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『上総守が行く!』

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2009年 10月 01日

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/江戸編』 im-6

上野源空寺墓地内の、台東区教育委員会の説明書き。

高橋至時について。
『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/江戸編』 im-6_a0104495_2048711.jpg

『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/江戸編』 im-6_a0104495_20482738.jpg

和文説明書き、読み下し。
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高橋至時(たかはしよしとき)墓
国指定史跡東上野6-18 源空寺墓地内 

角石の墓碑正面に、「東岡高橋君之墓(とうこうたかはしくんのはか)」と隷書で刻み、三面には、尾藤二州(びとうにしゅう)の撰文を刻む。
東岡は至時の号である。 
至時は江戸時代中期の暦学者。
明和元年(1764)11月、大坂御蔵番同心、高橋元亮の子として生まれる。
名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。
15歳で父の職を継ぐ。
性来、数学・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。
ついで、当時の天文学界の第一人者、麻田剛立(あさだごうりゅう)の門に入って学ぶ。 

寛政7年(1795)、改暦の議が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重((はざましげとみ)とともに天文方に抜擢され、同9年(1797)「寛政暦」をつくる。
一方、伊能忠敬が幕命により実測地図を作成する際には、測量を指導し、完成させた。
その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。
文化元年(1804)1月5日、41歳で肺患のため没した。
著書に『赤道日食法』等がある。

平成7年3月 
台東区教育委員会
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伊能忠敬について。
『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/江戸編』 im-6_a0104495_20484876.jpg
『伊能忠敬、間宮林蔵師弟ゆかりの地を訪ねて/江戸編』 im-6_a0104495_204926.jpg

和文説明書き、読み下し。
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伊能忠敬墓(いのうただたかはか)
国指定史跡東上野6-18 源空寺墓地内 

墓石は角石で、正面に「東河(とうが)伊能先生之墓」と隷書で刻む。
忠敬は延享2年(1745)神保貞恒の子として上総国に生まれる。
名を三治郎という。
のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継ぐ。
名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。
漢詩・狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。 

50歳の時、家督を譲り、江戸に出て、高橋至時(たかはしよしとき)の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。
寛改12年(1800)幕府に願い出て、蝦夷地(現北海道)東南海岸の測量に着手。
以来18年間、全国各地を測量して歩いた。
しかし、地図未完のうちに文政元年(1818)4月18日没す。
享年74歳。 

地図作製は、幕府天文方が引き継ぎ、没後3年の文政4年(1821)に完成。
その地図は「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」という。
また、「日本輿地全図」「実測輿地全図」ともいい、俗に「伊能図」と呼ぶ。
わが国最初の実測精密地図である。

平成7年3月 
台東区教育委員会
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高橋景保についての説明書きは見当たりませんでした。
また、シーボルトの言葉が刻まれた碑に関する説明書きも見当たりませんでした。
忌まわしい、シーボルト事件を憚ったのでしょうか...。

高橋至時と伊能忠敬の説明書きに、和英併記の配慮がなされていることは、墓地の門柱に刻まれたいた「史蹟墓地」らしさを感じさせます。

墓地内で、地図を片手に、一眼レフをぶら下げた男性から「幡随院幡随院長兵衛のお墓は何処でしょうか」と訊ねられました。

第一話の企画書の中で記してある通り、一応、幡随院幡随院長兵衛の墓があることはベンキョー済みなるも、お墓の場所は、先ほど、知ったばかりながら、知ったかぶりして、「こちらですよ。夫妻の墓になっていますよ」と、お教えしました。

併せて、「大日本沿海輿地全図三人頭」やシーボルト事件についても、一頻り、語りました。
「ほーっ、そういう歴史も、ここにあるんですね。楽しみが増えました」と...。

同じ墓地を訪れても、それぞれに目的が異なる、しかし、こうした会話の出来ることが"歴史徘徊"の楽しみでもあります。

因みに、谷文晁の妻、谷幹々の墓が高橋景保の右隣りにありました。
幡随院長兵衛夫妻の墓と谷幹々の墓については、別途、ブログに掲載する予定です。

江戸時代後期の偉人、「大日本沿海輿地全図三人頭」に思いを馳せながら、また、シーボルトの心の中に思いを馳せながら、上野源空寺をあとにしました

フォト:2009年9月19日

(つづく)


by kazusanokami | 2009-10-01 20:16 | 伊能忠敬、間宮林蔵ポタリング


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