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『上総守が行く!』

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2012年 07月 20日

『旧日光街道千住界隈』 sj-8

足立市場脇の「千住宿/芭蕉像」から「やっちゃ場」へと向かう。

「此処は元やっちゃ場 南詰」。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_1044568.jpg
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やっちゃ場の由来
やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。
古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の西側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き、大正・昭和が盛んだったと聞いている。
街道の西側に三十数件の青物問屋が軒を並べ、毎朝、威勢のよいセリ声が響き渡り、江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。
昭和16年末に第二次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来、青果物市場は東京都青果物市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみ残った。
五街道の奥州街道・日光道中の両側に三十数軒の青物問屋が軒をならべている。
まさに専門店街である。
日本の専門商店街はここから始まったと言っても良いだろう。
旧道を楽しくしようかい(会)
千住大賑会 河原
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やっちゃ場を北へ進む。
早速、看板が登場する。
「傘弁 投師/元 青物出仲買商」。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_1047488.jpg
「投師」とは?
「出仲買商」とは?
後ほど、答えが登場する。

「大喜 新大阪屋/元 青物問屋」。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_1047185.jpg
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当主為成善太郎は俳諧をよくし、俳号を為成菖蒲園と称す。
高浜虚子の指導を受け、昭和19年、ホトトギス同人に推薦される。
やっちゃ場では菖蒲園を先達として俳句会が生まれた。
その名は高浜虚子の命名による「やっちゃ場句会」である。
菖蒲園はやっちゃ場の青物問屋の主人の馬力で精力的に近隣地域の句会の指導を続けている。
今でも千住の俳句界では菖蒲園の名は懐かしく語られ続けている。
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「佐野屋/元 車茶や」。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_1047406.jpg
「車茶や」とは?
と思った途端、答えの看板が、即、登場。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_10475693.jpg
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現代の駐車場である。
大八車の預かりと茶店を兼ねたもの。
初めは大八車を預かるだけが、お茶のサービスから始まり、お新香が出て、煎餅となり、おにぎり、お団子となれば商売である。
このようにして駐車場と茶店を併用したものが車茶屋である。
ただ預かるだけは繁盛しない。
サービス、ノウハウが大事。
やっちゃ場で大八車を預けるのは荷主(山方)と買出人である。
山方は前日の夕暮れから夜半に来て早朝帰る。
買出人は早暁に来て朝に帰る。
両者の毎日帰る時間を的確に把握し、帰る時に遅滞なく車を渡せるかが車茶屋としての腕の見せどころである。
やっちゃ場の街道筋に五、六軒が見受けられる。
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「月日は百代の過客にして」。
こういうのを見るとカメラを向けたくなる。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_1048519.jpg
「手漉和紙 谷野 紀崎 書」とある。

「葛西屋/元 青物問屋」。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_104968.jpg
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蓮屋と葛西屋の話
やっちゃ場には通称で話が通ってしまい、本来の屋号が忘れられている事がある。
典型的な例が「蓮屋」で、「蓮根」を主とした商いをしていた為、「葛西屋」が忘れられ、「蓮や」の屋号が定着してしまった。
この立看板を見て本来の屋号を知った人が殆どである。
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中村不可折と葛西屋
震災後、復興でやっちゃ場が賑わっていた昭和10年(1933年)当時、第九代葛西屋喜平は時代の先を見るように鉄筋コンクリートの建物を作っている。
このころ、早朝の競りが終わって、仕切り等の事務処理が終われば、時間的に余裕があった。
そこで絵を習い和歌などもたしなんでいたようだ。
その師が中村不折であったようだ。
喜平は季節の野菜が入荷すれば、不折に届けていたという。
子供達は根岸まで使いに出された事を覚えている。
戦災で焼け残ったものの中に不折よりの礼状が残されていた。
一枚の紙に栗、柿、松茸の絵をサラサラと描いて「ありがとう」の文字。
不折にしてみれば、全国にいる親しくしている友人の一人であったようだが、季節ごとに旬の野菜を口にすることができたと思う。
そのような縁で喜平に「六朝の書き方」を手ほどきしていたと思われる。
昭和11年2月には、喜平が中村不折に依頼した清亮寺(日の出町)の三額の寸法を下見にゆくという覚え書きが残っている。
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「谷清 谷塚屋/元 青果物問屋」。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_104953100.jpg
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両替商から青果物問屋へ。
江戸後期よりやっちゃ場にて両替商を営み、明治34年より青果物商となる。
初代磯吉、二代は清吉、ここで谷清 谷塚屋を名乗る。
三代から五代までは婿とりで、五代目の午三郎を青果物問屋 和泉屋より婿として向かえて青果物問屋となり、主に土物を扱っていた。
谷塚屋に保存されていた両替商時代の帳面からみると、両替商の商圏は千住周辺のみならず、埼玉県草加や江戸川区平井周辺の地名が読みとれる。
青果物商となっても、両替商時代の商圏を活用して広範囲に青物の集荷をしているのが現存する帳面から窺い知る事が出来る。
特に大正期には、関東全般は元より常磐線を利用して福島県岩城市や宮城県仙台附近の地名が印されている。
やっちゃ場も昭和20年4月の空襲で消滅し、以後、東京都足立市場となる。
(「月勘定控帳」や「金銀覚之帳」の写真が添えられている)
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「やっちゃ場の最大の特徴 投師(なげし)の存在」。
『旧日光街道千住界隈』 sj-8_a0104495_10501919.jpg
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通称「投師」、正式には出仲買商という。
千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。
店を持たず、仲買人の店先を借り、セリに参加して、いち早く大八車に品物を積み、東京市内の全市場へ駆けつけてゆくのである。
セリはその為に夏は早朝3時から始まっていた。
何が利幅があるかは情報の勝負である。
昭和初期の投師は150人位である。
市内の市場は投師の持込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。
それだけ千住のやっちゃ場が巨大な市場であったということであろう。
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解説の書き下しは原文通り(一部、年号などはアラビア数字に置き換え)。
やっちゃ場めぐりはまだまだ続く。

フォト:2012年6月26日

(つづく)

by kazusanokami | 2012-07-20 05:45 | 都内ポタリング


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