鹿浜橋をくぐると、芝川の荒川への流れ込み口である芝川水門が見えて来る。
芝川水門手前の、足立区都市農業公園に立ち寄る。
農業公園前に、アルミ製の親子(?)像が立っている。
像の名は?と銘板を探したところ、「関東の富士見100景」なる銘版があった。
親子像の目線の彼方に目をやるとビルの脇に富士山の姿が見えた(写真中央、煙突右のビルの右側に)。
右手/川口マンハッタン、対岸/岩淵水門。
足立区都市農業公園内/和井田家住宅母屋(足立区花畑より移築)と薊家納屋(足立区入谷町より移築)。
説明書きによれば、「和井田家住宅母屋は安永2年(1773年)頃に建てられたという」、「安政大地震(安政2年、1855年)を経てきた」、たというこの家屋は増改築の跡をうかがうことができる」、「土間や軒先に敷き詰められた煉瓦は、明治時だの花又帝国煉瓦の工場で造られた製品である」とある。
煉瓦好きの上総、花又帝国煉瓦について電脳網で調べてみた。
煉瓦工場についての詳しいことは分からなかったが、「花又」について、ウィキペディア「花畑(足立区)」では次の通り記されていた。
--------------------
「花畑」は、1889年(明治22年)の市町村制施行に伴い近隣8か村が合併し、近代行政村として成立した際に名づけられた地名である。
正平7年(1352年)の古文書に「花俣(はなまた)」として登場する東京都区内屈指の古村である。
その後、「花又」と表記されるようになり、江戸時代は一貫して御料所(天領=将軍直轄地)であった。
上記の合併に際し、うち最大だった花又の名に基づき「花畑」(村)が誕生した。
これは「花又」の美称地名であると同時に、花又村のままでは合併した諸村が従属的立場となり好ましくないとの配慮から付けられたものである。
--------------------
この記述により、花又帝国煉瓦は、その名「花又」から、現在の足立区花畑(足立区北東部)にあった煉瓦工場であることが推察出来る。
また、現在の足立区花畑の辺りが、その昔、天領であったことも知ることが出来た。
「天領めぐり」というのも面白い企画かもしれない。
足立区都市農業公園を後にして、芝川CRに入る。
フォト:2014年3月22日(フォト#4/大給守殿提供)
(つづく)