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『上総守が行く!』

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2014年 04月 28日

『太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻/久伊豆神社』 di-6

岩槻城址をあとにして、地名「太田」の標識を探しながら岩槻駅方面へと走る。
県道2号線に出て角に「久伊豆神社」と書かれた案内標識が目に入った。
有名な神社なのであろうが、不覚にも小生には馴染みのない名前の神社で、読みは「くいず」でよいのだろうかなどと思ったりして、一挙に興味が湧き、立ち寄ってみることにした。

結果、立ち寄って良かった!
何故なら、ここ、久伊豆神社も太田道灌ゆかりの地だったのである。
加えて、狛犬が随分と多い神社で、狛犬蒐集家としても大いに愉しめた神社なのであった。
この二点を中心に久伊豆神社のことを綴ってみることにする。

武州岩槻総鎮守 久伊豆神社。
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「久伊豆」の読みは「ひさいず」である。
同社のホームページを参照したところ、「アメリカ横断ウルトラクイズの予選会場になるなど、勝負運・合格祈願として、『クイズ神社』としても有名になりました」とある。
やっぱり、「くいず」と読んでしまうのである。
「久伊豆神社。さて、何と読むのでしょう?」というクイズがあってもよさそうな気もする。

一の鳥居/狛犬その1。
阿形。
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吽形。
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一の鳥居の狛犬の特徴はは、阿形の口の開き方のように思える。

参道。
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参道は500メートルほどあり、久伊豆神社自慢の参道のようである。

二の鳥居/狛犬その2。
阿形。
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吽形。
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二の鳥居の狛犬の特徴は、何と言っても、阿形のとぼけた表情である。
その表情を、今一度、アップで。
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二の鳥居脇に掲げられた久伊豆神社の由緒に目を通す。
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岩槻市層鎮守 久伊豆神社 由緒
御祭神 大国主命
御例祭 四月十九日、十月十九日
久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代、出雲の土師連の創建したものと伝えられる。
その後、相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。
江戸時代、歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除として祈願せられた。
神社境内は城址の一部で、元荒川が東北を流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等鳥有に帰し、現社殿は、その後、氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。
現在、神域は次第に整い、神威はいよいよ高く、神徳ますます輝きわたり、岩槻市層鎮守として広く人々の崇敬をあつめている。
(以下略)
岩槻市観光協会
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「相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている」、「神社境内は城址の一部」を読んで、大いに喜んだ。
何故なら、事前の調べでは、岩槻における太田道灌ゆかりの地は、芳林寺、旧岩槻区役所庁舎前、岩槻城址、地名表示「太田」の四ヶ所であったが、現地入りし、新たに久伊豆神社を"発見"したからであった。

二の鳥居を通り抜けると右手に「灯籠を支える狛犬/その3」が現れる。
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この狛犬は「子連れ狛犬」である。
台座、向って右側の子供狛犬をアップで。
頭を下向き、尾を上向きにして台座を守っているのだが、可哀想なことに頭が欠けてしまっている。
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台座、向って左側の子供狛犬をアップで。
こちらは頭を上向き、尾を下向きにして、欠けることなく台座をしっかりと守っている。
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広い境内となる。
前方に拝殿を望む。
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拝殿手前/狛犬その4。
阿形。
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吽形。
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吽形の足元の子供狛犬。
親によく似た牙を持ち、きりっとした顔立ちをアップで。
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「鞠」と「子連れ」の組み合わせはよくある形だが、この狛犬の特徴は阿形、吽形の位置が逆になっていることである。
即ち、標準的には向って右が阿形、左が吽形だが、この狛犬は左右逆となっている。
因みに、長野の善光寺の仁王像も、他の寺とは並びが異なり、阿形像、吽形像が左右逆となっている(左右の決まりはないとの説もある)。

更に進むと、またまた、狛犬が現れる。
狛犬その5。
阿形。
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吽形。
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わたし的には「灯籠を支える狛犬/その3」とこの「狛犬/その5」が好きだ。

拝殿。
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”新発見”の久伊豆神社に大満足し、地名「太田」の表示を探しながら岩槻駅へと向う。

「太田1-1」。
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「太田小学校」。
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こうして、当初の目的、芳林寺/騎馬像、旧岩槻区役所庁舎前/立像、岩槻城址、地名「太田」に加え、現地入りしての新発見、久伊豆神社をめぐり、<岩槻の巻>が仕上がったのであった。

最後に、司馬遼太郎さんが「街道を行く/本郷界隈」で綴っている一節を引用し、結びとしたい。
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追分
本郷にも、追分という地名がある。
古い日本語である。街道の分岐点のことをいう。
遥かな響きがあって、遠国へむかう街道の分岐点にかぎって言い、市街地の場合はつかわない。
本郷の東京大学の西辺をひろびろと北上している本郷通りと、旧白山通りが枝分かれしている分岐点が、江戸時代以来、追分といわれてきた。
現在でいえば、向丘一丁目の南端にあたる。東大農学部の正門のあたりである。
(中略)
さて追分を左へとらず、まっすぐに(いまの本郷通りを)ゆけば、埼玉県岩槻に至る。だから、本郷通りは、岩槻街道ともよばれた。
岩槻(岩付とも)は、家康の江戸入り以前から関東の要衝であった。
室町時代、長禄元年(1457)まだ二十代の太田道灌が、父資清とともに北方の古河公方に対する防ぎの城として岩付城を築いたのだ。
城の東は元荒川が流れ、まわりは沼だったから、浮城などといわれた。沼の一部を埋めるについては、道灌は竹の筏を沈めてその上に土を盛るという、奇想天外ともいうべき工事をおこなったことで有名である。
長禄元年といえば、道灌が江戸城を築いたとしでもあり、岩付城は江戸城とセットになっての防御陣地だったことがわかる。
となると、連絡道路としての本郷通り(岩槻街道)は道灌がつけた軍用道路だったのであろう。
江戸時代になると、この本郷通りは平和なものになり、将軍が日光へ参拝するときに使われた。このため、”日光御成街道”などという華やかな名で呼ばれることもあった。
(後略)
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「本郷通り(岩槻街道)は道灌がつけた軍用道路だったのであろう」というところに司馬遼太郎さんらしさがあらわれている。

岩槻街道は、国道122号線(栃木県日光市から群馬県桐生市、埼玉県中央地域を経由して東京都豊島区に至る一般国道)のうち、さいたま市岩槻区から埼玉県と東京都の境で荒川をまたぐ新荒川大橋までの愛称となっている。
いつの日か、皇居から本郷通り、岩槻街道を経由して岩槻城址まで、軍用道路をイメージしながらポタリングし、「太田道灌ゆかりの地を訪ねて」の<江戸の巻>と<岩槻の巻>を結合せねばならないと思っている。

今年も「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」の季節がめぐってきた。
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フォト:2012年6月10日
フォト#21:2014年4月26日

「太田道灌ゆかりの地を訪ねて/岩槻の巻」《完》

by kazusanokami | 2014-04-28 09:38 | 太田道灌ゆかりの地を訪ねて


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