
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_032832.jpg
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_20553828.jpg
『ドラポタ藩/酒々井\"野点\"ポタ』 sn-9_a0104495_20555648.jpg
佐倉城址は桜の木々が数多くある。
桜の季節には、随分な人出となるのであろう。
今回の「野点ポタ」は不出馬であった、佐倉在の御領主、印旛守殿をお誘いし、ここで、花見を遣ろうと皆で話した。
火気厳禁なので、野点は止め、豪華、幕の内弁当持参にて...。

フォト:2011年11月23日

(つづく)

       

by kazusanokami | 2011-12-11 21:07 | 秋の"野点"ポタ2011


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