麻賀多神社から佐倉城址へ向かう。
右手に「歴博」を見ながら、佐倉城址の入口に到着する。
地図と説明書きを詠む。
説明書きの最後に「明治6年(1873年)第一軍管第二師営の衛所が築かれ、城の施設はことごとく壊された。その後、歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊などの兵営となった」とある。
これは、明治維新の「廃城令」によるものである。
「廃城令」とは、「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」のこと。
1873年(明治6年)、明治政府から大蔵省に発せられた、全国の城郭陣屋の財産所管方針の太政官達書。
陸軍が軍用として使用する城郭陣屋と、大蔵省に引渡し売却用財産として処分する城郭陣屋に区分された。
単に「廃城令」または「存城廃城令」と略されて使用されている場合が多い。
(出典:ウィキペディア)
先程、麻賀多神社から佐倉城址に向かう途中、市立佐倉中学校校門前で「大手門跡」の説明書きと写真を見た。
写真には「明治5年ごろ阿部忠忱撮影」と添え書きされている。
阿部忠忱なる人物のことを調べてみた。
詳しいことは分からなかったが、「旧佐倉藩士、阿部忠忱」とあった。
佐倉藩士であった人物が、廃城になる直前に撮影したこととなる。
撮影するとき、旧佐倉藩士として、如何なる気持ちであったろうか...。
佐倉城址内に入る。
堀田 正睦(ほった まさよし)像。
堀田正睦は、下総佐倉藩の第五代藩主、正俊系堀田家九代。
江戸時代末期の老中首座。
幕末において、攘夷鎖国は時代錯誤、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。
家紋は「堀田木瓜」。
孤高の、紅葉。
更に進む。
この辺りには、「銅櫓(あかがねやぐら)」と称される、櫓があったそうだ。
佐倉城址は桜の木々が数多くある。
桜の季節には、随分な人出となるのであろう。
今回の「野点ポタ」は不出馬であった、佐倉在の御領主、印旛守殿をお誘いし、ここで、花見を遣ろうと皆で話した。
火気厳禁なので、野点は止め、豪華、幕の内弁当持参にて...。
フォト:2011年11月23日
(つづく)