高輪大木戸の石垣に刻まれた「几号水準点」に或る種の感動を覚え、次の立ち寄り先、御穂鹿嶋神社に向った。
ここで、「几号水準点」とは何ぞやについて、"指南書"やその他の資料に綴られていることを読み取りながら、述べておきたい。
「几号水準点」は、国土地理院(その前身である陸軍参謀本部陸地測量部も)が設置した三角点や水準点とは別に、明治の初めに、工部省測量司(その後、内務省地理寮、内務省地理局などの変遷を辿る)が土地測量を開始した頃に遡る水準点である。
当時、測量部長として英国から招かれた御雇い外国人のコーリン・マックウェンが助手として5人の英国人を呼び寄せ、1872年(明治5年)から東京府下の土地測量を開始、東京はもとより全国各地で測量が行われた。
1884年(明治17年)、内務省地理局の地図測量事業は参謀本部に統合され、測量技法はフランス方式やドイツ方式となるが、それまでは工部省流のイギリス方式の測量技法が継承されていた。
「几号」の「几」は「机」の旁である「几」であり、机を意味しているとのことである。
イギリスの水準点の記号「不」(本ブログでは、記載の都合上、几号水準点の記号によく似ている漢字の「不」を使うこととする)が机の形に似ていることから「几号」と名付けられたとのことである。
机に似ていると言われれば、そのように見える。
几号水準点は全国各地に設けられたとのことだ。
文献や個人情報などにより設置が明らかになっている数は全国で約250箇所(現存、移転現存、喪失、埋没など)といわれている。
そのうち、東京は約160箇所(現存、移転現存、喪失、埋没など)で、現存しているのは90箇所程度といわれている。
今回、ナビゲーターを務める大給守殿が持参した東京の几号水準点に関する資料では、実地検分した43箇所につき、その所在地が分かり易く記されている。
第一京浜/札の辻交差点に至る。
第一京浜の我々が走っている側の歩道には横断歩道がない。
jitensha を担いで、横断陸橋の階段を上る。
横断陸橋の上から桜田通りを眺める。
眼前に、朝の青空と東京タワーが見える。
横断陸橋の階段を jitensha を担いで上るのは面倒だが、横断歩道の上からのよき眺めでその面倒さは相殺される。
横断陸橋を渡り、更に第一京浜を走り、田町駅方面、御穂鹿嶋神社へ向う。
フォト:2013年1月26日
(つづく)