『上総守が行く!』

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2012年 07月 14日

『旧日光街道千住界隈』 sj-1

2年前から、二ヶ月に一回くらいのペースで、備前守殿と一献傾けながらの放談会をやっている。
今年に入り、伊豫守殿も加わっての鼎談も。
6月初旬の鼎談のあと、備前守殿より「次回は8月頃。上総殿の幹事で宜しく。千住辺りを歩いた後に納涼会でもと思いますが、如何でしょうか」と。
勿論、オーケーである。

6月下旬、下見も兼ねて、千住界隈を巡った。

JR南千住駅に降り立つ。
千住大橋南詰に向かう。

千住大橋南詰。
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橋の名のプレートは「大橋」。
「昭和二年十二月竣工」のプレートもある。
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橋の名のプレートが「千住大橋」ではなく「大橋」となっている訳は、橋の袂の碑文で直ぐに分かった。
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読み下してみる。
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千住大橋
"千住大橋"は"千住の大橋"とも呼ばれている。
最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄3年(1594年)に架けられた。
隅田川の橋の中では一番先に架けられた橋である。
当初は、ただ、大橋の呼ばれていたが、下流の大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから"千住"の地名を付して呼ばれるようになった。
江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約120メートル)、幅四間(約7メートル)であった。
奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
松尾芭蕉が奥州への旅で、人々と別れたところもここである。
現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927年)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973年)、新橋がそえられた。
昭和59年3月
東京都
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隅田川に架かる橋の中で、元祖「大橋」なのである。
ひとつの橋だけで、これほどの歴史を持っているのである。
橋の袂に、もうひとつの歴史が残っていた。
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「八紘一宇 陸軍大将林銑十郎書」なる石碑が、何故、千住大橋の袂にあるのかと思い調べてみたが、分からなかった。
或る書物に「東京市では『八紘一宇』の思想を直接に指導・訓練する国策協力組織として肇国奉公隊(ちょうこくほうこうたい)が結成され...」とあるので、当時の東京市内各所に「八紘一宇」の碑が設けられたのかもしれない。
戦中の歴史に加え、戦後、GHQよる占領政策が実施される中にあっても、こうした碑が撤去されなかったことに、また、別の歴史を感じる。

大橋を渡る。
隅田川左岸の護岸に「奥の細道」が描かれている。
「旧日光街道千住界隈めぐり」の気分が盛り上がってくる。
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千住大橋北詰。
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橋の袂に、「千住大橋を渡ると千住の風が吹いている 此処は大千住の木戸口橋戸町 千住賑会 河原」なる立て札と「千住大橋公園の奥の階段を登り 橋詰テラスえお立ち寄りください」の立て札が立っている。
案内の文面もさることながら、この「千住賑会 河原」がちょっと気になる人物である。
この河原さんは、後ほど巡る「橋詰テラス」や「やっちゃ場」でも登場する大事な人物なのである。

千住大橋公園と橋詰テラスに立ち寄る。

フォト:2012年6月26日

(つづく)
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by kazusanokami | 2012-07-14 05:33 | 都内ポタリング


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