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『上総守が行く!』

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2014年 02月 06日

『赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編/高野山の巻』(上)

11月下旬、高野山を訪ねた。
12月下旬、ハリポタ藩軍師六々守殿より「2月1日(土)高野山オトナの遠足。厳冬の雪の高野山を歩いてみたいと思います。詳細は後日ご連絡します。出欠をご連絡ください」とのハリポタ企画の案内があった。
11月下旬に高野山を訪ねた際は、時間の都合上、奥の院御廟と15m先に弘法大師が御座らっしゃるという燈納堂地下拝所を駆け足で参拝しただけであったので、今一度、ゆるりと高野山を訪ねたいと思っていたところであった。
その目的のひとつは、、「赤穂浪士討入凱旋の旅/番外編/高野山の巻」の"取材"であった。

2月1日、高野山を訪ねた。
一の橋から奥の院へ向け、参道を進む。
数々の名立たる武将の供養塔や墓所を眺めながら進む。
奥の院に程近いところで「浅野内匠頭墓所」の標識が目に入った。
嬉しい!
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墓所全景。
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墓所外構え/右。
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標柱には「舊赤穂城主 浅野内匠頭長矩公御墓」と刻まれている。

墓所外構え/左。
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標柱には「古今忠鑑 赤穂四十七士菩提碑處」と刻まれている。
「古今忠鑑」、なかなか良き言葉だ。

墓前に立つ。
墓石は三柱建立されている。
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中央/浅野内匠頭。
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墓石には次の通り刻まれている。
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奉為浅野内匠頭長矩◇追福也
冷光院前少府朝敢大夫吹毛玄利大居士
元禄十四年辛巳◇三月十四日享
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初めての「赤穂浪士討入凱旋の旅」は1999年10月のことであった。
そのとき、泉岳寺の墓所を訪れたときのことについて次の通り綴っている。
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(略)内匠頭の墓は浪士たちとは別の設えで、戒名は“冷光院前少府朝敢大夫吹毛玄利大居士”と随分、立派なもの。映画や小説で、内匠頭の没後、「冷光院様におかれましては...」との言い様がありますが、フルに記すと前述の通り。戒名の意味は不詳なるも、“冷たい光”は何となくあの殿様らしい戒名だなあと思う次第。内匠頭が刃傷に及んだ理由については諸説があり、ここでは詳しくは触れませんが、最も一般的な説に従えば、何故、あの場で家来や所領のことを考え、堪えに堪えることが出来なかったのかと或る意味でバカ殿様と思う次第。しかしながら、今様で言うならベクトルをひとつにして志を遂げた内蔵助を筆頭に「忠臣蔵」に出てくる人達は吉良も含めみんな好きですし、内蔵助の戒名は忠誠院となっており、そうした内蔵助に免じてバカ殿様との言い方は撤回。あの事件がなければ、赤穂も浅野も吉良も歴史には残らなかったでしょうし、歌舞伎、演劇、映画、小説、TVドラマ、はたまた唄の題材にもならなかったでしょうし、更に日本人の気質を海外に伝える史実も残らなかったでしょうし...。
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右/大石頼母。
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墓石には次の通り刻まれている。
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大石頼母助藤原良重
賢徳院殿義翁良達居士
天和三年癸亥五月十八日◇◇◇◇
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大石頼母助良重は赤穂浅野家筆頭家老の大石内蔵助良勝の次男として生まれる。
兄の大石内蔵助良欽が大石家1500石の家禄と筆頭家老職を継いだが、頼母助良重も450石取りの家老となる。
のちに、叔父として、若年で筆頭家老職を継いだ大石内蔵助良雄の後見人となった人物である。

左/四十六士菩提碑。
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碑には次の通り刻まれている。
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為大石良雄外四十六士菩提也
忠誠院刃空浄剱居士外四十六士各霊
元禄十六年癸未二月四日於江戸◇
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初の「赤穂浪士討入凱旋の旅」の際には、泉岳寺の墓について次の通り綴っている。
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内蔵助および主税のお墓は別格の造り。他の皆々は小振りのお墓。内蔵助の戒名は“忠誠院刃空浄剱居士”と九文字の立派なもの。その他の皆々は“刃”と”剱”と“信士”が織り込まれた六文字の戒名。因みに、二度もお家断絶に遭った奥田孫太夫の戒名は“刃察周剱信士”。墓の造りと言い、戒名と言い、主従の関係は厳しいものと思った次第。
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高野山の浅野内匠頭の墓は大石内蔵助の命を受けた近松勘六と早見藤左衛門により建立されたといわれている。
一方、何故、大石頼母の墓が高野山にあるのだろうと思い、調べてみたが分からない。
想像するに、天和3年(1683年)2月に若き藩主浅野内匠頭が初めて勅使饗応役に任じられたときには江戸にあり、内匠頭を補佐したとのことなので、そうしたことから、高野山で殿様の隣りに墓が建立されたのかもしれない。
因みに、元禄14年(1701年)、浅野内匠頭が二度目の勅使饗応役に任じられたときに大石頼母が生きていれば刃傷事件は起こらなかったかもしれないなと思い、大石頼母の年齢を調べてみたところ、浅野内匠頭が最初の勅使饗応役を終えた年と同じ、天和3年の5月に64歳で没していた。
更に、四十六士菩提碑は誰の手で建立されたのだろうと思い、調べてみたが、これも分からない。
四十七士のうち、唯一、生き残った寺坂吉右衛門が建立したものだろうか、江戸で討ち入りを知った金剛三昧院(高野山真言宗別格本山)第37世唯心法印が高野山に戻った後に四十六士の位牌をつくり義士の冥福を祈ったという記述もあり、金剛三昧院の手で建立されたのかもしれない、いやいや、浅野内匠頭の正室、瑤泉院が建立したのかもしれないなどと、あれこれ想像したりして...。

大石頼母の墓石に「藤原」とある。
調べてみたところ、「大石家は信濃藤原氏の後裔といい、信濃国佐久郡大石郷に住んでいたことから、大石氏を名乗ったといわれている」とあった。
これは新発見である。
佐久のことなら、盟友大給守殿がよくご存知だ。
大給守殿に聞いてみよう。

今月4日は四十六士の命日。
よき頃に高野山の四十六士菩提碑を訪れることが出来た。

高野山には「赤穂浪士討入凱旋の旅」の番外編に値するものがまだまだあった。
それは続編にて。

フォト:2014年2月1日

(つづく)

by kazusanokami | 2014-02-06 13:01 | 赤穂浪士討入凱旋の旅


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