鈴ノ森神社の北、兄嫁さんの実家から、再び、辻川の通りを抜け、市川左岸の「駒ケ岩」へ向け、走る。
駒ケ岩からの眺め。
駒ケ岩について、案内板に次の通り記されている。
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柳田國男は、「故郷七十年」のなかで、「市川の川ぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。」と遠い昔をなつかしんで書いている。
夏になると國男少年兄弟は、この岩の上で衣を脱いで、そばの淵で水泳ぎをしたり、うなぎの枝釣りをして遊んだ。
ガタロ(河童)が出て、泳いでいるとお尻を抜かれるという話をよく聞かされたという。
この岩の上に、神馬のひずめのあとが残っていて、鈴の森明神が神馬に乗って、駒ヶ岩から古宮へ飛ばされたという言い伝えがある。
福崎町観光協会
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駒ケ岩。
(「駒ケ岩」そのものの写真は撮り忘れたので、某所より拝借)
岩を見たときは特段、何も見えなかったが、こうして写真をじっと見ていると、神馬の蹄の跡が見て取れるような気がする。
辻川の通りに戻り、疎水に沿って少し北へ向かうと御堂が見えて来た。
地蔵堂。
地蔵堂について。
この地蔵堂は國男少年ゆかりのものであるばかりか、「大石良雄の妻りくも但馬への里帰りの時この地蔵堂で休息をして但馬へ帰ったと伝えられている」とある。
忠臣蔵、赤穂浪士を趣味とする小生にとって、ここで「赤穂浪士討入凱旋の旅」<番外編>の"取材"が出来るとは思いもせず、この記述は何とも嬉しいことであった。
フォト:2012年8月21日
(つづく)